明けましておめでとうが言いたい話

春夏冬 しゅう

末夢








「ヘイ、お嬢さん。除夜の鐘聞きに行くには早すぎない?」




砂利の敷かれた仄暗い駐車場から、飄々とした女性の声が飛ぶ。声の向かう先にいた早苗は視線で辺りを伺い、人気の無い夜道を確認し顔を強張らせた。着ていたコートの胸元を閉め、緩まっていたマフラーを整え口元を隠しながら早苗は声の主を一瞥する。駐車場の奥にぽつりとある街灯の下に一台のバイクが停まっており、そこに腰掛けたライダースーツにヘルメットの女性が早苗に向かって手を上げた。早苗は眉を顰め逡巡した後、ぎこちなく笑顔を向け言う。




「そうですね」




ぺこりと浅くお辞儀をし、止めた足を再び動かし夜更けの路地を歩き始める早苗。ライダースーツの女性は上げた手もそのまま呆然とし、慌ててバイクスタンドを蹴り外す。次第に足早になっていく早苗を追いバイクを押す女性は尚も早苗に呼びかける。




「大晦日とはいえ、こんな夜中に独り歩きは危ないよ。こんな地方都市でも不審者はいるわけだし」


「……そうですね」




何かを言いかけたように口を開いた早苗だが、深く息を吐き返事を返す。それでも足を止めない早苗の背中を見ながら女性は早苗に話しかけた。




「もしかして家族と喧嘩でもしたの?この年の瀬に家出とか?」


「赤の他人に言う必要無いでしょう」




早苗は振り返り女性を睨みつける。女性は戸惑ったように足を止め、ヘルメットを外す。目元に鮮やかな化粧を施した60代の女性が心配そうに早苗を見つめていた。早苗は目を逸らし、ゆるゆると視線を漂わせるとぼそぼそと呟く。




「すいません、八つ当たりしました。よそ様なのに申し訳ないです」




路地に向き直り、また先へと進み始める早苗。その様子に女性は戸惑い思案するが、再びバイクを押し早苗の後を追う。




「まぁこっちが首突っ込もうとしたのもあるし。私嫌な気分のまま年越ししようとしてるの見ると気になっちゃうのよね。今年の憂いは今年の内にって言葉もあるでしょう?」


「聞いたことないですけど」


「あらそう」




あっけらかんとした様子の女性に早苗は憮然と返す。しかし早苗の足は次第に緩慢な運びになっていき、ついにはバイクを押す女性と並んで歩き始めた。




「どこのお寺に行くの?もし良ければ送っていくよ。その方が早い」




予備のヘルメットあるし、とバイクをポンと叩く女性。




「そのまま別の場所に連れていかれそう」




早苗は慌てて自分の口を押え、決まりが悪そうに顔をしかめる。女性はぽかんと口を開けた後、大声で笑い始めた。女性を見て戸惑う早苗の様子にも女性の笑いは大きくなり、バイクに持たれかかる女性を呆然と見つめる早苗。所在なげにコートのポケットに手を突っ込み、女性の笑いが収まるのを待つ。しばらくすると女性の笑いは収まったが、目には涙が浮かんでいた。




「いや、ごめんね。昔同じ事言われた事があって。でもそんなに怪しく見える?よくいるでしょうこういう姿の人?」


「いますけど、夜道で見知らぬ人に話しかける人はめったにいないです」


「なるほど。私の周りじゃよくあるんだけどな。その場のノリで呑みに行ったりするし」




からからと笑う女性に信じられない物を見るような眼差しを向ける早苗だが、ふと自身の顔が綻んでいるのに気づき、マフラーで隠す。それを視線の端に捉えた女性だが、何事も無かったかのように夜道に視線を向け言った。




「私が不審者なのは構わないけど、本当に一人で除夜の鐘を聞きに行くの?どうせなら家族一緒に行った方が賑やかじゃない?今からでも戻って誘って、全員で寒い寒い言いながら除夜の鐘聞いて、明けましておめでとうって言った後に家に戻って、炬燵にしばらく入りながら蜜柑でも食べてバラエティ番組観て、いつの間にか寝落ちして……。なかなか満ち足りた年越しだと思うよ?」




目を細めながら語る女性をじっと見つめる早苗。次第に眉が八の字に下がっていき、女性から顔を逸らし密かに鼻を鳴らす。沈黙した早苗の様子を伺おうと女性は早苗を見つめるが、早苗は女性の方を見ないまま、明るい声色で言葉を返した。




「行先、お寺じゃないんですよ。だから家族は誘いにくいんです」




表情を伺えない早苗に、女性は進行方向に顔を向け早苗に合わせる。




「神社?銭湯?」


「不正解」


「ここから近い?」


「ちょっと歩きますね」


「この時間にわざわざ行くところでしょう?思いつかないな。……屋台探してるとか?」


「違いますけど、なんだか焼き芋食べたくなってきましたね」


「おでんとかラーメンとかも美味しいよ」


「見かけたことはあるんですけど入ったことは無いんです、それ。大人だ」


「次見かけたら入ろうか」


「おごりですか?」


「仕方ないなぁ」




軽い言葉の応酬が続くが決してお互いに顔は見ず、無音の路地を連れ立って歩き続ける。




「なんだろう。知り合いと待ち合わせとか?」


「約束してはいないですけど、会う予定です。」


「なんだか回りくどい言い方。だれ?友達?」


「なんでしょう……こちらは相手を何度も見てはいますけど、相手がどうだかは」


「……恋しちゃった?」


「だったら平和なんですけどね」




女性は眉をひそめる。早苗の顔が強張ったが、沈黙を打ち消すように女性の返事が来るとその強張りは微かに解れた。




「ちょっと思いつかないな。詳しく聞いてもいい?」


「良いですけど、聞いても分からないかもしれませんよ」


「世界は広いから」


「壮大ですね」


「よくある事だよ」


「なんですかそれ」




早苗から笑いが零れる。釣られるように女性も笑った。しばしの沈黙の中、十何基目かの街灯の灯りを乗り越える。顔に影が差す中、早苗は口を開いた。




「日付が変わる直前くらいに、私の家族全員殺されるんですよ。これから会いに行くのはその犯人です」




女性の足が一瞬止まり、直ぐに通常の歩調へ追いつく。早苗は誰もいない真正面を見据えながら話し続けた。




「たぶん予知夢とか虫の知らせだと思うんです。居間の炬燵で寝ていて、起きたらバラエティがつけっぱなしで賑やかで、弟と妹が居間に来て言い合いしてて、その後父と母が年越し蕎麦持ってきてくれて。食べようとしたらいつの間にか父の後ろに黒づくめの人がいたんです。父が殺されて、父に駆け寄った妹が次に殺されて、私達は逃げようとして、私と母を庇おうとした弟が殺されて、私を庇って母が殺されて……。気が付いたら、また炬燵で寝ていました。起きたらテレビで年越しのカウントダウンをしていて、画面の向こうは楽しそうで幸せそうで賑やかで。でもこっちはしんとしてて、周りを見ると皆動かなくなっていて」




一息ついた早苗だが、周囲の静けさに、上ずった声で再び口を開いた。




「ていう夢を見たんです。炬燵で寝落ちしていたみたいで、バラエティ流しながら寝たのに悪夢見たって居間に来た弟と妹に愚痴って、なんだか怖くなって玄関を見に行ったら鍵がかかってなかったんです。怖いって皆でぎゃーぎゃー言いながら鍵をかけてチェーンもつけて、安心して炬燵に戻ってゆっくりしていました。その後父と母が年越し蕎麦持ってきて皆で食べようとした時にチャイムが鳴ったんです。母と父が玄関に行ったら悲鳴が聞こえて、玄関から黒づくめのその人が歩いてきて……」




弟が殺され、とっさに妹を庇おうとしたが上手くいかず妹が殺される。気が付くと静かな家で、テレビだけが賑やかに年越しまでの秒読みを始め、誰も返事を返さない。そんな悪夢から目覚め、正夢にしないよう試みるが家族は殺され、新年への秒読みが始まる頃には早苗一人だけが取り残される。そして最悪な気分で目覚め、現実にならないよう試行錯誤を繰り返すが黒づくめの犯人は必ず殺戮を遂行し、気づけばカウントダウンが無音の家に響き渡る。延々と続く悪夢と覚醒の話を明るい声で話し続ける。自身の胸元に置かれた早苗の手がぎりぎりとコートの生地を握りしめた。




「で、さっき目が覚めたんです。これだけ繰り返しても一度も明けましておめでとうが言えなかったんですよ。完璧に悪夢過ぎて逆に素晴らしいというかなんというか。あまりにも現実感が有ったし、これは予知夢だなと。だから前もって犯人の家に突撃して正夢になるのを回避しようと思って。流石にこれは家族には言えませんよ」




あははと声に出して笑う早苗。女性は答えず、握りしめていたハンドルの手を緩めた。早苗の笑い声は弱まり、終いには嘆息する。女性の方を向くことが出来ず、握りしめたコートの生地を指で擦る早苗。その肩を女性が軽く叩いた。




「家族大好きなんだね」




からかい混じりの声に、早苗は鼻を鳴らし、頬を掻いた。




「いや、大好きとかそういうのじゃないです。実際見ると分かりますよ。本当に目覚めが悪くて悪くて」


「でも身を挺して家族を庇ったんでしょ?夢だと思ってないのに。実際上手く出来なかったとしても、それができるのはすごいよ」


「まあそれなりに良い関係ではあるので……。嫌いだったらしないです。家族でも絶対」


「やっぱり大好きなんじゃない」


「止めてもらっていいですか」




女性を睨みつける早苗。女性はにんまりとした笑みを浮かべており、早苗の口から唸り声が漏れる。




「それで、犯人の家はどこ?もっと先?」


「そこの十字路を曲がった先です」




マフラーを緩めながらぶっきらぼうに言い返す早苗。




「なるほど。じゃあ行こうか」




曲がった先は変わらず住宅街で、塀が立ち並ぶ途中にぽつりぽつりと街灯の光が浮かんでいた。




「それにしても何度も何度も繰り返す夢なんてね」


「本当ですよ」


「それだけ繰り返してもなんとか出来なかったって厳しいものがあるね。なんだっけ。鍵を閉めても駄目。玄関を封鎖しても駄目。武装しても駄目。庇おうとしても出来ない。殴れない。通報しようとしても駄目」


「そうですね、ざっくり言うと。まあ夢の中だったので上手くいかないのは当たり前かもしれませんけど」


「今それ試した?」




早苗は驚き女性を見返す。その様子を見て女性は立ち止まり、バイクスタンドを立て自身のスマホを取り出した。




「じゃあ、例えば通報試してみようか」


「いや、待ってください。今夢じゃないんですよ?通報なんてしたら迷惑になりますよ」




慌てて制止しようとする早苗を女性は穏やかに言う。




「繋がったら殺されそうだってことを言って家に来てもらえばいいじゃない。犯人が来たら取り押さえてくれるよ」


「いや、でも、殺人が実際起こるか分からないし」


「じゃあなんで君は犯人の家を探しているの?」




女性にまっすぐ見返され、黙り込む早苗。女性は自身の携帯を操作する。が、すぐに眉を顰めて画面を早苗に向けた。




「見てて」




携帯の画面は電話番号の入力画面になっている。そこに女性が110番を入れようとするが、何度繰り返しても入力出来ず、通報が出来ないでいた。指先が別の番号を入力してしまったり、画面が消えてしまったり、女性の手が思うように動いていないようだった。




「君も試しにやってみなよ」




戸惑いながら早苗は自身のスマホを取り出し、言われるままに通報しようとするが、早苗の手も同様だった。




「手が悴んでいるからですかね?」


「そんな感覚する?」


「……」




手を見つめ、握っては開きを繰り返す早苗。首に手を当てるが腑に落ちない表情のままの早苗を見て、女性は自身の顎に手をやった。




「色々やってみようか」




そう言って女性はポケットから灰色に鮮やかな赤いマークの付いた箱を取り出し、中から一本煙草を取り出した。




「吸う?」


「……遠慮します」


「狸や狐に化かされた時には煙が良いらしいからね」




そう言って女性は煙草に火をつける。深呼吸と合わせるように紫煙が揺らぎ、吐き出される。早苗は鼻を押さえ顔を顰めた。女性は眉を上げる。




「煙苦手?どんな香りする?」


「……あまり好きではないです。苦いし臭いし」


「煙だしね。銘柄変える前に言われたな、臭いから嫌いって」


「甘い香りの煙草もあるのは知ってますけど、それ以外のはちょっと……」


「ふぅん」




女性は意味ありげに相槌を打つと、煙草の火を消し携帯灰皿に仕舞う。早苗は軽く周りを見回し、不満そうに言った。




「化かされてるわけじゃないみたいですね」


「そうだね。じゃあ他の可能性を考えなきゃいけないわけだけど」


「良いですけど、歩きながらにしましょう」




そう言って歩きだそうとする早苗に、女性はバイクのハンドルを傾けながら言った。




「ちょっと君これ持ってくれない?」




早苗は首を傾げるが、大人しくバイクのハンドルを持ち車体を支えた。微かな驚きの表情と共に小声の驚嘆が漏れる早苗。その様子をじっと見つめていた女性は、早苗が車体を押そうとすると驚いたように言った。




「支えられるんだ?君が下敷きになるくらい重いのに」


「え」




その瞬間、ぐらりとバイクが傾く。早苗は驚愕と焦りが露わな顔で車体を支えようと体重をかけるが、じりじりと車体に押し負けて膝をつき、間一髪身をよじり下敷きを免れた。上がる息もそのままに尻もちをつき呆然とバイクを見つめる早苗。バイクの反対側にいる女性もその有様に硬直していた。




「……大丈夫?」




おずおずと早苗に手を差し出す女性。呆然としたまま早苗はその手を掴もうとするが、上げた自身の手が震えているのに気づき、女性の手は掴まず睨みつけながら乱暴に立ち上がった。行き先を失った女性の手は暫しその場を彷徨い、バイクのハンドルへ辿り着く。女性がハンドルを握りバイクを起こそうと体重をかけるが、バイクはびくともせず横たわっていた。




「それで、私を押し潰そうとして何が分かったんですか」


「……ごめんなさい。こんな事になるなんて少ししか思ってなくて」


「少しは思ってたんですか」


「そんなことあるわけないじゃーんって笑い話になる前提だったの。私の中では。本当に申し訳ない事をしたけど」




神妙に頭を下げる女性に、早苗はため息をついた。




「分かった事があるならそれでいいです。早くバイク起こしていきましょう」


「……バイクは動かせそうにないかな」


「いや、さっき普通に押してたじゃないですか」


「押してた。普通だったら軽々起こせるよ、勿論。でもこれは無理」




早苗は怪訝な顔で女性を見下ろす。女性はバイクのボディを撫で、立ち上がり早苗を見た。




「さっき分かった事の話をしようか。ここは君の夢の中。君は覚めたと思っているけれど、未だ悪夢の真っ最中だ」




衣擦れの音も木枯らしの音さえしない時間が流れる。早苗が先に視線を外し、口角を上げる。




「何言ってるんだか。早くバイク起こしてくださいよ」




「君がこのバイクの事を自分が押し潰されるほど重い物だと認識してる以上、恐らく二人がかりでも動かせないよ」


「私のせいにしないでください」


「そういうことじゃないんだけどな……」


「勘弁してくださいよ。今が夢とか」


「君も不思議に思わない?このバイク、最初持った時は思ったより重くなかったでしょう?それなのに私が重いと声をかけた瞬間重くなった。」


「……ただ単に軽いと勘違いしてたんですよ」


「他にもある。通報を出来ない手の挙動。君も手が悴んで動かないわけじゃないのは分かっているでしょう?あとは煙草の香り」


「夢じゃないですよ絶対。だって夢と今とでは決定的な違いがあります」


「それは?」


「あなたです。今までの夢の中ではあなたは全く出てきませんでした」


「今までの夢の中ではって言うってことは今も夢だって思っているんじゃないの?」


「言葉尻拾うの止めてください」




語気が強まる早苗に女性は頭を掻く。




「まぁ、そこは確かに痛い所なんだよね。私自身はバイクで走ってる途中で眠くなって駐車場で仮眠取ってて、起きたら君が歩いてたから声をかけたんだけど……。夢を人と共有するなんて聞いたことないし」


「じゃあ普通に今は現実なんですよ」


「なんでそこまで夢の可能性を否定するかね」


「当り前じゃないですか。何十回も家族が惨殺する夢を繰り返して覚めもしないなんて、まるで私が家族を殺したくて仕方ないみたいじゃないですか。そりゃ多少嫌な事はありましたよ。長く一緒に過ごしてるわけですから。でも私は皆を殺したいなんて思った事一度も無い」


