二度目に目覚める時

森本 晃次

第1話 自殺菌

――ここは一体どこなんだろう?

 歩いていたはずなのに、急に空が暗くなったかと思うと、知らない世界に入りこんでいた。今までにも同じようなことがあったような気がするが、そのことを思い出すこともなかったのは、それが夢だったことに気が付いたからだったのだろうか?

――だったら、今も夢の世界なんだろうな――

 と、思ったが、そのことを理解する間もなく、気が付けば、駅のホームで電車を待っていた。

 サラリーマンが寒そうにコートの襟を立て、ホームで待っているのを見ると、出勤時間の通勤ラッシュであることは想像がついた。そろそろ電車が滑りこんでくるのか、一番先頭で頭一つ抜け出す感じで並びの先端を横から見ている駅員が、忙しそうにしていた。

――これだけ多ければ、人に揉まれて誰か一人くらいホームに落っこちたりはしないんだろうか?

 と、いつも考えることを、その日も考えていた。

――やっぱり普段の俺だ――

 と、さっきまで、自分がどこにいるのか分からなかったことすら忘れたかのように、その場に馴染んでいる自分を感じていたこの男、名前を春日昇という普通のサラリーマンだった。

 いつも一つ前の電車に間に合っているのに、後ろから乗り込むのを嫌う昇は、一つ前の電車がまだホームにいる間から、次の電車を待つ体勢に入るので、いつも先頭に並んでいた。

 そして、いつもと同じ光景をその日も目にして、いつもと同じことを考える。

――電車が来ている時に、そのうちに誰かが飛び込むような気がする――

 不謹慎な考えなのだろうが、毎日先頭に並んでいると、そんな妄想を抱かない方が却って不自然だ。

 ただ、その日の昇は普段にも増して、危険な臭いを感じていた。

――何か、生臭さを感じる――

 早朝から雨が降っていて、その時は止んでいるが、湿気を帯びた空気はあまり好きではなかった。生乾きの洗濯物のような臭いを感じる時はまだいいのだが、その日は、鉄分を含んだ気持ち悪い臭いだった。それが血の臭いであることはすぐに気付いたが、どこから血の臭いを連想させるものが存在しているのか、すぐには分からなかった。

――身体が宙に浮いたような気がする――

 その瞬間、自分の中で危険を察知したような気がしたが、それは一瞬のことで、気が付けば、なぜか、自分の身体に歩いていたという感覚が残っていたのだ。

――身体が宙に浮いた感覚が、歩いていたと思わせたのかな?

 と思ったが、それも違うようだ。

 ホームは相変わらずの喧騒とした雰囲気だったが、今にもホームに誰かが落っこちそうになるのを感じたのも久しぶりのことだった。

 駅員が笛を吹いている。ホームにけたたましいベルが流れ、電車がホームに滑り込んでくるのを予感させた。

「お待たせいたしました。まもなく電車が到着いたします。黄色い線の内側に下がってお待ちください」

 といういつものアナウンスが流れたが、その時昇は、自分が黄色い線からどんどん離れているように思えてならなかった。

 動いているわけでもないのにおかしなもので、思わず黄色い線の内側に摺り足で寄っているような錯覚を覚えた。駅員はこっちを見ているのに、何の反応もない。昇の錯覚に違いないようだ。

 いつものように電車の「顔」が見えてくると、またしても身体が宙に浮いているのを感じた。今度は、駅員が笛を吹き鳴らして、手をホームの内側に下がるように必死になって手を振っている。

――俺に対してなんだろうか?

 急に視力が落ちたかのように、すべてのものがぼやけて見える。そのうちに耳鳴りがしてきたかと思うと、女性の悲鳴が聞こえてきた。すべてが他人事に思えてくると、昇は自分がどこにいるのかも分からなくなってきた。まるで、自分の身体から離れて、表に抜け出したかのような感覚だった。


 昇はその日、会社で朝から会議があった。自分が発表しなければいけないこともあり、昨日テーマを纏めるのに、だいぶ夜更かししてしまっていた。

 眠気は覚ましてきたつもりだったが、眠気を覚ましたわけではなく、発表しなければいけないことに対し、気が急いてしまって、緊張から眠れなかったと言った方が正解なのかも知れない。

 部屋でいつものようにコーヒーを飲みながらボーっとテレビを見ていたが、内容が頭に入ってきたわけではない。それでも、いつもはつけているだけのテレビを今日は少しでも意識しようと思っていたのに、どうにもタイミングが悪いというものだ。

 見ようと思って意識してしまうから、却って覚えられないのかも知れない。その思いは学生の頃にあり、最近では忘れていたことだった。学生の頃のように、まわりに気が散ってしまって、一つのことに集中できないと、覚えているつもりでも、実際には忘れてしまっていたりするものだった。

「都合の悪いことは、なかなか覚えていないものだからな」

 と、学生時代に友達に言われたが、

「俺の場合は、都合の悪いことだけを忘れているわけではないからな。意識していなければいけないことも忘れてしまうので、頭の中で繋がっていなければいけないものが繋がっていなかったりして、困ったものなんだ」

 と答えていた。

「それは、何が都合のいいことなのか、都合の悪いことなのかの判断がついていないんじゃないか?」

「そんなことはないと思うんだが、自分のことだからな。でも、忘れてしまうことに何かの共通点があるんじゃないかって思うんだ」

「それはあるかも知れないな。都合のいい悪いというのも、考えてみれば、共通点という認識で考えれば、理屈に合っているような気がする。問題は、その切り口にあるんじゃないかな?」

「切り口という考えは想定していなかったな。共通点の端ばかりを見ていると、切り口の裏側から見ているような気がしてくるな。そういう意味では、切り口というのは、表からしか見えないものなんじゃないかな?」

「そこに忘れてしまうことの根幹があるのかも知れない。覚えられないことと、忘れてしまうことというのを、一緒に考えるから悪いのかも知れない」

「なるほど、表から見ていると、覚えられないと思い、裏から見ると、忘れてしまうと思うのかも知れないな。見る角度や、切り口によって見え方が全然違ってくるというのも納得できることだ」

 テレビを見ながら、そんな話を思い出していた。他愛もない些細な話だったので、余計な意識は持っていなかったが、学生時代の友達の話を思い出すと、急に自分がいろいろ考えていることが、他の人と合わずにいつも一人で結論を見出していたことを思い出していた。

 朝からの会議を気にしていると、忘れてしまったものを思い出せそうな夢を見ていたはずなのに、目が覚めると忘れていたという、今までにも何度か見た夢を、またしても見てしまった自分に腹が立っていた。しかも、会議のことなどのために、せっかく仕事から離れた時間を使わなければいけないことに口惜しさを感じていた。

――どうせ忘れるなら、すべて忘れればいいのに――

 と、感じたのは、その日は、中途半端に意識が残っていたからだった。

 残っていた意識というのは、学生時代に読んだ本の内容だった。

 恋愛小説のようだと思って読み進んでいると、どこか謎解きの小説のようだった。それは別に推理モノのミステリーというわけではなく、精神的な深層心理を抉るような作品だった。ただ、その内容を恋愛というイメージがストーリー全般に流れていて、謎解きは付属のような形で推移していた。

 しかし、謎が解けると、二人の間に流れていた恋愛感情はアッサリと消えてしまっていて、読んでいる自分が、何を信じていいのか分からなくなるほど、不可解な小説だったのだ。

――そういえば、物忘れを気にするようになったのは、小説を読み始めてからだったような気がする――

 確かに本を読んでいると、結構前のストーリーを忘れてしまいそうになったので、小説を読む時は、一気に読むようにしていた。だから、覚えなければいけないことが多くなった社会人になってからは、読書をする機会が一気に減ってしまっていた。

