第4話 ドナドナH氏

 その夜、H氏はドナドナちゃんになっていた。何を食べても、慰めても、心はブルー。

 「ドナドナ」ちゃんとは、あの有名な歌から来ている、H氏の造語である。意味は、「とっても可哀想」。

 「Hちゃん、ドナドナなんですよ~」

 「ドナドナされちゃうんです~」

 などと使う。


 H氏、何をこんなに落ち込んでいるのか、というと、翌日に検査入院を控えていたからなんです。検査入院、アラ還には付きものですよね。


 昼間、私はH氏のために、彼の好きなキャラメルや栄養補給のみかんを買い物に出掛け、用意した入院準備袋へ入れてあげていた。

 それを伝えて慰めると、

 「みかんは、いらないっ」

 とご機嫌斜めである。いたしかたないね。

 「明日は、ジュースを沢山飲まなくちゃいけないんだから、みかんなんて食べていられないの!」

 なぜジュースを沢山飲まなければいけないのか、少し疑問だったが、私は黙って、みかんを冷蔵庫へ戻した。「沈黙は、金」。私とNの合い言葉である。H氏の怒りを助長させないためには、黙っているに限る。

 ややしばらくたってから、私は必要なことを伝えた。

 「退院のときは、お迎えに行くから電話してね」

 「ふんっ」

 H氏の返事は、いつも鼻息と一緒で区別がつかない。



 さて、翌朝、朝食抜きのH氏は、頭のてっぺんから爪先まですっかりドナドナ気分で玄関へお出ましになった。その横では、登校するNが、急いで靴を履いている。

 「いってらっしゃい」

 先にNをお見送りすると、次はH氏の番である。

 ところがそのとき、H氏はあるものに気がついた。

 「……これは……」

 それは、回覧板の上におかれた、昨日Nが帰宅時に回収したポストの中身である。色々なチラシに混じった中から、H氏は何かを見つけ出したのだ。

 「これはっ……封筒だ……!」

 ?封筒だね。H氏宛の。

 私は、見慣れた茶封筒の佇まいに、特段、なにも感じなかった。おおかた、市役所関係の何かが送られてきたのだろう、と思った。だが、H氏は、違った。

 「落ちたんですぅ」

 え?

 「ああ!書道検定の!」

 私は、H氏が言っていたことを思い出した。はがきなら合格、封筒ならば不合格。

 だが、その封筒は、どう見ても書類一枚しか入っていないような薄さである。私の予想としては、不合格の場合、次回の検定案内やテキストの宣伝などがたんまり入っている厚い封筒が届くのだろうと思っていた。

 「大丈夫じゃない?だって……」

 はがきと変わらない、薄い一枚ぽっきりの内容をなぜ封書で届けるのか、私には疑問であったし、ならば合格しているのではなかろうか。だが、そんな根拠があるようでないような推測を口にすると、またサウナ石がジュワーッと蒸気を上げてしまうので、それ以上、何も言わずに私はH氏の隣で、黙って靴を履いた。


 H氏、ドナドナの朝に、ドナドナ封筒を悲しそうに開け始めた。

 私は、悲壮なH氏を玄関に置いて、Nの様子を見に外へ出た。Nは、歩道のないバス道路を歩いて通学している。さらに、バス道路に面した家々の駐車場からは、通勤の車がどんどん出てくるし、信号のない交差点まである。危険な通学路なのだ。


 さて、Nの姿が小さくなる頃、H氏がとぼとぼと門扉にやって来た。

 「ダメだったの?」

 「うん……」

 その返事に、いつもの鼻息は混じっていなかった。可哀想に。がっくりと肩を落として、H氏は私の前を通り過ぎ、道路の向かいへ渡ると、元気なく手を振った。

 いつもなら「気を付けてね~」と言うところだが、私も声なく手を振り返した。



 さて、お二人は無事にお出かけした。

 NとH氏の後ろ姿を見送って門扉を閉じた私は冷静だった。

 私には、H氏が落ちた原因が分かっていた。それはどう考えても、「お知らせ掲示文」の課題が良くなかったのだろうとしか思えなかった。


 H氏、書道検定までの間、本当によく練習したといっていい。半紙は、ゆうに1000枚は書いているだろう。お手本コレクションも、手に入れ放題で、熟読玩味を繰り返していた。

 文字は、お手本通りに書けば書くほどコツが分かるし、今は丁寧なYouTube解説もある時代である。

 嵯峨天皇、空海、王義之。H氏は、当代の美しく格好いい書にすっかり魅せられていた。筆を持ち、自分も流れるようになぞるその書体は、日に日に流麗に、あるいは雄々しく、お手本に近い形になってきていた。

 悦に入るH氏。私は、彼のよくできた書を、なにやら分からない独り言とともに、目の前に何度翳されたことだろう。その度に、褒めなければいけなかった。

 「うわ~、Hちゃん、上手になったね!」

 その言葉に嘘はない。本当に、そう思った。なぜなら、H氏、ひどく字の汚い男だったからである。

 H氏の字は、判読不能なものがあまりに多く、はっきり言って、何が書いてあるのか、不明である。


 H氏が、義母に手紙を書いた後に、帰省をしたことがある。義母は、H氏と私にこう言った。

 「S、手紙、ありがとうね。Yさん、あんた、Sの書くもん、読めるがけ?わし、読めんかったわ~。S、あんた、何て書いたがけ?」


 また、H氏の職場には、H氏の字を判読できるという方が、たった一人だけいらっしゃった。その方が転勤された今、どうなっているのかは知りたくない。


 私は、字ですら、思いやりが必要なのだな、とH氏を見ていて思ったものだ。人に分かるように、人が読めるように書かなければ、それは自分のためのメモにすぎない。

 字は、べつに下手でも上手でも構わないと思う。ただ、人が読めるように丁寧に書けばいいだけのことである。

 そんな、普段のH氏が出てしまったのが、「お知らせ掲示」の課題なのだと思う。

 H氏は、様々な時代の、お気に入りの書家の手を、真面目に練習し続けた。だが、基本の楷書体になると、人生今まで、自分が読めるなら人も読める、と生きてきた彼の手が如実に出てしまうのだ。

 検定前、家で「お知らせ掲示」を練習し、ご自慢の鼻息を隠して、私の前にひらひらと見せられたそれを観察し、私は思った。右はらいも、左はらいもないな……。筆の入り方も、止め跳ねも不思議な雰囲気だ。

 斜めに流れた字行には、見事、H氏のもともとの字体が現れていたのだった。



 ドナドナちゃんの今後は、いかに。たぶん、少し書道はお休みするかもしれない、と私はうっすら思っている。

 可哀想なH氏に、励ましのお電話をしよう。


 そして、翌日、H氏は私のご送迎で帰宅した。帰宅後は、可哀想に床にころんと横になって動けず、眠って過ごした。

 だが、不調が癒えると、H氏は再び姿勢を正し、なんと墨を摺り始めた。

 不撓不屈の精神とは、こういうことをいうのだな、と私は思った。私には到底真似できない、H氏の美点である。


 だが、次回の書道検定は受けない、とH氏は言う。検定のために書いているわけではない、とH氏は述べた。まあ、おじいさんと二人きりの検定はなかなかだよね、と私は思う。

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