「夢と願望は必ずしもイコールではないと思うけど」


「だからこそ私は今の現実で、悪夢が再現されないようにやらなきゃいけないんです。……時間の無駄です。ついてこないでください」




肩を怒らせ路地を進もうとする早苗の背に、女性が疑問を投げかける。




「犯人の家を、なぜ君は知っているんだろう?」




早苗は怒りの表情で振り返り口を開く。しかしそこから言葉は出てこず、早苗は呆気にとられる。




「犯人が知り合いじゃなければ、尾行なり何なりで調べなきゃ家なんて分からない。さっき聞いた夢の話ではそこまでの余裕は無かったと思うけど、なんで知っているんだろう?」




顔を伏せる早苗を見つめ、淡々と問いかける女性。




「だいたい、一家皆殺しに出来る人間の所に1人で無防備に行って何をするつもりなのかな?説得?話し合い?そんな楽観主義じゃないよね君は。その細腕だけで相手を組み伏せたり、殺したり出来ると思えるほど愚かでもない。警察も呼ぶつもり無かった。まさか自分が犠牲になれば家族は殺されずに済むとか思っていないよね?」


「……流石にそれは買い被りです」




早苗は自嘲し続ける。




「分からないです。行ってどうしようとか全く考えてなかったです。行ったらなんとかなるとしか思ってなかった。確かに、犯人の家を知ってるはずもないのに」




女性はふっと息を吐きライダースーツの首元を緩める。早苗はよろよろと女性に近づいた。




「どうして犯人の家知ってるんだろう。行ってどうするつもりだったんだろう。というか、今って現実なんでしたっけ?夢でしたっけ?なんで覚めないんでしょう?どうしてあんなにみんな殺されなきゃいけないんですかね?夢だからですかね?」


「……申し訳ないけど、確固として答えをあげられる立場じゃないんだよなぁ」


「は!?」


「もちろん!私はここが君の夢の中だって確信している。けれども、だからと言って証拠は提示出来ないんだよ。あのバイクみたいに君の認識一つで変わるような曖昧な物しかないんだよここには。それは確固たる証拠とは言えない。言えて状況証拠。というか、確固とした物がもしあったらそれは夢じゃなくて現実だから、私の説が間違っていることになるわけで」




早苗は頭を抱える。女性が困ったように笑う。




「儘ならないね」


「面倒くさいなもう!」




早苗の絶叫はすぐ静けさに消える。女性は煙草を取り出し火をつけた。




「まぁ、100%にはならないけど出来る限り状況証拠を集めるしかないと思うよ。例えば、これだけ長い間夜道を歩いているのに私達以外の人と出くわさないとか。酔っ払いが気持ちよさそうに大声で歌っている声がしないとか。遠くで車やバイクのエンジン音が響く音もしないとか。君が叫んだのにどこの家も様子を伺う気配もないとか」


「……心許ない証拠だなぁ」


「いっそ繁華街のど真ん中だったら分かりやすいんだけどね。煙草いる?」




早苗は差し出された灰色の箱をじっと見つめ、おずおずと煙草を一本取りだす。女性の吸っている姿を見ながら口に咥えようとし、しかし寸前で苦虫を噛み潰したような顔で煙草を自身のコートのポケットにしまった。女性はその様子に噴き出し、ライターを早苗のコートのポケットに押し込む。




「えっ、ちょっと」


「これからどうしようか」


「どうって……どうしましょうか」


「私の説が正しいとしたら、君がどうするかで全て決まるんだけどな」


「……もしこれが夢なら覚めたいです。いい加減飽き飽きなので。でももしこれが現実なら、やっぱり正夢になるんじゃないかって怖いです。私も家族も全員無事の状態で正月迎えたい。なので、なんで私が犯人の家を知ってるのか分からないですけど、一応様子は見に行きたい気持ちでいます」


「なるほど、そうなるのか」


「もちろん!今は何も考えてないわけじゃないです。身を差し出すつもりもないし、力で何とかなるとは思ってないです。隠れて様子を伺って、本当に私の家に向かっていたら警察に電話します!」


「さっき通報試して出来なかったじゃん」




女性に言われ、早苗は憎らしそうに自身のスマホを睨みつける。女性は紫煙を燻らせた。




「まぁ、それなら行こうか」


「いいんですか?」


「行った先で更に夢だって確証が得られるかもしれないし。もし現実だったら……いざとなっても2人いるならなんとかなりそうだし。一番の武器は使えないけどね」




バイクを見下ろしへらへらと笑う女性を不思議そうに見る早苗。女性と同じようにバイクを眺め、ふと顔を強張らせ女性に視線を向ける。




「えげつない事考えますね」


「いやぁ、そうでもないと思うよ?」


「怒ってます?」


「どうだろう」




そう言いながら女性はヘルメットを持ち上げ、脇に抱える。




「じゃあ行こうか」




早苗と女性は倒れたバイクを後にし、夜道を進み始めた。変わり映えのしない塀が続き、街灯がぽつりぽつりと立ち尽くしている。




「状況証拠1つ追加。こんなにも分かれ道や十字路が無い路地は住宅街には無いと思うよ」


「かもしれませんけど、私こっちの方来た事無いからなぁ」


「0.1%でも私の説が補強されれば万々歳だから」


「羨ましいなぁ。……もうすぐ犯人の家のはずです」


「へぇ、この先ずっと続いているように見えるけど……」




早苗が足を止める。女性は振り返り早苗を見る。そして早苗の視線を辿り路地の奥へ目を向ける。街灯の灯りを3つ程挟んだ奥で塀が途切れ、その代わりに見上げるほど大きな大樹が2つ、路地の両脇に聳え立っていた。大樹から向こうの場所には街灯など無いようで、ただただ暗闇が広がっている。早苗と女性は目を見合わせる。女性は暗闇を指さし、早苗は強張った顔で首を振った。女性は頷き、大樹へ近づく。嘗め回すように大樹を観察し、その間に佇む暗闇を真正面からじっと見つめる。それを見て早苗は硬い表情のままじわじわと大樹と暗闇に近づいた。女性の背後から女性の眺めているものを見ようと首を伸ばす早苗に気づき、女性は早苗に見えるよう暗闇を指さす。そして咥えていた煙草の煙を深く吸い込み、名残惜しそうに吐き出し、火が付いたままのそれを暗闇に放った。通常ならば大樹の境を一歩超えた場所に落ち小さく火種が煌めくはずの煙草だが、境を超えた瞬間暗闇に呑まれ、形も煙さえも見えなくなる。




「状況証拠1つ追加。こんな場所が現実にあるわけない」


「半分願望ですよね」


「正解」


「まぁ、私も同じ気持ちですけど」




そう早苗が呟いた瞬間、暗闇が揺らめいた。咄嗟に早苗が女性を塀の方へ突き飛ばす。その早苗の手を女性が掴み、2人は共に塀にぶつかった。静かに揺蕩っていた暗闇はぼこぼこと膨らむような挙動を見せ、大樹の境を越え先程女性が立っていた場所に降り注ぐ。そして地面に落ちたそれは空間に染みが広がるようにゆっくりと大きくなり、遂には人間大にまで広がった。




「犯人……」




その様を目の当たりにしていた早苗の口からぽつりと言葉が零れる。女性が目を剥き早苗を見ると、震える声で早苗は言った。




「黒い手袋とか黒い目出し帽にサングラスとか、そういうの付けてるんだと思い込んでたんです。でも思い出しました。この人が、これが、私の家族を殺してきた犯人です」




人間大の暗闇の下半分がゆっくり移動する。それはまるで黒づくめの人間がゆっくり歩いているような動きだった。女性は立ち上がり、早苗を背にしながら暗闇をじっと見つめる。暗闇は2人の存在に反応を示さず、ゆっくり夜道を進み始める。女性は暗闇が距離が出来ると、抱えていたヘルメットを掲げ鋭く息を吐きながら暗闇へ投げつける。ヘルメットは確かに暗闇に当たる軌道を描いたがぶつかることはなく、暗闇を通り抜けた先の路地に音を立てて転がった。舌打ちをする女性。




「こっちからは干渉出来ないのかな?感覚器官は無さそうだけど。もしくは、ここから家への道中でもっと固まるとか……」




そう呟く女性だが、視界の端に必死な表情で走りだそうとする早苗の姿を捉え、慌ててそれを止めた。




「どうしたの」


「だって、だって」


「落ち着いて。慌ててたら出来るものも出来なくなるよ」


「だって、あんなの警察に止められる訳がない。皆が殺されちゃう。何とかしないと」


「なるほど、分かった。じゃああれを何とかするために成功後をイメージしよう。あの化け物が退治出来た後、君は何をしたい?」


「……帰って、明けましておめでとうって言いたい。いつも年越しは妹と弟が特番何見るかで喧嘩してるから、それを眺めたい。父が毎年年越し蕎麦を打つのでそれも食べたい。お母さんはお父さんの蕎麦が伸びるの嫌がるから早く食べなきゃいけなくて、それで……来年も皆幸せでいたいです」


「ここが夢だって私の説覚えてる?」




早苗はこくんと頷く。




「それを試してみる気はない?これはただの悪夢。正夢にもならない普通の悪夢。寝起き直後は嫌な気分だけど、直ぐに忘れるよくある悪夢。君の話じゃ、繰り返す夢の中で君は能動的に目覚めようとは一度もしてない。自分から目を覚まそうとすれば、くっきりはっきり悪夢とおさらば出来るかもしれない」


「……でも、皆が」




コートの胸元を握りしめる早苗。その手に女性は自身の手を包むように重ねた。




「そこの不安は当たり前。だから、少しでも夢だと思える状況証拠を増やそう」


「今からですか?」


「出来るでしょ。アイツ足遅いもん」




女性はビシッと暗闇を指さし朗々と言った。




「君は今から走ってアイツを追い抜き自分の家に帰る!そして家族の自室に突入し家探しする!」


「はぁ!?」


「ここが君の夢なら君の知らない物は無い。現実ならもちろん君の知らない物がわんさか出てくる」


「家族のプライバシーを何だと思ってるんですか!?」


「えー、私としては手っ取り早くていいと思うけど。他に方法があるならそっちでもいいんじゃない?君の家族が本物の家族かどうか見分ける方法」




早苗はぐしゃぐしゃと頭を掻き、路地の向こうを見つめるた後、ちらりと女性を見て口を開いた。




「あなたは来ないんですか?」


「行かない」


「何でですか?ここまでついてきたのに」


「言わない」




口をへの字に曲げる早苗に女性は大声で笑って言った。




「悪夢が正夢にならない保険だと思っておいてよ。あ、君自分で夢から覚めれるタイプ?」


「そんな事考えたこともないですし、覚めれないからこんな事になってるかもしれないんですが?」


「じゃあ私のとっておきを教えよう。目を瞑って、全身に力を入れて、一気に伸ばす!それで起きれなかった事は私は無いね」


「信用出来るのかなぁ、不審者の言う事なのに」




女性が早苗の両頬を摘まみ引っ張る。驚く早苗の顔を見て女性は顔を綻ばせ、早苗の頬から手を放す。




「いってらっしゃい」




そう言って手を挙げる女性。早苗は一瞬きょとんとした後、ハッと表情を変えにんまりとした笑顔を浮かべる。




「いってきます」




女性の掌に自身の掌を叩きつけ、早苗は走りだす。みるみる遠くなる女性の姿を視界の端に捉え、自身の手を見下ろし呟いた。




「状況証拠1つ追加。絶対痛い叩き方だったはずなのにぜんぜん痛くない」












ゆっくりと歩く暗闇の背中を追い抜き、横たわったままのバイクを乗り越え、何十基もの街灯の灯りを飛び越す。その間全く人と出くわさず、酔っ払いの歌声や車やバイクのエンジン音が響く事は無かった。通常ならば息も絶え絶えな距離を走り続け、早苗は自宅の玄関を開ける。中からはテレビの賑やかな音が漏れ聞こえ、キッチンから母が顔を出した。




「おかえりなさい。身体冷えたでしょう?もうすぐお父さんのお蕎麦出来るから、炬燵に入ってなさい」




早苗は母と目を合わせず、震える手を押さえながら家に入りキッチンへ向かった。




「おかえり。蕎麦はもうすぐだから炬燵の上片付けておいてくれ」


「どうしたの?何か飲む?」




キッチンでは父と母がコンロの前で鍋を覗き込んでいた。早苗に気づくと声をかけてくるが早苗は返事を返さない。不思議そうに早苗を見る両親の視線を遮るように早苗は顔を背け、目に入った冷凍庫を開ける。中を漁ると『俺の』と大きくマジックで書かれた赤と白の丸みを帯びたパッケージのアイスが奥底に隠れていた。早苗はそれを持ち居間へ行く。居間のテレビにはバラエティが写っていて、妹と弟が炬燵に入りリモコンを取り合っていた。




「あ、お姉ちゃんおかえり。お姉ちゃんもライブ見たいよね?」


「多数決じゃねえから」


「多数決だよ……アイスだ!」




妹の視線が早苗の手に注がれる。声につられ弟の視線もアイスに留まり、パッケージに書かれた自身の筆跡を見た後不思議そうに早苗を見上げた。早苗はパッケージを毟り取り、中に入っているアイスを落とし踏みつぶした。必死に何度もアイスを踏む早苗に、弟は呆れたように言う。




「なんだよ。もったいないなぁ」


「お姉ちゃん変なのぉ」




揶揄うような妹の様子と共にそれを見ていた早苗は、何度か躊躇うように口を開け閉めした後に言葉を絞り出した。




「デブ」


「お姉ちゃん?」


「豚。ブス。醜い。……」


「ひどーい」




からからと笑う妹を見て、早苗はキッチンへ向かう。キッチンでは父がそれぞれの丼に蕎麦を盛り付けていた。早苗は盛り付けられている蕎麦を床へぶちまける。




「おっと、大変だ」




父は床に落ちた蕎麦を片付け始め、その様子を見下ろす早苗は後ろから声を掛けられる。




「あら、どうしたの?こぼしちゃった?」




母は慌てたように父に駆け寄り、落ちた蕎麦の片づけを手伝い始める。そんな母に早苗は言葉を放った。




「なんでそんなのと結婚したの?」


「何言ってんのもう。火傷してないなら居間の方に行っていなさい」




なんでもないように言う母の様子を見て、早苗は震える息を大きく吐いた。早苗はそのまま玄関へ向かい、一度だけ室内を振り返る。




「ごめんなさい」




誰にも届かない一言を呟き、早苗は外へ出る。夜道を進む内に早苗の歩調は速くなり、遂には走りだした。




「違った。違った、違った!あんな態度のはずがない!本物の家族じゃない!現実じゃなかった!お姉さん!」




女性の元へと走り角を曲がった早苗は、その先にいたものを見つけ足を止めた。黒い人型が道の向こうからゆっくりと近づいてくる。道の先にいる早苗の存在に目もくれず淡々と進んでいるはずのその人型から、なぜか早苗は離れることが出来なくなった。一歩、一歩、人型が近づくにつれ、早苗の顔から笑みは薄れ戸惑いと焦りが滲み始める。遂には早苗の眼前に着き、更に前へと進もうとする人型。早苗は思わず身体を強張らせるが、人型が早苗にぶつかることはなくするりと通り抜けた。人型は早苗の存在など無かったかのように尚も早苗の家へ向かい歩き続ける。早苗は膝を折り、路上に座り込んだ。虚空に視線を彷徨わせ、頭がゆらゆらと揺れる。細やかな吐息にぽそぽそと音が乗り、言葉として溢れ出す。




「やっぱり夢から覚めちゃいけないんじゃないかな?だって私には夢の中の状況しか分からないから、現実でどうなってるかなんて分からない。でも、今も夢の中にいるってことは、たぶん現実では寝続けているっていうのは確定してる。ってことは今の現実は平和な大晦日で、みんな死んでいないってことになる。それならその状態を守るために私は夢から覚めない方がいいんじゃないの?夢の中なら何回家族が死んでも炬燵で起きる所からまた始まるし、大体ここにいるみんなは本当のみんなじゃないし、見た目も性格もものすごく本人に見えるけど夢の中の家族であって現実の家族とは別人だし、何度死んだって別に良くない?現実のみんなは生きてるわけだから。嫌だ。現実の皆が死ぬのは嫌。もし、夢から覚めた時、本物の皆が死んだら取り返しがつかない。結局あの黒い場所と黒い人が何かも分かっていないんだから、夢から覚めた時にさっぱりいなくなるかなんて分からないじゃない。夢と同じ事が現実で起こらないとは限らないじゃない。そうだ、夢の中でだって起きる所から全部始まるんだから、起きなければ殺戮も始まらないってことになる。つまりとりあえず、夢から覚めようとしなければみんなは無事。だからとりあえずは夢から覚めないでおいて、あの黒い場所に行ってみよう。中に入ってみて調べてみて、正体が分かったら安心して対策を考えられるし、正体が分からなくてもあそこが夢の中にしかない所だって確信出来たら、その時には夢から覚めればいい。危なかった。もし下手に目覚めてたら、現実に黒い人が来ちゃってたかもしれない。黒い場所に行かないと。皆が死んじゃう前に気づいてよかった。あの場所に行こう。どうせ何もなくてもまた夢の中の皆が死ぬだけ。ちょっとキツいけど、今までもやってきたことだし。行かなきゃ。今目を覚ましたら本物の家族が死ぬ。黒い人に殺される。私が殺したも同然。だから黒い場所に行かないと。目が覚めない内は現実の家族は無事。夢の中の家族は死ぬけど、大丈夫。辛いけど、現実の家族が死ぬよりマシだし我慢できる。だから黒い場所に入らないと。早く、早く、あの中に入らないと」