 ただ、物忘れの原因について考えていると、

――余計なことを考えてしまうからなのかも知れないな――

 というのは、いろいろな悪度から自分を見つめ直して気が付いたことだった。特に本を読んでいると想像力が必要以上に働くのか、考えなくてもいいことまで考えてしまっている自分に気が付いた。余計なことが脱線に繋がってしまうと、そこから先は迷走を続けてしまう。

――同じことの繰り返しで続く堂々巡りならいいのだが、少し違う考え方をしていても堂々巡りを繰り返すのだから、厄介なのだ――

 もし同じことを繰り返しているのであれば、却って堂々巡りは意識しないのかも知れない。堂々巡りを意識しないと、知らぬが仏で、意外とスムーズに答えを見つけ出すことができることになるのだろう。

 昇は気に入った小説は何度でも読み返すことにしている。

――一度目よりも二度目、二度目よりも三度目と、今まで気付かなかったことにどんどん気付いていくだろう――

 と思っていたが、どうにも違っているようだ。

 確かに違うことに気付いてはいるが、それは、最初の考えの発展性ではない。むしろ、新しい発見になるのだが、そこに共通点を見出すことはできる。しかし、それは最初の考えを否定しかねないもので、最初の考えと共有できないものであることを悟ると、

――やはり余計なことを考えてしまったのかな?

 と思えてくる。

 最初は、後になればなるほど、考えが深くなっていくように思え、進歩が感じられたが、実際には最初を否定することで、どんどん迷いを深めるようで、気に入らなかった。せっかく鉄壁の布陣で待ち構えているものを、崩してしまう。それはまるで一糸乱れぬ陣形に、何かが入ったために、蜘蛛の子を散らすような状態になるようなものだった。四方八方に散ってしまった意識は、収拾がつかなくなってしまったことを意味している。入ってしまった何かが余計なことなのだが、それをもたらしたのも自分だと思うと、誰に思いをぶちまければいいのか、自分に腹を立てるしかなかった。

 そういえば、散り散りバラバラになってしまったものも、元を正せば、くっつけあわせたものだった。最初から確固たる形で存在しているものなど、自分の意識の中には存在しない。存在すると思っているものこそ、想像の中の世界のものであり、事実よりも理解できるのが分かっているだけに、事実を覚えていられないという意識に繋がっているのだ。

――事実は小説よりも奇なり――

 という言葉があるが、学生時代の昇には、そんなことを言われてもピンと来なかった。就職してからもピンとくるどころか、

――事実というのは、それ以上でもそれ以下でもない――

 という意識に凝り固まってしまっている自分に気が付いた。

 ただそれは、自分の中で、真実と事実というものが混在してしまっているからだった。真実と事実が同じものだという考えでいたとすれば、

――事実はそれ以上でも、それ以下でもない――

 という思いから脱却することはできないだろう。

 真実というものは、事実と違い、すべてのものに当て嵌まるものではない。逆にすべてのものに当て嵌らなければ、事実ではない。納得しなければいけないことが共通点であるならば、すべての人の共通点に当たるものが事実であり、その人それぞれで違うものが、その人の真実だと言えるだろう。事実も真実もその人にとっては疑うべきものではない。共通点と違う部分をいかに理解できるかによって、その人の技量が確かめられると言っても過言ではないだろう。

 最近になって、昇は一つ疑問に感じてきた。

――真実と事実。共通点があるにも関わらず、突き詰めてみると平行線のように、決して交わることのないように思える――

 すべてのものに当て嵌まるものでなければいけない事実と、人それぞれに持っている真実とでは、真実が歩み寄らない限り、事実とは交わることはない。確かに事実の中に真実も含まれているように思えるが、真実はその人にとって曲げることのできないもの。人に押し付けるわけにはいかない。いわゆる次元の違うものに思えてくるのだ。

――次元が違えば交わることはない――

 この理屈が昇に一つの考えを与えた。

――事実だけを見ていると、真実を見極めることはできない――

 という結論に達した。これは、自分で達したというよりも、何かに導かれたような気がして仕方がない。なぜなら、この考えは、どこかで聞いたことがあるような気がするからだ。

 それでも、考え方が間違っているような気はしてこない。何度でも同じ小説を読み返すのも、この思いがあるからだろう。難しいことはさておき、余計なことを考えないようにすることが大切だという思いに達していた。

――今日は、また理論的に考えてしまったな――

 少し反省をしていた。

 それは家を出る時から考えていたことで、道を歩きながら、余計なことを考えないようにしようと思っていたはずなのに、気が付けば駅に着いていた。しかも、ホームで電車を待っている時にですら、

――今まで歩いていたはずなのに――

 という一足飛びの発想が脳裏を巡るのだった。

 そういえば、昨日の夜から、少し気になる小説を読み始めた。

 ミステリーでありながら、深層心理を抉っている話に感動したのもそうなのだが、描写はその場面場面でも、鬼気迫るものを感じさせられた。特に自殺志願者が、自殺をする前に考えていたことをまるで自叙伝のように語っている件は圧巻だった。そこが、まえがきになっていて、小説が進んでいく。

 今まで自殺に対して感じていた思いが少し変わっていたような気がする。

「自殺するのは、その人が弱いからだ」

 確かに同情すべきところはあっても、結局は本人の問題だという意識があった。

 その考えは間違ってはいないだろう。しかし、それは自殺というものを一つの形としてしか判断しない場合である。自殺するにはいろいろな理由があるが、それと同じくらいに自殺する時の心境にも違いがある。中には自分の意志に関係なく死んでしまった人もいるのではないかというのが、この小説の話であった。

「私は、死ぬつもりなど毛頭なかったのに、死んでしまった」

 ここから始まる話は、その人が死後の世界に到達する前のところから始まっていた。

「あなたは、自殺したことになっている」

 と、言われた時、主人公はビックリしてしまった。もし、その通りの自殺だということになるのと、誰かに殺されたり、事故だったりするのであれば、そこから進む世界は自ずと変わってくる。それこそ、

――天国と地獄――

 の違いとなるのだ。

「自殺というのは、自分を殺したことになるので、それは犯罪と同じなの」

 と言われた。

「私は、どうして死んだのか、自分でも分からないんです。確かに、自殺したいという思いがなかったと言えばウソになるけど、本当に自分から命を断ったのであれば、今でも感情を持っているような気がするのに、今は自分の状況を知りたいと思うのに精いっぱいなんです」

 相手は黙っている。

「あなたのその気持ちが本当だとすると、どうやら、あなたは自分の意志で死を選んだというわけではないようですね」

「どういうことですか?」

「自殺するには、それなりの理由があってしかるべきなのに、あなたを見ていると、そこまでの理由が見当たらない。あなたの生前を見ていてもそうだ。性格的にも、自殺するだけの勇気も感じられない」

 褒められているのか、けなされているのか分からないが、主人公にとって、今後を左右する重要なジャッジメントは、すでに行われているのだった。

「気が付いたら、死んでいたって、そんな感じなんです」

「そうですか。あなたは、誰かに殺されたわけでも、事故でもない。だけど、そのどちらの性質も兼ね備えた形で死に至ったんでしょうね」

「それはどういうことなんですか?」

「あなたのその弱気になった気持ちが、病気を呼んだんですよ」

「病気?」

「そう、病原菌ですね。自殺する気持ちになってしまう、いわば『自殺菌』とでもいうんでしょうか。そういう意味では一過性の心の病です」

「それで私は自らの命を? だったら自殺になるんですか?」

「いいえ、自殺ではないですね。病原菌にやられたという意味で、病死になります。ただ、あなたの場合は、天国に行くわけにはいかない。あなたには、これからもう一度ジャッジメントを受ける必要がある」

