第21話 異世界少女へ思うこと①
「さるすけ、ぽてちとってですよ」
「『さすけ』だっての。はいよ」
ストック用のバッグからポテトチップスを一枚取り出して、テーブルにぺたんと座るチビ妖精に渡してやる。
「ありがとーです。あむっ」
両手でそれを持つと、にこにこ笑顔でお礼を言ってからひとくちぱくりとかじりついた。
チビ妖精が美味そうに食べてるポテトチップスは、ノンオイル・ノンフライの先輩お手製。だから、油で手がべたつく心配もない。
「ピピナちゃん。梅昆布茶の粉、手とか口についてるよ」
「ふぇっ? わっ、ありがとーです。んむんむ」
はす向かいのソファーに座っていた有楽がウエットティッシュを一枚取って、チビ妖精の口や手を優しく拭う。こいつめ、すっかり有楽にも甘えてやがる。
「サスケもカナも、ピピナと仲が良くなったようだな」
「まあな」
「このあいだルティちゃんが寝てたときに、いろいろとねー」
確認するようなルティの言葉から、俺はポテトチップスを食べて逃げ、有楽もごまかしてるんだか本当にあったんだかわからないことを口走って逃げる。
レンディアールから帰ってきた俺たちは、ルティに心配をさせたくないっていうチビ妖精のお願いもあって、ひとまず行ったことは秘密にしようということで口裏を合わせていた。
「ふたりとも、やさしーですから。あむっ」
その張本人であるチビ妖精――ピピナも、あくまでもなんでもないように装う。
違いといえば、俺と有楽にすっかり懐いているぐらい。俺に対しては、出会った頃とは180度違うと言っていい程だ。
「仲良きことは、とてもよきことだ」
「ですねっ」
ルティと赤坂先輩は、その言葉を素直に受け入れているらしい。
……ほんのちょっと、ほんの少しだけ痛む良心は、ポテチを食べてごまかしておこう。
チビ妖精――ピピナに魂だけレンディアールへ連れられていったのが、昨日の夜のこと。今日は、赤坂先輩の家でルティ向けのラジオ教室の手伝いをしていた。
『埼玉武蔵野ライオネス、外野手の竹井正人です。東都放送ライオネスアワー、グッと行こうぜ東都放送、グッと行こうぜライオネス!』
「せんぱい、そろそろCM明けですよっ」
「あいよ」
日曜日からサッカーの試合、若葉南高の放送部、わかばシティFMのスタジオと続いたルティへのラジオ教室は、今日で4日目。プロ野球の試合がデーゲームで中継されるからと、先輩の家でやろうということになって、
『少し日が傾いて参りました、ここ武蔵野ドーム。埼玉武蔵野ライオネスと千葉ポセイドンズの試合は9回で決着つかず、これから10回の表、延長戦へと突入いたします。実況は私、
教材には、松浜文和アナウンサー――俺の父さんが実況を担当しているプロ野球の生中継が使われていた。
『さて先ほどの9回裏、7対3の4点ビハインドで迎えたライオネスですが、夏川と深町の連続ヒットから竹井がデッドボール、満塁になったところでパグラリアールがレフト芝生席の最上段へ起死回生の同点満塁ホームランを叩き込み、試合を振り出しへと戻しています』
「サスケの父御といいヒロツグ殿といい、よくこれだけの情報を短く濃密に言えるものだ」
「目の前の情報をできるだけ早くまとめて伝えるのが、スポーツアナウンサーの仕事だからな」
「しかし、先日の〈さっかぁ〉と同じように、一点の場所から多くの場所を見なければならないのだろう? 〈てれび〉で見るだけとは違って、とても大変そうだ」