膝を付いたままの早苗の目の前の路地が途切れ、両側の塀だったはずの場所に見上げるほどの大木が生えていた。大木に挟まれるようにある路地だったはずの場所は街灯の光も通さない暗闇で満ちており、静かに揺蕩っていた。




「……違う。そっか、犯人は私だったんだ。私が皆を殺したくて殺したくて仕方がなくて、だから何回も何回も何回も殺して楽しんでたんだ。黒い人がみんなを殺す前にこの中に入らないと。この中のことも黒い人の事も何も分かってないんだから調べるために入らないと。皆を殺したいのは私なんだからここに入らないと。この中に入らないと。早く入らないと」




暗闇に手を伸ばしよろよろと立ち上がる早苗。




「皆が幸せでいられなくなる」




零れ落ちた音が言葉として響き早苗の耳に入る。




「……みんながしあわせでいられなくなる」




口が発した言葉が響き早苗の耳に入る。




「うん。幸せでいられなくなるね、私は。この中に皆がいるわけでもないし、暖かいお風呂やお布団があるわけでもないし、映画館やら本屋やらあるわけでもないし、美味しいご飯があるわけでも楽しい何かがあるわけでもない。他の魅力的な何かがあるわけでもない。幸せでいられるわけないね」




暗闇に伸ばした手を下ろす早苗。コートのポケットの中にあるものに気づき、煙草とライターを取り出す。早苗は煙草を口に咥え、ライターで火をつける。煙草を通して息を吸いながら、大木や暗闇と距離を取る。暗闇はただ静かに佇み、流れてきた紫煙を飲み込む。




「やっぱり苦いし臭いなぁ。そう思わない?」




早苗は暗闇に呼びかけるが、暗闇は静止したままだった。




「……あぁ、もしかしたら万が一あるかもしれないくらいにはあるのかもなぁ。そこに入って幸せになれる可能性」




ため息のように紫煙を吐き出す早苗。怪訝そうに煙草を見つめ、それらしく咥えて腕を組む。静かに紫煙が流れ、火種が煌めく。




「まぁいいか」




早苗は煙草を持ち、口から離す。そして狙いを定め、暗闇の中に煙草を放り投げた。




「私はこっちが良いや。さよなら」












ゴッという鈍い音と共に足に衝撃が走る。直後、痛みがじわじわと足に広がっていき呻き声が口から洩れる。どうやら炬燵の足にぶつけたようだ。年末の特別番組から流れてくる笑い声に目を開けるが、なぜか視界が滲みうまく焦点が合わない。瞬きを繰り返し、瞼をこする。すると背後から足音が近づいてきた。




「姉ちゃんまだ寝てたのかよ。俺も入るから、そこ・・・」




げ。と小さく呟く声が聞こえる。




「母さん台拭き!姉ちゃん炬燵に涎たらしまくってる!」




大声で呼びかけた先から大声が返ってくる。




「要るなら自分でやって!お母さん達今忙しいんだから!」


「えー・・・」




ぶつくさ言いながら離れていく音がして、しばらくして戻ってくる。ようやく焦点が合い始めた目でそちらを見ると、弟が顔を強張らせ、濡れた布をこちらに差し出した。




「・・・目、冷やした方が良いよ」


「・・・ありがとう」




そうお礼を言って、冷たく濡れた布を目元に当てる。腫れた瞼に心地良さが沁みる。




「姉ちゃんそれ台拭き」


「・・・ねぇなんでそんなことするのもう!」


「いや見ればわかるだろ!」


「こっち寝起き!冷やせって言いながら差し出されたらこうするよ!」


「わかったよごめん!」




小走りの足音が近づいてきて、妹が居間に顔を出す。




「カウントダウン間に合ってる?間に合ってる!全然余裕じゃんよかった・・・なんでお姉ちゃん泣いてんの?またアンタなんかやったの?」


「うるせえよ!」


「瞼冷やせって言いながら台拭き渡された」


「サイテー!」


「まだ新しいやつだから!」


「関係ありませーん!」




弟と妹がぎゃんぎゃん言い合いをしていると、遠くから父の声が飛んできた。




「蕎麦出来たぞー。持ってってくれー」


「はーい!ホラ、行って」




妹に顎で促された弟の大きな舌打ちが聞こえる。




「ガラ悪」


「お前の分は運ばないからな」


「ケチ」


「言ってろ」




弟がキッチンへ向かい、妹はリモコンを手に取り炬燵に潜り込んだ。チャンネルが変わり、テレビの中では整った顔立ちの男性が躍り歌っていた。キッチンから母がこちらへ呼びかける声が聞こえる。




「ねえ、連絡来たー?」


「来てなーい」




テレビから目を離さず妹が返事を返す。




「えー、お父さんどうする?お蕎麦茹でておく?」


「遅くなるとのびるからなあ」


「そうよね。お父さんのお蕎麦のばしたくないし……」


「茹でとけば?やばかったら私食べるし」




炬燵に潜ったままそう言う妹に、戻って来た弟が冷たく返す。




「デブ」


「あ?」


「よくペロッと食べれるなぁ……」


「なんか言った?」




妹が身体を起こそうとしてガタンと炬燵が浮く。




「動くなよ蕎麦置くんだから」




血相を変えた妹に慄くこちらとは対称的に、弟は何食わぬ顔で年越し蕎麦を炬燵に置き、炬燵に入りながら持ってきていたアイスの蓋をバリッと開けた。




「あっ、私へのお詫び?」




大げさに驚くふりをする妹を無視して、弟がアイスの片方をこちらへ差し出す。




「姉ちゃん食べる?」


「……さっき食べなくて良かった……ごめん!」




静かに変容する弟の形相に恐れをなして謝ると、弟はひっこめようとしたアイスを渋々差し出した。




「お姉ちゃんは許すの?シスコン!」


「ねぇ、本当に連絡来てないの?」




母と父が顔を出し、炬燵に年越し蕎麦を並べ炬燵に入る。妹は渋々スマホに視線を落とす。




「来てないよ。もうすぐ来るでしょ」


「今どこにいるか訊いておいてくれない?」


「気付かないかもしれないよ」


「・・・だれか来るんだっけ?」




小声で弟に訊くが、耳聡い妹が聞き逃すことはなかった。にやにやと笑顔を浮かべながら声を上げる。




「前に言ったじゃん。忘れちゃったの?ヒドーイ」


「ごめん・・・。誰?あんたの彼氏とか?」


「来ないよ!」




一転して怒ったような表情に変わった妹は、父の伺うような視線に気づき顔をしかめる。




「・・・来ない?いないじゃなくてか?」


「でた。もうやだ私何も言わない」




そう言って妹はぶすっとした顔でテレビに顔を向け、父の視線を断固として無視し始めた。


弟はその様子を見て、してやったりとばかりに絡み始める。




「来ないんだ?いないんじゃなくて?今彼氏なにしてんの?いつから付き合い始めたわけ?どんな人?」


「うるさい!」




いつも通りの言い合いに呆れた顔をしながら、母がそれぞれの前に箸を並べながら言う。




「あんたも連絡来てないか確認してよ。アドレス交換はしてるんでしょう?」


「いや、だから誰が・・・」




来るの?と言い終わる前にピンポーンと玄関のチャイムが鳴る。炬燵に入って温かなはずの早苗の身体が一気に冷えたような気がした。




「あ、やっと来た」




そう言って母が玄関へ向かう。慌てて立ち上がろうとするが恐怖で悴む身体はうまく動かず、炬燵がガタンと浮いた。




「お姉ちゃん蕎麦が零れる!」




荒れる妹の声に返事も返せず、炬燵から抜け出す。すると




「早苗。食べ物が乗っているんだ。丁寧に」




父から静かながら厳しい声をかけられる。縺れる舌でやっとのことで謝罪をし、玄関へ急いだ。何か恐ろしい事が待ち受けている気がして、激しい動悸に胸を押さえながら玄関へ顔を出す。すると




「ヘイ、良いお年を過ごしてる?」


「遅いわよ着くのが。途中で事故にでもあったのかと思って心配してたのよ」


「ごめん。途中でものすごく眠くなって、バイク停めて寝てた」


「何してるのよこの時期に!下手したら凍死するじゃない!」


「居眠り運転よりは良いかなって……」


「まぁそうだけど……。でも連絡ぐらいしてよ。こっちに来る知らせだって直前だし、姉さんはいつもそう!」


「だって顔見せだけのつもりだったし……」


「何か言った?」


「ごめんって。はい、お土産」


「……次からは本当に連絡してよ?」




玄関には目元に鮮やかな化粧を施した60代の女性が立っていた。ライダースーツを着てヘルメットを抱えており、靴を脱ごうとして手こずっていた。予想していたものが何かも分かっていないまま、予想外の人物が玄関にいたことに混乱する。母が居間に戻る途中こちらを不審げに見てきたが、変わらずじっと女性を見つめているとその視線に気づいた女性と目が合った。




「……お久しぶり?」


「……お久しぶりです」




ギクシャクした返答に被さるように、居間の方から妹の大声が飛んでくる。




「叔母さん来たー?」


「来たよー!」


「もっと遅刻しても良かったのにー!」


「叔母さーん。こいつ叔母さんの分の蕎麦食べようとしてるー」


「告げ口すんな!」




居間から聞こえる賑わいが大きくなる。




「……ヘルメット持ちます」


「あぁ、ありがとう。お土産お母さんに渡したから後で食べて」


「ありがとうございます」




女性からチョコレートの甘い香りが漂ってくる。ふつりと会話が途絶え、並んで居間へ向かう。居心地が良いような、居たたまれないような、懐かしいような、つい先ほどまでいたような、不思議な感覚を感じていた。居間に着くと、妹が頬を膨らましてこちらを見上げた。




「お姉ちゃん達、遅刻。玄関で何してたの。新年になっちゃったじゃん」


「え?」




テレビを見ると煌びやかに花吹雪が舞う中、大勢の観客が歓声を上げ端正な顔立ちの青年達が口々に新年の喜びを口にしていた。




「明けましておめでとう」




弟がアイスを食べながらこちらに聞こえるよう呟く。




「あっズルい!明けましておめでとうございます!」




慌てて妹も続く。




「はい、おめでとう」




父が穏やかな笑みを浮かべながら語り掛けてくる。




「明けましておめでとう。お父さんのお蕎麦のびるから、早く食べて」




母がそう勧めてくる。ぽん、と早苗の背中が軽く押される。叔母はにんまりと笑顔を浮かべながら、こちらに言葉を促した。なんてことのない言葉のはずなのに、発するには少し時間と努力が必要だった。じんわりと熱くなる鼻先からすうっと息を吸い、声色の震えを押さえ、言葉にする。




「明けましておめでとう」タイトル『末夢』












「ヘイ、お嬢さん。除夜の鐘聞きに行くには早すぎない?」




砂利の敷かれた仄暗い駐車場から、飄々とした女性の声が飛ぶ。声の向かう先にいた早苗は視線で辺りを伺い、人気の無い夜道を確認し顔を強張らせた。着ていたコートの胸元を閉め、緩まっていたマフラーを整え口元を隠しながら早苗は声の主を一瞥する。駐車場の奥にぽつりとある街灯の下に一台のバイクが停まっており、そこに腰掛けたライダースーツにヘルメットの女性が早苗に向かって手を上げた。早苗は眉を顰め逡巡した後、ぎこちなく笑顔を向け言う。




「そうですね」




ぺこりと浅くお辞儀をし、止めた足を再び動かし夜更けの路地を歩き始める早苗。ライダースーツの女性は上げた手もそのまま呆然とし、慌ててバイクスタンドを蹴り外す。次第に足早になっていく早苗を追いバイクを押す女性は尚も早苗に呼びかける。




「大晦日とはいえ、こんな夜中に独り歩きは危ないよ。こんな地方都市でも不審者はいるわけだし」


「……そうですね」




何かを言いかけたように口を開いた早苗だが、深く息を吐き返事を返す。それでも足を止めない早苗の背中を見ながら女性は早苗に話しかけた。




「もしかして家族と喧嘩でもしたの?この年の瀬に家出とか?」


「赤の他人に言う必要無いでしょう」




早苗は振り返り女性を睨みつける。女性は戸惑ったように足を止め、ヘルメットを外す。目元に鮮やかな化粧を施した60代の女性が心配そうに早苗を見つめていた。早苗は目を逸らし、ゆるゆると視線を漂わせるとぼそぼそと呟く。




「すいません、八つ当たりしました。よそ様なのに申し訳ないです」




路地に向き直り、また先へと進み始める早苗。その様子に女性は戸惑い思案するが、再びバイクを押し早苗の後を追う。




「まぁこっちが首突っ込もうとしたのもあるし。私嫌な気分のまま年越ししようとしてるの見ると気になっちゃうのよね。今年の憂いは今年の内にって言葉もあるでしょう?」


「聞いたことないですけど」


「あらそう」




あっけらかんとした様子の女性に早苗は憮然と返す。しかし早苗の足は次第に緩慢な運びになっていき、ついにはバイクを押す女性と並んで歩き始めた。




「どこのお寺に行くの?もし良ければ送っていくよ。その方が早い」




予備のヘルメットあるし、とバイクをポンと叩く女性。




「そのまま別の場所に連れていかれそう」




早苗は慌てて自分の口を押え、決まりが悪そうに顔をしかめる。女性はぽかんと口を開けた後、大声で笑い始めた。女性を見て戸惑う早苗の様子にも女性の笑いは大きくなり、バイクに持たれかかる女性を呆然と見つめる早苗。所在なげにコートのポケットに手を突っ込み、女性の笑いが収まるのを待つ。しばらくすると女性の笑いは収まったが、目には涙が浮かんでいた。




「いや、ごめんね。昔同じ事言われた事があって。でもそんなに怪しく見える?よくいるでしょうこういう姿の人?」


「いますけど、夜道で見知らぬ人に話しかける人はめったにいないです」


「なるほど。私の周りじゃよくあるんだけどな。その場のノリで呑みに行ったりするし」




からからと笑う女性に信じられない物を見るような眼差しを向ける早苗だが、ふと自身の顔が綻んでいるのに気づき、マフラーで隠す。それを視線の端に捉えた女性だが、何事も無かったかのように夜道に視線を向け言った。




「私が不審者なのは構わないけど、本当に一人で除夜の鐘を聞きに行くの?どうせなら家族一緒に行った方が賑やかじゃない?今からでも戻って誘って、全員で寒い寒い言いながら除夜の鐘聞いて、明けましておめでとうって言った後に家に戻って、炬燵にしばらく入りながら蜜柑でも食べてバラエティ番組観て、いつの間にか寝落ちして……。なかなか満ち足りた年越しだと思うよ?」




目を細めながら語る女性をじっと見つめる早苗。次第に眉が八の字に下がっていき、女性から顔を逸らし密かに鼻を鳴らす。沈黙した早苗の様子を伺おうと女性は早苗を見つめるが、早苗は女性の方を見ないまま、明るい声色で言葉を返した。




「行先、お寺じゃないんですよ。だから家族は誘いにくいんです」




表情を伺えない早苗に、女性は進行方向に顔を向け早苗に合わせる。




「神社?銭湯?」


「不正解」


「ここから近い?」


「ちょっと歩きますね」


「この時間にわざわざ行くところでしょう?思いつかないな。……屋台探してるとか?」


「違いますけど、なんだか焼き芋食べたくなってきましたね」


「おでんとかラーメンとかも美味しいよ」


「見かけたことはあるんですけど入ったことは無いんです、それ。大人だ」


「次見かけたら入ろうか」


「おごりですか?」


「仕方ないなぁ」




軽い言葉の応酬が続くが決してお互いに顔は見ず、無音の路地を連れ立って歩き続ける。




「なんだろう。知り合いと待ち合わせとか?」


「約束してはいないですけど、会う予定です。」


「なんだか回りくどい言い方。だれ?友達?」


「なんでしょう……こちらは相手を何度も見てはいますけど、相手がどうだかは」


「……恋しちゃった?」


「だったら平和なんですけどね」




女性は眉をひそめる。早苗の顔が強張ったが、沈黙を打ち消すように女性の返事が来るとその強張りは微かに解れた。




「ちょっと思いつかないな。詳しく聞いてもいい?」


「良いですけど、聞いても分からないかもしれませんよ」


「世界は広いから」


「壮大ですね」


「よくある事だよ」


「なんですかそれ」




早苗から笑いが零れる。釣られるように女性も笑った。しばしの沈黙の中、十何基目かの街灯の灯りを乗り越える。顔に影が差す中、早苗は口を開いた。




「日付が変わる直前くらいに、私の家族全員殺されるんですよ。これから会いに行くのはその犯人です」




女性の足が一瞬止まり、直ぐに通常の歩調へ追いつく。早苗は誰もいない真正面を見据えながら話し続けた。




「たぶん予知夢とか虫の知らせだと思うんです。居間の炬燵で寝ていて、起きたらバラエティがつけっぱなしで賑やかで、弟と妹が居間に来て言い合いしてて、その後父と母が年越し蕎麦持ってきてくれて。食べようとしたらいつの間にか父の後ろに黒づくめの人がいたんです。父が殺されて、父に駆け寄った妹が次に殺されて、私達は逃げようとして、私と母を庇おうとした弟が殺されて、私を庇って母が殺されて……。気が付いたら、また炬燵で寝ていました。起きたらテレビで年越しのカウントダウンをしていて、画面の向こうは楽しそうで幸せそうで賑やかで。でもこっちはしんとしてて、周りを見ると皆動かなくなっていて」