「それはどういうことでしょう?」

「あなたは、もう一度、現世に戻らなければいけないんですよ」

「生まれ変わるということですか?」

「ええ、でも、普通に生まれ変わるわけではありません。死んだ状態のその瞬間から、もう一度人生を続けることになります。だからやり直すわけではなく、『生き直す』というべきなんです」

「じゃあ、またこのまま現世に戻れると?」

「いいえ、あなたの性格はそのままなんですが、意識や記憶はリセットされます。つまり記憶喪失のまま、現世に戻る形です。しかも、絶対によみがえることのない意識や記憶、それがあなたには、ずっと付き纏うことになります」

「そんな恐ろしい……。運命の悪戯としても、残酷ではないですか?」

「そうでなければ、あなたは、霊となって、現世を永遠に彷徨うことになりますが、それでもいいんですか?」

「そのどちらかしかないんですね?」

「ええ」

 ここから、ストーリーは展開されることになる。

 昇は、その小説をそこまで読んだところで、昨夜は眠りに就いた。

――夢の中の出来事なのか、小説の中の出来事なのか、頭が混乱してきたな――

 と感じていた。

 確かに寝る時に、どこまで読んだのか、自覚しているつもりでいた。しかし、実際に目が覚めてみると、小説のイメージが生々しく、自分が読んだと思っているところよりも、少し先に進んでいるような気がした。

 明らかに夢を見たことを示唆しているように思える。

 夢の内容は、当然小説の続きだった。

 昇は小説を読みながら、自分に共感できるところがあると思っていた。特に自殺した人が自分の意志ではなく、「自殺菌」なる病原菌に侵されたことで、死を選んでしまうという悲劇は、小説を読む前の昇の中に存在していた意識だったような気がする。

 時々、昇は頭の中で、

――自分の意識ではないものが発想として浮かんでくることがある――

 と思っていた。自分の意識にない発想が、勝手に独り歩きを始め、自分を納得させようと画策している。つまりは、勝手に自分を納得させるために、自分の知らない意識が動いているということだ。

――誰が何のために?

 画策した人にとって、昇が納得することで、一体何を得ようというのだろうか? 何か得になることでもなければ、まったく意味のないことである。意味のないことに対して、いくら自分の意志ではないとはいえ、納得できるはずはないであろう。

 そんなことを考えていると、

――俺って、死んだのかな?

 と思うようになっていた。

 死んだとすれば、自殺ではないことは確かだ。自殺するだけの理由も勇気もなかった。

――自殺するのに勇気がいるというが、生きていくことにも勇気がいる。死んだ気になれば、何でもできるというではないか――

 ありきたりの発想だった。だが、自分の考えがハッキリとせず、考えが彷徨っている中での発想なんて、ありきたりなもの以外にありえるのだろうか?

 とにかくその時昇は夢を見ていたのだ。

 見ていた夢は、自分が死んでしまったということを前提に繰り広げられた。その時に、死んだという事実よりも、死ぬことになった理由の方が重要だった。

 それは、「事実」よりも「真実」を求めていることを意味していた。逆に言えば、「真実」を見極めることで、「事実」も変わってくるのかも知れないという思いがあった。なぜなら、自分の中で今見ているのが夢であるという確信めいたものがあったからだ。

――夢の中にも「事実」と呼べるものがあるのだろうか?

 と考えてみたが、夢の中での「事実」が、現実世界の「真実」に繋がるのかも知れない。「真実」と「事実」が交わることのない平行線だということになると、現実世界と夢の中の世界も、交わることのない平行線だということになる。最初はその発想を逆に考えていたが、こうなってくると、

――逆も真なり――

 別の方向から見ても同じ発想になるのであれば、それこそ自分の中の「真実」と言えるのではないだろうか。

 自分に死が訪れる予感があったとすれば、ホームから電車が滑りこんでくるのを見た時だった。

 黄色い線よりも線路側に今までは入ったことがない。

――黄色い線が、「真実」と「事実」を隔てる線だというのは、考えすぎなのだろうか――

 もし気分が悪くなり、フラッと前に出てしまった時、運悪く電車が滑りこんでくるのを想像すると、

――最初から、その日は自分の死を覚悟していたような気がする――

 と、今まさに電車と激突するシーンは、前から想像していたかのように思えてくるのであった。

 足元がふらついた瞬間、

――あっ、やっぱり――

 と、思うのだろうか?

 最初から分かっていたように思うのは錯覚のはずなのに、起こってしまったことは、偶然ではないということを意識させることに、何の意味があるというのだろうか? しいて言えば、そこには自分が死を覚悟はしていても、自殺などではないという思いを持たせるために必要なことだというのだろうか。死を覚悟していても、自殺ではないという思いが強ければ、もし死にたくなっても、それは自殺ではないと自分に言い聞かせることができるからだと思えてきた。

――どうして、そんなに自殺にこだわるんだろう?

 どうせ死ぬなら、自殺だろうが何だろうが関係ないような気がする。

 死ぬことの理由にこだわるのは、読んだ本の内容を意識しているからなのかも知れない。寝る前に本を読みながら、自分に当て嵌めて読んでいたので、夢にも出てくるのだし、死ぬことの理由にこだわってしまうのかも知れない。もっとも、どんな本であっても、読みながら自分に当て嵌めてしまうのは、今に始まったことではない。本を選んだ時から、夢を見ることや、死ぬことの理由にこだわることは、分かっていたことなのだろう。

 まだ読み始めて最初の方であったが、中途半端なところで読むのをやめたという意識はない。いくら寝る前で眠かったとしても、中途半端なところで止めてしまうと、気になってしまうのは分かっていることだ。

 ということは、ある程度、理解できるところまでは読んでいたに違いない。それでも、気になって夢に見るということは、その内容がよほど自分の中で理解できないことなのであろうか、それとも、読んでいたということを忘れてしまうほど、衝撃的なことなのだろうか。

 もし、後者であるとするならば、自分の考えとかけ離れているから衝撃的だというよりも、その逆で、自分の考えにあまりにも似ているほどの気持ち悪さが、衝撃的なこととして自分の中に残ってしまったことで、中途半端な気持ちのまま消化できない気持ちが悶々としたまま夢を見させたのかも知れない。

 どちらにしても昇には、意識の中に、自分のものではない何かが潜んでいるように思えて気持ち悪いと思っている。

 電車を待っていて、余計なことを考えてしまったことで、いつの間にか気を失ってしまい、気が付けば経ってしまった時間がどこに行ってしまったのか、また同じ場面に戻っていたのである。

――今日、何度目になるんだろう? 電車が滑りこんでくる光景を見るのは――

 と、駅員がこちらに向かって合図する姿を遠くに見ながら、滑りこんでくる電車のスピードが、最初に比べて速くなってきていることに昇は気が付いていた。

――スピードが速くなってきているというよりも、あっという間に目の前に電車が来ていたと言った方が正解なのかも知れない――

 コマ送りのように、一瞬電車の動きが止まったかと思うと、次の瞬間には、半分くらいまで来ていて、同じようにまた動きが止まると、目の前に電車の顔が迫っていた。瞬きをしたわけでもないのに、まるで瞬きの瞬間、時間のコマがいくつか飛んでしまったかのようだったのだ。

 コマ送りの映像が目の前を駆け抜けた時、さらに思い出したのが、中学の頃の記憶だった。

 あの時も同じくホームに電車が滑りこんでくる光景だったと思う。もちろん、同じホームだったというわけではなく、まわりの光景も目の前の光景も、記憶とは隔たりがあった。少なくとも、ラッシュ時のホームだったという記憶ではない。

 あの時は逆に、ホームで待っている人はいなかったような記憶がある。まったくいなかったわけではないのだろうが、誰も、黄色い線に沿って待っていたわけではなく、昇の視界に人が入ってこなかっただけのことであった。

