断罪ナイフ

北見崇史

断罪ナイフ

「おまえら、あと一週間で夏休みだからって、たるんでるんじゃないのか」

 市立青葉中学校一年三組の教室。

 担任の市川教諭が教壇に立ち、夏休み前で浮ついている生徒たちに向かって言い放った。

「佐々木、聞いてるのか」

 佐々木という男子生徒が注意されている。

 彼はこのクラスの問題児であり、集団がまとまらない要因の大部分を占めていた。ちなみに、座席は最前列である。

「もう夏休みしちゃいます~。パーティーだ、ハッヒャー」

 教師に名指しされても佐々木はどこ吹く風で、かえっておだってしまい、立ち上がって奇声をあげていた。

 ゲラゲラと笑いが起こる。たいして面白くもないのだが、佐々木が発言すればウケるのが三組のお約束となっていた。このクラスの混沌は、彼から始まるのが常であった。

 佐々木に同調して、何人かのお調子者の男子たちが教室内をうろつき始めた。市川教諭は、こういう事態を何度も経験している。いつもは彼らが飽きて着席するまでやり過ごすのだが、今日は違った。

「よーし。みんなよく聞け」

 存外に太い腕を組んで、鋭い鷹の目で睨みつけながら言う。

「いいか、これは一年三組に対する犯罪だ。入学式から今日という日まで、おまえたちはさんざんに教育を貶めてきた。好き勝手やって、大人を愚弄し、団結する尊さを壊してきた。これは重罪となる」

 担任の声色がドス黒く濁っていた。どことなく不穏な空気を読み取った生徒たちの背筋が硬くなる。おしゃべりが減って、空気のざわつきが治まった。めずらしく教師の声がよく通るようになった。  

「特に佐々木の罪は重いなあ。いっつもおまえが騒ぎ始めるからクラスがおかしくなる。まとまりがなくなって、バラバラになって、ぐじゃぐじゃになるんだ」

 担任がゆっくりと歩いている。佐々木を捕まえるわけでもなく、そうっと肩に手をあてて、着席するように促した。

 終始落ちつかない性質の男子は、剣呑な気配を察知したのかおとなしく従った。調子に乗って歩き回っていたほかの男子生徒たちも、慌てて席に戻った。教室内はシンと静まっている。

「罪には罰がある」

 大きな声だったが、三組の生徒たちが注目したのはそこではない。

「これは、断罪ナイフだ」と、教壇に戻った教師が高々に掲げたのはナイフであった。

 赤茶けて見えるのは血で汚れているわけではなく、ナイフ全体に錆が浮いているからである。よくあるサバイバルナイフほどの大きさで、特別凝った形状でもなく、刃全体が錆だらけ以外はありふれたものだった。

「これより三組の罪を断ち切るぞ。まずは佐々木、おまえからだ」

 担任の言っていることがわからず、再び名指しされた男子生徒はキョトンしていた。

「この断罪ナイフが佐々木のあらゆるところを切り刻むからな。血が噴き出したり、内臓がとび出したり、生臭かったりするが、我慢してよーく見ておくんだ。他人事じゃないんだぞ」

 サッと、その錆だらけのナイフが振り下ろされた。ザラザラとして細かな刃こぼれがあるが、まだまだその性能は侮れなかった。

 男子生徒の頬がえぐられた。スーッと切れたわけではなく、多少の引っ掛かりがあったので、切り口はざっくりと痛々しいものとなった。

「ギャッ」

 佐々木が悲鳴をあげる。慌てて頬に手を押し付けるが、指の間からだらだらと血が流れ落ちていた。担任の凶器が、かまわず振り下ろされ続ける。

「ほら、断罪ナイフは切れ味が悪いから、こうやって何度も何度も切り込んでやらないとならないんだ」

 振り下ろされるナイフから防御しようと、両手を顔に張り付ける。断罪ナイフは容赦なく指の肉を削り落とし、骨を砕いた。ガードが下がったところで、あらためて顔面の皮が切り刻まれてゆく。