一息ついた早苗だが、周囲の静けさに、上ずった声で再び口を開いた。




「ていう夢を見たんです。炬燵で寝落ちしていたみたいで、バラエティ流しながら寝たのに悪夢見たって居間に来た弟と妹に愚痴って、なんだか怖くなって玄関を見に行ったら鍵がかかってなかったんです。怖いって皆でぎゃーぎゃー言いながら鍵をかけてチェーンもつけて、安心して炬燵に戻ってゆっくりしていました。その後父と母が年越し蕎麦持ってきて皆で食べようとした時にチャイムが鳴ったんです。母と父が玄関に行ったら悲鳴が聞こえて、玄関から黒づくめのその人が歩いてきて……」




弟が殺され、とっさに妹を庇おうとしたが上手くいかず妹が殺される。気が付くと静かな家で、テレビだけが賑やかに年越しまでの秒読みを始め、誰も返事を返さない。そんな悪夢から目覚め、正夢にしないよう試みるが家族は殺され、新年への秒読みが始まる頃には早苗一人だけが取り残される。そして最悪な気分で目覚め、現実にならないよう試行錯誤を繰り返すが黒づくめの犯人は必ず殺戮を遂行し、気づけばカウントダウンが無音の家に響き渡る。延々と続く悪夢と覚醒の話を明るい声で話し続ける。自身の胸元に置かれた早苗の手がぎりぎりとコートの生地を握りしめた。




「で、さっき目が覚めたんです。これだけ繰り返しても一度も明けましておめでとうが言えなかったんですよ。完璧に悪夢過ぎて逆に素晴らしいというかなんというか。あまりにも現実感が有ったし、これは予知夢だなと。だから前もって犯人の家に突撃して正夢になるのを回避しようと思って。流石にこれは家族には言えませんよ」




あははと声に出して笑う早苗。女性は答えず、握りしめていたハンドルの手を緩めた。早苗の笑い声は弱まり、終いには嘆息する。女性の方を向くことが出来ず、握りしめたコートの生地を指で擦る早苗。その肩を女性が軽く叩いた。




「家族大好きなんだね」




からかい混じりの声に、早苗は鼻を鳴らし、頬を掻いた。




「いや、大好きとかそういうのじゃないです。実際見ると分かりますよ。本当に目覚めが悪くて悪くて」


「でも身を挺して家族を庇ったんでしょ?夢だと思ってないのに。実際上手く出来なかったとしても、それができるのはすごいよ」


「まあそれなりに良い関係ではあるので……。嫌いだったらしないです。家族でも絶対」


「やっぱり大好きなんじゃない」


「止めてもらっていいですか」




女性を睨みつける早苗。女性はにんまりとした笑みを浮かべており、早苗の口から唸り声が漏れる。




「それで、犯人の家はどこ?もっと先?」


「そこの十字路を曲がった先です」




マフラーを緩めながらぶっきらぼうに言い返す早苗。




「なるほど。じゃあ行こうか」




曲がった先は変わらず住宅街で、塀が立ち並ぶ途中にぽつりぽつりと街灯の光が浮かんでいた。




「それにしても何度も何度も繰り返す夢なんてね」


「本当ですよ」


「それだけ繰り返してもなんとか出来なかったって厳しいものがあるね。なんだっけ。鍵を閉めても駄目。玄関を封鎖しても駄目。武装しても駄目。庇おうとしても出来ない。殴れない。通報しようとしても駄目」


「そうですね、ざっくり言うと。まあ夢の中だったので上手くいかないのは当たり前かもしれませんけど」


「今それ試した?」




早苗は驚き女性を見返す。その様子を見て女性は立ち止まり、バイクスタンドを立て自身のスマホを取り出した。




「じゃあ、例えば通報試してみようか」


「いや、待ってください。今夢じゃないんですよ?通報なんてしたら迷惑になりますよ」




慌てて制止しようとする早苗を女性は穏やかに言う。




「繋がったら殺されそうだってことを言って家に来てもらえばいいじゃない。犯人が来たら取り押さえてくれるよ」


「いや、でも、殺人が実際起こるか分からないし」


「じゃあなんで君は犯人の家を探しているの?」




女性にまっすぐ見返され、黙り込む早苗。女性は自身の携帯を操作する。が、すぐに眉を顰めて画面を早苗に向けた。




「見てて」




携帯の画面は電話番号の入力画面になっている。そこに女性が110番を入れようとするが、何度繰り返しても入力出来ず、通報が出来ないでいた。指先が別の番号を入力してしまったり、画面が消えてしまったり、女性の手が思うように動いていないようだった。




「君も試しにやってみなよ」




戸惑いながら早苗は自身のスマホを取り出し、言われるままに通報しようとするが、早苗の手も同様だった。




「手が悴んでいるからですかね?」


「そんな感覚する?」


「……」




手を見つめ、握っては開きを繰り返す早苗。首に手を当てるが腑に落ちない表情のままの早苗を見て、女性は自身の顎に手をやった。




「色々やってみようか」




そう言って女性はポケットから灰色に鮮やかな赤いマークの付いた箱を取り出し、中から一本煙草を取り出した。




「吸う?」


「……遠慮します」


「狸や狐に化かされた時には煙が良いらしいからね」




そう言って女性は煙草に火をつける。深呼吸と合わせるように紫煙が揺らぎ、吐き出される。早苗は鼻を押さえ顔を顰めた。女性は眉を上げる。




「煙苦手?どんな香りする?」


「……あまり好きではないです。苦いし臭いし」


「煙だしね。銘柄変える前に言われたな、臭いから嫌いって」


「甘い香りの煙草もあるのは知ってますけど、それ以外のはちょっと……」


「ふぅん」




女性は意味ありげに相槌を打つと、煙草の火を消し携帯灰皿に仕舞う。早苗は軽く周りを見回し、不満そうに言った。




「化かされてるわけじゃないみたいですね」


「そうだね。じゃあ他の可能性を考えなきゃいけないわけだけど」


「良いですけど、歩きながらにしましょう」




そう言って歩きだそうとする早苗に、女性はバイクのハンドルを傾けながら言った。




「ちょっと君これ持ってくれない?」




早苗は首を傾げるが、大人しくバイクのハンドルを持ち車体を支えた。微かな驚きの表情と共に小声の驚嘆が漏れる早苗。その様子をじっと見つめていた女性は、早苗が車体を押そうとすると驚いたように言った。




「支えられるんだ?君が下敷きになるくらい重いのに」


「え」




その瞬間、ぐらりとバイクが傾く。早苗は驚愕と焦りが露わな顔で車体を支えようと体重をかけるが、じりじりと車体に押し負けて膝をつき、間一髪身をよじり下敷きを免れた。上がる息もそのままに尻もちをつき呆然とバイクを見つめる早苗。バイクの反対側にいる女性もその有様に硬直していた。




「……大丈夫?」




おずおずと早苗に手を差し出す女性。呆然としたまま早苗はその手を掴もうとするが、上げた自身の手が震えているのに気づき、女性の手は掴まず睨みつけながら乱暴に立ち上がった。行き先を失った女性の手は暫しその場を彷徨い、バイクのハンドルへ辿り着く。女性がハンドルを握りバイクを起こそうと体重をかけるが、バイクはびくともせず横たわっていた。




「それで、私を押し潰そうとして何が分かったんですか」


「……ごめんなさい。こんな事になるなんて少ししか思ってなくて」


「少しは思ってたんですか」


「そんなことあるわけないじゃーんって笑い話になる前提だったの。私の中では。本当に申し訳ない事をしたけど」




神妙に頭を下げる女性に、早苗はため息をついた。




「分かった事があるならそれでいいです。早くバイク起こしていきましょう」


「……バイクは動かせそうにないかな」


「いや、さっき普通に押してたじゃないですか」


「押してた。普通だったら軽々起こせるよ、勿論。でもこれは無理」




早苗は怪訝な顔で女性を見下ろす。女性はバイクのボディを撫で、立ち上がり早苗を見た。




「さっき分かった事の話をしようか。ここは君の夢の中。君は覚めたと思っているけれど、未だ悪夢の真っ最中だ」




衣擦れの音も木枯らしの音さえしない時間が流れる。早苗が先に視線を外し、口角を上げる。




「何言ってるんだか。早くバイク起こしてくださいよ」




「君がこのバイクの事を自分が押し潰されるほど重い物だと認識してる以上、恐らく二人がかりでも動かせないよ」


「私のせいにしないでください」


「そういうことじゃないんだけどな……」


「勘弁してくださいよ。今が夢とか」


「君も不思議に思わない?このバイク、最初持った時は思ったより重くなかったでしょう?それなのに私が重いと声をかけた瞬間重くなった。」


「……ただ単に軽いと勘違いしてたんですよ」


「他にもある。通報を出来ない手の挙動。君も手が悴んで動かないわけじゃないのは分かっているでしょう?あとは煙草の香り」


「夢じゃないですよ絶対。だって夢と今とでは決定的な違いがあります」


「それは?」


「あなたです。今までの夢の中ではあなたは全く出てきませんでした」


「今までの夢の中ではって言うってことは今も夢だって思っているんじゃないの?」


「言葉尻拾うの止めてください」




語気が強まる早苗に女性は頭を掻く。




「まぁ、そこは確かに痛い所なんだよね。私自身はバイクで走ってる途中で眠くなって駐車場で仮眠取ってて、起きたら君が歩いてたから声をかけたんだけど……。夢を人と共有するなんて聞いたことないし」


「じゃあ普通に今は現実なんですよ」


「なんでそこまで夢の可能性を否定するかね」


「当り前じゃないですか。何十回も家族が惨殺する夢を繰り返して覚めもしないなんて、まるで私が家族を殺したくて仕方ないみたいじゃないですか。そりゃ多少嫌な事はありましたよ。長く一緒に過ごしてるわけですから。でも私は皆を殺したいなんて思った事一度も無い」


「夢と願望は必ずしもイコールではないと思うけど」


「だからこそ私は今の現実で、悪夢が再現されないようにやらなきゃいけないんです。……時間の無駄です。ついてこないでください」




肩を怒らせ路地を進もうとする早苗の背に、女性が疑問を投げかける。




「犯人の家を、なぜ君は知っているんだろう?」




早苗は怒りの表情で振り返り口を開く。しかしそこから言葉は出てこず、早苗は呆気にとられる。




「犯人が知り合いじゃなければ、尾行なり何なりで調べなきゃ家なんて分からない。さっき聞いた夢の話ではそこまでの余裕は無かったと思うけど、なんで知っているんだろう?」




顔を伏せる早苗を見つめ、淡々と問いかける女性。




「だいたい、一家皆殺しに出来る人間の所に1人で無防備に行って何をするつもりなのかな?説得?話し合い?そんな楽観主義じゃないよね君は。その細腕だけで相手を組み伏せたり、殺したり出来ると思えるほど愚かでもない。警察も呼ぶつもり無かった。まさか自分が犠牲になれば家族は殺されずに済むとか思っていないよね?」


「……流石にそれは買い被りです」




早苗は自嘲し続ける。




「分からないです。行ってどうしようとか全く考えてなかったです。行ったらなんとかなるとしか思ってなかった。確かに、犯人の家を知ってるはずもないのに」




女性はふっと息を吐きライダースーツの首元を緩める。早苗はよろよろと女性に近づいた。




「どうして犯人の家知ってるんだろう。行ってどうするつもりだったんだろう。というか、今って現実なんでしたっけ?夢でしたっけ?なんで覚めないんでしょう?どうしてあんなにみんな殺されなきゃいけないんですかね?夢だからですかね?」


「……申し訳ないけど、確固として答えをあげられる立場じゃないんだよなぁ」


「は!?」


「もちろん!私はここが君の夢の中だって確信している。けれども、だからと言って証拠は提示出来ないんだよ。あのバイクみたいに君の認識一つで変わるような曖昧な物しかないんだよここには。それは確固たる証拠とは言えない。言えて状況証拠。というか、確固とした物がもしあったらそれは夢じゃなくて現実だから、私の説が間違っていることになるわけで」




早苗は頭を抱える。女性が困ったように笑う。




「儘ならないね」


「面倒くさいなもう!」




早苗の絶叫はすぐ静けさに消える。女性は煙草を取り出し火をつけた。




「まぁ、100%にはならないけど出来る限り状況証拠を集めるしかないと思うよ。例えば、これだけ長い間夜道を歩いているのに私達以外の人と出くわさないとか。酔っ払いが気持ちよさそうに大声で歌っている声がしないとか。遠くで車やバイクのエンジン音が響く音もしないとか。君が叫んだのにどこの家も様子を伺う気配もないとか」


「……心許ない証拠だなぁ」


「いっそ繁華街のど真ん中だったら分かりやすいんだけどね。煙草いる?」




早苗は差し出された灰色の箱をじっと見つめ、おずおずと煙草を一本取りだす。女性の吸っている姿を見ながら口に咥えようとし、しかし寸前で苦虫を噛み潰したような顔で煙草を自身のコートのポケットにしまった。女性はその様子に噴き出し、ライターを早苗のコートのポケットに押し込む。




「えっ、ちょっと」


「これからどうしようか」


「どうって……どうしましょうか」


「私の説が正しいとしたら、君がどうするかで全て決まるんだけどな」


「……もしこれが夢なら覚めたいです。いい加減飽き飽きなので。でももしこれが現実なら、やっぱり正夢になるんじゃないかって怖いです。私も家族も全員無事の状態で正月迎えたい。なので、なんで私が犯人の家を知ってるのか分からないですけど、一応様子は見に行きたい気持ちでいます」


「なるほど、そうなるのか」


「もちろん!今は何も考えてないわけじゃないです。身を差し出すつもりもないし、力で何とかなるとは思ってないです。隠れて様子を伺って、本当に私の家に向かっていたら警察に電話します!」


「さっき通報試して出来なかったじゃん」




女性に言われ、早苗は憎らしそうに自身のスマホを睨みつける。女性は紫煙を燻らせた。




「まぁ、それなら行こうか」


「いいんですか?」


「行った先で更に夢だって確証が得られるかもしれないし。もし現実だったら……いざとなっても2人いるならなんとかなりそうだし。一番の武器は使えないけどね」




バイクを見下ろしへらへらと笑う女性を不思議そうに見る早苗。女性と同じようにバイクを眺め、ふと顔を強張らせ女性に視線を向ける。




「えげつない事考えますね」


「いやぁ、そうでもないと思うよ?」


「怒ってます?」


「どうだろう」




そう言いながら女性はヘルメットを持ち上げ、脇に抱える。




「じゃあ行こうか」




早苗と女性は倒れたバイクを後にし、夜道を進み始めた。変わり映えのしない塀が続き、街灯がぽつりぽつりと立ち尽くしている。




「状況証拠1つ追加。こんなにも分かれ道や十字路が無い路地は住宅街には無いと思うよ」


「かもしれませんけど、私こっちの方来た事無いからなぁ」


「0.1%でも私の説が補強されれば万々歳だから」


「羨ましいなぁ。……もうすぐ犯人の家のはずです」


「へぇ、この先ずっと続いているように見えるけど……」




早苗が足を止める。女性は振り返り早苗を見る。そして早苗の視線を辿り路地の奥へ目を向ける。街灯の灯りを3つ程挟んだ奥で塀が途切れ、その代わりに見上げるほど大きな大樹が2つ、路地の両脇に聳え立っていた。大樹から向こうの場所には街灯など無いようで、ただただ暗闇が広がっている。早苗と女性は目を見合わせる。女性は暗闇を指さし、早苗は強張った顔で首を振った。女性は頷き、大樹へ近づく。嘗め回すように大樹を観察し、その間に佇む暗闇を真正面からじっと見つめる。それを見て早苗は硬い表情のままじわじわと大樹と暗闇に近づいた。女性の背後から女性の眺めているものを見ようと首を伸ばす早苗に気づき、女性は早苗に見えるよう暗闇を指さす。そして咥えていた煙草の煙を深く吸い込み、名残惜しそうに吐き出し、火が付いたままのそれを暗闇に放った。通常ならば大樹の境を一歩超えた場所に落ち小さく火種が煌めくはずの煙草だが、境を超えた瞬間暗闇に呑まれ、形も煙さえも見えなくなる。