 その時、風が吹いていたのを覚えている。吹いてきた風に煽られて、そのままホームに落ちてしまうのではないかという錯覚から、足元がふらついた。しかし、そんな思いをしたのは、その時だけで、今も昔も、黄色い線ギリギリに立つようにしている。なぜ、その時だけビビッてしまったのか、しばらくビビッていたことすら、忘れてしまっていたくらいだった。

 その時は、それまでの自分と違った感覚を持っていた。だから、見えないものまで見えていたのではないかというのが、今の気持ちである。それは、今の自分が普段とは違った感覚を持っていて、しかもそれは初めてではなかったことを示している。

 あの時に感じた思いは、

――小さいものが次第に大きくなって見えてくる――

 という、いわゆる「見た目そのまま」の意識だった。人間には遠近感があるので、近づいてくるという感覚を持つことができる。しかし、遠近感を感じなければ、大きさだけが残像として残ってしまい、立体感ではなく、平面的にしか見えていないことを悟るしかないのだ。

 中学の頃にも、平面的にしか見えていないという意識はあった。しかし、それが何を意味しているかなど、考えるつもりもなかった。その時に見えた感覚は、ただの勉強疲れのようなものだと自分に言い聞かせていた。ちょうど前の日も受験勉強で睡眠時間をだいぶ削っていたこともあって、疲れからだということにすれば、自分を納得させるには十分だった。

 一度納得してしまうと、後から理屈を考えるのは気が楽だった。いくらでも理屈を組み立てることができる。組み立てた理屈は、今度は気持ちの余裕に繋がってくるのが分かったからだ。

 その日にあったことを、しばらくの間忘れていた。その日の昼間、学校に行くと、友達が一人遅刻してきた。今までに遅刻などしたことのないやつだったので、少し気になったこともあり、

「どうして遅刻したんだい?」

 と聞いてみると、

「俺が悪いんだけど、いつも乗る電車と違う電車に間違って乗ってしまったんだ」

「どういうことだい?」

「間違って急行に乗ってしまったんだ。慌てて引き返してきたんだが、結局遅刻することになったんだ」

 急行電車に乗り間違えるなど、普通なら考えにくいことだった。なぜなら、自分たちが通学で使っている電車は、各駅停車と急行電車、特急電車とでは、電車の下部の色が違っている。各駅停車は青なのだが、急行電車と特急電車は赤い色なのだ。普通に見れば、乗り間違えることはない。自分たちの学校の最寄りの駅には、各駅停車しか止まらない。つまり、急行に乗ったということは、その時点で遅刻は免れなかったのだ。

「慌ててたのかい?」

「いつもより家を出るのが遅くなって、ギリギリに駅に着いて、ちょうど、目の前に入ってきた電車に乗ったんだけど、確かに俺は青い電車に乗ったと思ったんだ。でも、実際は急行電車で、おかげで二つ先の駅まで連れて行かれたよ」

「時間は?」

「時間も見計らって乗ったはずだったんだけど、電車が遅れていたのか、どうやら、一本前の電車だったようだ」

 自分の通学時間の出来事に比べれば、友達が電車に乗り間違えたということは、些細なことだった。他人事なのだから、些細なことだと思うのも当然であろう。しかも、同じ通勤時間でも、お互いの時間に共通性はない。それぞれに違った出来事だとして考えるのも無理のないことだった。

 しかし、今その時のことを思い出すと、どこかでこの二つの出来事が繋がっているかのように思えてならなかった。それは、今自分の意識が交錯してしまっているからだった。

――遅刻したというのは、本当は俺のことだったんじゃないかな?

 目の前に滑り込んできた電車を見た時、最初は青い部分が見えたのが分かっていたが、次第に大きくなってくるのを感じると、大きすぎて、下部にまで目が行き届いていなかったように思う。

――本当に各駅停車だったのか?

 と、言われれば、確認して電車に乗った意識はない。

 それよりも、乗った電車の車内が、いつもと雰囲気が違っているのに、乗った瞬間気が付いた。いつもであれば、学生ばかりの車両に、乗りこんでみるとほとんどがネクタイにスーツ姿のサラリーマン。思わずカルチャーショックを感じてしまった。

 まさか乗り間違えたなどという意識はないので、車内の異様な雰囲気に飲まれることはなかったが、さすがにいつも降りる駅に近づいてもスピードを緩めることのない電車に、自分が間違えて乗ってしまったことを自覚せずにはいられなかった。

 あっという間にホームを駆け抜けてしまった車窓からの景色に、昇はあっけにとられながら、遅刻するかも知れない状況で、すでに諦めの境地に入っている自分を感じていた。

――まあ、しょうがないか――

 いつもなら、もっと慌てそうなものだったが、

――自分で間違えたんだからしょうがないよな――

 と、潔さもあった。

 その時に頭を過ぎったのは、電車がホームに入ってくる時に見た「平面的」な感覚だった。その時に普段と違ったという思いを抱いたことが、自分の中での潔さを生んだのではないかと思うと、どこか納得できるところがあった。

 自分で自分を納得させなくても納得できる状況が用意されていたというのは、今までの中でも稀なことだった。

 中学時代のあの日、もし電車に乗り間違えていなければ、どうなっていたかなどということを考えたことはなかった。普段と変わりない生活が待っているだけで、たまたまその時乗り間違えただけのことで済ませればいいことだった。しかし、その時、

――俺に何をさせようというのだろう?

 という思いを抱いていれば、違った人生を歩めたかも知れない。少なくとも、十年後に感じることを、その時に感じることになったのではないかと思うと、自分の中に十年という周期の堂々巡りが存在しているのではないかと思わせるのだった。

 昇は今年、二十五歳になるが、それまでに彼女がいた時期はあまり多くなかった。特に社会人になって仕事が忙しかったことで、

――彼女ができなくても、仕事が忙しいんだから仕方がない――

 と、自分を納得させていたが、半分は言い訳だということは、自分でも分かっていた。

 しかし、できないものは仕方がない。出会いもないし、どうやって出会えばいいのか、よく分からなかった。

 社内恋愛だけには気を付けていた。実際に会社内で付き合いたいと思えるほどの女性がいるわけではなく、変に妥協して社内恋愛に入っても、ロクなことにはならないような気がしていたのだ。

 ただ、そんな昇だったが、最近一人気になる女の子がいた。途中入社で入ってきたアルバイトの女の子なのだが、彼女は昇より二歳年上だった。同じ部署でも直属というわけではなかったので最初は意識もしていなかったが、一度、駅のホームで声を掛けられて振り返った時に見た彼女の顔が気になってしまった。

 彼女を会社の外で見かけたのはその時だけだったのだが、その時から駅のホームに特別な感情を抱くようになっていたのだ。

 滑りこんでくる電車を見て中学時代を思い出したのも、別に不思議なことではない。毎日同じ光景を見ているので、少しでも違っていれば、敏感に感じるものだ。滑りこんでくる電車のスピードが少しでも違っていたり、ホームに並んでいる人の数がいつもより少しでも多かったり少なかったりしただけで、かなり違って感じるのだから、微妙という言葉がこの場合通用するのか疑問に思うほどだった。

 その日、仕事は定時に終わり、駅に着いた頃は、まだ暗くはなっていなかった。ホームには帰宅ラッシュのサラリーマンでごった返している。昇は何も意識することもなく、いつものようにホーム最前列で電車を待っていたが、後ろから声を掛けられた。

「あの、博さん?」

 最初、声を掛けられた時、自分の名前ではなかったので、まったく意識していなかった昇だったが、ふと振り返ると、そこには自分の顔を覗きこむようにしている一人の女性がいた。

