心中未遂

森本 晃次

第1話 第1章

 冷たいと感じることが、これほど身体を委縮させることになるなどということを、最後に感じたのはいつのことだっただろう。

 記憶の中では存在しない冷たさという感覚。実際に味わったことがあると思っていたのは、夢だったのだろうか。本当に冷たいと感じるようなことはしないようにしていたはずなのに、いつの間にこんな風になってしまったのか……。

 自分の意識が飛んでしまい、どこを彷徨っているのかが分からない間、覚めない夢の中で彷徨い続けなければいけないことを自覚するのは、人生の堂々巡りを繰り返してしまうことに繋がるに違いない……。


 ある日、弥生の入院している病院に、けたたましいサイレンの音とともに、二人の急患が運び込まれた。救急病院なので、救急車の音には慣れてしまっていたにも関わらず、その日の音はいつになくしつこく、耳から離れなかった。時間的には入院病棟は完全な消灯時間、宿直の看護師が、ナースセンターに詰めている以外は、当番の医者がいつものように一人いるだけだった。

 弥生は、ちょうどその時起きていた。元々入院してからというもの、それまでが不規則だったのか、それとも規則正しい生活を忘れてしまった身体になってしまっていたのか、夜目が覚めることは珍しくなかった。そんな時はトイレに行って、帰りに食堂と隣接しているラウンジに顔を出し、椅子に座って、表の明かりを見つめることが多かった。ラウンジの明かりをつけることもなく、部屋の中は非常灯の明かりと、自動販売機の明かりがついているくらいで、表の明かりが眩しく感じるほどの寂しさが漂っていたのだ。

 入院してからの最初の頃は、昼間寝ていることが多かった。入院前の不規則な生活が祟ったからであったが、入院前はずっと、スナックでアルバイトをしていたのだ。

 弥生の年齢は、二十歳を少し超えたくらいなので、スナックでは、客からは人気があった。見る人によっては三十歳くらいに見える人もいるくらいで、

「若い娘にしては色気を感じるし、年齢的にも擦れていないところがいい」

 と言ってくれる客も少なくはなかった。落ち着いて見えるからかも知れない。

 もっとも、それぞれの客は、弥生に対して皆自分だけが感じている思いを抱いていると思っているようだが、弥生を気に入っている人のほとんどは、弥生に接する態度、言い回しなど、ほぼ同じだった。それを知っているのは弥生だけなので、少し楽しい気分になっていたが、本人たちには可哀そうな気がする。

 ただ、弥生に対して想ってくれている人は、それぞれ同じ特徴を持った人だということで、弥生には誰を贔屓するともなく、接していくしかないと思っている。皆それぞれに特徴は持っているのだが、弥生に対しての態度が同じなのだ。本当は誰か好きな人を選んでもいいのだろうが、弥生には、そんなことができる性格ではなかった。

 ただ、皆弥生に対しての態度や感覚は同じだったが、程度の差は大きなものだった。軽い気持ちの人もいれば、毎日のように通ってくる人もいる。思い入れはこれだけ違うのに態度が変わらないというのも不思議なもので、弥生にとって、誰を選ぶなどできないことも頷ける。

――他の人に悪い――

 という感覚ではないのだ。本当に一人を選んでしまうと、自分が後で後悔しそうな気がするところが大きな問題だったのだ。

 弥生はそれでも一人の男性を好きになりかかっていた。彼は弥生のことを好きだと言っている中の一人ではない。かといって、他の女の子に興味を持っているわけではない。だが、いつのまにか、

「弥生さんのお客様」

 として、店の中で公認になってしまった。

 彼も弥生も悪い気はしていない。お互いに最初はバツの悪そうな顔をしていたが、顔を見合わせると苦笑いをして頷けるような関係。いわゆる自然な関係と言っても過言ではない仲を、まんざらでもないと思っていた弥生だった。

 そんな弥生がスナックに勤め始めた理由を、実はまわりの人はほとんど知らない。弥生の過去について知っている人は限られているのだ。弥生自身、自分の過去を半分も覚えていないと思っている。

 だが、それも矛盾した考えである。全体を覚えているわけではないので、今の記憶が全体に対してどれだけのものなのかということを分かるすべなどありえないのだ。弥生が入院している原因の一つは、記憶が鮮明ではないという点、しかも、記憶を取り戻すための治療を何度となく施したが、肝心なところでの記憶は皆無に等しい。そう思うと、少なくとも記憶していることは半分以下ではないかという推測が成り立つわけで、その推測だけが弥生に対しての記憶をまわりが認識しているすべてであった。