「状況証拠1つ追加。こんな場所が現実にあるわけない」


「半分願望ですよね」


「正解」


「まぁ、私も同じ気持ちですけど」




そう早苗が呟いた瞬間、暗闇が揺らめいた。咄嗟に早苗が女性を塀の方へ突き飛ばす。その早苗の手を女性が掴み、2人は共に塀にぶつかった。静かに揺蕩っていた暗闇はぼこぼこと膨らむような挙動を見せ、大樹の境を越え先程女性が立っていた場所に降り注ぐ。そして地面に落ちたそれは空間に染みが広がるようにゆっくりと大きくなり、遂には人間大にまで広がった。




「犯人……」




その様を目の当たりにしていた早苗の口からぽつりと言葉が零れる。女性が目を剥き早苗を見ると、震える声で早苗は言った。




「黒い手袋とか黒い目出し帽にサングラスとか、そういうの付けてるんだと思い込んでたんです。でも思い出しました。この人が、これが、私の家族を殺してきた犯人です」




人間大の暗闇の下半分がゆっくり移動する。それはまるで黒づくめの人間がゆっくり歩いているような動きだった。女性は立ち上がり、早苗を背にしながら暗闇をじっと見つめる。暗闇は2人の存在に反応を示さず、ゆっくり夜道を進み始める。女性は暗闇が距離が出来ると、抱えていたヘルメットを掲げ鋭く息を吐きながら暗闇へ投げつける。ヘルメットは確かに暗闇に当たる軌道を描いたがぶつかることはなく、暗闇を通り抜けた先の路地に音を立てて転がった。舌打ちをする女性。




「こっちからは干渉出来ないのかな?感覚器官は無さそうだけど。もしくは、ここから家への道中でもっと固まるとか……」




そう呟く女性だが、視界の端に必死な表情で走りだそうとする早苗の姿を捉え、慌ててそれを止めた。




「どうしたの」


「だって、だって」


「落ち着いて。慌ててたら出来るものも出来なくなるよ」


「だって、あんなの警察に止められる訳がない。皆が殺されちゃう。何とかしないと」


「なるほど、分かった。じゃああれを何とかするために成功後をイメージしよう。あの化け物が退治出来た後、君は何をしたい?」


「……帰って、明けましておめでとうって言いたい。いつも年越しは妹と弟が特番何見るかで喧嘩してるから、それを眺めたい。父が毎年年越し蕎麦を打つのでそれも食べたい。お母さんはお父さんの蕎麦が伸びるの嫌がるから早く食べなきゃいけなくて、それで……来年も皆幸せでいたいです」


「ここが夢だって私の説覚えてる?」




早苗はこくんと頷く。




「それを試してみる気はない?これはただの悪夢。正夢にもならない普通の悪夢。寝起き直後は嫌な気分だけど、直ぐに忘れるよくある悪夢。君の話じゃ、繰り返す夢の中で君は能動的に目覚めようとは一度もしてない。自分から目を覚まそうとすれば、くっきりはっきり悪夢とおさらば出来るかもしれない」


「……でも、皆が」




コートの胸元を握りしめる早苗。その手に女性は自身の手を包むように重ねた。




「そこの不安は当たり前。だから、少しでも夢だと思える状況証拠を増やそう」


「今からですか?」


「出来るでしょ。アイツ足遅いもん」




女性はビシッと暗闇を指さし朗々と言った。




「君は今から走ってアイツを追い抜き自分の家に帰る!そして家族の自室に突入し家探しする!」


「はぁ!?」


「ここが君の夢なら君の知らない物は無い。現実ならもちろん君の知らない物がわんさか出てくる」


「家族のプライバシーを何だと思ってるんですか!?」


「えー、私としては手っ取り早くていいと思うけど。他に方法があるならそっちでもいいんじゃない?君の家族が本物の家族かどうか見分ける方法」




早苗はぐしゃぐしゃと頭を掻き、路地の向こうを見つめるた後、ちらりと女性を見て口を開いた。




「あなたは来ないんですか?」


「行かない」


「何でですか?ここまでついてきたのに」


「言わない」




口をへの字に曲げる早苗に女性は大声で笑って言った。




「悪夢が正夢にならない保険だと思っておいてよ。あ、君自分で夢から覚めれるタイプ?」


「そんな事考えたこともないですし、覚めれないからこんな事になってるかもしれないんですが?」


「じゃあ私のとっておきを教えよう。目を瞑って、全身に力を入れて、一気に伸ばす!それで起きれなかった事は私は無いね」


「信用出来るのかなぁ、不審者の言う事なのに」




女性が早苗の両頬を摘まみ引っ張る。驚く早苗の顔を見て女性は顔を綻ばせ、早苗の頬から手を放す。




「いってらっしゃい」




そう言って手を挙げる女性。早苗は一瞬きょとんとした後、ハッと表情を変えにんまりとした笑顔を浮かべる。




「いってきます」




女性の掌に自身の掌を叩きつけ、早苗は走りだす。みるみる遠くなる女性の姿を視界の端に捉え、自身の手を見下ろし呟いた。




「状況証拠1つ追加。絶対痛い叩き方だったはずなのにぜんぜん痛くない」












ゆっくりと歩く暗闇の背中を追い抜き、横たわったままのバイクを乗り越え、何十基もの街灯の灯りを飛び越す。その間全く人と出くわさず、酔っ払いの歌声や車やバイクのエンジン音が響く事は無かった。通常ならば息も絶え絶えな距離を走り続け、早苗は自宅の玄関を開ける。中からはテレビの賑やかな音が漏れ聞こえ、キッチンから母が顔を出した。




「おかえりなさい。身体冷えたでしょう?もうすぐお父さんのお蕎麦出来るから、炬燵に入ってなさい」




早苗は母と目を合わせず、震える手を押さえながら家に入りキッチンへ向かった。




「おかえり。蕎麦はもうすぐだから炬燵の上片付けておいてくれ」


「どうしたの?何か飲む?」




キッチンでは父と母がコンロの前で鍋を覗き込んでいた。早苗に気づくと声をかけてくるが早苗は返事を返さない。不思議そうに早苗を見る両親の視線を遮るように早苗は顔を背け、目に入った冷凍庫を開ける。中を漁ると『俺の』と大きくマジックで書かれた赤と白の丸みを帯びたパッケージのアイスが奥底に隠れていた。早苗はそれを持ち居間へ行く。居間のテレビにはバラエティが写っていて、妹と弟が炬燵に入りリモコンを取り合っていた。




「あ、お姉ちゃんおかえり。お姉ちゃんもライブ見たいよね?」


「多数決じゃねえから」


「多数決だよ……アイスだ!」




妹の視線が早苗の手に注がれる。声につられ弟の視線もアイスに留まり、パッケージに書かれた自身の筆跡を見た後不思議そうに早苗を見上げた。早苗はパッケージを毟り取り、中に入っているアイスを落とし踏みつぶした。必死に何度もアイスを踏む早苗に、弟は呆れたように言う。




「なんだよ。もったいないなぁ」


「お姉ちゃん変なのぉ」




揶揄うような妹の様子と共にそれを見ていた早苗は、何度か躊躇うように口を開け閉めした後に言葉を絞り出した。




「デブ」


「お姉ちゃん?」


「豚。ブス。醜い。……」


「ひどーい」




からからと笑う妹を見て、早苗はキッチンへ向かう。キッチンでは父がそれぞれの丼に蕎麦を盛り付けていた。早苗は盛り付けられている蕎麦を床へぶちまける。




「おっと、大変だ」




父は床に落ちた蕎麦を片付け始め、その様子を見下ろす早苗は後ろから声を掛けられる。




「あら、どうしたの?こぼしちゃった?」




母は慌てたように父に駆け寄り、落ちた蕎麦の片づけを手伝い始める。そんな母に早苗は言葉を放った。




「なんでそんなのと結婚したの?」


「何言ってんのもう。火傷してないなら居間の方に行っていなさい」




なんでもないように言う母の様子を見て、早苗は震える息を大きく吐いた。早苗はそのまま玄関へ向かい、一度だけ室内を振り返る。




「ごめんなさい」




誰にも届かない一言を呟き、早苗は外へ出る。夜道を進む内に早苗の歩調は速くなり、遂には走りだした。




「違った。違った、違った!あんな態度のはずがない!本物の家族じゃない!現実じゃなかった!お姉さん!」




女性の元へと走り角を曲がった早苗は、その先にいたものを見つけ足を止めた。黒い人型が道の向こうからゆっくりと近づいてくる。道の先にいる早苗の存在に目もくれず淡々と進んでいるはずのその人型から、なぜか早苗は離れることが出来なくなった。一歩、一歩、人型が近づくにつれ、早苗の顔から笑みは薄れ戸惑いと焦りが滲み始める。遂には早苗の眼前に着き、更に前へと進もうとする人型。早苗は思わず身体を強張らせるが、人型が早苗にぶつかることはなくするりと通り抜けた。人型は早苗の存在など無かったかのように尚も早苗の家へ向かい歩き続ける。早苗は膝を折り、路上に座り込んだ。虚空に視線を彷徨わせ、頭がゆらゆらと揺れる。細やかな吐息にぽそぽそと音が乗り、言葉として溢れ出す。




「やっぱり夢から覚めちゃいけないんじゃないかな?だって私には夢の中の状況しか分からないから、現実でどうなってるかなんて分からない。でも、今も夢の中にいるってことは、たぶん現実では寝続けているっていうのは確定してる。ってことは今の現実は平和な大晦日で、みんな死んでいないってことになる。それならその状態を守るために私は夢から覚めない方がいいんじゃないの?夢の中なら何回家族が死んでも炬燵で起きる所からまた始まるし、大体ここにいるみんなは本当のみんなじゃないし、見た目も性格もものすごく本人に見えるけど夢の中の家族であって現実の家族とは別人だし、何度死んだって別に良くない?現実のみんなは生きてるわけだから。嫌だ。現実の皆が死ぬのは嫌。もし、夢から覚めた時、本物の皆が死んだら取り返しがつかない。結局あの黒い場所と黒い人が何かも分かっていないんだから、夢から覚めた時にさっぱりいなくなるかなんて分からないじゃない。夢と同じ事が現実で起こらないとは限らないじゃない。そうだ、夢の中でだって起きる所から全部始まるんだから、起きなければ殺戮も始まらないってことになる。つまりとりあえず、夢から覚めようとしなければみんなは無事。だからとりあえずは夢から覚めないでおいて、あの黒い場所に行ってみよう。中に入ってみて調べてみて、正体が分かったら安心して対策を考えられるし、正体が分からなくてもあそこが夢の中にしかない所だって確信出来たら、その時には夢から覚めればいい。危なかった。もし下手に目覚めてたら、現実に黒い人が来ちゃってたかもしれない。黒い場所に行かないと。皆が死んじゃう前に気づいてよかった。あの場所に行こう。どうせ何もなくてもまた夢の中の皆が死ぬだけ。ちょっとキツいけど、今までもやってきたことだし。行かなきゃ。今目を覚ましたら本物の家族が死ぬ。黒い人に殺される。私が殺したも同然。だから黒い場所に行かないと。目が覚めない内は現実の家族は無事。夢の中の家族は死ぬけど、大丈夫。辛いけど、現実の家族が死ぬよりマシだし我慢できる。だから黒い場所に入らないと。早く、早く、あの中に入らないと」




膝を付いたままの早苗の目の前の路地が途切れ、両側の塀だったはずの場所に見上げるほどの大木が生えていた。大木に挟まれるようにある路地だったはずの場所は街灯の光も通さない暗闇で満ちており、静かに揺蕩っていた。




「……違う。そっか、犯人は私だったんだ。私が皆を殺したくて殺したくて仕方がなくて、だから何回も何回も何回も殺して楽しんでたんだ。黒い人がみんなを殺す前にこの中に入らないと。この中のことも黒い人の事も何も分かってないんだから調べるために入らないと。皆を殺したいのは私なんだからここに入らないと。この中に入らないと。早く入らないと」




暗闇に手を伸ばしよろよろと立ち上がる早苗。




「皆が幸せでいられなくなる」




零れ落ちた音が言葉として響き早苗の耳に入る。




「……みんながしあわせでいられなくなる」




口が発した言葉が響き早苗の耳に入る。




「うん。幸せでいられなくなるね、私は。この中に皆がいるわけでもないし、暖かいお風呂やお布団があるわけでもないし、映画館やら本屋やらあるわけでもないし、美味しいご飯があるわけでも楽しい何かがあるわけでもない。他の魅力的な何かがあるわけでもない。幸せでいられるわけないね」




暗闇に伸ばした手を下ろす早苗。コートのポケットの中にあるものに気づき、煙草とライターを取り出す。早苗は煙草を口に咥え、ライターで火をつける。煙草を通して息を吸いながら、大木や暗闇と距離を取る。暗闇はただ静かに佇み、流れてきた紫煙を飲み込む。




「やっぱり苦いし臭いなぁ。そう思わない?」




早苗は暗闇に呼びかけるが、暗闇は静止したままだった。




「……あぁ、もしかしたら万が一あるかもしれないくらいにはあるのかもなぁ。そこに入って幸せになれる可能性」




ため息のように紫煙を吐き出す早苗。怪訝そうに煙草を見つめ、それらしく咥えて腕を組む。静かに紫煙が流れ、火種が煌めく。




「まぁいいか」




早苗は煙草を持ち、口から離す。そして狙いを定め、暗闇の中に煙草を放り投げた。




「私はこっちが良いや。さよなら」












ゴッという鈍い音と共に足に衝撃が走る。直後、痛みがじわじわと足に広がっていき呻き声が口から洩れる。どうやら炬燵の足にぶつけたようだ。年末の特別番組から流れてくる笑い声に目を開けるが、なぜか視界が滲みうまく焦点が合わない。瞬きを繰り返し、瞼をこする。すると背後から足音が近づいてきた。




「姉ちゃんまだ寝てたのかよ。俺も入るから、そこ・・・」




げ。と小さく呟く声が聞こえる。




「母さん台拭き!姉ちゃん炬燵に涎たらしまくってる!」




大声で呼びかけた先から大声が返ってくる。




「要るなら自分でやって!お母さん達今忙しいんだから!」


「えー・・・」




ぶつくさ言いながら離れていく音がして、しばらくして戻ってくる。ようやく焦点が合い始めた目でそちらを見ると、弟が顔を強張らせ、濡れた布をこちらに差し出した。




「・・・目、冷やした方が良いよ」


「・・・ありがとう」




そうお礼を言って、冷たく濡れた布を目元に当てる。腫れた瞼に心地良さが沁みる。




「姉ちゃんそれ台拭き」


「・・・ねぇなんでそんなことするのもう!」


「いや見ればわかるだろ!」


「こっち寝起き!冷やせって言いながら差し出されたらこうするよ!」


「わかったよごめん!」




小走りの足音が近づいてきて、妹が居間に顔を出す。




「カウントダウン間に合ってる?間に合ってる!全然余裕じゃんよかった・・・なんでお姉ちゃん泣いてんの?またアンタなんかやったの?」


「うるせえよ!」


「瞼冷やせって言いながら台拭き渡された」


「サイテー!」


「まだ新しいやつだから!」


「関係ありませーん!」




弟と妹がぎゃんぎゃん言い合いをしていると、遠くから父の声が飛んできた。




「蕎麦出来たぞー。持ってってくれー」


「はーい!ホラ、行って」




妹に顎で促された弟の大きな舌打ちが聞こえる。




「ガラ悪」


「お前の分は運ばないからな」


「ケチ」


「言ってろ」




弟がキッチンへ向かい、妹はリモコンを手に取り炬燵に潜り込んだ。チャンネルが変わり、テレビの中では整った顔立ちの男性が躍り歌っていた。キッチンから母がこちらへ呼びかける声が聞こえる。