「えっ?」

 思わず、ビックリした素振りを見せたが、そこに立っている人の姿に見覚えがあるように感じたからだった。しかし、落ち着いてみると、まったく見たこともない女性であり、驚いてしまった自分が恥かしく、引っ込みが付かないことで、バツの悪さを感じていた。そんな昇に彼女もビックリした様子で、声を掛けたことを後悔したのか、彼女も引っ込みが付かないかのように、モジモジし始めていた。

 その様子を見て、滑稽に感じた昇は、思わず吹き出しそうになった自分を抑えるのに必死だったが、今度はそんな自分を可愛く感じ、思わず微笑ましい表情になった。

 相手の女性に、その時の昇の笑顔の意味が分かるはずもなく、笑顔を見せた昇につられたのか、彼女も笑顔を見せた。

――思ったよりも、馴染めそうな笑顔だな――

 違和感よりも、好感度の方が強くなった。ただ、そうなると、彼女が最初に声を掛けてきた間違えたであろう相手の男性が気になった。

「どなたかとお間違えになったのでしょうか?」

「ええ、どうやらそのようです。申し訳ありません」

 普通なら、ここで、

「失礼します」

 と言って終わるのだろうが、彼女の表情を見ていると、まだ終わるような気がしなかった。とはいえ、これ以上彼女に余計なことを聞くのは、立ち入ったことになりそうで、少し戸惑ってしまった。彼女の方も、最初に自分が間違えた手前、自分から話を続けるのは不自然だと思ったのだろう。少し考え込んでいた。

 彼女の表情を見ていると、今は余裕を持っているように見えたが、最初に感じた戸惑いは、余裕をすぐに取り戻せるような雰囲気を感じさせないほど、切羽詰ったものを感じさせた。それはまるで、自分を見る目が幽霊でも見ているかのようにも見え、戸惑いはそこから来ているのだと思うと、今の余裕がどこから来ているのかに今度は興味を持つようになった。

――このままここで「さよなら」したくはないな――

 と思った昇は、

「間違えた人というのは、僕に似ているんですか?」

 立ち入ったことであるかも知れないが、この時に彼女が内に籠るような戸惑いを見せれば、それ以上の会話はできないことを意味している。試してみる価値はあると思った。

「いいえ、似ているわけではないんです。私もどうしてさっき声を掛けてしまったのか、自分でも分からないんですよ。後姿が似ていたのかも知れませんね」

 と言ったが、最初の言葉にウソはなかったように思う。

 だが、そうであるとすれば、最後の一言は少し不自然な感じがする。まるで、取ってつけたような言葉の結びに、最後の一言への信憑性は一気になくなっていった。

 ということは、彼女は博という男と、昇を本当に間違えたわけではないようだ。思わず声を掛けてしまったというのが本音なのかも知れない。

――駅のホームというのは、意識をどこかに飛ばすそんな雰囲気を持った場所なのかも知れない――

 と、昇は感じた。

「実は私、以前にこのホームで電車を待っていて、来た電車に乗ったんですが、各駅停車に乗るつもりで、急行に乗ってしまったことがあったんですよ。普段なら絶対にしない間違いなんですけど、その時はどうかしていたんでしょうね」

 昇はそれを聞くと、ビックリした。

 そのビックリは、彼女も自分の学生時代と同じような経験をしたことがあるというものと、もう一つは、自分が駅のホームに対して意識が飛んでしまうのではないかという思いを抱いた瞬間に、彼女がビックリするようなことを口にしたということは、まるで昇の気持ちを察しているからなのではないかと思えるところがあったからだ。同じような経験をしたというよりも、むしろ自分の気持ちを見透かされているのではないかと思うことの方が印象に残ってしまった。

――こっちの方が稀なはずなのに――

 と感じているにも関わらずである。

「また、あなたとは会えそうな気がする」

 というと、

「今までにも実は何度も見掛けているのかも知れませんね。これだけ人が多いので、気付かなかっただけで、でも、ゆっくりお話してみたい気がします」

 その日は彼女に用事があるということで別れたのだが、近い将来会えることは間違いないと思っている昇の心境は、紳士的になっていた。

「せめてお名前だけでも」

 と、昇がいうと、

「香坂ゆりかと言います」

「ゆりかさんですね。いいお名前です」

 ゆりかという名前の人に知り合いはいなかったが、それだけに新鮮だった。会社の外で出会ったことで、それまでの自分と違う自分が発見できそうな気がして、少し嬉しく思う昇だった。

 ゆりかと別れて、少しウキウキした気分になった昇は、そのまま電車に乗るのが何となくもったいない気がして、踵を返して、駅から表に出てきた。お腹が減っているのも事実だったので、何かを食べて帰ろうと思ったのだ。

 どうせ部屋に帰っても一人なだけだ。普段はそれでもいいと思っていたのだが、その日は久しぶりに部屋で一人になることがもったいなく感じられた。ただ、どこに行っても一人であることには違いないが、少しでも普段と雰囲気を変えてみたいそんな日だってあるのだった。

 駅を出ると、会社とは反対方向に歩き始めた。駅のロータリーを抜けると、その向こうの大通りは、河川敷に面していた。会社のある駅は、各駅停車しか止まらない駅ではあるが、それでも、乗降客は少なくはない。会社がたくさんあるわけではないが、バスに乗っていく距離のところに住宅地があり、都会への通勤通学にはちょうどいい距離ということもあって、駅前は結構整備されていた。

 河川敷も遊歩道になっていて、日が暮れても街灯が明るいので、散歩している人も少なくないと聞いていた。まだ日が暮れると寒さが残っているが、それでも散歩やジョギングしている人はいるようで、歩いてみると、何人もとすれ違った。

 ちょうど、風がなくなっていて、寒さを感じることはなかったのもありがたかった。しばらく河川敷を歩いてから大通りに抜けると、その奥にある飲み屋街が見えてきた。

 風がなく、寒さを感じないとはいえ、飲み屋街からの香ばしい香りは鼻だけではなく、全身をブルッと震わせる効果があった。

 引き寄せられるように飲み屋街に入り込むと、今度は匂いよりも、赤提灯のような明るさが目立つのを感じた。

――夜になると、色ってハッキリと見えるんだ――

 前から感じていたことのはずだったのに、その時、今さらながらに感じたのだった。

 赤提灯の赤い色をじっと見ていると、一瞬字がぼやけて見えてきたように感じたが、すぐにクッキリと見えて、それからもうぼやけることはなかった。その日は、会社を出るまで結構疲れていたはずなのに、完全に日が暮れてしまうと、それまでの疲れがウソのように、

――これから、新しい一日が始まるような感じがする――

 と思えるほど、疲れはどこかに飛んでいっていた。

 ただ、初めて来たはずなのに、どこか懐かしさが感じられ、ゆっくりと人通りもまばらな飲み屋横丁を歩いてみた。

「だ~れだ?」

 後ろから、声がしたのと同時に、暖かい手の平が後ろから昇の目を塞いだ。こんな茶目っ気のある「遊び」は小学生以来のことで、一瞬戸惑ってしまったが、悪い気はしなかった。ちょうど、歩いている横丁に、小学生の頃出掛けていった縁日を思い起され、想像の延長とも思えるような演出も、楽しみに感じられた。

 声に聞き覚えはあったが、誰なのか、すぐに想像がつかなかった。なぜなら、頭は完全に過去に舞い戻っていて、小学生の頃に一気に遡ったかと思うと、今度はゆっくりと時間を進めていく。

