僕だった俺。

羽川明

一日目 「いつも通りの今日」

 ──僕は自分が嫌いだ。


 いつも何かにおびえて、怖がって、何一つできやしないからだ。

 僕はきっといつまでも弱いままで、何一つなおすことも、変えることもできない。


 すぐそばにある、この開け放たれた窓から教室の外に飛び出せば、きっと何かが変わるだろう。

 けれど、行動に移した事は一度としてない。


 そんなことをしたら取り返しがつかなくなることくらい、僕にだってわかる。


 そうやってあれこれ考えているといつも、〝死ねばいい〟という結論にたどりつく。


 確かに自ら命をつことができれば、僕を取り巻くこの環境を、大きく変えることができるだろう。

 もしそんなことができたなら、例えそれ以外の何ものをも変えることができなかったとしても、きっと僕は満足して死ねることだろう。


 僕にとって自ら命を絶つという事は、そのくらい勇気のいることなんだ。


 だから、きっと僕にはこれからもできない。


 前に一度だけ、学校の屋上でフェンスを乗り越えて、あと一歩というところまで行ったことがある。

 でもその下に広がる風景を見た途端、足がすくんで、それ以上前に踏み出せなくなった。

 怖かったんだ。自分がいなくなった後、悲しみが薄れて、誰からも忘れられて、なかったことにされるのが。


 僕は今、窓際の一番後ろの席で授業を受けている。


 今の僕にできることと言えば、せいぜいここで立ち止まることぐらいだ。

 それに僕のできないことは、できたらできたで取り返しがつかなくなることばかりだし、仕方がないと言えば仕方がないのかもしれな──


『死ねばいいじゃないか』


 僕の頭の中に、あるはずのない声が響き渡る。


『取り返しがつかなくなったら、死ねばいいんだよ』


 それは僕が考えた案にしては、あまりに合理的で、魅力的だった。

 そうだ、確かにそうかもしれない。

 けど僕には、きっとできない。


『本当に今を変えたいなら、この学校から、この環境から、この現実から、逃げ出せばいい。大丈夫だ。失敗したら死ねばいいんだから。死ぬしかない状況に追い込まれればきっと自ら命を絶てる』