 弥生が記憶を失うきっかけになったのは、自殺が原因だった。手には躊躇い傷をいくつも残し、自殺を図ったが、結局すぐに発見されて、病院で息を吹き返した。

「結局あなたが死のうだなんてできないのよ。誰かがあなたを助ける運命になっているのよ」

 と、ママから言われた言葉が印象として弥生の胸に残ったが、ママの方としても、

「どうして、あのまま死なせてくれなかったの?」

 という弥生の言葉に胸を貫かれる思いを感じながら、やっとの思いで返した言葉だった。

 ドラマなどをよく見ている人には、二人の間で交わされた会話は、

――ありがちな会話――

 として認識されるかも知れないが、弥生にとっても、ママにとっても、気持ちを絞り出すようにして出てきた言葉であることには違いなかった。

「自殺しようなどという心境になれば、誰もが口にするセリフなんかよりも、心の中につっかえているものがどれだけ大きいかということの方が、はるかに大きな問題なのよ」

 という答えがそれぞれから聞かれそうな気がする。

 当然、自殺未遂ということもあり、警察も尋問にきたが、生き残って意識が戻ったとはいえ、気持ちの傷が癒えているわけではないので、尋問に対してさほど期待できる回答が得られたわけでもない。その時はまだ誰も弥生の中から記憶が欠落しているところがあるなど、誰にも分かっていなかったのだ。

 最初に気付いたのは、本人だった。普通に生活するのに、何ら問題がないというところまで回復したことで、退院を許され、自宅に帰った。しばらくは何事もなく暮らしていたのだが、ある一定の感覚で、

――大きな不安に襲われる――

 と思うことで、身体に震えが走るほどに心境が変化する瞬間があった。瞬間というには長すぎるのだが、あれこれと考えられる時間ではない。気が付くと、不安が消えていたのだが、

――これは一体何なのかしら?

 という思いを残すに十分で、次に起こった同じ現象に対して、

――やっぱり、残った思いが、また同じ感覚を呼び起こしたんだわ――

 と感じさせたが、実際にはこれが定期的に起こっていることだと思うと、

――何かに呪われているのかも知れない――

 という思いに駆られ、いつになったら解放されるのかが見えてこない間、ずっと苦しめられる気がして怖かった。

 最初に感じた時は、記憶の欠落を意識していなかったが、三度目に感じた不安感から、記憶の欠落を感じ取ると、まったく分からない不安ではなく、記憶の欠落という事実が一つ分かっただけでも、安心できるような不思議な感覚に襲われた。

 記憶の欠落は記憶のすべてではなく、ある瞬間に感じるもので、それ以外は普通の生活に何ら影響を与えるものではない。ただ、不安に襲われるというのは、欠落している記憶があるということを知っている自分の中のどこかが発する危険信号の一つで、自分で感じているほど大げさなものではないのかも知れない。

 記憶に対して未練を持っているわけではない。実際に自殺しようとした時点で、記憶はおろか、自分のすべてを抹殺しようと考えたのだから、未練などあるはずもないのだ。だが、生き返ってしまうと、死んでしまったはずの気持ちも一緒によみがえるのだが、生き残ったことで、生きようとする気持ちが強くなったわけではなく、一度死んだことで、もうこの世に引き戻すことができないものをあの世に送ってしまったように思っていた。その思いがそのまま記憶の欠落として穴が空いているのであれば、ここまでの不安感はないだろう。きっと自分の想定外のことが起こっていて、修復できるかどうか、分かるわけもない。すでに気持ちは一度死んでしまったという思いが、いつになったら、消えてくれるのだろう?

 ただ、一つ言えることは、

「死ぬ勇気など、そう何度も持てるものではないわ」

 ということで、もう自殺を考えることはないだろう。ただ、生きていくには、一度失くしてしまったものを取り戻さなければいけないものがある。その思いと葛藤が不安感を呼び起こし、記憶の欠落を教えてくれる。一度自ら死に直面してしまった人間が、通らなければいけない道を、今まさに通っているのだろう。この辛い思いを抜ければ、少々のことでは自殺を試みようなどと、思わないに違いない。

 もし、弥生のそんな気持ちを知っている人がいるとすれば、それはママだけであろう。ママはなぜかいつも弥生が何を考えているかを心得ていて、弥生がこの店で働くようになった理由も分かっているつもりだ。弥生もママにだけは心を開いていて、何でも相談できる相手だったのだ。

