序-2 通らない脈絡が通す脈絡
おいてめえら、という声が、わんわん背骨に響いて脳天に刺さっている。声だ、声に殴られたんだ。比喩ではなく、文字通り。そう直感した。しかしアルトゥルの腕に支えられ、花の香りに目覚めて我に返る。
そんなはずがない。地に足がめり込みすらしているこの世でそんな突飛なことが起こるのは冗談の中だけだ。突然の暴力の真犯人をしっかりこの目に収め、心のシャッターを嫌というほど鳴らさねばならぬと振り返った僕を、さらなる冗談が迎えた。
宙にむさ苦しい人魚が浮いている。それが威嚇するように腕を振り上げて怒鳴る。
「てめえら俺の船どうしてくれる! 弁償だ弁償しろ臓器一個分よこせえ!」
「そりゃ無理筋だろポロッペ」
突然のメルヘンティックな発音に思わず痛みを忘れて顔を上げた。
目を黄色く爛々と輝かせる中年親爺の、セクハラ間際な毛むくじゃらの上半身。
宙で盛んにびちびちやっている、うろことフジツボに覆われた青灰色の下半身。
「ポロッペ」のどの字も当てはまりようがない惨状じゃないか。しかし猛り狂って両手を上げ、万歳の体勢みたいになってしまう様は少し可愛らしく見えないこともない、と思ったがきっとこれが世に云う若気の至りというやつだ金輪際忘れよう。
「どっこが無理なもんかええ!? おめぇらが教えてくれなかったからオジャンになっちまったんだぞ畜生め! 最初っから爆発するぞって言ってくれりゃこうはならなかったんだっ!」
「爆発くらい言わなくたって予想できるだろ。この道何年だ? こういう目に見える地雷も避けれないんじゃひよっこ以下だろむしろてめえが償えてめえの臓器売ってよ。それかセルフ凌遅刑して焼肉屋開け人魚の肉なら高いだろ」
どっちも無理筋界隈トップを狙えそうな名文だ。しかし突然ポロッペ背後の湾上にハリセンボンがすぽぽんと飛び出してきて、こぞって両国花火大会終盤のような花火を散らした為に、あれらは駄文に成り下がってしまった。
僕はもう本当に心臓が口から飛び出したと思い、ひょっとしたら船橋のあたりまで飛んで行ってしまったんじゃないかしらと不安になって、自分の胸をまさぐりながら電車賃の計算すら始めようとしたのだが、二人は一切動じず不仲の仁王像のように睨み合っており、僕の心臓もいつものところで動じずバクバクいっていた。これほど脈絡の通らない事態があるとは。
とりあえず凌遅刑について調べるときは非常にショッキングなものが現れることを十分に覚悟したうえで自己責任で行って頂きたいというのと、とにかく水辺に近付くのは危ないということは覚えておかなくては。さっきの船旅、いつ死んでもおかしくなかったのだ――そう考えると背筋が寒くなった。あの食えないメガネは僕をなんて所に送り込んだんだ。あいつこそ両国の花火が如く弾け飛んでしまうべきだ。それが慈善事業というものだ。少なくとも帰ったら絶対殴ってやろう、と心に決めた。丁度その時、僕をよそに白熱していた無理筋の叩きつけ合いは最高潮に達していた。
僕が見るに、煽りのバラエティと声量に優るアルトゥルの方が押しているかに思えたが、ポロッペが「裏」がどうとか言い出すと、途端に押し黙ってしまった。アルトゥルは舌打ちして指を鳴らす。ごう、と吹いたその風が皺んで紙幣の群れとなり、浮かぶマーメイドに激突する一部始終に、僕は最早呆れて声も出ない。どうやらここでは何でもありらしい。
「へへ……分かってんじゃねえか」
下品に笑いながら札を数えるポロッペの目からラフレシアが咲いて悪臭をまき散らす。奴は大量の紙幣を抱えたままふよふよと、ビル壁の方へ去っていった。アルトゥルが肩を落として振り返る。
「ごめんなシモン……あいつの八つ裂きを見せてやれなくて」
シモン、というのが僕を指しているのだと気付くのに数秒かかった。それから慌てて首を振る。
「そんなもん聞きたくもないです! 全然大丈夫ですよ」
「けどその
「ちょっとぼーっとしてただけですから! ほんとに全く見たくありませんから! どうぞお気遣いなく!」
「そうか? ならいいんだが……」
なにがいいんだろうか。この人はこの人でさっさと離れた方がよさそうだ。
「助けていただきありがとうございました!」
そそくさと礼を残してするりと筋肉質な腕から抜け出す。ビルと海の間の狭い岸を早足に歩き出す。やっと万全に戻った視界に、赤く錆びた巨大な鉄橋が見えていた。あれはいつも通行止めのあの橋じゃないか? まさか夢島まで通じていたとは。しかし好都合、これで帰れる。
