離縁寸前、夫が記憶喪失だと騒ぎ始めました

陰茸

第1話

「……これだけ言ってもまだ理解できないのか」


 重々しい声。

 それが響いたのは子爵家当主の書斎でのことだった。

 その声の主、私の夫にあたるソルタスは、私を冷えた目で見つめながら告げる。


「私はもっと売り上げを出すように言ったはずだ。それさえできれば、我が家マーズタリア家は伯爵の座も見えてくるのだから、と」


 そこでソルタスはあえて言葉を止める。

 わざとらしくため息をついて見せる夫の顔に浮かんでいるのは、強い失望だった。


「どうして私の言うことが達成できない? ──私はその商会がつぶれても問題ないからやれ、そう言ったはずだぞ。カーナリア」


 その言葉に私、カーナリアの方がため息をつきたくなる。

 夫、ソルタスの顔を見る。

 その顔に浮かぶ傲慢な表情をみながら、私は思わずにはいられなかった。

 ……どうしてこんな風に変わってしまったのだろうかと。


 私が結婚した時、ソルタスはこんな人ではなっかった。

 その容姿は変わることはない。

 私と変わらない少し小さめの慎重。

 癖のある赤い短髪、決して気の強うそうに見えない顔立ち。


 けれど、その身体を包む衣服が豪華に、表情が傲慢になっていたのはいつからか。

 いや、私ははっきりとその時期を覚えていた。

 ……お義母様が亡くなったその時からだった、と。


「聞いていますか! 子爵様が直々にはなしているのです。それを無視など、いくら奥様でも許されませんよ」


 そのことを嘆く時間さえ私には与えられなかった。

 ソルタスの横へと私は目をやる。

 そこにいるのは、にやにやと胡散臭い笑みを浮かべた男、カルバスだった。

 オールバックの黒髪、程々にき鍛えられたその姿を見て、使用人だとわかる人間がどれだけいるだろうか。

 町のチンピラと言われても違和感などありはしない。


 しかし、その男こそがこのマーズタリア家のたった一人の執事だった。


「奥様が高潔で潔癖であることは存じております。しかし、少し融通の利かないところがある奥様でもわかるでしょう? 上級貴族になることの大切さが」


「そうだ! ここで伯爵家になれるかどうかですべてが決まると言っても過言ではないのだぞ!」


 ヒートアップしていく二人と対照的に私の心はさめていくのがわかる。

 カルバスのにやにやとした笑みに、どんどんと苛立ちが募っていく。


「どうしてなにも言わないのですか、奥様? まだ状況がわからないのですか?」


 そこで少し声を潜め、けれどはっきりとカルバスは告げる。


「奥様を受け入れた……くすんだ髪を持つ人間を女主人としてい迎えた恩をマーズタリア家に返したいとは思わないのですか?」


 くすんだ髪、それは私の茶色い髪の毛を指す蔑称だった。

 貴族の鮮やかな髪を持たない、くすんだ令嬢。

 それは私への明らかな侮辱、執事でも許されない言葉で。


 以前のソルタスなら、こんな時私を守ってくれた。

 震え、顔を青ざめながら、それでも私の前に立ってくれた。


「そうだ! 恩を感じるなら私の命令を聞け!」


 ……なのにソルタスがカルバスをとがめることはなかった。

 血走った目で私をにらみ、さらに叫ぶ。


「ここで伯爵家にさえなれば!」


 私の中にあったある決断、それがさらに強固になったのはそのときだった。

 二人の言葉を無視し、私は懐に忍ばせた書類に手を伸ばす。

 そして渡す前に何か言おうと口を開きかけてやめた。


「何かいったら……」


 ソルタスの言葉を遮るように書類を前につきだしたのはその時だった。

 その書類に一瞬怪訝そうな顔をし、次の瞬間劇的に目の前の二人の表情は変わる。


「なっ!」


「っ!」


「それなら言わせて頂こうかしら」


 呆然とする二人へと私は感情の読めない淡々とした口調で、真っ直ぐに二人をみながら告げる。


「今日ここに来たのはこの話をするためです。──私と離縁してください」


 そう告げた私と……その手に握られた離縁証明用の書類にソルタスとカルバスの顔から血の気が引くことになった。

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