 もし、ママがいなければ、弥生が再入院するなどということはなかっただろう。

「私、何かおかしい感じがするんです」

 さすがに四度目の不安感が募ってきた時、怖くなって、ママに訴えた。

「私も何かおかしいとは思っていたんだけど、弥生ちゃんの自覚がないと、私からは何も言えない立場なのよね。だから、弥生ちゃんが告白してくれて、私は嬉しいし、安心しているのよ」

 と、ママが言ってくれた。

 病院には、ママが付き合ってくれた。

「心配いらないからね」

 入院の手続きから裏のことは、ママがしてくれたのだ。

――前自殺未遂の時も、こうやってママが入院の手続きまでしてくれたらしいと聞いたけど――

 やはり実際に見てみると、なかなか手際よく、本当に頼りになる。入院期間中も安心していてよさそうだ。

 だが、それにしても、ママがどうしてここまでよくしてくれるのか、弥生には分からなかった。

 弥生は高校を卒業すると、二年先輩の彼氏を頼って田舎から出てきた。その時、親とは大ゲンカになったが、和解することもなく、一方的に出てきたようなものだった。そんな弥生を東京に出ていた彼氏は暖かく迎えてくれるどころか、さっさと都会で別の彼女を作り、適当に大学生活を楽しんでいたのだ。しかも、最初から彼の態度がおかしかったのならまだ救いようもあったが、弥生に分からないように二股を掛けていた時期が一年ほどあった。その期間、ずっと騙されていたのだ。

 何の苦労も知らない彼氏が、今さら弥生のような「お荷物」を抱え込むわけもない。捨てられて、放り出されたも同然の弥生は、この時自殺しなかったのが不思議なくらいだと思っていた。

「今回の自殺は、前のショックを思い出したことで、さらに精神的に追い込まれたからなのかも知れないわね」

 と、ママは言っていたが、それも間違いではないと思った。

 弥生は元々、執念深い方だ。

――女性らしい性格――

 と言ってしまえばそれまでなのだが、本人は、そんな性格をずっと嫌いだった。

 だが、泣き寝入りも自分の性格からして耐えられることではない。どちらの思いが強いのか天秤に掛けてみたが、

――泣き寝入りは嫌だ――

 という思いが強いことに気が付いた。

――それまで彼に尽くしてきた思いは、自分の中の性格を客観的に見て、可愛らしさの中にいじらしさと強さがある――

 と思っていた。

 泣き寝入りしてしまうと、最後の強さを否定してしまいそうで、強さを否定することは、まるで自分をも否定する気になって、嫌だった。もし、強さを否定することになったら生きていけないという思いがあり、自殺に踏み切ったのは、その思いがあったからだ。

 弥生の自殺は衝動的なものだった。自殺したと聞いた時、ママは最初に、衝動的な自殺かどうかが一番気になったという。もし衝動的な自殺であれば、立ち直りが早いと踏んだのだろう。

 実際に衝動的な自殺であったことで、ママは安心したようだ。

「衝動的な自殺なら、本当に死んでしまう確率もグンと減りますからね」

 と、警察の人に聞かれた時に答えたという。さすがに警察も、ママの落ち着きにはビックリしていたようで、よほど弥生のことを理解していないと、ここまで落ち着いて状況分析までできないだろうと思っていた。

 自殺に事件性もないようなので、警察は一通りの尋問を終えるとすぐに帰っていったが、入院はしばらく掛かるということだった。それでも、二週間程度での退院だったので、さほど長引くことはなかった。ただ、その時はまだ弥生に記憶の欠落が見られなかったことで、安心しての退院だったのだ。

 弥生は退院してから、しばらくは精神的に不安定だった。それは弥生よりもママの方が分かっていて、

――しばらくは仕方がないかも知れないわね――

 と感じていたようだ。病院にいる間は、守られているという意識があるが、退院すると自由ではあるが、寂しさが一気に噴き出してくる。何しろ、絶対に戻ってくるはずのない世界に、再度引き戻されることになるわけだから、当然である。いくら衝動的な自殺であっても、ある程度の整理は頭の中でつけていただろう。それを思うと、退院は弥生にとって、この世の地獄を感じるくらいのものになるかも知れない。元々一人で暮らしているつもりだった弥生は、一人でいても寂しいという感覚を超越した思いがあったに違いない。その思いから死を持って解放されたと思っていたとすれば、死に切れなかったことで強制送還させられた神経は、何を目指して行けばいいというのだろう。ママは、弥生にその辛さを課さなければいけなくなったことへの自責の念に駆られていたに違いない。