「おいおい、どこ行くんだよ」
「あ、そうだ。ここでは人が虚空に消えるって本当ですか?」
「そりゃ消えることもある。なんたって『何でも叶う』のがここのウリだからな。――じゃなくて」
となるとあいつは丸っきり嘘つきなわけじゃ無かったのか? しかしあいつはどうやってここについての情報を得たんだろうか? お得意の千里眼か? などと考えていると背後から追いかけてくるアルトゥルの声と足音。
「どこ行くんだ?」
「帰るんです」
「帰る!? もう!? もったいなさすぎねえかそりゃ。せめて夢の一つくらい叶えてから帰りなよ」
何言ってんだこいつは。いつの間にか目の前に立っているアルトゥル。
「今んとこ夢無いので。保安官にもなれそうだし」
脇を抜けようとすると片手で押し止められた。そろそろしつこい。
「じゃあ探しに行こう――じゃなくて、あの橋通行止めだぞ」
どんな言い間違い? というか何を当たり前のことを――アルトゥルは足元の小石を拾い上げ、橋に向かって投げた。綺麗な放物線を描き、欄干の隙間に吸い込まれていく。金属音と共に小さな火花が走るのが見えた、その時だった。
ぐな、と空間が捻れるのを感じた。全てが一瞬のうちだった。橋にたゆたう霧が螺旋に弾け飛ぶ。出でたるは鯰と鰐のあいのこのような醜悪な巨大な頭。よだれを振りまく大きな顎には人のような歯列が備わり、広げたホチキスのように大きなくの字を描いていた。それが轟音と共に噛み合わさって火花が散り、目がくらんで――気付けば橋の上には何事も無かったかのように霧がたゆたうばかり。
「な?」
な? じゃない。そんな一言で済ましてしまっていい状況じゃない。体のあちこちが、電気を流されたカエル筋のように不規則に震えている。海へ出るのは自殺行為。橋を渡るのも自殺行為。くらあと目の前が暗くなる。膝を折る。なら、なら僕は――
「帰れ、ない?」
「帰れるぞ」
物凄い勢いで振り向くと、アルトゥルのきょとんとした目と目が合う。
「ど、どうやって?」
「どうやってって……
太陽は東から昇るとでも言うような調子で言うので、僕もつい、そういえばそうだったと納得しそうになったがちょっと待て。
「港――船――って、この島永久立ち入り禁止じゃ――」
「そんなん国が勝手に言ってるだけだろ。シモンも聞いてねえし、他の誰も聞いちゃちゃいないさ。あの向こうにゃ百四十万から人がいるんだ」
「ひゃっ……!? どこから、どうして……」
「全国から、夢を叶えに。『なんでも叶う』のがここのウリだからな。お前もそのために来たんじゃねえのか?」
僕は
「ぼくがここに来たのは……強いて言うなら観光のためです」
「観光ぉ? そりゃ随分な奇人だな」
「いえ、提案したのはぼくの――知り合いです。あいつは天下一の奇人変人ですよ。ぼくの卒業記念に人が消えるところを見に行こうと言い出して、かくかくしかじかありまして、人が消えるより奇妙で危険なものを色々見てもううんざりなので、ぼくはあいつを殴りにさっさと帰らないといけないんです。港への道を教えて頂けますか?」
アルトゥルは何らかの効果音が出そうなほど力強く、みっちりと詰まったビルとビルの間、傾いた細長い隙間を指差した。
「案内するぞ、シモン」
すっかり僕はシモンらしい。持ち上げられたアルトゥルの口角の先にそれはある。こちらに吹き出してこないのが不思議なほど濃密に詰まった闇が口を開けている。その中に潜む無数の名状しがたい化け物が、こっちにねばつく触手を揺らめかせている様を、確かに見たような気がした。
それは歓迎か、はたまた拒絶か。どちらにせよ僕はあそこに入っていかねばならない。唾を飲む。乾いた喉に引っかかって咳き込む。背中をバシバシとアルトゥルが叩く。人をボンゴか何かとでも思っているのか。
「おいおい大丈夫か~? ここでそんなんなってたら帰る頃にゃ死体だぞ?」
「ぼくぁ死んでも死にませんよ。それよかその能天気な髪の心配でもしといてください」
ジト目で睨んで憎まれ口を叩いてやると、アルトゥルはからからと笑った。
「いいねえ~。俺シモンみてえの好きだわ」
のれんに腕押し、糠に釘。喜怒哀楽どれで返すか迷っているうちに、支えあう傾いた二本のビルが近付いてきて、僕は史上最微妙顔で影の中へと足を踏み入れる。アルトゥルの硬い声が聞こえた。
「覚悟しとけよ……ここのルールは
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