「ねえ、連絡来たー?」


「来てなーい」




テレビから目を離さず妹が返事を返す。




「えー、お父さんどうする?お蕎麦茹でておく?」


「遅くなるとのびるからなあ」


「そうよね。お父さんのお蕎麦のばしたくないし……」


「茹でとけば?やばかったら私食べるし」




炬燵に潜ったままそう言う妹に、戻って来た弟が冷たく返す。




「デブ」


「あ?」


「よくペロッと食べれるなぁ……」


「なんか言った?」




妹が身体を起こそうとしてガタンと炬燵が浮く。




「動くなよ蕎麦置くんだから」




血相を変えた妹に慄くこちらとは対称的に、弟は何食わぬ顔で年越し蕎麦を炬燵に置き、炬燵に入りながら持ってきていたアイスの蓋をバリッと開けた。




「あっ、私へのお詫び?」




大げさに驚くふりをする妹を無視して、弟がアイスの片方をこちらへ差し出す。




「姉ちゃん食べる?」


「……さっき食べなくて良かった……ごめん!」




静かに変容する弟の形相に恐れをなして謝ると、弟はひっこめようとしたアイスを渋々差し出した。




「お姉ちゃんは許すの?シスコン!」


「ねぇ、本当に連絡来てないの?」




母と父が顔を出し、炬燵に年越し蕎麦を並べ炬燵に入る。妹は渋々スマホに視線を落とす。




「来てないよ。もうすぐ来るでしょ」


「今どこにいるか訊いておいてくれない?」


「気付かないかもしれないよ」


「・・・だれか来るんだっけ?」




小声で弟に訊くが、耳聡い妹が聞き逃すことはなかった。にやにやと笑顔を浮かべながら声を上げる。




「前に言ったじゃん。忘れちゃったの?ヒドーイ」


「ごめん・・・。誰?あんたの彼氏とか?」


「来ないよ!」




一転して怒ったような表情に変わった妹は、父の伺うような視線に気づき顔をしかめる。




「・・・来ない?いないじゃなくてか?」


「でた。もうやだ私何も言わない」




そう言って妹はぶすっとした顔でテレビに顔を向け、父の視線を断固として無視し始めた。


弟はその様子を見て、してやったりとばかりに絡み始める。




「来ないんだ?いないんじゃなくて?今彼氏なにしてんの?いつから付き合い始めたわけ?どんな人?」


「うるさい!」




いつも通りの言い合いに呆れた顔をしながら、母がそれぞれの前に箸を並べながら言う。




「あんたも連絡来てないか確認してよ。アドレス交換はしてるんでしょう?」


「いや、だから誰が・・・」




来るの?と言い終わる前にピンポーンと玄関のチャイムが鳴る。炬燵に入って温かなはずの早苗の身体が一気に冷えたような気がした。




「あ、やっと来た」




そう言って母が玄関へ向かう。慌てて立ち上がろうとするが恐怖で悴む身体はうまく動かず、炬燵がガタンと浮いた。




「お姉ちゃん蕎麦が零れる!」




荒れる妹の声に返事も返せず、炬燵から抜け出す。すると




「早苗。食べ物が乗っているんだ。丁寧に」




父から静かながら厳しい声をかけられる。縺れる舌でやっとのことで謝罪をし、玄関へ急いだ。何か恐ろしい事が待ち受けている気がして、激しい動悸に胸を押さえながら玄関へ顔を出す。すると




「ヘイ、良いお年を過ごしてる?」


「遅いわよ着くのが。途中で事故にでもあったのかと思って心配してたのよ」


「ごめん。途中でものすごく眠くなって、バイク停めて寝てた」


「何してるのよこの時期に!下手したら凍死するじゃない!」


「居眠り運転よりは良いかなって……」


「まぁそうだけど……。でも連絡ぐらいしてよ。こっちに来る知らせだって直前だし、姉さんはいつもそう!」


「だって顔見せだけのつもりだったし……」


「何か言った?」


「ごめんって。はい、お土産」


「……次からは本当に連絡してよ?」




玄関には目元に鮮やかな化粧を施した60代の女性が立っていた。ライダースーツを着てヘルメットを抱えており、靴を脱ごうとして手こずっていた。予想していたものが何かも分かっていないまま、予想外の人物が玄関にいたことに混乱する。母が居間に戻る途中こちらを不審げに見てきたが、変わらずじっと女性を見つめているとその視線に気づいた女性と目が合った。




「……お久しぶり?」


「……お久しぶりです」




ギクシャクした返答に被さるように、居間の方から妹の大声が飛んでくる。




「叔母さん来たー?」


「来たよー!」


「もっと遅刻しても良かったのにー!」


「叔母さーん。こいつ叔母さんの分の蕎麦食べようとしてるー」


「告げ口すんな!」




居間から聞こえる賑わいが大きくなる。




「……ヘルメット持ちます」


「あぁ、ありがとう。お土産お母さんに渡したから後で食べて」


「ありがとうございます」




女性からチョコレートの甘い香りが漂ってくる。ふつりと会話が途絶え、並んで居間へ向かう。居心地が良いような、居たたまれないような、懐かしいような、つい先ほどまでいたような、不思議な感覚を感じていた。居間に着くと、妹が頬を膨らましてこちらを見上げた。




「お姉ちゃん達、遅刻。玄関で何してたの。新年になっちゃったじゃん」


「え?」




テレビを見ると煌びやかに花吹雪が舞う中、大勢の観客が歓声を上げ端正な顔立ちの青年達が口々に新年の喜びを口にしていた。




「明けましておめでとう」




弟がアイスを食べながらこちらに聞こえるよう呟く。




「あっズルい!明けましておめでとうございます!」




慌てて妹も続く。




「はい、おめでとう」




父が穏やかな笑みを浮かべながら語り掛けてくる。




「明けましておめでとう。お父さんのお蕎麦のびるから、早く食べて」




母がそう勧めてくる。ぽん、と早苗の背中が軽く押される。叔母はにんまりと笑顔を浮かべながら、こちらに言葉を促した。なんてことのない言葉のはずなのに、発するには少し時間と努力が必要だった。じんわりと熱くなる鼻先からすうっと息を吸い、声色の震えを押さえ、言葉にする。




「明けましておめでとう」タイトル『末夢』












「ヘイ、お嬢さん。除夜の鐘聞きに行くには早すぎない?」




砂利の敷かれた仄暗い駐車場から、飄々とした女性の声が飛ぶ。声の向かう先にいた早苗は視線で辺りを伺い、人気の無い夜道を確認し顔を強張らせた。着ていたコートの胸元を閉め、緩まっていたマフラーを整え口元を隠しながら早苗は声の主を一瞥する。駐車場の奥にぽつりとある街灯の下に一台のバイクが停まっており、そこに腰掛けたライダースーツにヘルメットの女性が早苗に向かって手を上げた。早苗は眉を顰め逡巡した後、ぎこちなく笑顔を向け言う。




「そうですね」




ぺこりと浅くお辞儀をし、止めた足を再び動かし夜更けの路地を歩き始める早苗。ライダースーツの女性は上げた手もそのまま呆然とし、慌ててバイクスタンドを蹴り外す。次第に足早になっていく早苗を追いバイクを押す女性は尚も早苗に呼びかける。




「大晦日とはいえ、こんな夜中に独り歩きは危ないよ。こんな地方都市でも不審者はいるわけだし」


「……そうですね」




何かを言いかけたように口を開いた早苗だが、深く息を吐き返事を返す。それでも足を止めない早苗の背中を見ながら女性は早苗に話しかけた。




「もしかして家族と喧嘩でもしたの?この年の瀬に家出とか?」


「赤の他人に言う必要無いでしょう」




早苗は振り返り女性を睨みつける。女性は戸惑ったように足を止め、ヘルメットを外す。目元に鮮やかな化粧を施した60代の女性が心配そうに早苗を見つめていた。早苗は目を逸らし、ゆるゆると視線を漂わせるとぼそぼそと呟く。




「すいません、八つ当たりしました。よそ様なのに申し訳ないです」




路地に向き直り、また先へと進み始める早苗。その様子に女性は戸惑い思案するが、再びバイクを押し早苗の後を追う。




「まぁこっちが首突っ込もうとしたのもあるし。私嫌な気分のまま年越ししようとしてるの見ると気になっちゃうのよね。今年の憂いは今年の内にって言葉もあるでしょう?」


「聞いたことないですけど」


「あらそう」




あっけらかんとした様子の女性に早苗は憮然と返す。しかし早苗の足は次第に緩慢な運びになっていき、ついにはバイクを押す女性と並んで歩き始めた。




「どこのお寺に行くの?もし良ければ送っていくよ。その方が早い」




予備のヘルメットあるし、とバイクをポンと叩く女性。




「そのまま別の場所に連れていかれそう」




早苗は慌てて自分の口を押え、決まりが悪そうに顔をしかめる。女性はぽかんと口を開けた後、大声で笑い始めた。女性を見て戸惑う早苗の様子にも女性の笑いは大きくなり、バイクに持たれかかる女性を呆然と見つめる早苗。所在なげにコートのポケットに手を突っ込み、女性の笑いが収まるのを待つ。しばらくすると女性の笑いは収まったが、目には涙が浮かんでいた。




「いや、ごめんね。昔同じ事言われた事があって。でもそんなに怪しく見える?よくいるでしょうこういう姿の人?」


「いますけど、夜道で見知らぬ人に話しかける人はめったにいないです」


「なるほど。私の周りじゃよくあるんだけどな。その場のノリで呑みに行ったりするし」




からからと笑う女性に信じられない物を見るような眼差しを向ける早苗だが、ふと自身の顔が綻んでいるのに気づき、マフラーで隠す。それを視線の端に捉えた女性だが、何事も無かったかのように夜道に視線を向け言った。




「私が不審者なのは構わないけど、本当に一人で除夜の鐘を聞きに行くの?どうせなら家族一緒に行った方が賑やかじゃない?今からでも戻って誘って、全員で寒い寒い言いながら除夜の鐘聞いて、明けましておめでとうって言った後に家に戻って、炬燵にしばらく入りながら蜜柑でも食べてバラエティ番組観て、いつの間にか寝落ちして……。なかなか満ち足りた年越しだと思うよ?」




目を細めながら語る女性をじっと見つめる早苗。次第に眉が八の字に下がっていき、女性から顔を逸らし密かに鼻を鳴らす。沈黙した早苗の様子を伺おうと女性は早苗を見つめるが、早苗は女性の方を見ないまま、明るい声色で言葉を返した。




「行先、お寺じゃないんですよ。だから家族は誘いにくいんです」




表情を伺えない早苗に、女性は進行方向に顔を向け早苗に合わせる。




「神社?銭湯?」


「不正解」


「ここから近い?」


「ちょっと歩きますね」


「この時間にわざわざ行くところでしょう?思いつかないな。……屋台探してるとか?」


「違いますけど、なんだか焼き芋食べたくなってきましたね」


「おでんとかラーメンとかも美味しいよ」


「見かけたことはあるんですけど入ったことは無いんです、それ。大人だ」


「次見かけたら入ろうか」


「おごりですか?」


「仕方ないなぁ」




軽い言葉の応酬が続くが決してお互いに顔は見ず、無音の路地を連れ立って歩き続ける。




「なんだろう。知り合いと待ち合わせとか?」


「約束してはいないですけど、会う予定です。」


「なんだか回りくどい言い方。だれ?友達?」


「なんでしょう……こちらは相手を何度も見てはいますけど、相手がどうだかは」


「……恋しちゃった?」


「だったら平和なんですけどね」




女性は眉をひそめる。早苗の顔が強張ったが、沈黙を打ち消すように女性の返事が来るとその強張りは微かに解れた。




「ちょっと思いつかないな。詳しく聞いてもいい?」


「良いですけど、聞いても分からないかもしれませんよ」


「世界は広いから」


「壮大ですね」


「よくある事だよ」


「なんですかそれ」




早苗から笑いが零れる。釣られるように女性も笑った。しばしの沈黙の中、十何基目かの街灯の灯りを乗り越える。顔に影が差す中、早苗は口を開いた。




「日付が変わる直前くらいに、私の家族全員殺されるんですよ。これから会いに行くのはその犯人です」




女性の足が一瞬止まり、直ぐに通常の歩調へ追いつく。早苗は誰もいない真正面を見据えながら話し続けた。




「たぶん予知夢とか虫の知らせだと思うんです。居間の炬燵で寝ていて、起きたらバラエティがつけっぱなしで賑やかで、弟と妹が居間に来て言い合いしてて、その後父と母が年越し蕎麦持ってきてくれて。食べようとしたらいつの間にか父の後ろに黒づくめの人がいたんです。父が殺されて、父に駆け寄った妹が次に殺されて、私達は逃げようとして、私と母を庇おうとした弟が殺されて、私を庇って母が殺されて……。気が付いたら、また炬燵で寝ていました。起きたらテレビで年越しのカウントダウンをしていて、画面の向こうは楽しそうで幸せそうで賑やかで。でもこっちはしんとしてて、周りを見ると皆動かなくなっていて」




一息ついた早苗だが、周囲の静けさに、上ずった声で再び口を開いた。




「ていう夢を見たんです。炬燵で寝落ちしていたみたいで、バラエティ流しながら寝たのに悪夢見たって居間に来た弟と妹に愚痴って、なんだか怖くなって玄関を見に行ったら鍵がかかってなかったんです。怖いって皆でぎゃーぎゃー言いながら鍵をかけてチェーンもつけて、安心して炬燵に戻ってゆっくりしていました。その後父と母が年越し蕎麦持ってきて皆で食べようとした時にチャイムが鳴ったんです。母と父が玄関に行ったら悲鳴が聞こえて、玄関から黒づくめのその人が歩いてきて……」




弟が殺され、とっさに妹を庇おうとしたが上手くいかず妹が殺される。気が付くと静かな家で、テレビだけが賑やかに年越しまでの秒読みを始め、誰も返事を返さない。そんな悪夢から目覚め、正夢にしないよう試みるが家族は殺され、新年への秒読みが始まる頃には早苗一人だけが取り残される。そして最悪な気分で目覚め、現実にならないよう試行錯誤を繰り返すが黒づくめの犯人は必ず殺戮を遂行し、気づけばカウントダウンが無音の家に響き渡る。延々と続く悪夢と覚醒の話を明るい声で話し続ける。自身の胸元に置かれた早苗の手がぎりぎりとコートの生地を握りしめた。




「で、さっき目が覚めたんです。これだけ繰り返しても一度も明けましておめでとうが言えなかったんですよ。完璧に悪夢過ぎて逆に素晴らしいというかなんというか。あまりにも現実感が有ったし、これは予知夢だなと。だから前もって犯人の家に突撃して正夢になるのを回避しようと思って。流石にこれは家族には言えませんよ」




あははと声に出して笑う早苗。女性は答えず、握りしめていたハンドルの手を緩めた。早苗の笑い声は弱まり、終いには嘆息する。女性の方を向くことが出来ず、握りしめたコートの生地を指で擦る早苗。その肩を女性が軽く叩いた。




「家族大好きなんだね」




からかい混じりの声に、早苗は鼻を鳴らし、頬を掻いた。




「いや、大好きとかそういうのじゃないです。実際見ると分かりますよ。本当に目覚めが悪くて悪くて」


「でも身を挺して家族を庇ったんでしょ?夢だと思ってないのに。実際上手く出来なかったとしても、それができるのはすごいよ」


「まあそれなりに良い関係ではあるので……。嫌いだったらしないです。家族でも絶対」


「やっぱり大好きなんじゃない」


「止めてもらっていいですか」




女性を睨みつける早苗。女性はにんまりとした笑みを浮かべており、早苗の口から唸り声が漏れる。




「それで、犯人の家はどこ?もっと先?」


「そこの十字路を曲がった先です」




マフラーを緩めながらぶっきらぼうに言い返す早苗。




「なるほど。じゃあ行こうか」




曲がった先は変わらず住宅街で、塀が立ち並ぶ途中にぽつりぽつりと街灯の光が浮かんでいた。




「それにしても何度も何度も繰り返す夢なんてね」


「本当ですよ」


「それだけ繰り返してもなんとか出来なかったって厳しいものがあるね。なんだっけ。鍵を閉めても駄目。玄関を封鎖しても駄目。武装しても駄目。庇おうとしても出来ない。殴れない。通報しようとしても駄目」


「そうですね、ざっくり言うと。まあ夢の中だったので上手くいかないのは当たり前かもしれませんけど」


「今それ試した?」




早苗は驚き女性を見返す。その様子を見て女性は立ち止まり、バイクスタンドを立て自身のスマホを取り出した。




「じゃあ、例えば通報試してみようか」


「いや、待ってください。今夢じゃないんですよ?通報なんてしたら迷惑になりますよ」




慌てて制止しようとする早苗を女性は穏やかに言う。




「繋がったら殺されそうだってことを言って家に来てもらえばいいじゃない。犯人が来たら取り押さえてくれるよ」


「いや、でも、殺人が実際起こるか分からないし」


「じゃあなんで君は犯人の家を探しているの?」




女性にまっすぐ見返され、黙り込む早苗。女性は自身の携帯を操作する。が、すぐに眉を顰めて画面を早苗に向けた。




「見てて」




携帯の画面は電話番号の入力画面になっている。そこに女性が110番を入れようとするが、何度繰り返しても入力出来ず、通報が出来ないでいた。指先が別の番号を入力してしまったり、画面が消えてしまったり、女性の手が思うように動いていないようだった。




