日本サッカー
市川睦
第1話 2030年ワールドカップ準決勝
映画『カサブランカ』で世界中にその名を知られる、大西洋岸の歴史あるこの街は、2030年FIFAワールドカップ共催国モロッコ最大の都市である。この人気観光都市で、ワールドカップの準決勝が幕を開けようとしていた。
世界的なイベントには、当然ながら世界中から観客が集まる。プラチナチケットを持たない観光客でさえも、その雰囲気を楽しもうと会場近くに押し寄せ、街は様々な人種で溢れかえっている。
こうした国際的なイベント開催地では、イベントに合わせ国際政治の会談やグローバル経済の商談が数多く行われ、それと連動して、水面下では各国による諜報活動もまた盛んとなる。
「まさか、教え子の試合に、こんな形で居合わせるなんて思っても見なかったでしょ」
カサブランカ郊外に立つ世界最大のサッカースタジアム、グラン・スタッド・ハッサン二世。その正面スタンド最上段で、二人の東洋系美女が準決勝に臨むチームの入場を見下ろしていた。二人は、優勝候補ブラジルと対戦する国の諜報機関に属する工作員であった。
ここでは、サッカーの激戦を上回るほどの情報戦が、水面下で繰り広げられている。スパイ同士の情報交換や謀略にとって、十万人を超える観客の喧騒は逆に最適の隠れ蓑となる。この裏のワールドカップには、サッカー本戦の予選で敗退した国々も含め、世界中の諜報員たちが集結していた。
前回の2026FIFAワールドカップで、またしてもベスト8の壁を突破できなかった日本代表だが、スペイン・ポルトガル、モロッコ共催の本大会では快進撃を見せ一気にベスト4まで勝ち残っていた。
大会を重ねるごとに増え、この2030年大会ではチームの過半数を占めるに至った、イギリス、スペイン、ドイツ、イタリア、フランスの五大リーグ所属選手たち。その五大リーグでレギュラークラスの選手が先発メンバーの大半を占めるほど個人の質が高まれば、国民性から来る規律の高さや連動性が、さらに大きな強みとなる。ついに、日本サッカー界悲願のワールドカップ優勝トロフィーの輪郭が、かなりはっきりと見えてきた。
だが、その悲願の達成を目前にして、そのトロフィーを世界で最も多く掲げてきた国、ブラジルが立ちはだかる。過去の実績は言うまでもなく、彼らは本大会でも優勝候補筆頭。予選から準々決勝に至るまで、圧倒的な攻撃力と安定した試合運びで、盤石の強さを見せつけていた。
防衛庁のスパイである彼女たちのうち、一人は世代別ながらサッカー日本代表の経験者だ。歴史的なこの準決勝を観戦したい気持ちはあったが、それは許されない。
仮想敵国のスパイが、アフリカ各国の高官や工作員とこのスタジアム内で取引を行うという極秘情報が彼女たちの耳に入っていたのだ。その取引を監視し、内容を掴むことが彼女たちへの至上命令だった。
二人の視線は、ウォーミングアップ中の日本代表ではなく、ターゲットが座る十段ばかり下のシートに集中していた。
試合は、守備的な選手さえもスペースがあればドリブルでボールを運ぶブラジル代表に対し、高い位置から組織的なプレッシャーをかけ、ボール奪取を狙う日本代表という構図で展開した。
個人技に優れるブラジル相手に、日本が一対一で勝負するのは分が悪い。そこで日本代表は、ボール保持者へ常に二人でプレッシャーをかけることを徹底した。その際、一人は自分のポジションを空けてでも、ボールホルダーに圧をかけなければならない。
その役割を試合開始から一貫して担っているのが、日本代表のボランチの一人である。上背はさほどなく、走り方を見ても足が速そうには見えない。しかし、彼の判断力とポジショニングがよいのか、相手がボールを持つと気づけばそこに現れ、プレッシャーをかけていた。
0対0で終わった前半、終始ボールを握っていたのはブラジルだが、日本代表にとっては思惑通りの展開と言える。ブラジルが今大会、前半で無得点に終わるのはこれが初めてだった。彼らは前半に圧倒し、相手が諦める終盤に出力を落とすことで、疲労や怪我のリスクをコントロールしてきたからだ。