 周りに佐々木の血が飛び散っていた。右隣の女子生徒の肩と顔にもかかった。机の端には鼻の一部が引っ掛かっていて、見ようとしたくない気持ちに抗って、彼女の本能が食い入るように見つめていた。

「こうやってしつこく切ってやらなきゃな、ダメなんだぞ」教師らしく、生徒へ言いきかせるような口ぶりだった。

 佐々木の両手と顔面がズタズタに引き裂かれてしまった。手の指やひらの皮膚はべろりと剥けて、耳たぶがたくさんぶら下がっているようになった。顔はもっとひどく、血糊たっぷりのモップみたいであった。さしたる抵抗がなくなり意識を失いかけている。

「わーっ」と、男子の一人が叫んで逃げ出した。脱兎も顔負けの勢いで、いくつもの机や椅子をなぎ倒し、前進の障害となった者を突き飛ばしての逃避であった。彼の遁走を合図にクラスの桎梏が解かれて、数十人が一斉に動き出した。

「開かない、開かない」

「早く行けよっ」

「助けて、お母さん」

「だから、開かないんだってよっ」

 怒号と悲鳴が、恐怖と絶望により増幅されている。教室の前と後ろにある出入り口には、パニックに陥った生徒たちがアリの群れのようにたかっていた。しかし、扉はしっかりと閉じられており、数人がかりで引っぱってもビクともしない。 

「なあ佐々木、先生は好きでやってるんじゃないぞ。断罪ナイフを持ったからにはやらなきゃならないんだ。職員会議でも決まったことだしな。もう中学生になったんだから、罰を受けることは知っているだろう。仕方ないんだ」

 そう言って、血だらけになったシャツと肌着を剥ぎ取った。露わになった肉体へ容赦なく断罪ナイフが振り下ろされた。何回も、何十回もである。

「おまえら、授業は終わってないんだぞ。むしろ始まったばかりだ。席につけ」

 出入り口付近に固まっていた生徒たちに向かって担任から指示が飛んだが、誰一人として席に戻ろうとしなかった。

「委員長、みんなを座らせろ」

 断罪ナイフは、肋骨の間にへばり付いている肉をこそげ落とすように切り刻んでいた。すでにミゾオチを数回刺されているので虫の息となっている。腕や胸以外にも心臓近くの血管が破れてしまい、血の大洪水となっていた。

「おまえらーっ」

 耳をつんざくような怒号だった。

「自分の席に戻れと言っているのに、どうしてわからないんだ。この断罪ナイフで切り刻まれたいのか」

 こうか、こうだ、と叫び、担任が血まみれのナイフを振り回しながらアリの群れに迫ってきた。

 生徒たちは悲鳴をあげて散らばり、ピンボールのように、教室内をデタラメに弾けまくってからようやく着席した。一人が座ると、我先にと血相を変えて戻るのだった。 

 教室内が落ち着いたことを見計らって、担任が話を続ける。

「ようし、今日の午前中の授業は佐々木に対する罰の見学な。ちゃんと背筋を伸ばして見てろよ。サボったやつは佐々木と同じ目になるからな」

 誰にも異論はなかった。逆らおうとする気力など一ミリもない。想像だにもしない圧倒的な残虐に遭遇し、さらに逃げる道も閉ざされている。茫然自失の状態なのだ。

「そんなに時間はかからんぞ」

 担任はそう言うが、十分に錆びついて刃こぼれしたナイフの切れ味は良いとはいえず、肉をそぎ落とすのに労力と時間を要した。

「こうやってな、佐々木は小さくなっていくんだ。少しずつこそげていくと、こいつの罪が断ち切られるんだよ。ここ大事なところな。テストに出るぞ」

 クラスで唯一の優等生女子がノートに書き込むが、ペン先が紙を破っていた。

「日直」

 咲き乱れたサルビアの花みたいになった生徒を解体しながら、担任が本日の当番を呼んだ。血だらけの手がせわしなく動いていた。筋のある箇所が切れなくてイライラしている。

「日直っ」

 刺さるような怒声を張り上げると、日直の男女が蹴飛ばされたように立ち上がった。

「佐々木を入れるから、校務員室に行ってバケツ持ってこい。あるだけください、っていえばわかるから」

 佐々木の席は血の海となっていた。生温かくも生臭く、さらに鉄臭い湯気が、もわっと立ち昇っている。両隣の女子生徒は嘔吐が止まらず、泣きながら「ゲボが止まらない、ごめんなさい」と謝っていた。