「君も試しにやってみなよ」




戸惑いながら早苗は自身のスマホを取り出し、言われるままに通報しようとするが、早苗の手も同様だった。




「手が悴んでいるからですかね?」


「そんな感覚する?」


「……」




手を見つめ、握っては開きを繰り返す早苗。首に手を当てるが腑に落ちない表情のままの早苗を見て、女性は自身の顎に手をやった。




「色々やってみようか」




そう言って女性はポケットから灰色に鮮やかな赤いマークの付いた箱を取り出し、中から一本煙草を取り出した。




「吸う?」


「……遠慮します」


「狸や狐に化かされた時には煙が良いらしいからね」




そう言って女性は煙草に火をつける。深呼吸と合わせるように紫煙が揺らぎ、吐き出される。早苗は鼻を押さえ顔を顰めた。女性は眉を上げる。




「煙苦手?どんな香りする?」


「……あまり好きではないです。苦いし臭いし」


「煙だしね。銘柄変える前に言われたな、臭いから嫌いって」


「甘い香りの煙草もあるのは知ってますけど、それ以外のはちょっと……」


「ふぅん」




女性は意味ありげに相槌を打つと、煙草の火を消し携帯灰皿に仕舞う。早苗は軽く周りを見回し、不満そうに言った。




「化かされてるわけじゃないみたいですね」


「そうだね。じゃあ他の可能性を考えなきゃいけないわけだけど」


「良いですけど、歩きながらにしましょう」




そう言って歩きだそうとする早苗に、女性はバイクのハンドルを傾けながら言った。




「ちょっと君これ持ってくれない?」




早苗は首を傾げるが、大人しくバイクのハンドルを持ち車体を支えた。微かな驚きの表情と共に小声の驚嘆が漏れる早苗。その様子をじっと見つめていた女性は、早苗が車体を押そうとすると驚いたように言った。




「支えられるんだ?君が下敷きになるくらい重いのに」


「え」




その瞬間、ぐらりとバイクが傾く。早苗は驚愕と焦りが露わな顔で車体を支えようと体重をかけるが、じりじりと車体に押し負けて膝をつき、間一髪身をよじり下敷きを免れた。上がる息もそのままに尻もちをつき呆然とバイクを見つめる早苗。バイクの反対側にいる女性もその有様に硬直していた。




「……大丈夫?」




おずおずと早苗に手を差し出す女性。呆然としたまま早苗はその手を掴もうとするが、上げた自身の手が震えているのに気づき、女性の手は掴まず睨みつけながら乱暴に立ち上がった。行き先を失った女性の手は暫しその場を彷徨い、バイクのハンドルへ辿り着く。女性がハンドルを握りバイクを起こそうと体重をかけるが、バイクはびくともせず横たわっていた。




「それで、私を押し潰そうとして何が分かったんですか」


「……ごめんなさい。こんな事になるなんて少ししか思ってなくて」


「少しは思ってたんですか」


「そんなことあるわけないじゃーんって笑い話になる前提だったの。私の中では。本当に申し訳ない事をしたけど」




神妙に頭を下げる女性に、早苗はため息をついた。




「分かった事があるならそれでいいです。早くバイク起こしていきましょう」


「……バイクは動かせそうにないかな」


「いや、さっき普通に押してたじゃないですか」


「押してた。普通だったら軽々起こせるよ、勿論。でもこれは無理」




早苗は怪訝な顔で女性を見下ろす。女性はバイクのボディを撫で、立ち上がり早苗を見た。




「さっき分かった事の話をしようか。ここは君の夢の中。君は覚めたと思っているけれど、未だ悪夢の真っ最中だ」




衣擦れの音も木枯らしの音さえしない時間が流れる。早苗が先に視線を外し、口角を上げる。




「何言ってるんだか。早くバイク起こしてくださいよ」




「君がこのバイクの事を自分が押し潰されるほど重い物だと認識してる以上、恐らく二人がかりでも動かせないよ」


「私のせいにしないでください」


「そういうことじゃないんだけどな……」


「勘弁してくださいよ。今が夢とか」


「君も不思議に思わない?このバイク、最初持った時は思ったより重くなかったでしょう?それなのに私が重いと声をかけた瞬間重くなった。」


「……ただ単に軽いと勘違いしてたんですよ」


「他にもある。通報を出来ない手の挙動。君も手が悴んで動かないわけじゃないのは分かっているでしょう?あとは煙草の香り」


「夢じゃないですよ絶対。だって夢と今とでは決定的な違いがあります」


「それは?」


「あなたです。今までの夢の中ではあなたは全く出てきませんでした」


「今までの夢の中ではって言うってことは今も夢だって思っているんじゃないの?」


「言葉尻拾うの止めてください」




語気が強まる早苗に女性は頭を掻く。




「まぁ、そこは確かに痛い所なんだよね。私自身はバイクで走ってる途中で眠くなって駐車場で仮眠取ってて、起きたら君が歩いてたから声をかけたんだけど……。夢を人と共有するなんて聞いたことないし」


「じゃあ普通に今は現実なんですよ」


「なんでそこまで夢の可能性を否定するかね」


「当り前じゃないですか。何十回も家族が惨殺する夢を繰り返して覚めもしないなんて、まるで私が家族を殺したくて仕方ないみたいじゃないですか。そりゃ多少嫌な事はありましたよ。長く一緒に過ごしてるわけですから。でも私は皆を殺したいなんて思った事一度も無い」


「夢と願望は必ずしもイコールではないと思うけど」


「だからこそ私は今の現実で、悪夢が再現されないようにやらなきゃいけないんです。……時間の無駄です。ついてこないでください」




肩を怒らせ路地を進もうとする早苗の背に、女性が疑問を投げかける。




「犯人の家を、なぜ君は知っているんだろう?」




早苗は怒りの表情で振り返り口を開く。しかしそこから言葉は出てこず、早苗は呆気にとられる。




「犯人が知り合いじゃなければ、尾行なり何なりで調べなきゃ家なんて分からない。さっき聞いた夢の話ではそこまでの余裕は無かったと思うけど、なんで知っているんだろう?」




顔を伏せる早苗を見つめ、淡々と問いかける女性。




「だいたい、一家皆殺しに出来る人間の所に1人で無防備に行って何をするつもりなのかな?説得?話し合い?そんな楽観主義じゃないよね君は。その細腕だけで相手を組み伏せたり、殺したり出来ると思えるほど愚かでもない。警察も呼ぶつもり無かった。まさか自分が犠牲になれば家族は殺されずに済むとか思っていないよね?」


「……流石にそれは買い被りです」




早苗は自嘲し続ける。




「分からないです。行ってどうしようとか全く考えてなかったです。行ったらなんとかなるとしか思ってなかった。確かに、犯人の家を知ってるはずもないのに」




女性はふっと息を吐きライダースーツの首元を緩める。早苗はよろよろと女性に近づいた。




「どうして犯人の家知ってるんだろう。行ってどうするつもりだったんだろう。というか、今って現実なんでしたっけ?夢でしたっけ?なんで覚めないんでしょう?どうしてあんなにみんな殺されなきゃいけないんですかね?夢だからですかね?」


「……申し訳ないけど、確固として答えをあげられる立場じゃないんだよなぁ」


「は!?」


「もちろん!私はここが君の夢の中だって確信している。けれども、だからと言って証拠は提示出来ないんだよ。あのバイクみたいに君の認識一つで変わるような曖昧な物しかないんだよここには。それは確固たる証拠とは言えない。言えて状況証拠。というか、確固とした物がもしあったらそれは夢じゃなくて現実だから、私の説が間違っていることになるわけで」




早苗は頭を抱える。女性が困ったように笑う。




「儘ならないね」


「面倒くさいなもう!」




早苗の絶叫はすぐ静けさに消える。女性は煙草を取り出し火をつけた。




「まぁ、100%にはならないけど出来る限り状況証拠を集めるしかないと思うよ。例えば、これだけ長い間夜道を歩いているのに私達以外の人と出くわさないとか。酔っ払いが気持ちよさそうに大声で歌っている声がしないとか。遠くで車やバイクのエンジン音が響く音もしないとか。君が叫んだのにどこの家も様子を伺う気配もないとか」


「……心許ない証拠だなぁ」


「いっそ繁華街のど真ん中だったら分かりやすいんだけどね。煙草いる?」




早苗は差し出された灰色の箱をじっと見つめ、おずおずと煙草を一本取りだす。女性の吸っている姿を見ながら口に咥えようとし、しかし寸前で苦虫を噛み潰したような顔で煙草を自身のコートのポケットにしまった。女性はその様子に噴き出し、ライターを早苗のコートのポケットに押し込む。




「えっ、ちょっと」


「これからどうしようか」


「どうって……どうしましょうか」


「私の説が正しいとしたら、君がどうするかで全て決まるんだけどな」


「……もしこれが夢なら覚めたいです。いい加減飽き飽きなので。でももしこれが現実なら、やっぱり正夢になるんじゃないかって怖いです。私も家族も全員無事の状態で正月迎えたい。なので、なんで私が犯人の家を知ってるのか分からないですけど、一応様子は見に行きたい気持ちでいます」


「なるほど、そうなるのか」


「もちろん!今は何も考えてないわけじゃないです。身を差し出すつもりもないし、力で何とかなるとは思ってないです。隠れて様子を伺って、本当に私の家に向かっていたら警察に電話します!」


「さっき通報試して出来なかったじゃん」




女性に言われ、早苗は憎らしそうに自身のスマホを睨みつける。女性は紫煙を燻らせた。




「まぁ、それなら行こうか」


「いいんですか?」


「行った先で更に夢だって確証が得られるかもしれないし。もし現実だったら……いざとなっても2人いるならなんとかなりそうだし。一番の武器は使えないけどね」




バイクを見下ろしへらへらと笑う女性を不思議そうに見る早苗。女性と同じようにバイクを眺め、ふと顔を強張らせ女性に視線を向ける。




「えげつない事考えますね」


「いやぁ、そうでもないと思うよ?」


「怒ってます?」


「どうだろう」




そう言いながら女性はヘルメットを持ち上げ、脇に抱える。




「じゃあ行こうか」




早苗と女性は倒れたバイクを後にし、夜道を進み始めた。変わり映えのしない塀が続き、街灯がぽつりぽつりと立ち尽くしている。




「状況証拠1つ追加。こんなにも分かれ道や十字路が無い路地は住宅街には無いと思うよ」


「かもしれませんけど、私こっちの方来た事無いからなぁ」


「0.1%でも私の説が補強されれば万々歳だから」


「羨ましいなぁ。……もうすぐ犯人の家のはずです」


「へぇ、この先ずっと続いているように見えるけど……」




早苗が足を止める。女性は振り返り早苗を見る。そして早苗の視線を辿り路地の奥へ目を向ける。街灯の灯りを3つ程挟んだ奥で塀が途切れ、その代わりに見上げるほど大きな大樹が2つ、路地の両脇に聳え立っていた。大樹から向こうの場所には街灯など無いようで、ただただ暗闇が広がっている。早苗と女性は目を見合わせる。女性は暗闇を指さし、早苗は強張った顔で首を振った。女性は頷き、大樹へ近づく。嘗め回すように大樹を観察し、その間に佇む暗闇を真正面からじっと見つめる。それを見て早苗は硬い表情のままじわじわと大樹と暗闇に近づいた。女性の背後から女性の眺めているものを見ようと首を伸ばす早苗に気づき、女性は早苗に見えるよう暗闇を指さす。そして咥えていた煙草の煙を深く吸い込み、名残惜しそうに吐き出し、火が付いたままのそれを暗闇に放った。通常ならば大樹の境を一歩超えた場所に落ち小さく火種が煌めくはずの煙草だが、境を超えた瞬間暗闇に呑まれ、形も煙さえも見えなくなる。




「状況証拠1つ追加。こんな場所が現実にあるわけない」


「半分願望ですよね」


「正解」


「まぁ、私も同じ気持ちですけど」




そう早苗が呟いた瞬間、暗闇が揺らめいた。咄嗟に早苗が女性を塀の方へ突き飛ばす。その早苗の手を女性が掴み、2人は共に塀にぶつかった。静かに揺蕩っていた暗闇はぼこぼこと膨らむような挙動を見せ、大樹の境を越え先程女性が立っていた場所に降り注ぐ。そして地面に落ちたそれは空間に染みが広がるようにゆっくりと大きくなり、遂には人間大にまで広がった。




「犯人……」




その様を目の当たりにしていた早苗の口からぽつりと言葉が零れる。女性が目を剥き早苗を見ると、震える声で早苗は言った。




「黒い手袋とか黒い目出し帽にサングラスとか、そういうの付けてるんだと思い込んでたんです。でも思い出しました。この人が、これが、私の家族を殺してきた犯人です」




人間大の暗闇の下半分がゆっくり移動する。それはまるで黒づくめの人間がゆっくり歩いているような動きだった。女性は立ち上がり、早苗を背にしながら暗闇をじっと見つめる。暗闇は2人の存在に反応を示さず、ゆっくり夜道を進み始める。女性は暗闇が距離が出来ると、抱えていたヘルメットを掲げ鋭く息を吐きながら暗闇へ投げつける。ヘルメットは確かに暗闇に当たる軌道を描いたがぶつかることはなく、暗闇を通り抜けた先の路地に音を立てて転がった。舌打ちをする女性。




「こっちからは干渉出来ないのかな?感覚器官は無さそうだけど。もしくは、ここから家への道中でもっと固まるとか……」




そう呟く女性だが、視界の端に必死な表情で走りだそうとする早苗の姿を捉え、慌ててそれを止めた。




「どうしたの」


「だって、だって」


「落ち着いて。慌ててたら出来るものも出来なくなるよ」


「だって、あんなの警察に止められる訳がない。皆が殺されちゃう。何とかしないと」


「なるほど、分かった。じゃああれを何とかするために成功後をイメージしよう。あの化け物が退治出来た後、君は何をしたい?」


「……帰って、明けましておめでとうって言いたい。いつも年越しは妹と弟が特番何見るかで喧嘩してるから、それを眺めたい。父が毎年年越し蕎麦を打つのでそれも食べたい。お母さんはお父さんの蕎麦が伸びるの嫌がるから早く食べなきゃいけなくて、それで……来年も皆幸せでいたいです」


「ここが夢だって私の説覚えてる?」




早苗はこくんと頷く。




「それを試してみる気はない?これはただの悪夢。正夢にもならない普通の悪夢。寝起き直後は嫌な気分だけど、直ぐに忘れるよくある悪夢。君の話じゃ、繰り返す夢の中で君は能動的に目覚めようとは一度もしてない。自分から目を覚まそうとすれば、くっきりはっきり悪夢とおさらば出来るかもしれない」


「……でも、皆が」




コートの胸元を握りしめる早苗。その手に女性は自身の手を包むように重ねた。




「そこの不安は当たり前。だから、少しでも夢だと思える状況証拠を増やそう」


「今からですか?」


「出来るでしょ。アイツ足遅いもん」




女性はビシッと暗闇を指さし朗々と言った。




「君は今から走ってアイツを追い抜き自分の家に帰る!そして家族の自室に突入し家探しする!」


「はぁ!?」


「ここが君の夢なら君の知らない物は無い。現実ならもちろん君の知らない物がわんさか出てくる」


「家族のプライバシーを何だと思ってるんですか!?」


「えー、私としては手っ取り早くていいと思うけど。他に方法があるならそっちでもいいんじゃない?君の家族が本物の家族かどうか見分ける方法」




早苗はぐしゃぐしゃと頭を掻き、路地の向こうを見つめるた後、ちらりと女性を見て口を開いた。




「あなたは来ないんですか?」


「行かない」


「何でですか?ここまでついてきたのに」


「言わない」




口をへの字に曲げる早苗に女性は大声で笑って言った。




「悪夢が正夢にならない保険だと思っておいてよ。あ、君自分で夢から覚めれるタイプ?」


「そんな事考えたこともないですし、覚めれないからこんな事になってるかもしれないんですが?」


「じゃあ私のとっておきを教えよう。目を瞑って、全身に力を入れて、一気に伸ばす!それで起きれなかった事は私は無いね」


「信用出来るのかなぁ、不審者の言う事なのに」




女性が早苗の両頬を摘まみ引っ張る。驚く早苗の顔を見て女性は顔を綻ばせ、早苗の頬から手を放す。




「いってらっしゃい」




そう言って手を挙げる女性。早苗は一瞬きょとんとした後、ハッと表情を変えにんまりとした笑顔を浮かべる。




「いってきます」




女性の掌に自身の掌を叩きつけ、早苗は走りだす。みるみる遠くなる女性の姿を視界の端に捉え、自身の手を見下ろし呟いた。




「状況証拠1つ追加。絶対痛い叩き方だったはずなのにぜんぜん痛くない」












ゆっくりと歩く暗闇の背中を追い抜き、横たわったままのバイクを乗り越え、何十基もの街灯の灯りを飛び越す。その間全く人と出くわさず、酔っ払いの歌声や車やバイクのエンジン音が響く事は無かった。通常ならば息も絶え絶えな距離を走り続け、早苗は自宅の玄関を開ける。中からはテレビの賑やかな音が漏れ聞こえ、キッチンから母が顔を出した。




