あちこちを旅した男の話

森之熊惨

2020年2月 岐阜、下呂温泉

 きっかけは、高校の友達5人組の中で「どこか温泉に行こうぜ」という話になったことだった。愛知県に近い有名な温泉といえば下呂温泉しか思いつかなかったので、そこに行くことにしたのだ。問題はその交通手段だ。私ともう一人(Tと呼ぼう)が自転車で行こうと言い出した。犬山市から下呂市までは片道およそ70キロ。馬鹿だ。一人はふざけて新幹線で行く(もちろん走っているわけはないから行かないという意味だ)と言い、一人(N)は前日にインフルエンザになり、結局Tと私以外で賛同してくれたAと3人で行くことになったのだが、とにかく2月の初めに私たちは自転車で下呂温泉まで行くことにした。

 さっそく旅館を予約し、ルートを調べ、持ち物を準備した。ホテルは老舗の、お値打ちだが雰囲気のよさそうなところ。ルートははじめは田舎道で途中山越え、そのあと国道41号に合流する。持ち物に特別なものはなかった。国道41号は車通りが多いことで有名なので事故にあわないか、それだけが心配だった。

 旅行当日の朝、前日にNがインフルで倒れたので3人で行くことになっていた。私はこう考えた。長い道のり、トイレはない。したくなったら道端だ。だがそのまま汚い手で自転車のハンドルを握りたくはない。ならば手をすすげるように水筒に水を入れて持っていこう。これは賢明だった。トイレに関して言えば、全く私の予想した通りだったから。そんなわけでお茶を入れた水筒と水を入れた水筒、着替えにお弁当をリュックサックに詰め込み、スポーティな格好をしてネックウォーマーをし、ヘルメットの代わりにスキー帽をかぶり、自転車に飛び乗った。

 気持ちの良い朝だった。寒いが雪は降っていない。鳥たちが「行ってらっしゃい。気を付けて」と言ってくれていると勝手に思いながら、集合場所に向かうとTとAはもう着いて私を待っていた。「お待たせ」「よし行こう」こうして片道70キロの自転車旅は始まった。

 はじめは国道41号を10キロほど行く。朝早くから車が多い。そもそもこの道は左側に崖が迫り、右側のガードレールの向こうは木曽川の切り立った川岸だった。すぐ脇を大型トラックがビュンビュン走り抜けていくというのに私はヘルメットをかぶっていない。大型トラックの追い抜かれざまによろけそうになるが、こけたら終わりだ。久しぶりに命の危険を感じた。

 少し開けたところの交差点で左に分かれて田舎道をゆく。まだ朝の8時だ。静かだった。これからあと60キロ走るんだ。ワクワクする。田舎の朝は冷たいが、暦と私の心にもう春は来ていた。一時間と少しした頃、コンビニがあったので自転車を止めて休憩した。こぎ続けたので体は熱かったが、冷たい風に鼻だけが感覚を失っていた。コンビニの向かいのグラウンドにはだれもいなかった。駐車場に止まった車も一台だけ。まだ眠っている町に、汗だくの3人自転車で。

 自転車の上での過ごし方に少しずつ慣れたころ、山道に入った。曲がりくねった道。狭い道に張り出す木々。誰にも会わなかったし、一軒の店もなかった。山の中を一時間ほど漕ぐと山道も佳境に入った。坂がきつくて押して登るしかなかった。何度もへばりながら自転車を押し、坂道を乗り越えると今度は一転急な下り坂だった。自転車にまたがり転がっていく。それはそれは楽しかったが、さっきまで汗だくで自転車を押していたのだ。かいた汗が急激に冷えて寒かった。でも下り坂をかけ抜けるのは気持ちが良かった。下るにつれて視界が開けてきて、田んぼの真ん中に集落が見えた。集落に入ると、二人のおじいさんが道を挟んで会話している。おそらくきつい美濃弁で、何と言っているかは分からなかったが、農作物の話をしているようだった。「こんにちは」といって間を通らせてもらい、集落を抜けるとまた下り。地図で調べるとこの先に飛騨金山ひだかなやまという町があり、そこから先国道41号に合流するようだった。再び坂を下り、視界が開けた先の飛騨金山はかなり大きな町に見える。トラックの休憩地点なのか、あちこちのロードサイドショップに大型トラックが止まっていて、車通りも多かった。

