短編集『宇宙の旅行記』
永友悠稀
開花、それから
ある夏の日だった。
緑色と灰色がモザイク状にひろがる市街の、ちょうど中心を穿つ普通電車に揺られながら、ぼくは陽炎のようなうたた寝に身を委ねていた。
それは閃光のようだった。
視界がひどく明るみ、全身に衝撃が流れた。
否、実際としてそれは幻である。
しかしぼくの感覚神経は、その瞬間を爆発的な刺激として認識した。
その直後、ぼくは上半身の中央部に強烈な違和感を抱いた。
半ば浮いたようなまなざしではあったが、それはたしかに現実で、つまるところぼくは、胸部に一輪の花を咲かせていた。
ちょうど心臓の真横、わずかな窪みに、向日葵色の花が顔を覗かせている。
ぼくは幻の継続を疑った。
夢と現実の境目で、現実のような夢を見ているのではないのかと思った。
しかし手の感触、湿り気のある熱気、首元を伝う生温い汗が、その可能性を否定した。
これは、現実のような夢ではなくて、夢のような現実だ。
胸元に咲いた花は皮膚をこえて心臓まで根を張り、血液か何かを吸い取りながら、ぼくを苗床にしていた。
冗談ではない。不条理もいいところである。
ぼくはその花の存在を、どこか罪のように感じた。隠さなければならない秘密のように感じた。あるいは事実として、人間が自分の身体そのものに花を咲かせるなど、当然として罰せられるべきことなのかもしれない。
とはいえ、この花を抜いてしまうこともまた、妙に躊躇われた。
実際問題として、無理に引っ張ると臓腑ごと持っていかれるような痛みに襲われ、とてもじゃないが腕力で解決できる問題には思えなかった。かといって、花の周りはこれまでと変わりのない素肌なのに、そこに除草剤やらの薬剤を撒く気にもなれない。
だからぼくは、この花を他人に知られないように気を遣いつつ、ただじっくりと見守ることにした。
* * *
はじめのうちは妙に意識をとられてしまい、なかなか日常生活にも支障をきたしものの、半年もしないうちにそれが当たり前になって、気がつけばぼくは手足のように自然的な存在として、この花を認識するようになった。
同時に、ぼくの中で罪のように感じる意識も次第に薄れていった。
そのせいか、多少気が緩んでいたのもあるのだろう。
ある夜、夕食をともにしていた友人が、ついにその花を見つけてしまった。
「綺麗な花、咲かせているのね」
彼女の第一声は、およそぼくの想像とは大きく異なった。なるほど、そういう見方もあるのか。
ぼくは彼女にならすべてを打ち明けてもいいような気がして、ことの顛末を話した。
「……ということで、この花はたしかに綺麗だけれど、綺麗なだけでどうしようもないんだ。植え替えることができるわけでもないし、ジュースになるわけでも、デザートになるわけでもない。ただぼくに根付いて、咲いているだけの花だ」
「でも、その花を枯らせたくはないんでしょう?」
「どうだろう。なんの得にもならないし、むしろ見つかって騒ぎにでもなると面倒だから、いっそ枯れさせた方がいいのかもしれない」
「あなたが望むならそれでもいいけれど、きっともう二度と咲くことはないでしょうね」
「そうだね。それに、この花を枯らしたところで、必ずしもこれまでの日常が戻るとも限らない。今はこうして共存できているのだから」
だから、なんなのか。
言いかけて、ぼくは言葉に詰まった。
「だから……だからそうだね、もうしばらくは咲かせていてもいいのかもしれない」
もしもぼく自身が干からびてしまえば、きっとこの花も枯れるだろう。吸い取るべき栄養を取り入れることができずに、この身もろとも崩れ果てるだろう。今となっては、この花とぼくの生命は固く結ばれてしまっている。根から短い茎を伝って鼓動が伝わるのが何よりの証だ。
やがてぼくは、次第にこの花を愛でるようになった。
* * *
そうして一年が過ぎた。
