1-15.脱出

 陽が昇り、俺たちが十分に睡眠を取り終わるまで、”モンスター”が現れることは無かった。

 眠気は残っているし、身体が少し重かったりもしたが、それでも動くのに支障は無く、寝ずの番という、現代社会ではまずやらないであろう苦行をこなすのには概ね成功したと言っていい。


 その後は近くにいたイモムシを捕まえて朝食を摂った。

 このイモムシは、見た目は普通に何かの幼虫のようだったが、大きくて食べごたえがあるし、茹でて食べると何故か豚肉のような味がしたので、これまでの虫食と比べて食べるのに抵抗は無い。


「その……昨日の夜のことなんですけど」

「昨日の夜? え? 何? 全然何喋ったとか覚えてないなぁー」


 語るに落ちていた。というより、あえてこういう言い方をしているなとアオイ先輩の表情を見て思った。にやにやと、俺の反応を楽しんでいるかのようだったからだ。


「……いや……なんでもないです……」

「ふふっ。今日も頑張ろうね」


 何か、この状況に言葉を当てはめるとするならば、『尻に敷かれている』だろうか。微妙に違う気もするが。なんにせよ、何故か俺は、この人にはもう逆らえないなという思いを抱くのだった。弱み的なモノを握ったのは俺の方のはずなのだが。


◇◇◇


 太陽の位置を参考に、俺たちは移動を開始した。進むべき方角は北だ。


 元の世界と同様、陽が東から昇り西へ沈むものだと仮定すると、これまではずっと東に進んでいた。川が、多少うねってはいるものの基本的に東に向かって流れているからだ。

 川のある方向とは真逆に進んでしまったとしても、数時間程度の人間の移動距離などたかが知れている。昼頃には、崖付近にたどり着くことに成功していた。


 そこからはいつも通り、崖に沿って急ぎ目に移動した。

 今までは、この”七色の森”の幻想的な景色を観光気分で楽しんでいたが、先日の一件で、ここから一刻も早く脱出しなければ、と俺たちは考えるようになったからだ。

 ゴブリンと遭遇したのはこのファンタジーまみれの”七色の森”で、それ以外の通常の森では、ファンタジー要素のある生き物を見掛けたことは一度も無い。通常の森ならああいった”モンスター”に襲われる危険は無いのではないか、という希望的観測だ。


 ただ、体力的な問題もあるし、いつになったら抜けられるのか、という精神的な消耗もある。

 ”境界線”を知りたい。その悩みが解決したのはこの日の夕方のことだった。


 周りの木と比べて圧倒的に太く、そして高い巨木が、開けた場所ででんとそびえ立っていた。

 その木からは縦横無尽に枝が延びており、人がその上で立つ、どころか歩き回るのが簡単なほどに太かった。


『登れ』と言わんばかりに綺麗に垂れ下がった枝からスタートし、俺たちは十分な高さ、かつ葉や枝に周囲を確認するのを邪魔されない位置まで登り切ることに成功した。


 その時に見えた景色は圧巻の一言だった。

 正に、”七色の森”の面目躍如である。鮮やかなグラデーションを描く木々と、沈みゆく陽と、大きすぎる青い星とのコラボレーションが俺の心を強く掴んで離さない。口をだらしなく開け、「すげえ……」とだけ言うのが精一杯だった。アオイ先輩も「おー! すごい!」と感嘆の声を上げ、しばらくの間俺たちはこの絶景を楽しんだ。


 本来の目的である、”境界線”の確認を済ませる。

 距離から移動時間を算出するのは俺たちでは無理だが、目安は分かった。

 ここは丘のような地形の頂上辺りで、先に進むと渓谷がゆっくりと高度を下げながら大きくスラロームを描いており、その途中に”七色の森”と通常の森が切り替わる地点が見えた。