 日直の二人が教室を出て行った。あれほど頑なだった引き戸は、いつも通りあっさりと解放した。廊下を全速力で走り、指示された場所ではなく職員室にとびこんだ。

 日直のペアが顔中を口にしてクラスメートの惨状を訴えた。授業中なので職員室はまばらだったが、とにかくその空間にいる全員に聞こえるように叫んだ。途中、何度も支離滅裂になり、泣き出して金切り声になりながらも必死の説明である。

「すぐにバケツを持っていきなさい。佐々木君はチビ助だけども、四つはいるんじゃないかな」

 そばにいた一年生の学年主任が言う。日直たちは茫然と立っていた。

「市川先生のいうことをきかないと、今度は君たちがバケツに入ることになるぞ」

 二人は走った。

 一階の校務員室に入ると、すでにバケツが用意されていた。たいして広くもない部屋の中に青いプラスチックバケツが数十はある。

「一年三組だな。いちおう、全員分用意しておいたよ」

 灰色の作業着姿の校務員が事務的に言うと、女子が四つだけだと喚いて、結局一人二個ずつを持った。

 教室に戻る途中、スマホを手にした二人は手分けして親や警察に事情を話すが相手にされず、逆にちゃんと授業を受け続けるように説教された。絶望しながら一年三組に戻ってきた。

「おう、日直、遅かったな。どうだ、佐々木がこんなになっちまったぞ」

 佐々木という傍迷惑な男子生徒がほぼ骨だけとなっていた。断罪ナイフの切れ味がよくないので、肉片があちこちに残る雑な骸骨である。席の横に細切れの肉と内臓類がこんもりと山を作っていた。人間一人分の血液は相当な量であり、辺りは血の海だ。すさまじい光景であって、嘔吐や失禁するもの多数、中には脱糞している女子生徒までいた。

「人一人分って、けっこうあるなあ」

 佐々木はさっそくバケツに収納された。腕まくりした市川教諭が肉山に手を突っ込んで、えっさえっさと放り込んでいる。べちゃべちゃとした音が、生徒たちの神経を蝕んでいた。

「骨は、断罪ナイフの柄で、こうやってぶっ叩くといいんだ。こうやって、こうだ」

 血液と肉片にまみれた骨までもが小さく砕かれてゆく。断罪ナイフの柄の部分はかなりの硬度があり、まるで蛍光管を割るがごとくであった。

 断罪ナイフがガツンガツンと打ち据えるたびに、その響きが子供たちの心臓をボコボコと叩いた。

「はあ~、先生は疲れたなあ。腕が上がらんぞ。ほんとに佐々木は世話が焼けるなあ」

 青いプラスチックバケツには、数えきれない肉片と砕かれた骨が詰め込まれていた。腸は弾力があって切りにくいのか、時間をかけて細かくされた。最後のバケツも満杯となり、そのまんまの形を残した脳ミソがデンと置かれた。

「目玉もつけてと」

 担任は、脳ミソのすぐ前に目玉を置いて茶目っ気を見せるが、クラス全員は真顔のままであり、ときどき思い出したように吐いていた。

「よーし、給食にするぞう。当番は用意しろよ。今日はビーフシチューだ。佐々木の好物だったなあ」

 給食当番が準備を始めると、生徒たちが食器をもって教壇付近に集まった。すぐ近くには佐々木が解体された現場がある。彼の席と椅子は血だらけというより血の池であるので極力見ないようにしていた。

