落月
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通常の性転換は施術さえ受ければ心がどうだろうと、異性のガワを纏う事が出来る。
しかしダンジョンによるトランス・セクシュアル(肉体の異性化)は、肉体のみならず精神の在り方も変容させてしまう。
つまり比呂の精神はもう男ではなく、女のそれなのだ。転換して暫くは多少は抗ってはいたものの、その抵抗も終わってみれば無駄な抵抗であった。
今の比呂は。意中の男に手を繋がれてときめいている一人の女に過ぎない。
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歳三と比呂の逢瀬に注がれる二組の視線がある。
「あー、行っちゃった。いきなりホテルなんて行かないよね?」
黒いキャスケット帽を被った小生意気そうな女──……四宮 真衣が言うと、隣に立っている翔子が苦笑しながら答えた。
「そしたらほんと"パパ活~!"って感じだよね。まあ流石にそれはないと思うよ。というか佐古さんって結構押しが強かったんだね。俺についてこいみたいなかんじで……意外かも。でも比呂も嬉しそうだしね、まあいっか」
「だねえ、成功してる探索者って自分に自信がある人ばかりだし。それに比呂はちょっと奥手だから。ああ、二人の事追う?どうする?」
真衣が尋ねると、翔子は首を振る。
「そこまでしなくていいんじゃないかな。後はもう二人の問題でしょ。それに佐古さんに尾行がバレたら後が怖そうだよ。それにお腹空いたし。私たちもご飯食べにいかない?」
何がどう心配だったのか翔子自身にも判然としないものの、しっかりしている様でいて案外抜けている比呂の事を案じていた翔子だが、既に関心は夕食に移ったようだった。
「そういえばお腹空いたなぁ。どこに行く?」
「歩きながら決めようよ」
翔子はそんな事を言いながら真衣に手を差し出した。
シェイクハンドのオーダーである。
真衣は少し恥ずかしそうにその手を握り──……二人の姿は夜の池袋の街に消えていった。
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歳三は既に手を離し、比呂が予約したという店へ向かっていた。
交番から離れるにつれて歳三の精神が安らいで来る。
──俺は脛に
情けない疵だが、疵は疵だ。
「そこのお店です。イタリアンなんですけど」
比呂は白地に黒字のシンプルな看板を指さす。
看板には『spada di misericordia』とある。
「お店のオーナーは元探索者さんなんです。引退後、協会から支援金を貰ってお店を始めたみたいで。イタリア語で "慈悲の剣" っていうんですけど、由来はモンスターにはしっかりとどめを刺す様にっていう心得の事らしいです」
比呂の説明に歳三はへぇと返事を返した。
探索者ネタは歳三の数少ない興味の対象である。歳三の関心はダンジョン、酒、煙草、あとはプロ野球とサブカルに向けられているのだ。
若かりし頃は女体への飽くなき希求もあったのだが、今はない。いや、ないというよりは、過去のやらかしのせいで性的な欲求が封印されているていとなっている。
超ブラック企業の元社員が今でも電話の音に怯える様に、マラが疼かんとすればダンジョンに行きたくなってしまうのが今の歳三だ。
「そのオーナーさんってのはなんでそんな名前にしたんだろうなぁ、もしかして引退した原因が……」
歳三がそういうと、比呂はやや神妙そうな顔で頷く。
「倒したと思っていたモンスターが実はまだ生きていて、それで反撃を受けちゃったみたいで。当時は治療キットも今ほど効果が高いものじゃなかったから……。あ、少し湿っぽくなっちゃいましたね。寒いしお店に入りましょう」
池袋北口の『超都会』の店主もそうだが、引退後に協会から支援を受けて事業を始める者は多い。勿論引退した者すべてがこうした支援を受けられるわけではないが、現役中に余程のやらかしが無ければ支援を受けられるだろう。
それとは別に退職金に類するお金も支払われるため、探索者が引退後に路頭に迷うといった事は余りない。
余り、と言ったのはそれでも0ではないからだ。
探索者時代の豪遊生活が忘れられず、引退後も生活水準を調整できずに素寒貧になってしまう者がまあまあ居る。
そういった者達への再支援は原則行われないが、出戻りという形で探索者に戻ったりする事はできる。
◆
「小洒落てるねぇ」
歳三による店の第一印象だ。
まあ歳三はどんな店でも「小洒落てるねぇ」と言うのだが。「小洒落てるねぇ」以外の単語が歳三の褒め用ボキャブラリーに無いからだ。
「カジュアル過ぎず、フォーマル過ぎずみたいな雰囲気が気に入っているんです。歳三さんにも気に入ってもらえると良いんですけれど」
店内はいわゆるメゾネットタイプで、一階部分が大部屋、二階部分には個室が並んでいた。
既に何組か客が入っており、各々の会話に興じている。
店内は音楽が控えめに流れており、「洋楽だ」くらいの事しか歳三には分からなかったが、音は良い意味で店内の雰囲気に埋没していた。