「おかえりなさい。身体冷えたでしょう?もうすぐお父さんのお蕎麦出来るから、炬燵に入ってなさい」




早苗は母と目を合わせず、震える手を押さえながら家に入りキッチンへ向かった。




「おかえり。蕎麦はもうすぐだから炬燵の上片付けておいてくれ」


「どうしたの?何か飲む?」




キッチンでは父と母がコンロの前で鍋を覗き込んでいた。早苗に気づくと声をかけてくるが早苗は返事を返さない。不思議そうに早苗を見る両親の視線を遮るように早苗は顔を背け、目に入った冷凍庫を開ける。中を漁ると『俺の』と大きくマジックで書かれた赤と白の丸みを帯びたパッケージのアイスが奥底に隠れていた。早苗はそれを持ち居間へ行く。居間のテレビにはバラエティが写っていて、妹と弟が炬燵に入りリモコンを取り合っていた。




「あ、お姉ちゃんおかえり。お姉ちゃんもライブ見たいよね?」


「多数決じゃねえから」


「多数決だよ……アイスだ!」




妹の視線が早苗の手に注がれる。声につられ弟の視線もアイスに留まり、パッケージに書かれた自身の筆跡を見た後不思議そうに早苗を見上げた。早苗はパッケージを毟り取り、中に入っているアイスを落とし踏みつぶした。必死に何度もアイスを踏む早苗に、弟は呆れたように言う。




「なんだよ。もったいないなぁ」


「お姉ちゃん変なのぉ」




揶揄うような妹の様子と共にそれを見ていた早苗は、何度か躊躇うように口を開け閉めした後に言葉を絞り出した。




「デブ」


「お姉ちゃん?」


「豚。ブス。醜い。……」


「ひどーい」




からからと笑う妹を見て、早苗はキッチンへ向かう。キッチンでは父がそれぞれの丼に蕎麦を盛り付けていた。早苗は盛り付けられている蕎麦を床へぶちまける。




「おっと、大変だ」




父は床に落ちた蕎麦を片付け始め、その様子を見下ろす早苗は後ろから声を掛けられる。




「あら、どうしたの?こぼしちゃった?」




母は慌てたように父に駆け寄り、落ちた蕎麦の片づけを手伝い始める。そんな母に早苗は言葉を放った。




「なんでそんなのと結婚したの?」


「何言ってんのもう。火傷してないなら居間の方に行っていなさい」




なんでもないように言う母の様子を見て、早苗は震える息を大きく吐いた。早苗はそのまま玄関へ向かい、一度だけ室内を振り返る。




「ごめんなさい」




誰にも届かない一言を呟き、早苗は外へ出る。夜道を進む内に早苗の歩調は速くなり、遂には走りだした。




「違った。違った、違った!あんな態度のはずがない!本物の家族じゃない!現実じゃなかった!お姉さん!」




女性の元へと走り角を曲がった早苗は、その先にいたものを見つけ足を止めた。黒い人型が道の向こうからゆっくりと近づいてくる。道の先にいる早苗の存在に目もくれず淡々と進んでいるはずのその人型から、なぜか早苗は離れることが出来なくなった。一歩、一歩、人型が近づくにつれ、早苗の顔から笑みは薄れ戸惑いと焦りが滲み始める。遂には早苗の眼前に着き、更に前へと進もうとする人型。早苗は思わず身体を強張らせるが、人型が早苗にぶつかることはなくするりと通り抜けた。人型は早苗の存在など無かったかのように尚も早苗の家へ向かい歩き続ける。早苗は膝を折り、路上に座り込んだ。虚空に視線を彷徨わせ、頭がゆらゆらと揺れる。細やかな吐息にぽそぽそと音が乗り、言葉として溢れ出す。




「やっぱり夢から覚めちゃいけないんじゃないかな?だって私には夢の中の状況しか分からないから、現実でどうなってるかなんて分からない。でも、今も夢の中にいるってことは、たぶん現実では寝続けているっていうのは確定してる。ってことは今の現実は平和な大晦日で、みんな死んでいないってことになる。それならその状態を守るために私は夢から覚めない方がいいんじゃないの?夢の中なら何回家族が死んでも炬燵で起きる所からまた始まるし、大体ここにいるみんなは本当のみんなじゃないし、見た目も性格もものすごく本人に見えるけど夢の中の家族であって現実の家族とは別人だし、何度死んだって別に良くない?現実のみんなは生きてるわけだから。嫌だ。現実の皆が死ぬのは嫌。もし、夢から覚めた時、本物の皆が死んだら取り返しがつかない。結局あの黒い場所と黒い人が何かも分かっていないんだから、夢から覚めた時にさっぱりいなくなるかなんて分からないじゃない。夢と同じ事が現実で起こらないとは限らないじゃない。そうだ、夢の中でだって起きる所から全部始まるんだから、起きなければ殺戮も始まらないってことになる。つまりとりあえず、夢から覚めようとしなければみんなは無事。だからとりあえずは夢から覚めないでおいて、あの黒い場所に行ってみよう。中に入ってみて調べてみて、正体が分かったら安心して対策を考えられるし、正体が分からなくてもあそこが夢の中にしかない所だって確信出来たら、その時には夢から覚めればいい。危なかった。もし下手に目覚めてたら、現実に黒い人が来ちゃってたかもしれない。黒い場所に行かないと。皆が死んじゃう前に気づいてよかった。あの場所に行こう。どうせ何もなくてもまた夢の中の皆が死ぬだけ。ちょっとキツいけど、今までもやってきたことだし。行かなきゃ。今目を覚ましたら本物の家族が死ぬ。黒い人に殺される。私が殺したも同然。だから黒い場所に行かないと。目が覚めない内は現実の家族は無事。夢の中の家族は死ぬけど、大丈夫。辛いけど、現実の家族が死ぬよりマシだし我慢できる。だから黒い場所に入らないと。早く、早く、あの中に入らないと」




膝を付いたままの早苗の目の前の路地が途切れ、両側の塀だったはずの場所に見上げるほどの大木が生えていた。大木に挟まれるようにある路地だったはずの場所は街灯の光も通さない暗闇で満ちており、静かに揺蕩っていた。




「……違う。そっか、犯人は私だったんだ。私が皆を殺したくて殺したくて仕方がなくて、だから何回も何回も何回も殺して楽しんでたんだ。黒い人がみんなを殺す前にこの中に入らないと。この中のことも黒い人の事も何も分かってないんだから調べるために入らないと。皆を殺したいのは私なんだからここに入らないと。この中に入らないと。早く入らないと」




暗闇に手を伸ばしよろよろと立ち上がる早苗。




「皆が幸せでいられなくなる」




零れ落ちた音が言葉として響き早苗の耳に入る。




「……みんながしあわせでいられなくなる」




口が発した言葉が響き早苗の耳に入る。




「うん。幸せでいられなくなるね、私は。この中に皆がいるわけでもないし、暖かいお風呂やお布団があるわけでもないし、映画館やら本屋やらあるわけでもないし、美味しいご飯があるわけでも楽しい何かがあるわけでもない。他の魅力的な何かがあるわけでもない。幸せでいられるわけないね」




暗闇に伸ばした手を下ろす早苗。コートのポケットの中にあるものに気づき、煙草とライターを取り出す。早苗は煙草を口に咥え、ライターで火をつける。煙草を通して息を吸いながら、大木や暗闇と距離を取る。暗闇はただ静かに佇み、流れてきた紫煙を飲み込む。




「やっぱり苦いし臭いなぁ。そう思わない?」




早苗は暗闇に呼びかけるが、暗闇は静止したままだった。




「……あぁ、もしかしたら万が一あるかもしれないくらいにはあるのかもなぁ。そこに入って幸せになれる可能性」




ため息のように紫煙を吐き出す早苗。怪訝そうに煙草を見つめ、それらしく咥えて腕を組む。静かに紫煙が流れ、火種が煌めく。




「まぁいいか」




早苗は煙草を持ち、口から離す。そして狙いを定め、暗闇の中に煙草を放り投げた。




「私はこっちが良いや。さよなら」












ゴッという鈍い音と共に足に衝撃が走る。直後、痛みがじわじわと足に広がっていき呻き声が口から洩れる。どうやら炬燵の足にぶつけたようだ。年末の特別番組から流れてくる笑い声に目を開けるが、なぜか視界が滲みうまく焦点が合わない。瞬きを繰り返し、瞼をこする。すると背後から足音が近づいてきた。




「姉ちゃんまだ寝てたのかよ。俺も入るから、そこ・・・」




げ。と小さく呟く声が聞こえる。




「母さん台拭き!姉ちゃん炬燵に涎たらしまくってる!」




大声で呼びかけた先から大声が返ってくる。




「要るなら自分でやって!お母さん達今忙しいんだから!」


「えー・・・」




ぶつくさ言いながら離れていく音がして、しばらくして戻ってくる。ようやく焦点が合い始めた目でそちらを見ると、弟が顔を強張らせ、濡れた布をこちらに差し出した。




「・・・目、冷やした方が良いよ」


「・・・ありがとう」




そうお礼を言って、冷たく濡れた布を目元に当てる。腫れた瞼に心地良さが沁みる。




「姉ちゃんそれ台拭き」


「・・・ねぇなんでそんなことするのもう!」


「いや見ればわかるだろ!」


「こっち寝起き!冷やせって言いながら差し出されたらこうするよ!」


「わかったよごめん!」




小走りの足音が近づいてきて、妹が居間に顔を出す。




「カウントダウン間に合ってる?間に合ってる!全然余裕じゃんよかった・・・なんでお姉ちゃん泣いてんの?またアンタなんかやったの?」


「うるせえよ!」


「瞼冷やせって言いながら台拭き渡された」


「サイテー!」


「まだ新しいやつだから!」


「関係ありませーん!」




弟と妹がぎゃんぎゃん言い合いをしていると、遠くから父の声が飛んできた。




「蕎麦出来たぞー。持ってってくれー」


「はーい!ホラ、行って」




妹に顎で促された弟の大きな舌打ちが聞こえる。




「ガラ悪」


「お前の分は運ばないからな」


「ケチ」


「言ってろ」




弟がキッチンへ向かい、妹はリモコンを手に取り炬燵に潜り込んだ。チャンネルが変わり、テレビの中では整った顔立ちの男性が躍り歌っていた。キッチンから母がこちらへ呼びかける声が聞こえる。




「ねえ、連絡来たー?」


「来てなーい」




テレビから目を離さず妹が返事を返す。




「えー、お父さんどうする?お蕎麦茹でておく?」


「遅くなるとのびるからなあ」


「そうよね。お父さんのお蕎麦のばしたくないし……」


「茹でとけば?やばかったら私食べるし」




炬燵に潜ったままそう言う妹に、戻って来た弟が冷たく返す。




「デブ」


「あ?」


「よくペロッと食べれるなぁ……」


「なんか言った?」




妹が身体を起こそうとしてガタンと炬燵が浮く。




「動くなよ蕎麦置くんだから」




血相を変えた妹に慄くこちらとは対称的に、弟は何食わぬ顔で年越し蕎麦を炬燵に置き、炬燵に入りながら持ってきていたアイスの蓋をバリッと開けた。




「あっ、私へのお詫び?」




大げさに驚くふりをする妹を無視して、弟がアイスの片方をこちらへ差し出す。




「姉ちゃん食べる?」


「……さっき食べなくて良かった……ごめん!」




静かに変容する弟の形相に恐れをなして謝ると、弟はひっこめようとしたアイスを渋々差し出した。




「お姉ちゃんは許すの?シスコン!」


「ねぇ、本当に連絡来てないの?」




母と父が顔を出し、炬燵に年越し蕎麦を並べ炬燵に入る。妹は渋々スマホに視線を落とす。




「来てないよ。もうすぐ来るでしょ」


「今どこにいるか訊いておいてくれない?」


「気付かないかもしれないよ」


「・・・だれか来るんだっけ?」




小声で弟に訊くが、耳聡い妹が聞き逃すことはなかった。にやにやと笑顔を浮かべながら声を上げる。




「前に言ったじゃん。忘れちゃったの?ヒドーイ」


「ごめん・・・。誰?あんたの彼氏とか?」


「来ないよ!」




一転して怒ったような表情に変わった妹は、父の伺うような視線に気づき顔をしかめる。




「・・・来ない?いないじゃなくてか?」


「でた。もうやだ私何も言わない」




そう言って妹はぶすっとした顔でテレビに顔を向け、父の視線を断固として無視し始めた。


弟はその様子を見て、してやったりとばかりに絡み始める。




「来ないんだ?いないんじゃなくて?今彼氏なにしてんの?いつから付き合い始めたわけ?どんな人?」


「うるさい!」




いつも通りの言い合いに呆れた顔をしながら、母がそれぞれの前に箸を並べながら言う。




「あんたも連絡来てないか確認してよ。アドレス交換はしてるんでしょう?」


「いや、だから誰が・・・」




来るの?と言い終わる前にピンポーンと玄関のチャイムが鳴る。炬燵に入って温かなはずの早苗の身体が一気に冷えたような気がした。




「あ、やっと来た」




そう言って母が玄関へ向かう。慌てて立ち上がろうとするが恐怖で悴む身体はうまく動かず、炬燵がガタンと浮いた。




「お姉ちゃん蕎麦が零れる!」




荒れる妹の声に返事も返せず、炬燵から抜け出す。すると




「早苗。食べ物が乗っているんだ。丁寧に」




父から静かながら厳しい声をかけられる。縺れる舌でやっとのことで謝罪をし、玄関へ急いだ。何か恐ろしい事が待ち受けている気がして、激しい動悸に胸を押さえながら玄関へ顔を出す。すると




「ヘイ、良いお年を過ごしてる?」


「遅いわよ着くのが。途中で事故にでもあったのかと思って心配してたのよ」


「ごめん。途中でものすごく眠くなって、バイク停めて寝てた」


「何してるのよこの時期に!下手したら凍死するじゃない!」


「居眠り運転よりは良いかなって……」


「まぁそうだけど……。でも連絡ぐらいしてよ。こっちに来る知らせだって直前だし、姉さんはいつもそう!」


「だって顔見せだけのつもりだったし……」


「何か言った?」


「ごめんって。はい、お土産」


「……次からは本当に連絡してよ?」




玄関には目元に鮮やかな化粧を施した60代の女性が立っていた。ライダースーツを着てヘルメットを抱えており、靴を脱ごうとして手こずっていた。予想していたものが何かも分かっていないまま、予想外の人物が玄関にいたことに混乱する。母が居間に戻る途中こちらを不審げに見てきたが、変わらずじっと女性を見つめているとその視線に気づいた女性と目が合った。




「……お久しぶり?」


「……お久しぶりです」




ギクシャクした返答に被さるように、居間の方から妹の大声が飛んでくる。




「叔母さん来たー?」


「来たよー!」


「もっと遅刻しても良かったのにー!」


「叔母さーん。こいつ叔母さんの分の蕎麦食べようとしてるー」


「告げ口すんな!」




居間から聞こえる賑わいが大きくなる。




「……ヘルメット持ちます」


「あぁ、ありがとう。お土産お母さんに渡したから後で食べて」


「ありがとうございます」




女性からチョコレートの甘い香りが漂ってくる。ふつりと会話が途絶え、並んで居間へ向かう。居心地が良いような、居たたまれないような、懐かしいような、つい先ほどまでいたような、不思議な感覚を感じていた。居間に着くと、妹が頬を膨らましてこちらを見上げた。




「お姉ちゃん達、遅刻。玄関で何してたの。新年になっちゃったじゃん」


「え?」




テレビを見ると煌びやかに花吹雪が舞う中、大勢の観客が歓声を上げ端正な顔立ちの青年達が口々に新年の喜びを口にしていた。




「明けましておめでとう」




弟がアイスを食べながらこちらに聞こえるよう呟く。




「あっズルい!明けましておめでとうございます!」




慌てて妹も続く。




「はい、おめでとう」




父が穏やかな笑みを浮かべながら語り掛けてくる。




「明けましておめでとう。お父さんのお蕎麦のびるから、早く食べて」




母がそう勧めてくる。ぽん、と早苗の背中が軽く押される。叔母は見覚えのある笑顔を浮かべながら、こちらに言葉を促した。なんてことのない言葉のはずなのに、発するには少し時間と努力が必要だった。じんわりと熱くなる鼻先からすうっと息を吸い、声色の震えを押さえ、言葉にする。




「明けましておめでとう」

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明けましておめでとうが言いたい話 春夏冬 しゅう @dragonfly_autumn

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