 ──違う。僕は直感的にそう思った。

 僕ならこんなことは考えないはずだ。


 だって僕は、現実から逃げ出すどころか目をそむけることすらもできないんだから。


『ここは二階だ。すぐ下には昇降口しょうこうぐちの屋根がある。飛び降りてもたいした怪我はしない。もしここから飛び降りることができたなら、後はもう、自由だ』


 無理だよ。

 仮にそんなことができたとして、きっと僕は前みたいに足がすくんで、最後の最後まで、自殺なんて出来やしない。

 だって僕は──

『ならこうしよう。俺は明後日あさってに死ぬ。

 その代わり、それまでの今日を含めた三日間、今まで自分ができなかったことのすべてを成し遂げる。

 そうすれば、満足して死ねる』


 できないよ、僕には。今までだって、何一つ変えられなかったんだから。

 無理だよ僕には。

 だって僕は弱いから。一人じゃ何もできないから。


『俺には出来る。俺にできないことはない。

 どうせ俺は、明後日に死ぬんだ。

 どうせ、死ぬんだ』


 君は誰? 僕は君じゃない。僕はそんなに自信に満ち溢れてなんかないし、そんなに強く無い。


 君は僕じゃない。それに君は──


 ──僕のひじに何かが当たり、足元に落ちた。見るとそれは、僕の消しゴムだった。


 使いこんだせいで一部が欠けてしまったその頼りない姿はまるで僕のようだった。


 そう、僕にも欠けているところがある。


 それは勇気だ。僕には勇気がない。前に歩き出す勇気が。


 たった一歩前に踏み出すことすら、僕にはできない。僕はいつまでも、僕のままだ。

 拾おうとして足を開くと、つま先が消しゴムに当たり、より遠くへ転がって行ってしまった。

 あぁ、僕もこの消しゴムのように、何かきっかけさえあれば自由になれるのかな。そんな事を考えながら、僕は立ち上がる。


 今度はうっかり蹴飛ばしたりしないよう、ゆっくりかがんで包み込むようにしっかりとつかんだ。

 席へ戻ろうと窓の方を見ると、そこで初めて、今いる場所から窓までが、一直線に続いていることに気がついた。


 ──誰かのつま先に蹴飛ばされたんだろうか。


 気づけば僕は、窓に向かって走り出していた。

 窓が目前まで迫ってきたのを見計らい、窓枠に手をついて飛び越える。

 僕はそのまま、窓の外へ。


 ──は、衝撃とともに昇降口の屋根へ降り立った。

 地面よりは高い位置だが、それでも決して低くはない高さから飛び下りた割に、不思議と痛みは感じなかった。

 恐怖でからだがすくむことも、震えることもない。


 どころか、体中が自らをたたえるようにうずき、湧き出すような力がみなぎって来る。

 目頭が熱くなり、頭は冷えて冴え渡り、二つの温度が中和して、後には爽快感だけが残る。


 俺は屋根のふちを蹴って下りて、校門を飛び越えて街へと駆け出した。


 行先は決めていなかった。目的だけが、今の俺を突き動かしていた。

 街に入ってからも、俺は走り続けた。

 道行く人を何人も追い抜かしたが、それでも全く疲れなかった。

 止まってはいけない気がした。


 今までできなかったことのすべてを、いつまでも立ち止まったままの自分を、今なら変えられる。

 きっとできる。


 俺はもう、自由なんだ。


 代わり映えのしなかった街の風景が、目まぐるしい勢いで変化していく。


 何の変哲もない青空も、どこかいつもと違って見えた。


 俺はどのくらい変わることができるのだろう。

 俺は昔の自分から、どれほどかけ離れられるのだろう。

 どこかから、子供達の楽しげな笑い声が聞こえてきた。

 俺は彼らのように幸せになれるだろうか。


 きっとなれる。


 だって俺はもう既に、なんだから。


 建物の連なりが途切れ、たくさんの遊具が置かれた広場が見えてきた。


 公園を見つけた俺はベンチに腰を下ろし、しばし休憩することにした。


 あまり時間がないが、だからこそじっくりと計画を立てる必要がある。

 俺の呼吸が荒いために、子供たちが俺を不審者か何かのような眼で見つめてきた。

 幸い彼らの保護者はそばにいないようだし、通報されることはないと思うが、もしそうなると俺は着ている制服からすぐに身元が特定されてしまうだろう。


 公園の時計を見ると二時二十分だった。

 この時間帯に制服でうろついていると、通報されずとも補導される。


 明後日あさってになるころには俺はもうどこにもいないのだから、時間を無駄にするわけにはいかない。服を買う必要があるのは明らかだった。


 ズボンのポケットから財布を取り出すと、使う機会がないこともありそれなりの金額が入っていたが、それでも今日の寝床と洋服代だけで消し飛んでしまうような微々たるものだ。

 無駄遣いはできない。


 子供たちが遊ぶのを止め、こちらを指さして何か言っている。これ以上長居はできそうにない。


 俺はおもむろに立ち上がり、公園を後にした。


 一心不乱に突っ走ったので土地勘も糞もないのだが、しばらく歩いていると案外すぐに服屋が見つかった。


 そこで無難な値段の青いチェックのシャツを買い、制服の白シャツの上に羽織はおった。

 たったこれ一枚で、授業をさぼる高校生から一般的な通行人へと早変わりした。

 これでもう怪しまれることもない。


 俺は今晩の寝床ねごとを探すため、また歩き出した。



 寝床を見つけるころには、辺りはすっかり暗くなっていた。

 ホテルぐらいすぐに見つけられるだろうと思っていたが、今思えば特にこれといった観光名所もないこの地域で、寝床が見つかったこと自体奇跡だ。


 結局人気のないボロ宿しか見つからなかったが、この際仕方ない。

 現実とはうまくいかないものだと、つくづく思う。

 まぁ、だからこそ逃げ出してきたんだが。


「──戻るなら、今からでも遅くないかもしれないな」


 俺のかすかなつぶやきは響くことなく闇夜に紛れ、辺りはすぐに静寂せいじゃくを取り戻した。

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