「予約を取ったのは個室の方です。この時期だし結構人気なんですけど……実はここの予約、探索者が優先されるんですよね」
そう言って比呂は軽く舌を出した。
やけに赤い、その舌を見て。
歳三はなぜかダンジョンに行きたくなった。
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個室に案内された二人はメニューを渡され、それを一緒に見ながら適当な雑談に興じていた。
何を頼めばいいのか歳三にはさっぱり分からなかったものの、早々に白旗を上げると比呂がアレがお勧めだコレがお勧めかもと勧めてくれる。
結句、歳三はただ只管YESとOKと許諾と首肯を繰り返すだけのマシーンと化した。傍から見ればこんな情けない47歳は視界に入れるだけでやるせなくなってしまうだろう。ああはなるまい、ああなったら男としておしまいだという学びを得るに違いない。
そして一通り注文を終えると、歳三がぽつりと呟いた。
「俺なんかにゃ立派過ぎるように思えるけど、個室ってのがいいな。緊張しないで済む」
緊張?と比呂が尋ねると、歳三はなんだか情けなさそうに笑いながら答える。
「ああ、まぁ……。俺はその、賑やかな場所っていうのが苦手で」
これはかなりソフトな表現だ。
実際には "現実を見たくない" というのが正しい。
自身と同年代の中年サラリーマンが同僚や部下、上司、あるいは友人や恋人と楽しそうに食事をしているという光景を見ると、歳三は胸が締め付けられてしまう。
「私も静かな方が好きです」
この時比呂は自身でも全くの違和感なく、一人称を"私"とした。もう比呂は戻れないし、戻る気もないのだ。
静かと言えば、と歳三が周囲を見回す。
「どうしましたか?」
比呂が尋ねると、歳三は首をかしげながら答える。
「いや、一階はあんなに賑やかだったのに、二階は随分静かだなって」
ああ、と比呂が頷いた。
「この木の壁……仕切り?には特殊な塗料が使われていて、強力な防音作用があるんです。お店の作り自体も探索者仕様というか、戦車で砲撃されても微損で済むって話です」
大変異以降、国内のあらゆる技術にイノベーションが起きた。
ダンジョンから得られる新素材やエネルギー源は日常生活はもちろん、医療、交通、建築など、あらゆる分野に革命をもたらしている。この店の防音塗料についてもその技術革新の産物で、
「戦車くらいで傷ついてちゃ不安だぜ」と歳三が冗談めかしていうと、比呂の頬が僅かに赤らんだ。
「やっぱり歳三さんは戦車で撃たれても平気なんですか?」
「うん、まあ昔だけどな、今はどうだろうな。俺もおっさんになっちまったから……」
自信なさげに言う歳三に、比呂は困った様な笑顔を浮かべる。
◆
飯島 比呂にとって佐古 歳三という男は力の象徴、男の中の男であった。少なくとも過去はそうだった。
でも今は違う、と比呂は思う。
比呂は歳三の背に、雨の中びしょ濡れになってしょぼくれている不細工なピットブルを幻視していた。
ピットブルは品種改良により生まれた犬種だ。より強い闘争心を、そしてより攻撃的にと望まれて生まれてきた。筋肉質で強靭で、大変異以後も "世界一危険な犬" として有名だ。
当初は比呂も歳三の事もそんな感じの男だと思っていた。しかしプライベートで関わってみるとどうにも様子が違う。
──何て言うか、ちょっと
ネガティブな感情がないネガティブな言葉、というものがある。
比呂としてはとても歳三本人に言える言葉ではない。
「美味いビールだなァ」
歳三は一杯4500円のビールを飲みながら言う。
笑顔だ。
だが笑ったせいで口の端からビールが零れる。
おっとおっとと慌てる歳三を見て、比呂は卓上のナプキンに手を伸ばし、比呂自身もなぜそんな事をしたのか理解できなかったが、身を乗り出して歳三の口を拭ってやった。
歳三は「ああ、どうも」と言おうとしたが、比呂の目を見て思わず口を噤む。
その瞳の奥で煌々と輝くモノが何なのか、歳三にはさっぱり理解出来ない。しかし無駄口を叩けない迫力が比呂にはあった。
二人の視線が合う、絡む。
そしてSterm端末がけたたましい音をたてて鳴った。
歳三と比呂が端末を見るとそこには──……
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『ダンジョン探索者協会会長、望月 柳丞氏が解任されることが決定しました。この決定は先日発生した旭ドウムのダンジョン化に伴い、非常に多数の犠牲者が出たことを受けてのものです。後任には副会長桐野 光風氏が指名されました。桐野新会長にはこれからの探索者協会が直面するであろう課題に対処するため、新たなビジョンとリーダーシップをもたらすことが期待されています。ダンジョン探索者協会は今後も探索者の安全性の向上と探索の効率化を目指していく方針です。また、望月前会長は新しく探索者組織を結成すると発表しており……』
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