 中学生から高校生になっていくが、一向に立ち止まることはない。自分の思い過ごしであったかと思っていたその時、

「私ですよ」

 と言って、昇の胸に手の平を置いた。それで相手が誰なのか分かったのだ。

「綾ちゃん?」

 会社で二歳年上の、最近気になっているアルバイトの女性だった。入社が自分の方が先で、相手がアルバイトということもあり、親しみを込めて、

「綾ちゃん」

 と呼んでいたが、雰囲気もお茶目で、とても二つ年上などとは思えないほどの幼さに、ちゃん付けで呼ぶことに、違和感はなかった。

 綾は、抑えていた目から手を離すと、昇の正面に姿を見せた。普段の会社での雰囲気とほとんど変わらない様子に、安心感を持った昇だが、綾の屈託のない笑顔には、いつも癒されていることを、今さらながらに思い知った気がした。

「珍しいですね。春日さん。今日は一人で呑んで帰るつもりだったんですか?」

「駅まで行ってみたんだけど、急にこのまま帰るのがもったいないと思ってね。今までにはあまりなかったことだけどね」

 と口では言ったが、そういえば、以前にも一度、仕事が終わってまっすぐに帰る気にならずに、ここにフラリとやってきたことがあった。その時に一緒に飲んだ人と気が合って、もう一度一緒に飲みたいと思い、何度か来てみたが、その人と出会うことはなかった。相手の素性も何も聞いておらず、

――ここに来れば会える気がする――

 という根拠のない考えだったが、信憑性がなかったわけではない。それでもやはり会うことができなかったのは、きっと彼の方に何か事情ができたのではないかと、勝手に思っていた。

 それが今から三か月前くらいだっただろう。今から思い出せば、三か月くらい前だというのが妥当な感じがしていたが、思い出した瞬間は、まるで数年前くらいの出来事のように思えた。それだけ自分の中で忘れていたことなのか、それとも、その時だけが異常な数日だったというのだろうか。今まで、その数日がなければ、毎日を何も感じずに、ただ一日が平和に終わってくれればいいという程度の考えで日々を過ごしてきたことで、少しでも張りのある数日間というものが、自分の今までの生活の中で、特殊な日々だったのだろう。

 そんな日々を特別に感じてしまうと、いつのことだったのかという感覚がマヒしてしまう。それは、ずっと近くを見ていて急に遠くを見た時に感じる遠近感を失ったような感覚に似ているのかも知れない。

 ただ、それが最近よく感じる、電車を待っていて、ホームに滑り込んでくる電車の姿が、まるでコマ送りのように見える瞬間を想像させるものであることを、その時はまだ気が付いていなかった。

 そして、そのコマ送りの原因が、もっと恐ろしいことに端を発していることにも気付いていない。普段感じたことのない思い、いや、感じたことがあったのかも知れないが、一瞬にして否定してしまった思いがそこにはあるのかも知れない。

 昇は、その日、駅を離れたのは、

――今日はこのまま帰るのがもったいない――

 という思いだけだと感じていたが、本当は何かの予感めいたものがあったということに気が付かずにいた。その予感めいたものが、人との出会いというだけではないことが、気が付かなかった理由の一つになっていたのかも知れない。

「せっかく会ったんですから、ご一緒しませんか?」

 思いもよらぬ誘いに、笑顔を隠すことのできない昇は、

「ええ、いいですよ」

 と、願ったり叶ったりの思いを隠そうとはしなかった。

「この近くに私の知っているお店があるので、行きましょう。バーのような雰囲気なんですが、落ち着いて飲めるし、食事もなかなかですよ」

 バーというと、今までに一度も入ったことがない。一人で気軽に行ける店もあるという話を聞いたことがあったが、今までは焼き鳥屋か、炉端焼き屋が性に合っていると思っていたのだ。

 綾は、昇の手を引いて、まるで引っ張るように歩いた。

――別に店が逃げるなんてことあるわけないのに――

 と、彼女の態度に少し驚いたが、どこか微笑ましさを感じ、手を引っ張られるのも悪くないと思っていた。

 綾が連れてきた店は、少し奥まったところにあったので、まるで隠れ家のような店を自分の馴染みにしてみたいと思っていた昇としては、これも願ったり叶ったりで、嬉しく感じていた。まわりはスナックが多い中で、知らない人は、ここもスナックではないかと感じるだろうと思うと、最初からバーだと思っている自分は、何か得したような気がしてくるから面白かった。

 店の扉を開けると、足元に一瞬寒気を感じ、思わず足元を見下ろしたが、白い煙が抜け出したように思えた。

――まるでドライアイスのようだ――

 と、感じたが、それも一瞬で、すぐに暖かさが戻ってきた。

 暖かさが戻ってくると、最初に感じた寒気は、足元ではなく、背筋に感じたものだったことに気付くと、足元の煙が何だったのか、考えてしまった。

「どうしたの?」

 いつまでも足元を見つめている昇に対し、きょとんとした表情を向ける綾、その顔にはあどけなさが残っており、

――この表情を、俺は好きになったんだっけ?

 と、今さらながらに、綾が気になった時のことを思い出していた。

 元々、綾のことが気になったのは、綾が仕事にも慣れてきた頃のことだった。それまで綾のことを年上だということで遠慮していたが、駅で声を掛けられた時に見せた表情に屈託がなかったことで、意識し始めたのだ。

――会社の中と、外とでは、こんなにも違うんだ――

 今までなら、会社と外で違う雰囲気の人はあまり好きになれないと思っていたが、綾は別だった。いや、本当は会社と外とでの違いを意識する必要などなかったことを、綾から教えられるまでもなく分かっていたのかも知れない。それでも、綾から教えてもらったと思うことで、綾に対しての感情を深めることができるのであれば、それはありがたいことだった。

 ただ、駅のホームで見たあどけない表情の綾のことが気になったのだとずっと思ってきたが、実はそうではなかった。本当に気になっていたのは、会社の中にいる綾のことで、その思いがあるからこそ、社内恋愛について考えてしまう自分を気にしていたのだった。

 会社内での綾は、いつも毅然としていた。最初はあまり表情を変えないのは緊張からなのだろうと思っていたが、そうではなかった。二か月経っても三か月経っても、仕事に慣れてきていたのがハッキリと分かっている綾だったのに、雰囲気もまわりに対する態度も変わることはなかった。

――他の人は綾をどう見ているのだろう?

 と、他の人の目を意識したことがあったが、それは取り越し苦労だった。他の人は綾のことなど眼中にないようだ。特に、自分のことだけに精一杯の人ほど、綾を意識することはなかった。逆に意識させないことが、まわりに対していいことなのかも知れないと思えるほど、綾は表情を変えなかった。

 あどけない表情も悪くはないが、ポーカーフェイスの綾を、昇は最初に好きになったのだ。

 だが、その時のことを思い出そうとすると、どうも霧が掛かったかのように、ぼやけてしまうのは、その印象もだいぶ前に感じたことのように思うからだろうか。今回は、前のことのように思えるだけではなく、違った目線から見ているように思えてならない。その思いは身長が高いはずの自分が、女性を同等の高さで見ているほど背が低くなったかのような錯覚を感じたからである。これは完全なる違和感であった。

 会社でしか見たことのない綾だったが、外で見ると、また違った趣がある。会社ではここまで無表情ではないと思っていただけに、表で見せるこの表情は、女性では珍しい凛々しさを思わせた。

 あどけなさを感じさせたり、凛々しさを感じさせたりと、綾は不思議な女性だった。本当に同一人物なのかと思わせるほどの表情の違いに、どちらも前から知っていた表情に思えたのだった。

 綾に対して凛々しさを感じている今、昇は普段の自分ではないような気がしていた。普段なら、バーなどに立ち寄ると、その雰囲気だけに飲まれてしまうほど、普段から立ち寄らないところに近づくのは苦手だった。しかし、その日は普段とは違い、バーの雰囲気に懐かしさを感じるほどだった。