そのブラジルの思惑を打ち破った立役者は、常にボールのあるところに現れたこのボランチに他ならない。彼のスタッツは、前半だけで走行距離が8kmを超え、タックル数も5回を数えていた
「ジャポンの6番が、とにかく鬱陶(うっとう)しい」
「どこにいても、ボールを持つと、知らないうちに近くにいる。まるでNINJAだな」
ハーフタイムのロッカールームで、ブラジル代表の選手たちが口々にその背番号を口にした。
「あれだけ飛ばしていれば、後半の早い時間で交代になるだろう」
「それまで待つな。自分で仕掛けることばかり考えるな。サイドチェンジを徹底して交ぜろ」
コーチの指示は冷静だったが、苛立ちが残る選手たちは渋々頷いた。
後半に入っても、ブラジルがボールを持つ時間は続いた。彼らは前半の教訓から、グランドをより広く使い、日本のマークを分散させる策に出た。
だが、日本代表は後ろに引いては相手の思惑通りになると、前半同様に前からのプレスを緩めない。ボールを持つ選手には引き続き二人掛かりの守備が必要とされ、その「二人目」を担ったのは、やはり背番号6であった。
「もっと振り回してやれ!」
ブラジルベンチからは、この6番さえいなければと、ゴールに向かうことよりもパス回しで日本のプレスのキーマンを疲弊させる指示が出た。
突破力に長けるブラジルのサイドバックにボールが渡れば、彼はサイドライン間際まで駆け付け、足元に優れたキーパーまでボールが戻されれば、相手ゴール前まで圧力をかけ、余裕のあるフィードを許さない。
日本は伝統的に「DFW(ディフェンシブフォワード)」が重宝され、強豪相手には前線からの守備に奔走してきたが、この試合でブラジル代表のGK(背番号1)にまでプレッシャーをかけているのは、日本代表のボランチであった。
日本代表は、グループリーグから決勝トーナメントの三試合を通じて、ここまで極端な「前からのプレス」を仕掛ける必要はなかった。それは、すでに互角に戦える力がチームに備わっていたからだ。
しかし、立ちはだかるのは最強の敵ブラジル代表だ。旧宗主国ポルトガルが共催国であるため準ホームともいえる彼らは、ここまで平均得点三点超、失点わずか一点という圧巻の成績で勝ち上がっている。
これまでの対戦国は皆、ブラジルに対し重心を低くし、守備を固める策を試みたが、その壁は悉く破られてきた。
挑戦者としての立ち位置にある日本代表には、ブラジルに敗れた国々の戦術をなぞるだけでは勝利はない。また、自分たちが勝ち上がってきたサッカーをただぶつけるだけでも、ブラジルの勢いを止めることはできない。
相手の強みを徹底的に消し去る、大胆な戦略的決断が、この一戦では求められたのだ。
試合時間が七十分を過ぎ、日本ベンチはついに選手交代を第四の審判に告げた。その様子を見て、最も安堵したのはブラジルベンチであった。
「ようやく、あの6番が下がってくれる」
彼らは、後半のここまでの時間を使い、日本代表を意図的に走らせ続けてきた。ベンチからの指示で、ボールを保持していたブラジル代表が、タッチラインにボールを蹴り出した。
後半に入っても一向にプレスを緩めない背番号6は、この時点で既に走行距離が15kmを超えている。後半の二十五分だけで7kmを走破していた。しかも、そのスピードは衰えるどころか、前半6回だったスプリント数が、ブラジルのサイドチェンジの増加を追いかける形で、後半だけで8回を数えていた。
ブラジル代表の主将は、近くにいた日本の6番を労うように肩を叩き、ピッチサイドへ軽く押し出した。「時間稼ぎするなよ」というメッセージも込めて。
背中を押された日本の6番は振り返り、流暢ではないが、片言でもないポルトガル語で言った。
「私は替わりませんよ」
ブラジル主将はジョークだと思い、笑いながら第四の審判が掲げた交代選手の背番号を指さした。
「悪い冗談はよせよ」
相手がポルトガル語を解するとわかったので、苦笑いしながら突っ込みを入れる。しかし、その目に映ったのは、彼らが待ち望んだ6番とは違う数字であった。