 ママもそれなりに苦労を重ねてきているので、弥生の気持ちを分からなくもない。元々弥生とママは同郷であることから知り合った仲なので、弥生が同郷の男から騙されていたこと、そして、都会で一人で生きていこうという強い気持ちを持ちながら、自分との葛藤に苦しんでいる姿を見るのは、身につまされる思いだったに違いない。

「ママがいてくれていると思っているのに、勝手に自殺なんかしようとしてごめんなさい」

 と、弥生はママに面と向かって謝ることができるくらいまで回復した時、ママは心から弥生の苦しみが分かった気がした。

「いいのよ、もうこの私があなたに自殺なんて思わせないようにしっかりと見ていてあげますから」

 その言葉に、弥生も幾分か救われた気がした。その時に見せた弥生の笑顔にママは、自分も同じように救われた気がしていたのだ。

 お互いに同じ心境になれる相手がいることは幸せなのだと思うことで、二人は今まで生きてきたような気がした。ママも弥生に出会う直前の時期には、大きな裏切りに遭ってしまったことで、自殺を真剣に考えたほどだった。弥生には話をしていないが、その時の心境は、自殺未遂をしてしまった弥生よりも強かったかも知れない。結果として行動に移すか移さないかは、衝動的な自殺である弥生の方が強かったのだが、自殺することもできずに、先に自殺されてしまったママからすれば、本当は先に自殺をするはずだった自分だけが取り残されてしまったようで、一度高めかけた気持ちの持って行きどころのなさに戸惑ってしまい、振り上げた鉈の振り下ろし先がないことで、どうしていいのか分からなくなってしまっていた。

 それでも、弥生の看病をすることが生きる支えの一つになってしまったことは、何とも皮肉なことだ。

「そう何度も死ぬ思いなど持てるものではないです」

 と、刑事から、今後のことを聞かれての弥生の返答だったが、この言葉はソックリそのままママにも言えることだったのだ。

 弥生はママから看病されることで自殺を思いとどまる気持ちになった。ママは弥生を見ていて、自殺を思いとどまった。二人とも、相手に自分を重ね合わせて見ることで自殺を思いとどまったのだ。やはり、ママと弥生の出会いは、運命の出会いだったのだ。

 弥生は今までに何度か自殺しようとして手に残ってしまった躊躇い傷を、ママの手首に見たことがあった。

「あなた以外に見せたことがないの」

 というママの躊躇い傷を見ていながら、それでも自殺に追い込まれてしまった弥生。そして、そんな弥生にだけしか見せたことのないママの心境は、

――この人には、自分と同じ匂いを感じる――

 とでも思ったのか、自殺しそうに感じたことで、思いとどまらせるにはどうすればいいかということを、ママなりに考えていた結果が手首を見せることだったのかも知れない。それでも自殺をしてしまった弥生だったが、もしここで手首を見せていなかったら、本当に今頃この世の人ではなかったのではないかと思うと、ママは幾分か自分が救われた気になってくるのだった。

 自殺を思いとどまったことが、本当によかったのかどうなのか、誰にも分からないが、少なくとも、現時点では、弥生も落ち着いてきて、再度自殺を考えることはなさそうだ。ママにとっても、ホッと胸を撫で下ろすにふさわしい時間が訪れたのだが、間を置かずして、記憶の欠落が発覚した。再入院という形になったのだが、今度は命に別状のあることではない。

――よくなることはあっても、悪くなることはないだろう――

 と、ママは楽観的に考えていたが、果たしてそうだろうか。

 入院に際しての問題はなかった。

 スナックでは、再入院した弥生に変わって一人新しい人を雇い入れた。

 弥生が入院して困ったことにならないように、人員を増やすかどうするか迷っていたところであったが、雇ってほしいと言って訪ねてきた女の子がいたのは、迷いを吹き飛ばすことになった。

――迷っている間に、相手が飛び込んできてくれた――

 天の助けだと思い、ママはすぐに雇い入れることにした。新しい女の子は開放的な性格で、どうやら、スナックでアルバイトした経験もあるようだ。客相手のトークも達者で、ママの感じた天の助けは本当だったのかも知れない。

「お店のことは心配しないでいいからね」

 一人新しい娘を雇い入れたことについてママは話題として弥生とはあまり話さなかった。雇われた女の子は、一見明るそうな女の子なので、それほど心配することなどない。話題に出すことは弥生に心配かけることになると思い、ママなりに気を遣ったのだろうが、そのことが弥生とママを苦しめることになるとは、その時誰にも気づくはずもなかったのだ……。

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