 懐かしさと言っても、かなり以前に感じたものではなく、最近感じたかのように思えたもので、その時のことを思い出そうとすると、またしても、霧が掛かったかのようにおぼろげにしか思い出すことができないようだった。

 その記憶が自分にあったものではないように感じたのは、バーの中に、自分が知っている人がいたからだ。その人は一人で呑んでいたのだが、昇に対してまったく反応を起こさない。

 気が付いていないわけではない。目線が合って、お互いに見つめ合ったのにである。親友というほどでもないが、顔を合わせて無視するほどの水臭い間柄ではない。昇は自分が金縛りに遭ってしまって身体が動かないのを感じていたにも関わらず、相手は身体が軽そうに見えた。にこやかな表情を見ればそのことは分かりそうなもので、その人がこちらに気付いていないのか、謎であった。

――自分のさらに向こうを見ているようだ――

 まるで昇の身体が透けているのかも知れない。その存在を意識することもなく、顔を確認できたわけでもない。ひょっとすると、それまで意識の外にいた綾を最初に意識したのは、その時だったのかも知れない。

 昇は、自分がそれまで意識していなかった人を急に意識し始めることがあった。それは何かのきっかけがあったからなのだろうが、いつも気が付けば意識するようになっていたという思いだけが残っているだけで、いつから意識し始めたのか、そのターニングポイントを感じることはなかった。

――ちょっともったいない気がするな――

 だから、忘れっぽいのかも知れない。

 昇は、特に最近、自分が忘れっぽくなっていることに気が付いた。しかも気が付いたのが最近というだけで、どうやら、本当はもっと前から忘れっぽくなっていたようだったのだ。

 そんな大事なことにも気付かないほど、何かに集中していたというわけではない。どちらかというと、マンネリ化した毎日を、やり過ごしているだけだった。マンネリ化する毎日をやり過ごしていると、気が付けば日にちというのはあっという間に過ぎていた。

 そのくせ一日一日には同じ時間のはずなのに、感覚差があって、あっという間に過ぎた時があるかと思えば、なかなか終わってくれない日もあった。別に意識させる何かがあった時になかなか一日が終わらないというわけではない。むしろ、何かがあった時の方があっという間だったりすることが多かった。次の日に影響を与える何かであればまた違っているのだろうが、今のところ、その日で完結することしか昇の中で起きていない。

――本当にそうなのかな?

 二十五歳という年齢であれば、日をまたぐような何かがいくつかはあってもしかるべきだと思っているのに、記憶の中では、すべてが、その日完結することばかりだった。毎日をマンネリ化しているように感じるのはそのせいで、

――少し自分の人生を変えてやろう――

 という意識を持ち始めているのも事実で、

――では、一体何をすればいいというのだ?

 という自問自答を繰り返しても、自分の中から新しい発想はなかなか生まれてこなかった。

 しょせんは他力本願であった。

 自分から何かをしようと思いさえすれば、やりたいことはいくらでも思いつきそうなのに、それを感じないのは、やはり、仕事中心に物事を考えてしまうからだろう。仕事を中心に考えて、仕事を理由にやりたいことで人に迷惑を掛けたくないという思いを抱いているからなのだが、それが言い訳にしか過ぎないということを分かっていながら、それでも踏み切ることができない。

――やっぱり、高校の時に、あんなわがままを言ったからかな?

 演劇部に入っていたのだが、いずれは自分で脚本を書きたいと思っていたのに、先にライバルの脚本が採用され、自分に割り当てられた役が、承服できないほど屈辱的に感じられたことで、部の人全員を巻き込む形で反発し、最後には自分から部を止めてしまった。最悪の形で止めてしまったことが、昇の中でトラウマになっていたのだろう。

 昇は、そのことが頭に引っかかっていながら、実際に何かのきっかけがなければ思い出すことがないようになっていた。

――トラウマを克服したい――

 という思いが、そうさせているのかも知れないが、本当にそうなのだろうか? どうしても「逃げ」を意識しているように思えて仕方がない。どちらにしても、トラウマを思い出さないようにしようとした「ツケ」が、物忘れが激しいという形で、巡ってきたのだろう。

 最近は物忘れが激しくなってきたことを意識し始めた反面、急に忘れていたことを思い出すことも多くなった。ただ、不思議なことは、思い出すことの中に、

――本当に自分の過去なのだろうか?

 と、疑問に思うほど、明らかに違っているように思うこともあった。きっと何かの勘違いなのだろうが、どうしても、気にせずにはおられないことである。

 昇は、自分の中でトラウマがあること自体、あまり意識していなかった。意識するようになったのはいつ頃からだったのだろうか?

 それすら忘れっぽい性格の中に入りこんでしまって、意識していないことをわざわざ覚えているようなことはなかった。

――他の人が意識していないようなことでも、普通に覚えているというのは、意識していないつもりでも、無意識に意識しているからなのだろうか?

 と、感じていた。

 ということは、昇は意識していないことを無意識にであろうが、意識することはないのだということに違いない。

――それだけ、俺は性格的に正直なのかな?

 都合のいい考えだが、必要以上に悲観的になることもない。そう思うと、都合のいい考え方というのは、持っていた方がバランス的にいいのではないかと思うのだった。

――それにしても、綾と一緒にいるというのに、どうして、捻くれた考え方になってしまうのだろう?

 ただ、今までも捻くれた考えを持つことはあったはずなのだが、すぐに忘れてしまったことで、考えが発展していない。中途半端な思いのまま忘れてしまうと、次に同じことを考えた時、

――前にも同じことを考えたことがある気がする――

 と感じても、その内容まで思い出すことはできなかった。忘れてしまっていたと感じたのも、中途半端で終わってしまった内容を、思い出すことができないからだった。

 その日一日が、いつも完結しているのを、ずっと不思議に思うことはなかった。それが当たり前のことなのだという考えが、いつの間にか身についてしまっていたのだ。だが、一日が完結しなかったことがなかったわけでもない。それは午前零時を意識することなく過ぎてしまえば、一日が完結していないことになるからだ。意外と夜更かししている時など、気が付けば日をまたいでいる。そんな時、昇は自分が不思議な夢を見ているという意識に駆られるのだった。

 見ている夢は、同じ日を繰り返しているという夢だった。

 日付が変わった瞬間を、本人は覚えていない。しかし、日付が変わったことに気付くのは、いつも同じ時間だった。

 日にちが変わって、ちょうど十五分が経ってからのことだった。

――昨日も、同じことを考えたような気がするな――

 そう感じる時というのは、一日で終わることはなく、数日続いている。つまり、同じ日を数日間にわたって繰り返しているのだ。そんなことは夢でなければありえることではない。

 同じ日を繰り返していると感じた時、背筋に恐怖が走る。

 そう、背筋に感じる恐怖は、寒気となって現れる。綾が連れてきてくれた店で感じたものだったのだが、店に入って背筋に寒気を感じた時、この夢との関連性に、まだ気付いていない時だった。

 綾との関係はさておき、今の昇は、必死で今の自分が考えていることをすぐに忘れてしまうことのないように、しっかりと理論づけて覚えておくように、頭を整理しようとしていた。

――一体、今のこの世界から抜け出すにはどうすればいいんだ?