 四つの青いバケツが禍々しく鎮座している。ビーフシチューのおいしそうな匂いと佐々木の生臭さ、嘔吐や脱糞のニオイが混ざり合って、そこは臭気の地獄絵図だった。

 ビーフシチューを食いながらも、担任の左手にはあのナイフが握られていた。

「断罪ナイフが次に誰を切り刻むのかは、おまえら次第だからな。教育の現場をナメた者には罰が下るんだ。ちゃんと勉強して、まじめに生活して、積極的に奉仕しろよ」

 生ぬるくドロッとした汁を口の端から滴らせながら言った。

「返事は?」と教師が訊く。

「はい」ぼそぼそとした声がいくつか帰ってきた。

「もっと大きな声でっ」その怒鳴り声には強い圧力があり、ある種の凶事を予感させた。

「はいっ」

 今度はクラス全員のハッキリとした返事があった。


 その日から、市立青葉中学校一年三組は良い方向に変わった。

 しっかりと授業に身を入れることはもちろんのこと、ホームルーム、清掃、課外活動なども積極的にこなすようになった。学年最低だった学力も上昇の兆しを見せ始めた。教師や父母からの評価も上々だった。ふわふわと散漫ぎみだったクラスの雰囲気に骨格が育っていた。

「おまえら、最近はがんばっているな。だから、いいことがあるぞ」

 ある朝のお昼、クリームシチューのカップを持ちながら、市川教諭がそう言って教室前の引き戸を開けた。誰かが入ってくると思い、クラスの全員が注目する。

「・・・」

 やってきたのは肉片であった。

 人の耳ほどのこま切れ肉が、ヘクヘク、ワナワナとわななきながら入ってきた。歩いているわけではないのだが前進している。

「後ろのおまえら見えないだろう。みんな前に集まれ」

 担任の指示があった。後ろの席にいた生徒たちが前のほうに集まってくる。数十の目が血が滴る新鮮な生肉に注目していた。

「あれ、佐々木じゃないのか」

「佐々木のどこだよ」

「たぶん、腹かどっかの肉だと思う」

「動いてるよ。生きてるのかな」

 そのこま切れ肉は佐々木の椅子に落ち着いた。その席は、乾いた血が糞便のようにへばり付いて汚らしかった。

「違うのが来たよ」

 べつのがやってきた。一つ目とまったく同じ動きをして、佐々木の席を目指して進む。

「ほんとだ。また肉だって。なんなんだよ、もう」

「気持ち悪いなあ」

 最終的に四つの肉片が着席した。それらは椅子の上でしばしワナワナした後、たがいにくっ付き合って一塊となった。元の身体の一部分になったことを皆が理解する。

「おまえたちが一所懸命がんばると、少しずつ戻ってくるんだ。がんばって、がんばって、良い中学生活を送るんだ。そうしたらあいつも元通りになるさ」

 模範的な中学生として学校生活をおくると、少しずつ切り刻まれたクラスメートの断片が戻ってきて、やがて元の姿になるとの説明だった。ただし、以下の警告を付け加えた。

「もし卒業までに佐々木が元通りにならなかったら」

 食いかけのクリームシチューが入ったカップを、目の前の女子生徒へおもいっきり強く投げつけてから市川教諭が宣言する。

「おまえら全員断罪ナイフだーっ」

 おりゃー、と叫びながら無茶苦茶に断罪ナイフを振り回して生徒たちへ突進した。瞬時に恐慌状態となり、たいして広くもない教室内を中学生たちが血相を変えながら逃げ回った。お互いにぶつかり、机や椅子に引っかかって転倒したり、いつか見た光景が展開されている。

「こうだっ、こうだっ、おまえらをこうしてやるーっ」

 怒髪冠を衝くような叫びが響いていた。

 縦横無尽に空を切る断罪ナイフの恐怖は、精神的な重量となって圧し掛かっている。

「悪い子はいねえかーっ。おまえらの肉をおそげ落としてやるーっ」

 阿鼻叫喚とはまさにこのことであり、教室の中はパニックの大嵐であった。

 絶望して号泣する者、戦慄し体が硬直する者、発作的に二階の窓から飛び降りて足を骨折した男子が多数、失禁する女子が幾人かいた。すでに切られた心境となって悶絶して泡を吹く生徒もでた。

