第2話 肉は、洗え。

  

 結婚して間もない頃、暇なので、私の料理風景を見てみるか、とキッチンにやって来たH氏。その日は、鶏肉料理だった。

 私の手元を見ながら、さり気なく聞いてきた。

 「お肉、洗わないの?」

 H氏、言葉に関してはわりと丁寧な方なので、命令口調で言うことはほとんどない。結婚して10年たった頃に、「~する方がいいと思うけど……」とH氏が言う場合、それが決定事項の命令であるということがようやく分かった次第である。

 したがって、このときには、この「お肉、洗わないの?」が「肉は、洗え」と同義であることは、私には想像もできなかった。


 そんな、新婚時代のお肉についてのやりとり。


 H氏の問いかけ(命令)に、一瞬、ぎょっとする私。

 「え?お肉、洗うの?お魚は洗うけど……」

 お肉を洗わないのは私の実家だけなのか?

 しかし、待てよ、いや、と思う。はるか昔の家庭科の調理実習で、お肉を洗うと習った記憶はない。第一、挽肉はどうする?

 「お肉は、洗わないよ、多分……」

 H氏、基本は大人しいので、そこで一旦引き下がったが、ことあるごとに「やはりお肉は洗わないと、自分はお腹が弱いので、お腹をこわしてしまう」(命令)と訴えてくる。

 おかしい。

 学校時代、習った家庭科は、実生活において、けっこう役にたつものである。

 例えば、ハンバーグはなぜ中央に窪みをつけ、蓋をして焼かなければいけないか、マヨネーズの作り方から、カラメルソースの失敗、はては、住居の間取り作成まで、本当に生活に活きているものだ。

 まてよ。

 H氏と私の時代、家庭科は女子だけのものであった。調理実習に男子はいなかったし、その時間、男子はちりとりや本棚を制作していたはずである。

 なるほど。

 H氏は、お肉は洗うもの、と正しい知識として持っているうえで、私に訴えているわけではないのだ、と気がついた。

 では、H氏の「お肉は洗う」は、どこから来たのだろう?

 実家に間違いない。そう思った。

 そこで、私は、初めてのH氏実家への帰省の時に、義母に確かめてみることにした。


 そしてその日は訪れた。お正月休みに一週間、H氏の実家へ帰省したのだ。

 H氏の実家は、富山県高岡市。高岡大仏さまのお膝元、大仏様から徒歩3分ほどの距離にある。ちなみに、高岡大仏さまは、日本三大大仏のおひと大仏さまである。大仏さまをどのように数え申し上げるのかを、私は知らない。この年にもなって、すみません。


 さて、帰省して、大仏さまにもご挨拶のお参りをすませた頃、お夕食準備の時間である。

 私は、もちろん、義母についてお台所へお邪魔する。

 義母と私は、ものすごく仲が良かった。私は、常識的で思いやりのある義母が大好きだったし、義母はいつも私を一番に心配してくれた。そんなだったから、私が帰省させてもらい、いつも義母と笑いながらお台所でご飯支度をすると、お隣から、「お嫁さん、来てるんだね、楽しそうな笑い声が、家のベランダまで聞えたよ」と言われたものである。


 それはさておき、私はまず、野菜を刻みながら義母の様子を観察した。

 その夜は、すき焼きである。

 お肉は、洗うのか?


 何てことはない、義母は、デパ地下で私が買ってきたままのお肉を、お皿に移し替えることもなく、そのまま居間に運んでいった。

 「!!」

 やっぱり!


 お台所へ戻ってきた義母に、私は尋ねた。

 「あの、お肉、洗ったりしますかね?」

 義母は、私の顔をまじまじと見て微笑んだ。

 「あんた、肉は洗ったりしないがね」

 ここで、富山弁注意だが、あんた、というのは、富山弁の場合、蔑称ではない。親しみを込めて「あなた」と呼んでいる意味である。

 「あんたとこ、洗うがけ?」

 「いえ、家は、お魚は洗うんですけど、お肉は洗ったことがなくて……。でも、Hちゃんに、洗うように言われたんですよね」

 義母は、当然、私の肩を持った。そんな優しい義母である。だから、大好き。

 「あら、S、なに言っとるがや」(Sとは、H氏の本名である。Hは、あだ名なのだ)

 義母が、H氏に抗議しに行こうとするので、私は止めた。

 「いいんです、いいんです。お肉を洗わないことが分かったので、それで」

 「いいがけ?あんた、Sの言うこと、まともに取りあわん方がええこともあるがいね」

 はい、はい、たまに、人様にそう言われることあります。

 「分かりました。お魚だけ洗って、お肉は洗わずに、そっと出しておきます!」

 私は、拳を握って見せた。

 「それがええわ」

 そして、二人でまた大笑いである。


 帰省が終わり、家に戻ると、開口一番、H氏にお伝えした。

 「お肉は、洗わないが」

 (富山弁ナイズ)

 「え、そうなの?」

 「お母さまに聞いたがいね」

 「え、そうなんだ」

 H氏は、富山弁で話すことはまずない。けれど、帰省の度に富山弁に慣れてきて、私は楽しく使わせてもらっている。

 いえ、それより、お肉のその後である。

 私は、鶏肉も豚肉も牛肉も……、今の今まで、もちろん一度も洗ったことはない。

 家庭科の授業は偉大である。H氏も、家庭科で学んでいたならば、お肉を洗うという幻想に取り憑かれることはなかったと思う。昨今は、男子も家庭科を履修するし、女子も技術を履修する。いい世の中になったものだと思う。

 かくして、我が家のお肉も安泰になったという話である。

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