そして、補助教材としてテレビでのライオネス対ポセイドンズの中継映像もあわせて使っている。映像はテレビ、音声はラジオにして、ルティにわかりやすくしてみようっていう先輩からの提案だ。
「サッカーにしろ野球にしろ、全体を見渡さないといけないのは同じだ。普通のトーク番組……えっと、参加者がしゃべる番組にしても、見渡してまとめる人がいないと収拾がつかないみたいにさ」
「なるほど」
「まるでせんぱいのポジションですね!」
「暴走してる誰かさんのせいでな」
なぜかうれしそうに言う有楽を、軽くあしらう。
確かにコイツの暴走は進行を守る参考にはなっているとは思うけど、子守りじゃないんだからさ。
『ツーナッシング、ノーアウトランナーなし。7対7、延長10回ポセイドンズの攻撃。先頭打者里村、ここは塁に出たいところ。第3球を投げました。アウトコース低め、打った、ライトの右、ハーフライナーだっ。ライトが右へ寄っていく。ワンバウンド、ヒットになった! 里村1塁を大きく回って急ブレーキ! ゆっくりと1塁ベースへと戻ります。ノーアウト1塁!』
お、延長初っぱなから動いたか。
『今のバッティングはいかがでしょうか、立芝さん』
『さすがの里村ですね。外へ沈むシンカーをうまくすくい上げました。あれを打たれたら何も言えませんよ』
『里村は絶好調ですからね。レフト前ヒット、センターオーバーのツーベース、レフト前のタイムリー、三振、申告敬遠、そして今のライト前ヒットと、6打席で5打数4安打2打点。本日、文句なしの猛打賞です!』
「既に4時間ほどしゃべり続けているのに、まだまだ舌がまわるというのか……」
「もっと試合が長くなれば6時間ぐらいしゃべることもあるし、トーク番組じゃ9時間ぐらいしゃべる人もいる。ここらへんは、もう慣れだよ」
「9時間もだと!?」
驚いたらしいルティが、広げた両手の指を数えるようにしてたたんでいく。
実際、埼玉県内が放送区域のSai-ball FMでは、大ベテランのDJさんが毎週金曜日の朝9時から夕方6時までのロングラン放送をやっていたりする。
もう80歳過ぎだってのに他局でもやっていて、実にファンキーな大先輩だ。
「せんぱいのお父さんは、今年でアナウンサー歴何年なんですか?」
「今年でちょうど25年」
「四半世紀ですかー、長いですね」
「俺が生まれる前は夜ワイドをやってて、その後にスポーツ実況へ転向したんだとさ」
俺が物心ついてたときには、父さんはもう東都放送の第一線でスポーツの実況アナウンサーとして活躍していた。
正月は大学駅伝の実況に行って、2月になればプロ野球のキャンプインで取材。3月の下旬になればプロ野球が開幕して、それが10月末まで続く。オフシーズンには情報番組を担当して、また次の年へ。
一年中忙しい父さんではあるけれども、時間を見つけては勉強を見てくれたり、母さんの店を手伝ったり、朝から晩までとことん遊んでくれたりと、松浜家の頼もしい大黒柱だ。
『ピッチャー小沼、第5球を投げました。インコース高めっ、空振り三振っ! スリーアウトチェンジッ!』
『いやー今のは強気でしたね!』
『三振したベイリー、悔しそうにバットを叩きつけます! ボール球につられて振ってしまったベイリー、今日は5打数ノーヒットと絶不調! ランナーひとり残塁で10回の表終了、7対7の同点のまま、試合は延長10回の裏へと進みます!』
ラジオのスピーカーからは父さんの上ずった声が、画面のほうでは折れてグラウンドに落ちたバットが映し出されて、それぞれCMへと移っていった。
「実況に勢いを付けることで、起伏をもたらしている面もあるのだろうか」