季節は幾度も変わり、あの夏の緑はすっかりと消えて、視界はモノトーンに落ち着いていた。
その晩、ぼくはひどく酔っていた。
連日の激務が精神の外殻を削り落として、剥き出しになった過敏な神経をなおもすり減らしていくので、ぼくはいよいよ心身の限界に達した。
それでもどうにか力を振り絞って、ようやく義務を果たしきったのち、ぼくは浴びるように酒を飲んだ。ぬるい豆腐と乾燥した刺身をたっぷりの醤油とわさびにつけて食しながら、夜遅くまで飲み続けた。
ふと、遠い子どもの頃に抱いたような、夕方に友達と別れてひとり歩く帰路に覚えたような孤独感と、言葉にしがたい寂しさが、じわじわと全身をむしばんでいった。
ぼくは耐えられなくなって、丈の長い上着を羽織り、そのまま外へと出た。
玄関を開けた途端、冷たい風が頬をかすめる。けれども多量摂取したアルコールが、外的な感覚を麻痺させてくれたおかげで、すぐさま熱を取り戻した。
静寂に包まれた川沿いの小道を歩いていると、雪のように白く煌く花が咲いていた。
すると、どこからかわいて出てきた魔が、いきおいよく僕に突き刺さり、この花を飲み込んでみないか、と湿った欲動を備給した。
この花を飲み込んだら、どうなるのだろう。
もしかしたら今の、真夏の太陽のような黄色ではなく、このほどなくして溶けてしまいそうな、美しい雪のような白さがぼくの胸を覆うかもしれない。
僕は意を決して、路の脇で人びとを見守るように、静かに咲いていた花を摘み、それを口にした。
甘いような苦いような、不思議な味がした。好みではあるけれども、しかしどこか物足りないような味わいだけを残して、ただそれは流れ去っていった。
どうやらこの胸の花以外は、所詮毒にも薬にもならない水以下というわけだ。
ただ、嫌いじゃないだけの、雪のような花だった。
* * *
ぼくが花を咲かせてから二度目の春が訪れて、瞬く間に過ぎ去っていった。
そのことに気がついたとき、カレンダーはすでに水無月を表示していた。
どうりで長い雨が降り続いているわけだ。もうひと月は日の光を浴びていないだろうか。
そう考えていたあるとき、気が付くと再生していた胸の花が、ぼくの全身を強く締め付けるのを感じた。
ひどい苦しみは日中も絶えず続き、夜も治ることを知らず、ぼくはついに不眠と疲労を限界まで貯蓄することになった。
いよいよ息絶えるのか、という領域に達してもなお、真昼のワイドショーはぼくが知りたい情報なんか何ひとつとしてくれなかった。
けれどそれは、気象予報士の登場と、翌週の晴天を告げる音声情報によって一変した。
果たして生きるか死ぬかの汀にて、ついにぼくは日の光を浴びることができた。
当たり前のように思っていた現象との再会に、これほどとびきりの感謝を抱く日が来るとは、思いもよらなかった。
雨の季節も終わり、三度の夏の足音が聞こえ始めている。それに応じて、世界の色彩もまた、再び活気を取り戻しつつあった。
透明な日差しに抱かれながら、ぼくは、今しばらくこの花との共生の道を探ることを考えた。
何が正しいのか、どうするべきなのか、ぼくには未だわからない。けれども正しいことだけがすべてではないし、そもそも絶対不変の正しさなんてない以上、今日の善が明日の悪になることだって、ありうる。正義はただの指針に過ぎない。まして季節が流れれば、なおさらのことだ。
あるいは一生、ぼくらはこのままかもしれない。けれどもこのままふたりで生きていっても、いいのかもしれない。
なぜならぼくがここにこうして居ることと、ぼくの生命に繋がるようにしてこの花が咲いていることだけは、少なくとも紛れもない事実なのだから。
そんなことを考えながら、ぼくはゆっくりと息を吐いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます