君というともしびが

千葉の古猫

第1章 灯火が僕にくれた道標

第1話 恋の予感

『君という灯火ともしびが』


          千葉の古猫



前書き


 本作は、宇多田ヒカルさんの二〇〇六年コンサートツアー『UTADA UNITED 2006』で、さいたまスーパーアリーナ初日、二日目を連続観覧した時、インスピレーションを得て書き始めました。





第1章「灯火とうかが僕にくれた道標みちしるべ


第1話 プロローグ 恋の予感


 盛大なアンコールの声に答えて、再びステージがまばゆいライトに照らされ、灯火とうか

「みんな、呼んでくれてありがとう」

 そう答えながらステージに再登場した。


 ラストナンバー「ライトニング」が始まる頃には、もう僕は知らず知らず泣いていたらしい。


 二万に近い人々が集結したあの場所で、隣に居合わせたあの人との邂逅かいこうが、偶然だったのか運命だったのか分からないが、僕は確かに落ちてしまった、本当の恋に。

 いやかっこつけるのはやめよう。僕は恋がどんなものかまだ知らないし、その前の恋も本物だと思っていたのだから。

 人は何か大きなものを得た時に、同時に大切な何かを失う。と誰か偉い人が言っていたような気がするが、のちになってその言葉は、自分にどんぴしゃりと当てはまることを知った。



「♪君の放つ淡い灯火ともしびに導かれ、私はようやく出口を見つけられた♪」


 灯火とうかの歌声がそのフレーズに差し掛かった時、ふと気がついた。

 自分の右手に少し暖かい重みを。

 そこにはハンカチと、その上に添えられたほっそりとした手があった。

 右下を見た僕の視線は、疑問を含みながら上を向く。


 その人は暗がりの中で僕の目に焦点を合わせると、瞬きを数回繰り返してから立ち上がった。

 小さな重みが消えた僕の右手には女性が使うハンカチが残された。

 その時涙がこぼれ落ち、ハンカチの意味を知った。

 ハンカチで涙を拭いた僕は、そのまま無意識にそれを自分のポケットに入れた。


 これまでの二時間近く、右側のカップル席を振り返ることはなかった。

 聞こえてくるのは二座席右にいる耳障みみざわりな男の声だけだったから、その人を意識したのはこれが初めてだった。

 ほっそりとした体形、カラフルで個性的な衣服、大きな目。声はどんなだろう。


 ごく短い時間静寂せいじゃくが支配した僕の耳に、灯火の熱唱と強烈な演奏が、そして万雷ばんらいの手拍子の響きが戻って来た。

 灯火は今、アンコールのラスト曲を歌っている。

 会場全体が一つになるべき時間帯であることを思い出した僕は、ぎくしゃくと立ち上がった。


 その人とは反対側の左側には、僕の大切なれがいた。

 ステージの灯火に熱中するあまり、僕のそんな様子には気づかなかったのか、連れはうにスタンディング体勢に入って、首を揺らしながら、会場全体と一つになって大きな手拍子を打っていた。


 その人はステージの灯火を真っ直ぐ見詰めたまま僕の右手に再び触れた。

 反射的に引っ込め掛けた手を意識して止めた。

 冷たいが柔らかな感触。

 その人に取られた僕の右手は引上げられ、その位置でそっと離された。


 立ち上がっただけで、僕はしばらくぼおっとしていたらしい。みんなと一体になって手拍子を打てという意味に受け取れた。


 引き上げられた右手の高さまで左手を引上げ、素早くリズムを計り、僕も手拍子を打ち始める。

 ステージの灯火を見詰めながら、灯火の熱唱を聴きながら、灯火と一緒に口ずさみながら……それでも時折ときおり、僕は右を気にしていた。


 その人は二度とこちらを振り返らなかったし、連れの男が奇妙な表情で見ているのが分った。

 もう右を見ることはできなかった。

 違う視線を感じて左を見ると、手拍子を打つ連れの顔の中にも似たようなものがあった。


 一体僕は何をしているんだ。さっきまであんなにも灯火にひたりきっていたと云うのに……


 手拍子を打ち続け、灯火と共に口ずさみ、アリーナに満ちた熱気に浴され身を任せると、次第に灯火と一体となり自分が消えて行くようだ。

 僕の中のノイズはようやく霧散むさんした。

 既に「ライトニング」の終わり近くになっていた。


 アンコールのラストナンバーが終わるやいなや、一万八千人の大喝采だいかっさいが、うなりの大津波となってステージへ向かって押し寄せる。

 灯火とバンドメンバーが、歓声かんせいと拍手に応えて気持ちよさそうに手を大きく振っている。


「「「とーかー」」」

「「「トモー」」」


 やや悲痛味ひつうみを帯びた嬌声きょうせい野太のぶとい叫び声が、仄暗ほのぐらい大空間のあちらこちらから飛び交った。

 純白の光に満ちた大ステージには、おびただしい量の紙吹雪が水色と黄色に輝きながら舞い散っている。


 精一杯の拍手を贈りながら、遠く小さな灯火の中に、双眼鏡無しでは見える筈の無い満面の笑みを見出した。

 始まる前までは、があるから、今日の灯火がどうなるのか不安で一杯だった。

 昨日のフィナーレと少しだけ違う、その満面の笑みは灯火自身が不安を乗り切った喜びだ。


 最後まで灯火は僕達と自分自身の為に歌い切ったのだ。

 僕はまた涙をためていた。

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