「おっ、いいところに気付いたな」
「始めの頃は得点を取ってもいくらか淡々としていたが、さきほどの9回といい今の回といい、走者が出るたびにサスケの父御が盛り上げているように聴こえたのだ」
「最初のほうで得点が入っても、そこで試合が必ずしも決まるってわけじゃない。大詰めになればなるほど緊迫感を出すって、父さんは言ってた」
「そこは〈さっかぁ〉と共通しているのだな。なるほど、実況とは奥深い」
ふふっと楽しそうに笑いながら、ルティが手にしたポテトチップスぱりっとかじる。ルティも、実況の醍醐味がだんだんわかってきたみたいだ。
その後も延長戦は続いて、10回裏、11回表と両チーム無得点。試合が動いたのは、11回裏に入ってからだった。
『さあ11回の裏、7対7でライオネスの攻撃。ツーアウト満塁、一打サヨナラ、最大のチャンスを迎えました!』
ポセイドンズの投手、村浜からライオネス打線が連続ヒットを放つと、ここでクローザーの小森が登板。フォアボールを出してから連続三振でツーアウトにしたところで、コンポのスピーカーからは父さんの実況と観客の大歓声が響いていた。
「サスケよ、ここであと何点入れれば〈らいおねす〉が勝てるのだ?」
「あと1点。9回か延長で同点の場合、表のチームが点を入れて裏を守り切るか、裏のチームが点を入れれば試合終了になる。『サヨナラ』ってのは、それで裏のチームが勝った時に言われるんだ」
「試合と〈サヨナラ〉するというわけか。ふふっ、なんとも洒落ている」
日曜日にサッカーを見に行ったときと違って、今日のルティは落ち着いて試合を見ている。やっぱり、直接観戦するのとラジオかテレビを経由するのとじゃ、のめり込み度合いが違うんだろう。
『ここで打席に立つのは〈武蔵野の蒼き豪砲〉、怪我から復帰したばかりの竹井正人。レフトスタンドの応援団が、今日一番の大歓声で迎えます!』
父さんが言い終わるのと同時に、歓声のボリュームが一気に上がる。球場の盛り上がりを伝えるために、実況アナウンサーがよく使う手法だ。
『一昨年のファイナルシリーズで、ライトフェンス際の大飛球をジャンピングキャッチ。チームの日本シリーズ進出と引き替えに右肩の脱臼と右上腕とすねの骨折で、全治10ヶ月の大怪我を負いながらも、不屈の闘志でリハビリと練習に励んで参りました。
今日607日ぶりのスタメンで一軍復帰を果たした竹井は、ここまで三振、ライトライナー、ピッチャーゴロ、ライトフライとデッドボール。まだヒットは出ていませんが、立芝さん、この第6打席をどう見ますか?』
『そうですね。9回のデッドボールはヒヤリとしたけど無事でしたし、同点ホームランの足がかりを作りましたから、ここで仕切り直しといきたいところでしょう』
『まさに、真価の問いどころですね。対するポセイドンズの内野はツーアウトになったことで前進守備から通常守備へ。ピッチャーは美浜の防波堤・小森雅之。マウンドに集まった内野手が、元のポジションへと散っていきます』
唸るように、父さんが興奮を抑える。大詰めのチャンスやピンチの時には、いつもこうして呼吸を整えていた。テレビの画面では、小森の背と向かい合ってバットを構える竹井の姿が映し出されている。
『ピッチャー小森、セットポジションから第一球――』
そして、小森が豪快なフォームからボールを投げたその瞬間、
『バント! プッシュバント! スクイズだっ!』
竹井はバットを寝かせると、押し出すようにしてボールを前へ転がした!