延長戦まで死力を尽くして戦った両チームは、交代枠をフルに使い、計六名の選手が入れ替わった。だが、その交代リストの中に、日本代表の背番号6の名前は最後まで含まれていなかった。
運命のPK戦、先攻のブラジルが五人全員を成功させたのに対し、日本は二番手のシュートがポストに弾かれた。
日本代表の歴史的な快進撃は、ここで惜しくも終わりを告げた。準決勝での敗退が決まった瞬間である。
後半と延長戦を振り返ると、日本が最初の選手交代を終えた直後、ブラジルはパス回しで時間を浪費できないと判断し、最も得意とするドリブル主体の攻撃へと回帰した。しかし、その行く手には常に日本代表の背番号6が立ちはだかっていた。
疲弊した選手を交代で入れ替えた日本は守備の強度を高め、6番を中心にブラジルの猛攻を
攻撃面では、日本代表も何度か決定機を創出したが、シュート数は六本に留まった。これは、守備にリソースを集中させた代償として、攻撃力が犠牲になった結果であった。
日本代表背番号6の延長までの120分間のスタッツは、走行距離23km、スプリント25回、タックル成功12回、デュエル勝利数8回、シュート2本という、およそ一人の選手の数字とは思えないものであった。日本代表の中でも小柄で、細身と言える体格だったにもかかわらずだ。
PK戦を終えてグランドを後にする際、彼は小走りで控室に向かうほどのエネルギーをまだ残していた。ユニフォームの交換を求めるブラジル代表選手が何人も声をかけてきたが、彼は頭を何度も下げながら、
「デスクウパ(ごめんなさい)」
を連呼し、誰よりも早くピッチを後にした。
メインスタンドの上段は大会スポンサーのエリアで、対戦国のブラジルや日本の応援団、地元モロッコの人々よりも、世界各国からの観客が多数を占めていた。そのためスタジアムの他のエリアよりも雑然としており、サッカー観戦以外の目的にも適した場所となっていた。
仮想敵国のスパイは、グランドの試合とは異なり、九十分という制限時間でアフリカ各国の高官たちとの取引を順調に完了させたようだった。その後は、グラウンドで行われた延長戦とPK戦を楽しそうに観戦していた。お互い仮想敵国同士とはいえ、同じアジアの国として、日本代表を応援しているかのような雰囲気さえ見受けられた。
試合開始直前にその真後ろの席を、彼女たち自身の魅力とより良い席のチケットとの交換という手段で確保した二人の東洋系美女は、前半から試合を楽しむ風を装いながらも、前の席のやり取りを確実に録音し、無事に任務を果たすことができた。
「日本代表は残念だったけれど、あなたのサッカーの教え子はすごかったわね」
「でも、PKを外したわ」
「彼がいなければ、PK戦までいかなかったでしょ。サッカー経験のない私でもそれは分かるわ」
「あまり汗をかかないのよ」
「誰よりも《汗をかいていた》ように見えたけれど」
「試合終了後、急いで控室に戻って行ったでしょ」
「確かに、他の日本代表選手は悔しがったり、ブラジルの選手と健闘を讃え合っているのに、一人でさっさと下がってしまうなんて。そういえば彼はドライな性格だったわね。それともPKを外した恥ずかしさで早々に下がってしまったのかしら」
「トイレを我慢していたと思う」
「えっ、もしかしてPKのシュートを外したのもそのせいなの」
「たぶんね。彼のキックの精度なら、キーパーに止められることはあっても、ゴールの枠を外すことはないわ」
「水の飲みすぎということかしら」
「これだけ暑ければしょうがないわ。私も水分取り過ぎで結構、限界かも」
まだ激闘の余韻に浸り、席を立つ観客もほとんどいない中、二人の美女はつばの広い帽子とサングラスをかけ直すと、日本代表に健闘を讃える投げキッスをして席を立った。その振る舞いから、彼女らが日本人であるとは、試合中から二人の存在が気になっていた周囲の観客たちも思わなかっただろう。
ちょうどその時、日本代表の背番号6がゆっくりとピッチに戻ってきた。試合に負けた後とは思えない、スッキリと、ほっとした表情で手には飲みかけのペットボトルを持っていた。
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