第89話 柔術道場で組手

 ブラジル式柔術道場『レオーネ』は、JR津田沼駅近辺にある。


 小腹の空いて来た誠は、道場へ寄る前に、駅の向こう側のSCにある、ラーメン屋へ向った。


「揚州商人」いつ見ても変った名前だ。

 もっとラーメン屋ぽい名前にしたら良いのにと、誠はここへ来る度に考える。

 誠の小さな目標は、ここの全メニュー制覇だ。

 今日は長らく敬遠して来た「黒酢ラーメン」に挑戦してみることにした。


 酸っぱそう。

 写真で見た通りの黒いスープ。

 香りからして酸っぱい。

 恐る恐るスープを掬って口に運んでみる。

 意外にもあっさりしていた。

 これなら最後まで食べられそうだ。

 一安心した誠は、結局スープを最後まで残らず飲んだ。

 麺は、細麺よりはやっぱり、太い刀削麺とうしょうめんの方が好きだ。

 写真が細麺だったから、ついそれを選んだが失敗した。

 まあ好みの問題なんだけどな、と誠は一人呟いた。



 腹がこなれるまでの間、道場では柔軟運動を中心にやった。

 十分な準備運動を済ませてから、サンドバッグの前に立つ。

 この時間はまだ小中学生が多かった。

 コーチ達は、彼らを幾つかのグループに分けて、幾つかの「型」を中心に指導していた。

 誠が、パンチとハイキックを打ち込み始めると、乾いた小気味の良い音が道場に響き渡った。

 子ども達の羨望の目が集まり始まる。


「こら、集中しろ」


 コーチの激が飛ぶ。

 仕方なく、こども達は型の練習に励んだ。


 リズミカルな連続音が響き渡ると、さっき注意した筈のコーチまでが、誠の練習に見蕩みとれる始末だ。


 師範代のホセが、胴着を身に着けて颯爽さっそうと入って来た。


「おす!」


 一斉に練習生の間から声が掛かり、直ぐ静まった。

 型の練習中に出す、気合の声が一段と大きくなった気がする。


 一時間もすると、大人の練習生が徐々に増えて来た。

 こども達の半分は、既に練習を終えて帰って行った。

 サンドバッグを使いたい、練習生が多いことを知っている誠は、そこを空けてきついダンベル運動に切り替えた。


 道場は狭くも無いが、取り立てて広くは無い。

 器具のしつらえられたコーナーは、もう少しスペースが欲しい所だが、道場主のレオーネは、試合場の広さを優先させているのだ。

 それでも、マットを敷き詰めた試合場は、型の決まった組み手ならまだしも、試合形式の場合には、二組同時に行うにはやや狭かった。

 だから試合が行われる時には、一試合は五分間までと決められていた。


「誠、皆に模範試合を見せてやろう。

 用意してくれ」


 ホセに呼ばれた誠は、ヘッドギアを着用した。

 格闘技用の、指先が自由に動かせるグラブと、リングシューズは既に身に着けていた。


 マットの周辺には、練習生の数名と、練習着を付けてない小数の人が、今から始まる模範試合を観戦しようと、既に陣取っていた。

 誠はその中心に立った。

 相手は師範代のホセだ。

 先月入会したばかりの数人と、今月から入会を希望する二名の為に、デモンストレーションを行うらしい。


「オス!」


 誠とホセは、向かい合って蹲踞そんきょした。

 二人同時に立ち上がり身構える。


 誠が前に二歩踏み込み、鋭く右手刀を打ち込むと、ホセは左半身ひだりはんみ(左手を前に構える半身の形)に引き、同時に左手を立てた。

 誠の手刀は、回転方向と同じ左に払われた。

 一撃目を払われたと同時に、誠は右のミドルキックを放った。

 ホセは左膝を上げてガードした。

 誠の対戦相手が、身体の小さなコーチだったなら、恐らくガードした相手の方が、後方に押されたことだろうが、ホセは一九〇の上背と、百キロの体重を誇る巨漢だ。

 誠の鋭いキックが軽く受け止められる。


 パンチとキックの応酬が、小気味良く繰り返された。

 ホセの体が流れた隙を捉えて、誠がバックを取った。

 次の瞬間、誠は見事に跳ね返されていた。

 誠の体勢が崩れていたのに、返し技だけで、ホセは追い討ちを仕掛けて来ない。

 誠はまだ寝技は苦手だ。

 ホセもそれを知っていて、スタンディングに戻るのを待っていた。

 誠はまたパンチとキックに頼った。

 双方の打撃技を防御するだけで、小気味良く乾いた高い音が出る。

 ほぼ型に沿った試合だが、見慣れてない観客からすれば、白熱した試合に見えたかも知れない。


「ラスト一分」


 場外からコーチの声が掛かった。

 ここからだ、誠が全力を出すのは。

 始めの四分が、一連の型を見せる模範試合で、ラスト一分が実戦練習だ。


 流れるような攻撃の応酬は減り、技を打ち込む、呼吸を計る時間が長くなる。

 ホセの一瞬の隙を突いて、誠はコンビネーションの技を二回見せた。


『ぱぱん、ぱんぱん、ぱぱ、ぱぱ、ぱーん』


 リズミカルな音は響いたが、一つ目のセットは全て受け流された。

 二度目のコンビネーションで、左ミドルキックが一つ決まったが、手応えは浅かった。

 最後に、右のハイがホセの後頭部に入ったと思った瞬間、目の前からホセが消えて腹にどんと来た。

 誠は腕を取られて転がされた。

 左肘と肩に激痛が走る。

 腕ひしぎ逆十字固めを決められていた。

 誠は残る右手で二つ床を叩いた。

「まいった」のKO負け。

 五分間、試合させてもらえただけで十分だ。

 ホセが本気になれば、誠は最初の一分で転がされていた筈だった。


「誠、最後のハイキックは良かったぞ」


「オス! ありがとうございました」


 立礼して誠は下がった。



 ホセから褒められた、ハイキックのイメージが蘇った。

 もう少しか。

 小さな満足の後で、まだホセを本気にさせることはできそうにないと、小さくはない自信が砕け散った。


 ホセは入会届けを希望者に渡していた。

 誠と目が合うと、ホセは遠くでにやりと笑った。



「円城寺さん、組み手をお願いします」


 年上の後輩が、二人して誠の所へやって来た。

 誠は彼らの名前を知らないが、道場に来る、全ての練習生が誠の名前を知っていた。

 組み手の相手になることは、先輩の務めだ。

 快く誠は申し出を受けた。


 一人目は背の低い男だ。

 この男に対しては、パンチとキックをバランス良く含む組み手で、数分間の手合わせをした。

 早くも息が上がって来た相手は、オスと言って引き下がった。


 二人目の男は誠よりは低いが、それでも一八〇近くある長身の男だ。

 この男はどういうつもりなのか、暫くすると、誠の隙を突こうと、変則な技を打ち込んで来た。

 しかしそれは、ブラジル式柔術からの見方だった。


 誠が注意すると、先月から見掛ける様になった、この二十二、三歳の練習生は、

「俺、ボクシングをやってきたんですよ」

と笑った。

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