 ふと聞こえてきた心の声、それは、

「死ぬしかない」

 悪魔の囁きだった。

 ただ、その心の声が本当に自分の声なのか、少し納得の行かないところもあった。自分の声だとすれば、声のトーンが違っているからだった。

――俺の声はもう少しハスキーだと思っていたんだが――

 これが逆であれば納得がいった、自分の考えている声よりも低ければ、自分の心の声だとして感じることもできたのだが、声が想像以上に高いことで、自分の声ではないという思いが深かった。

――ここは夢の世界なんだ――

 自分の声だと思いたいのに、自分の声ではない。

 夢というのは、自分だけのものだという考えを持っている時は、夢の中で起きることはすべて、自分の思っていることだという思いがあった。しかし、実際には、自分で考えていることが、そのまま夢の中で展開されるわけではないことを、今の昇は理解していた。

 潜在意識は、自分の中の常識には勝てないのだ。

 潜在意識の自分は、

――もう一人の自分の存在――

 を否定している。夢を見ていると、時々もう一人の自分が出てきて、恐怖に駆られている自分を想像していたが、夢の中に出てきた自分は、架空に作り出した自分であり、もう一人の自分ではない。恐怖に駆られる必要はないのだ。

 では、架空の存在なので、抹殺してもいいのだろうか?

 この思いが、

「死ぬしかない」

 という悪魔の囁きを呼んだと言っても過言ではない。

「夢の中で死ぬのは、このことを発想している自分ではなく、もう一人の自分なのだ」

 誰に言い聞かせるというのか、悪魔の囁きを聞いた自分が、その日一日を抜けられない理由が、実はこの時の堂々巡りを繰り返す考えにあるのだということを、分かるはずもなかった。

――同じ日を繰り返すくらいなら、死んだ方がマシだ――

 という考えにいずれは行き当たるというのだろうか?

 今はまだ、同じ日を繰り返すと言っても、二、三日なので、抜けられないという意識はない。それなのに、生きていたくないという思いがいつの間にか自分の中に忍び寄ってくるのを感じると、

――終わらせなければいけないものが、他にもあるのではないだろうか?

 と思うようになっていた。

 読んでいた本で、自殺菌の話があったのを思い出した。

 あの話は現世を霊となって彷徨うのか、それとも、記憶や意識をリセットされたまま、この世に戻ってくるのかのどちらかだった。それは、自殺を自分が考えたわけではなく、病原菌にやられたというものだった。その話は自殺菌のパターンの話しか書かれていなかったが、本当に自殺したのであれば、一体、どのような運命が待っているというのだろう?

 自殺というものは、自分が考えている以上に、ジャッジが厳しいものなのかも知れない。病原菌にやられたというだけで、記憶や意識を排除した形での「生き直し」なのだ。もし自殺したのであれば、今度は正反対に、

――事実であることは、いかなることであっても、すべて自分に返ってくる――

 というものであれば、どうなのだろう?

 妥協は一切許されない。情け容赦のないジャッジは、「生き直す」わけではなく、一度は止めてしまった人生を、これ以上ないというほど正面からぶつけてくるのである。これは完全に、「生き地獄」と言えるのではないだろうか。

 今まで昇は自殺を真剣に考えたことはなかった。そこまでの勇気がないというのが一番の理由だが、もっと言えば、そこまで追い詰められたことがないとも言えるだろう。

 だが、世の中には、追いつめられたわけでもないのに、

「死んでしまいたい」

 と考えて、簡単に死んでしまう人もいるという。今までは、そんな人のことを、自分には関係のない他人事のように感じていた。実際に、今でも他人事のように思っているのだが、

――やっぱり、自殺菌によるものなんだろうか?

 と思えてならない。

 現実に、事故に遭ったりした人が、そのまま記憶喪失になるという話を聞いたことがあったが、今から思えば、それは、自殺菌によるものではないかと感じるようになった。本人は記憶がないのだから、その時のことを、

「君は事故に遭ったんだ」

 と、言われれば、そう思いこんでしまっても無理のないことであろう。

 そういう意味でいけば、事故に遭って死ななかった人で、記憶喪失になった人というのは、自殺菌に侵された気の毒な人だと言えなくもないが、ただ、自殺菌に狙われるだけの何かがその人に備わっていたに違いない。

――記憶を失ったその人の中に、まだ自殺菌は潜んでいるのだろうか?

 昇は、潜んでいると思っている。

 ひょっとすると、自殺菌の目的は、自分が寄生した人の記憶を失わせることにあるのではないかと思うのは、少し飛躍しすぎだろうか?

 失った記憶を自殺菌が、自分が生きるための「栄養」にしていると考えると、寄生する理由も分からなくもない。だが、自殺菌の本当の目的が、

――寄生した人の記憶を栄養としている――

 というだけでは、少し信憑性に欠ける気がする。昇自身が納得できる答えではないからだ。

 昇は、自分が同じ日を繰り返していると感じた時、まず最初に「死」というものを思い浮かべることがなかった。しかし、今自殺菌の話を本で読んで、自殺菌の存在を、まんざらでもないと思い始めたことから、

――同じ日の繰り返しを打破するには、死を選ぶしかない――

 という結論に達する自分を思い描いていた。

 中学の頃、ライバルにシナリオを先を越され、嫌気が差して演劇部を止めてしまった時のことを思い出していた。

 あの時にも確か、同じ日を繰り返しているような気持ちになったのではなかったか。いや、その発想があったからこそ、自分の中でシナリオが形作られていた矢先、ライバルに先を越された。

――俺の発想が先に完成していれば――

 という思いは、口惜しさから惨めさに移行していた。

――もし、こんな発想を表に出したら、笑われるだけだ――

 ライバルに先を越されたことを知ってすぐに感じたことだった。

 それは言い訳でしかなかったのに、言い訳をしなければならないほど、その時の自分の気持ちが情けなさに包まれていたことを、その時は知っていたはずなのに、惨めさがいつの間にか、

――自分は正しいんだ――

 という妄想に駆られる結果になっていた。

 それは、

――自分の発案があまりにも難しいことであり、自分の発想ごときが追いつけるはずがない――

 という思いを抱かせていたのだ。

 昇は、自分の中にもう一人誰かがいるような気がしていた。それを、

――もう一人の自分だ――

 と思うことで、時々、気が付けば夢の中にいるのだと思っていた。もう一人の自分の存在は、自分の夢の中にしか存在せず、夢を見ている自分でも、本当に感じることがレアであるということに気付くまで、結構な時間が掛かるようだ。

 今回は、確かに自分は夢の中にいる。夢の中で同じ日を何度も繰り返していると感じていたことを、

――恐ろしい夢だ――

 と感じると、その先には夢だということで片づけられないものを見ることができるような気がしていた。

 自分の中にいる誰かというのは、もうこの世にはいない人だという発想が脳裏にあった。その人は、自殺菌の力によって、自分を葬ってしまった。そのせいで、現世に留まらなければならず、

――霊となって、この世を彷徨っている――

 あるいは、

――自分の中の意識と記憶を抹消し、「生き直している」という存在になっている――

 という二つのうちのどちらかが、自分の中にいるのだ。

 昇は、後者だと思っている。

 生き直しているという感覚がどのようなものなのか、ハッキリと分からないが、彼は記憶も意識もないのに、表に出ようという意志だけはあるようだ。

――一瞬、俺ではない意識が、頭の中に存在しているのを感じる――

 その男が表に出ようと、昇の意識を刺激しているのだ。

――どうして俺なんだ?

 昇は、自分の中に誰かがいるという違和感よりも、なぜ自分の中にその男がいるのかの方が不思議だった。

――何か目標も定めずに、猪突猛進で飛び出した先にいたのが、俺だった――

 などというオチだったりするのか?

 ただ、どこかに運命的なものを感じる。運命といえば、綾と出会ったことを運命と思いたいと最初に思った気持ちが次第に萎えてくるのを感じると、自分の想像が妄想になって留まるところを知らない状態になってくるのを感じていた。

――綾を見ていると、その後ろに誰か違う人を見ているような気がして仕方がない――

 と感じていたが、その時、自分が違う人間になっているのではないかということに、まだその時はウスウスでしかないが、やっと気が付き始めた頃だったのだ……。

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