第58話
デルタはよくものを食べる。
昔からそうではなかった、ここ最近のことだった。
理由を聞いたが教えてはくれない。
ただ、涙をためた目で抱きしめられた。
ああ、そういえば、いつの間にか背丈を追い越されていた。これは、デルタの成長を意味するのか、それとも家の形態が徐々に縮んでしまったのか、その辺りは不明だ。
屋内は、静かだ。
物音一つしないとすら思える。
こんなにも静かだっただろうか。
――寂しい。
なぜか、そう感じた。
胸にぽっかりと穴が開いたようだった。
大切な、本当に重要だったものが、消えてしまった、そんな馬鹿な思いがあった。
昔からこうだったはずなのに、何も変わっていないはずなのに。
屋内の様子を確かめる。
柱に傷が無数にあった、デルタの背丈よりも高い位置にあるものもいくつか。
円形の鏡はこまめに位置が変えられているようだった、徐々に高くなっている。
窓辺の椅子は、やけに凹んでいた、ずいぶんと長くそこに誰かが日常的に座り続けたかのように。
外を見れば訓練用の立木がある、折れた木刀が勲章のように壁にいくつも飾られている。
ばらまかれた紙は、なぜか読めない。形はまるで新聞紙のようだった、細かく色々なことが書き込まれていてもおかしくない広さ。とても詳しく、少しも余さず、すべてをそこへと書き込んだ――
デルタは、こんなにいろいろしていただろうか。
狭い個室を欲しがっていたから、それを作成した記憶はあるけど。
ああ、そうだ、折れた木刀は、すごく嫌がっていたけど家が無理に集めて飾ったんだった。
たしか、そのはず。
デルタが、家がそうするのをとても怖がっていて……
でも、なぜ?
「よお」
――あ、家主。
久しぶりに、それこそ五年ぶりに家主が帰ってきた。
なにかを酷く怒らなければならない、そのはずだけど、その理由が思い出せなかった。
家は家となり、ずいぶんと愚かになってしまった。
――家主、縮んだ?
「……」
それには答えず、なぜか酷く険しい顔で周囲を見た。
特にデルタの方を。
デルタは以前、怖がってばかりだったけれど、最近は違う様子を見せていた。
何かの軋轢を耐えている、そのような雰囲気があった。
「ああ、そうだ、私だよ、見てわかんねえか?」
――家主、ボケた? 誰に言ってるの?
「うっせ、家。オマエが迷わず受け入れた方がヘンなんだよ」
なにがヘンだというのだろう。
たしかに姿形はずいぶんと変化したようだが、そんなのはたまにあることだ。
ゴブリンがゴブリンロードになるよりは変化量は小さい。
「まあ、私はオマエらが知ってる通りの家主だ。証明はむずかしいが、この家が迷わず受け入れてるところから察してくれ」
「本当に――」
「ああ」
デルタは、やけに怖い顔で立ち上がった。
握りしめられた拳が、細かく震えていた。
家主は――五歳児ほどにまで縮んだ体躯で、黙って見上げた。
「なら、それなら――ッ!」
デルタの表情に、さまざまなものが浮かんだ。
敵意や、恐怖や、怒りや、あるいは後悔が。
言葉にならないそれらを抱えたまま、こわい沈黙が10秒ほど続き――
「……」
デルタは諦めたように座り直した。
「どうした、遠慮はいらねえぞ、一発くらいは殴っていい」
「ねえ」
「なんだ」
「……予測してた?」
「んなわけねえ、それができたら私は神様だ」
デルタは諦めたように「そうだよね、それができたら、すごく怖い」と言った。
――なんか、家にはよくわからない……
「今日から六人前の飯な」
――多いのでは?
「うっせ、必要だ」
こうして、家の屋内にようやく住人の数が増えた。
使われていない個室が4つも余っていたけれど、なぜか片付ける気にはならなかった。
◇ ◇ ◇
「マクスウェルの悪魔、って考え方がある」
――はあ。
夕食後、ガランとした個室に呼び出されて話をされた。
「詳しくは私も知らねえが、つまりは動きが早い原子を右の部屋に、遅いのを左の部屋に、って仕分け作業をするだけで、無限のエネルギーを取り出せる、そういう考え方だ」
――そりゃすごい。
「永久機関なんざありえんはずだが、どうしても収支が合わない。エントロピーを、物が乱雑になり続けるという基本法則をどうごまかしたんだと色々と調べた結局、この「仕分ける奴」が原因だとわかった」
――へえ。
「興味まったくねえな、一応、関係ある話だぞ」
――どこが?
「エントロピーの増大は、この仕分けるやつが、ものを忘れることでようやく釣り合いが取れる。決して戻せない忘却は、エネルギーを発するとわかったんだ」
家主は肩をすくめて言った。
「別の言い方をすればな、情報はエネルギーに変換できると、人間はこのとき初めて発見した。その発見で、ようやくこの悪魔は退治できた」
――それは……
「そして、この世界には魔力やら魂やらがある。もともと情報に力があるのが当たり前の世界だ。ただの「忘れる」って作業でも、やりようによってはとんでもないことができる、オマエみたいにその取り扱いに長けてる奴なら、なおさらな」
家主は、家をじっと見た。
その視線は以前よりも下からだった。
けれど、そこにある叡智はなにも変わらない。
「家、オマエは「忘れる」ことをエネルギー源にした。それによって膨大な魔力を得た。オマエはやりようによっては何でも可能になる、便利過ぎるものになっちまった」
――なにか問題?
「今のオマエの方法は、不完全だ、その「記憶を燃やした」影響を受けている。アイツラを忘れたくないと思うあまり、人格や姿形に変化が生じている」
――それは……
「自覚はあるな?」
なくはなかった。
どうも、言動が前と違っているような気はしていた。
「諦めろ」
――なにを?
「燃やしたもんは戻らねえって事実をだ」
――それ、は……
「家、オマエにとってアイツラは死んだんだ、そう受け入れろ」
なに言ってんの――そう言おうとして、できなかった。
気配、あるいは、生きている余波、そういったものがあった。それらは、まだあった、失われていなかった。
扉の外で、それらはあった。
――家は……
言葉が出ない。
代わりに液体が瞳からこぼれた。
一筋流れて、次々に追随した。
――いやだ。
「おい」
――いやだ、嫌だ、そんなことは認められない!
だって、だって、それは。
――家は、約束したんだ、彼らを守ると。願ったんだ、人間のことを知りたいと。どうして、なぜ、それが失われたなんて、お、思わなきゃいけないんだ!
言葉が、口にできない。
想うことは沢山あるはずなのに。
――家は、大切なんだ。ここに住んでいる人たちが、誰にも傷ついてほしくないんだ、絶対に!
失いたくない、無くしたくない。
ああ、「だからこそ」家はそれを手放してしまったのだ。
そのような確信だけは、なぜかあった。
「わかった」
家主は言った。
「それが、オマエの望みなんだな」
家は、迷わず頷いた。
「完全に叶うかどうかはわからんが、その手伝いくらいは、できる」
――な、何を?
「構築する、まず最優先で家内部に住む人間を守ためのシステムを」
――それは……
「ああ、忘れることには、変わりねえ。だが、まだしもそれをオマエが望むような形にする」
――……わかった……
その小さな手が届くように、家はしゃがんだ。
とても静かな夜だった。
たぶん、これから家と家主はたくさん間違えてしまう、これはその第一歩だ。
そのような確信にも似た予感があった。
それでも、止める気にはならなかった。
何を失っても、この家に住むものを守りたい。
それが、家の「願い」なのだから。
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