 それが分かっただけでも、少なくとも俺の心理的な負担は大分減った。


「ねえねえレンくん、今日はここで寝ない?」

「ここ、って……木の上でですか?」

「ツリーハウス!」


 アオイ先輩は大はしゃぎだ。その様子に俺の心はとろけてしまう。

 ただ、割と合理的かもしれない。いわゆる”飛行型のモンスター”は確認できなかったし、念を入れるならば葉で周囲から隠れる位置にテントを立てればいい。

 木登りの途中で遭遇した小動物も襲ってくるようなことは無かった。一応見張りは立てるとしても、地上と比べて比較的安全に休息を取れそうな気がする。


「……そうですね。いい感じのところ探しましょうか」

「やった!」


 アオイ先輩が喜ぶと、俺も嬉しくなる。結局のところ、それが俺にとっても何よりのモチベーションになるのだ。

 こうして俺たちはツリーハウスごっこの準備を始めた。


◇◇◇


 一度地上に降りて食料や水分補給の為の果実を回収し、戻り、夕食を摂る。


「レンくん。私、上手くやれてる?」


 まるで独り言のように、小さな声で呟いた。口元は緩んでいるが、どこか自嘲しているような表情だった。


「……。俺は、アオイ先輩に、助けてもらっています」


 同じように、俺は返した。


「俺も、アオイ先輩を助けます。ずっと、変わってません」

「……そっか」


 弱音一つ吐かなかった彼女の、ほんの少しの、揺らぎ。

 これだけのやりとりでも、分かる。

 たった二週間とそこらの時間しか経過していない。それでも、これまでとは全く違う過酷な暮らしは、俺たちの関係性を急速に変化させていると実感した。


 その後はすぐに普段通りの雰囲気に戻り、前日と同じく寝ずの番を立てて交互に眠った。特に問題は起こらなかった。……いや、少しだけ嘘ですすいません。


◇◇◇


 次の日、そして更に次の日。

 ”モンスター”とはあれから一度も遭遇していない。だが俺たちは、あれ以来武器を常に持ち歩くようになっていた。


 俺はサバイバルナイフ。アオイ先輩は折れた剣だ。

 サバイバルナイフは俺が”スキル”を発動する為に必要だ。剣は、本来の用途には使えないが、振り回して身を守るぐらいの役には立つ。ボウガンもあったが、とっさに扱うには問題が多すぎるので却下した。


 また、俺の”スキル”は”狩人ハンター”とアオイ先輩に名付けられた。俺がアオイ先輩の”サバイバー”の名付け親だから、今度は私が、という理屈らしい。

 ”ハンター”という名称は、この”スキル”の本質から少し外れているような気がしたが、俺は異論を挟まなかった。なんとなく、そこにアオイ先輩の『こうあってほしい』という願望、いや、気遣いのようなものを感じたからだ。


 そういったやりとりをしつつ、あるいは雑談をしつつ、急ぎつつ、用心深く、休憩も挟みつつ、俺たちは移動を続けた。


 そうしている内に、いつの間にか俺たちは、”境界線”に到達していた。


「……やっと、着いた」

「レンくんレンくん」

「はい?」

「ん」


 アオイ先輩は剣を地面に落とし、両手を広げてこちらを見た。何かを期待しているような表情だった。


「……なんですか?」

「ん」


 ……。なんだ、この甘々な空気は。

 いや、分かるけど。なんとなく、分かりますけれども。


 もはや鈍いとか鈍くないとか、そういう次元の話では無くなっている。これだけあからさまにアピールされているのだ、疑う余地など無い。

 そもそも、半分寝ぼけているようなものだったとはいえ、あれだけはっきりと伝えられているのだ。そこから先は、俺の問題である。


 俺は何を恐れているのだろうか。まさか未だに、タイミングがどうのこうのとか考えてしまっているのだろうか。あの時アップデートしたはずの価値観は、その実虚飾でしか無かったということなのか。


 はっきりと言葉にして応えるというイベントではない。単なるスキンシップでしかない。だというのに、だというのに俺は。


 クソ童貞をこじらせてるんじゃねえよ俺。なんのことは無い、単に、中途目標を達成した喜びを分かち合おうという話なんだから、普通にこなしてしまえよ。ついでに色々な感触を楽しんじまえば良い。もっと言えば、襲っちまってもオッケーだ。大丈夫、同意は得ている。お互いハッピー、ウィンウィンだ。


 そうだ、いけ。お前の大好きなアオイ先輩が、今か今かと待ち構えているぞ。さあ、お前も手を広げろ。身体を重ね合わせろ。いい感じに盛り上がってきたら、キスして、押し倒して、それから――


 ――って、おバカーーー!!


「うわっ!? ……あはっ、あははははは!」


 俺は、回っていた。それはもう、ぐるぐると。

 アオイ先輩の腰に両手を回し、抱きかかえ、思う存分回りに回った。

 喜びを全身で表現するかのように。あるいは、抱いた劣情を吹き飛ばすかのように。

 

「アオイ先輩! やりましたね!」


 ただ、”七色の森”を抜けただけ。ゴールまでの道は、未だ未知数。全くもって、過剰である。

 それでも俺は、あえて叫んだ。これこそ彼女の求めている行為だと信じ、テンションぶち上げでくるくる狂った。


「うん! うん! やったねレンくん!」


 アオイ先輩は、心底嬉しそうに笑っていた。

 何度見ても飽きない笑顔だ。かわいすぎる。


 俺は、この人の笑顔を守りたいと思った。どこかで観たようなよくある動機。かっこつけでもなんでも構わない。邪な思いがあったとしても構わない。この人は、この人だけは、死んでも……いや、絶対に生きて守り抜く。


 普通で良いと、善い人になるなと、言われたことがある。当然、分かっている。

 それでも、この激情はアオイ先輩にも止められない。


 いつの間にか俺の淡い恋心は、燃え上がるような熱を持っていた。

 アオイ先輩は俺にとって、誰よりも何よりも大切な人だ。何に置いても優先すべき存在だと、この時、完全なる形として心に刻まれることになった。

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