「というわけで、せいぜいがんばるんだぞ。卒業まで、まだ二年半あるからな。佐々木を元通りにしてやろうな」

 生ぬるいクリームシチュ―で汚れた女子生徒の顔に張り手を一発かましてから、市川教諭は機嫌よく椅子に座った。

「おまえら、早く食って午後の授業に備えろよ。それと外でケガしてるやつらを手当てしとけ。連帯感っていうのも大事だからな」


 市立青葉中学校三組のがんばりは目を見張るものがあった。

 生活態度が改まったのはいうまでもなく、成績も学年で一番となった。学校行事以外に、地域のボランティアまでやっていた。

 断罪ナイフでバラバラにされたクラスメートが少しずつ戻ってきて、彼の席に座る肉の塊が成長している。いつかは元通りになるだろう。生徒たちのひたむきな姿勢には抜き差しならぬ理由があった。もし卒業式に佐々木が出席しなければ、クラス全員が罰せられてしまうのだ。

 お互いの連絡を密にして、常に励まし合い、気合を入れていた。当然、上昇するレベルについていけない者やサボタージュに走る生徒もいたが、クラス全員が囲みこむように助力した。脱落する者の両脇を皆で支えて前へと進んでいた。まさに一致団結という言葉が相応しいクラスとなった。


 そうして、市立青葉中学校創設以来のミラクルクラスと呼ばれるまでになった。

 ジグソーパズルのピースとなっていた佐々木の肉体も、一つ一つ戻ってきては融合し、人体を形成していった。三年生となり中学生活最後の夏休みを前にして、あとは顔面の肉を残すのみとなった。

 そして一学期の終業式の日、四つの肉片がワナワナとわななきながらやってきて、佐々木の席にいる肉体の顔へと収まった。

「あっ、こいつ佐々木じゃない」

「ほんとだ」

「誰だ」

「おじさんじゃないの、おじさん」

「佐々木君がおじさんになっちゃった」

 佐々木の席に座っているのは、アラフォーの男性であった。小柄で佐々木ぐらいの体格だが、顔はあきらかに別人である。予想外の結果にクラス全員の視線が教壇に注がれた。市川教諭が説明する。

「この人は先生がよくいくスナックの常連で、本名は知らんけど山ちゃんって呼ばれてて、店の女の子にちょっかい出してウザかったからケンカして殺してしまったんだよ。断罪ナイフでバラバラにしちまったんだ」

 突然の告白に、品行方正な中学生たちの目が点になった。

「やり過ぎたかって気になっててな。だけど、がんばるおまえたちが元通りにしてくれたおかげで、先生の罪が断たれたよ。いや~、ありがとな。サンキュー」

 山ちゃんと呼ばれるスナックの常連客は、隣の女子生徒の胸をササッとお触りしてから教室を出て行った。

「先生」と、背筋を伸ばした正しい姿勢で手をあげたのは学級委員長の男子である。

「なんだ、委員長」

「あのう、だったら佐々木君はどうなったんですか」

 彼が戻らないことには、クラス全員が断罪ナイフで切り刻まれてしまう。切実な問いだった。

「なにいってんだ。戻ってきてるじゃないか」

 担任が教室前方の引き戸を指さした。山ちゃんが出ていく際に少しばかり開けていたのだが、パッと見て肉片が来ているような気配はなかった。

「みんな、立ってもいいからこっちに来て、よ~く見ろ」

 全員が席を立って戸の前に集まった。担任が指し示す箇所に向かって目を凝らしている。

「あ、なんか動いてる」

「え、どこ?」

「ほら、あそこだよ。鼻くそみたいなやつ」

 ハナクソというより、挽き肉の一粒であった。

 小さな小さな肉粒が、秒速三センチメートル程度の速さで転がっていた。かすかな生臭さを立ち昇らせているそれは、クラスの全員が見つめる中を転がり続け、佐々木の椅子に登って着席した。

「ほら、佐々木が帰ってきたぞ。卒業までまだ半年以上あるからな。おまえら、がんばれ」

 断罪ナイフを見せながら、教師市川がニヤリとする。

 どれほど努力したら、挽き肉の粒を人間にできるのだろうか。これより市立青葉中学校三年三組の長くて短い苦闘が始まる。

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