『ランナー全員走る! ピッチャーの横をすり抜けた打球はショートがキャッチして一塁へ! 竹井ヘッドスライディング!』
走る竹井が一塁ベースに飛びつくと、審判が素早く両手を横に広げて、
『セーフ! ファーストすかさずホームへ投げる! 大関もヘッドスライディング! 判定は!?』
瞬間、歓声が実況を覆い――
『セーフ! セーフ! サヨナラ! ライオネスサヨナラぁぁぁぁぁぁぁぁ!』
父さんの実況が、それを破り返した。
『竹井! 復帰第二打席は奇襲のプッシュバント! 間一髪のサヨナラ! サヨナラでっ! ライオネス連敗脱出っ! ヒーローが! ヒーローが帰ってきましたぁぁぁぁぁぁ!』
『いやぁこれはお見事ですね! そうでした、彼にはこの足とバントがありました!』
『竹井、完全……復活、ですっ! 立芝さん、うぐっ、立芝さぁん……!』
「えっ」
「これって、ないてるですか?」
「あー……」
試合展開からして、もしかしたらとは思っていた。思ってはいたけど。
「父さんさ……実況中に感極まると、すっごく泣くんだよ……」
よりによって、みんなで聴いてるときに泣く試合が来ちゃったか……
『まさか、まさかこんな形で、こんな形で立ち会えるとは……1月の自主トレの時にっ、単独インタビューしてっ、彼は約束しましたっ……ひぐっう、必ず、必ずまた球場を沸かせると! そして今日、彼の復活した快足がチームを連敗から救いましたぁぁぁっ!』
「号泣ですね……」
「ま、松浜くんのお父さんは『泣く実況』で有名なのよね」
「さすがに今はこっぱずかしいっす……」
呆気にとられてるルティにチビ妖精と有楽はまだしも、先輩のフォローはちょいと堪える。まあ、巡り合わせってことで仕方ないとは思うけど……
「嫌、なのか?」
「ん?」
頭を抱えていた俺の耳に届いたルティの声は、どこか硬くて、
「サスケは、父御がこのような実況をするのが嫌なのか?」
「へっ? いや、いやいやいや!」
顔を上げて合った悲しそうな目に、あわてて否定してみせた。
「そんなことはないって。ただ、みんなに父さんの泣き声を聴かれるのが恥ずかしいだけだ」
「???」
「例えばだけど……そうだな。親しい友達とラジオを聴いてたら、突然ルティの父さんがうれし泣きしている声が流れてきたらどう思う?」
「父様の声が……」
納得いかないとばかりに眉をしかめていたルティは、目を閉じてその光景をイメージしてみたようで、
「は、恥ずかしいな! それは確かに恥ずかしい!」
「今の俺がそんな感じ」
同意したその言葉と、紅くなった頬には恥ずかしさが混じっていた。
「まあ、父さんの気持ちもわかるっちゃわかるんだけどさ。竹井さんが怪我をしてからずっと追い掛けてたし、ずっと復帰を待ち望んでたから」
「さっき607にちっていってたですけど、ずっとですか?」
「ああ。というか、怪我した日の実況も父さんだったんだよ。だから、それからずっとだ」
あの日も、今日みたいなデーゲーム。竹井さんが激突して動けなくなったときの硬い実況は、今でも耳に焼き付いている。泣くのをこらえた父さんが「元気な姿で帰ってくることを願います」と言い切ってから今日で607日。その日々を思えば、父さんの涙の理由もわからなくはない。
「タケイ殿の生き様を、ずっと見続けてきたからこその涙ということか」
「竹井さんも含めて、ライオネスに関わってきた多くの人たちを見て来たからだな。入団してから引退するまで見届けた選手も、相当多いし」
「その生き様を伝えるのもまた、実況の仕事なのだな」
「おお、いいこと言うじゃん」
「皆のおかげだ。実況者とは何たるか、少しずつつかめてきた」
まだ序の口かもしれないが、と照れ笑いを浮かべるルティだけど、さっきのペース配分のことといい、ラジオがどういうものなのかを猛スピードで学んで、理解しようと努力している。
赤坂先輩の家ではずっとわかばシティFMやほかの民放ラジオも聴いているそうだし、今日の午前中は、初めて俺たちと会ったスタジオ前で有楽と公開生放送の番組を見学していた。そして――
「今のことも、忘れずに書き留めておかねば」
紺色のキュロットスカートに包まれた膝元のノートへ、ルティが何かを書き始める。
昨日の収録後に赤坂先輩が買ってあげたらしく、午前中にスタジオ前へ行ったときから、そのノートを肌身離さず持っていた。
「ルティちゃん、そのペンで大丈夫だった?」
「うむ。書き応えがあるレンディアールの鉄筆もよいが、軽いこの筆も書きやすくてよい」
そして、その手にはここに来る前に有楽が文房具屋で買ってプレゼントした、ちょっとお高めのボールペンが握られている。
書いている文字も内容もさっぱりわからないけど、さらさらと書くルティの筆使いはとても軽やかだった。
先輩も有楽も、ルティの助けになればといろんなことを考えて行動している。
「ん? どうした、サスケ」
「いや、なんでもない」
言えるわけがない。
俺も、他にルティの手助けができないか……なんてさ。
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