 一休みして13時。下呂まではあと10キロちょっとだから下呂に着いてからお昼にしようということになった。国道41号はやっぱり混んでいたが、きれいな飛騨川を眺めながらのんびりとした上り坂を行くのは、旅が始まって以来一番気持ちが良かった。

 最後のダメ押しのような坂を登り、やっとのことで下呂市に入った。そこから中心部までは楽だった。車が多くなってきて、特急ひだのディーゼルエンジンの音がすれば、もう右手に下呂駅だ。駅前でお互いをねぎらい合い、私たちは弁当を食べた。たいして働いていなかったくせに舌ですら疲れているみたいだ、味がぼやけて感じられた。脚が棒のようだったが悲鳴を上げる脚を無理やり動かし、街中に入ると綺麗だった。街並みも、飛騨川も、遠くに見える雪を戴いた山々も。

 飛騨川にかかる橋のたもとで写真を撮ったり、お饅頭を食べたり、街歩きをしたり。感覚の消えた脚で街歩きをするのもまたよろし。道行く人々はみな特急ひだで来たのだろう、私たちだけがへとへとに疲れて下呂に観光に来ていた。変わった3人組だ。

 ホテルに着いた私たちは、ホテルマンの男性に自転車をどこに留めたらいいか聞いた。その時「どちらからおいでです?」と聞かれて「犬山からです」と答えた。驚かれたが何となく誇らしかったのを覚えている。ホテルの中は特別おしゃれというわけではなかったが、落ち着いていてリラックスできた。

 その夜は自転車で下呂市内の焼うどんがおいしいというお店に行ったが、私はなぜだか気分が悪くうどんをほんの少ししか食べられなかった。(うちに帰って近くの病院に行って分かったことだが、私はインフルエンザにかかっていた!)もちろんおいしかったのは分かった。

 ホテルに戻ってきたら、本命の温泉だ。これがまた気持ちのいいこと。その時広い湯舟に私たち3人だけが入っていて、今日一日の苦労や食べた物のこと、見た景色について話をし、天井にこだまする声で笑い合いながら体を洗って湯からあがった。

 部屋に戻ってきたら、夜の下呂観光に繰り出す。素敵じゃないか、夜の温泉町。オレンジ色の明かりが飛騨川沿いを照らす中、私たちは夜遅くまで街を歩いて回った。ホテルへと戻るころには温泉でのぼせた体も冷えていて、一日の疲れをためた体は横たわることを必要としていた。

 翌朝、起きると体がだるかった。インフルなのだからそりゃそうだ。でもその時の私は「昨日よほど疲れたのだろう」と思うことにして、障子を開けて外を見た。雪が降っていた!私たちは相談して午前中の観光は諦め、早めに自転車に乗って帰ることにした。大雪に変わったら帰れなくなる。

 道は凍ってはいなかったが降りしきる雪が視界を遮った。そんな中必死に自転車を漕いで来た道を急ぐ。下呂から目的地の犬山までは標高差がかなりあるため、必然的に下り坂が多くなるのだが、これが大敵だった。少しの坂でも汗をかき、すぐ後の長い下り坂で汗が冷える上に雪のせいで余計に体温が奪われる。インフルが悪化してもおかしくなかったが、旅の後死ぬなんてことはなかった。

 なんとか帰り着いた。行きは7時間かかったところを5時間で帰れたのだが、とにかく寒かったし疲れた。犬山橋のたもとで写真を撮り、僕らは分かれた。ガソリンも電気も使わず、全ての動力は自分の体から。それが自転車旅の醍醐味。旅の後には達成感。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る