18.ほんとうに愉快なものなど増えてはいない
†
「そうですかぁ――……純心君に、お別れを告げられましたかぁ――」
榊原様は感慨深げに「はあゝ」と溜息をつかれた。あたしは眼の前にいらっしゃる観音菩薩様のお姿をみつめながら、「はい」とだけ答えた。榊原様も、「スミコ」ではなく「ジュンシン」と呼んだ。
あたしはその日、親方の使いで榊原様の元へおとずれていた。いつものまゝ、作務衣姿で包みをたずさえ顔を出したあたしの姿を見、開口一番そう仰られた。このかたはいつもこんなように、何もいわぬうちから、こちらの思いを読みとられてしまう。だから、自然語る言葉は少なくなってしまうのだった。
榊原様はその巨体を猫背で丸めて「はあゝ」と溜息をつかれた。
「私にも、責任がないわけではありませんしな……」
「これは、あたしと純心の問題ですから」
榊原様は頬をかりかりと掻かれた。
あたしは榊原様の「お部屋」に通されている。「お部屋」は黒光りする板を床にはり、壁には少々黄ばんだ漆喰がぬられていた。窓からはあまり光が入らない造りになっている。とても、薄暗かった。
榊原様というひとは実に多趣味なかたで、特に手のつけられないのがいわゆる「蒐集癖」とよばれるものだった。集められたものは「きちん」と神経質に分類され、この「お部屋」に納められている。子供時代に石を集めたのからはじまり、時計、絵葉書、古書、切手、それから現在も続行している焼き物、その他蒐集と名をつけて集められそうなものはあらかたやり尽くしたあげく、二年ほど前から佛像にこり始めていた。しかし、さすがの榊原様も佛様の蒐集なんぞという節操のないまねはなさらなかった。結果、発生した情熱は、佛像関係の美術館めぐり、寺めぐり、はてが外国の遺跡めぐりやらに昇華されることゝなった。ちなみに、純心の時計好きは、榊原様から伝播したものである。
現在、榊原様の「お部屋」に納められている佛様は、今あたしの眼の前にある小ぶりの観音菩薩様一体こっきりだ。なぜ榊原様が数ある佛様のうちから観音様を選ばれたのか、その根拠は不明だ。けれども、ふわりと美しいお姿でたゝずまれる
「――とかくこの世に娯楽は増えたが、ほんとうに愉快なものなど増えてはいない」
突然の、榊原様が低くつぶやかれた言葉に顔を向けると、榊原様は好々爺の笑みで
「私のセリフではないのです。純英住職の言葉ですよ」
あたしはまた黙った。今度はうつむかずに真正面にいらっしゃる観音菩薩様をみた。
「私はねぇ、水葱子さん。あなたがた魂音族のことを、まるで、この菩薩様のように感ずることがありますよ」
「魂音族を、ですか?」
「菩薩様は如来様よりひとに近い佛様です。つまりまだ修行中の身でいらっしゃる。が、悟りはわかっていらっしゃる。しかし悟られようとなさらない。わざとです」
「わざと」
「なぜだかわかりますか?」
「いえ」
榊原様は、いとしそうに、そして切なそうに観音様をみつめあげた。
「菩薩様がたは、人を助けやすいよう、あえて人界にちかい菩薩という立場でおられるのだそうです。つまり現世利益のために。あなたがたは魂の自覚をなさっているのだから、いくらでもこの
「――……。」
あたしは、じっと観音様のお顔を見る。この眼差しの奥に、あたしが見たかった世界がみえるのではないかと、少し考えた。
†
もう、ずいぶんと寒くなった。
林常寺の中庭を迂回して抜け、裏手にあたる角田家の玄関にまわった。チャイムを鳴らして待つ。待つ時間が、ひどく長い時間に思えた。
がらがら引き戸が引かれた。自然背がのびる。出てきたのは、いつも応対してくれる手伝いのミネさんでなく、また純心でもなかった。
薄暗い玄関の中、立ちつくす純英住職は、じっと、あたしの顔をみていた。
あたしは、生まれて初めて角田家の茶室に通された。純心にも入れてもらった記憶はない。そこが、ある種のけじめだったのだろう。林常寺は、茶の道で知られた寺だ。純心に茶を点てゝもらうのは、彼の部屋と水葱の家と、榊原様のお茶室に限られていた。
純心と細君は、細君の実家に娘を見せにいっている。だから、今日角田家にいるのは純英住職ひとりなのだった。
ごとり、と優美な
「
純英住職も、やはり「スミコ」でなく「ジュンシン」と称した。坊主としての呼び方のほうが、純英住職にも、それから他の人達にとってもしっくりくるのだろう。この人も、俗世での名は「ジュンエイ」でなく「スミヒデ」である。あたしは伏し目勝ちにお濃茶をいたゞいた。
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