第15話

 携帯をスリープして枕に顔を伏せた園恵を呪縛するかの様に、通知音とバイブレーション、人工光が騒いだ。それに一瞬でも気を取られたら確認せずにいられないのは、縛られている証か、それとも唯の依存なのか。


 通話アプリのバナー通知には彼女を心配した満からのコメント、その書き出しが表示されていた。しかし園恵はそれ以上の操作をする事なく、またしても携帯をスリープさせる。


 暗がりに一人、身を置いて回想に惑ったらば後悔は狼藉と湧き出てくる。それら一つひとつを反省し、改善点を見つけ出して、決行し、成功という経験を得るまで、延々と湧き出てくる。


 元となった出来事が重い程に時間を要するこの苦行。時に人生には不条理な試練が立ちはだかる事があるが、道徳後進国で育った齢十八の少女が一人で立ち向かうには、この試練は余りにも残酷だ。


 堪え兼ね、布団から這い出た彼女は真っ先に台所へと向かった。水を一杯汲むと、自身の中に渦巻く沈痛を少しでも薄められないかとそれを一気に飲み干す。虫に刺された箇所を掻いた時よりも一時的且つ微々たる効用で、痒みなど比にならないくらい猛烈にぶり返す苦しさに、三杯目を汲んだところでそれ以上飲んでも気休めにすらならないと悟った。


 使用したグラスを水切りラックへと置いた彼女の目に、側で立ててあった包丁が映り込む。ある程度の長さを有する刃物だけあって、特定の方面への転用には事欠かない。


 包丁を掴んだ手の震えが刃先の鈍い光にまで伝わる。それを真っ赤に染めてでも沈痛から解放されたい――償いの名を借りた逃亡劇を演じようとはしてみても、いざ小物を手にすればそれの鋭利が予感させる危地に怖気付く。


 健気に動く彼女の心臓。仕事も無くぶら下がっているだけの左腕。


 そんな左腕を見兼ねた脳から汲水に次ぐ新たな仕事が割り振られた。左腕は淡々と、シンクに入場する。続いて右手と、それが握る包丁も。


 刃先が左腕へ向けられているあり得ない状況に、混乱が脱力感となって左腕に表れる。


 これから起こる事を既に理解している脳の拒絶反応の様なものだろうか。刃先が左腕へと近づく毎に右手の震えは増していく。


 二十センチメートル。十センチメートル。三センチメートル。包丁の冷感が左腕にも届く距離まできてからの数分を躊躇いに費やしても、最早それを置くという選択肢の浮かばないところまで来てしまっていた。彼女は中々事を進められない自分自身に業を煮やし、苛立ちに身を任せ、左腕を押し付ける様にして一寸を詰めた。


 痛み、温かさ、冷たさ――ほぼ同時に感覚を刺激されて固く閉ざされていた瞼がゆっくりと持ち上がる。感覚を刺激した正体を視覚情報として取り入れた事で、真っ先に彼女へ湧いた感情は「切る事が出来た」という安心だった。


 指の第一関節程の切り傷は紅血を流して、代弁者の如く叫び倒している。刹那とはいえ楽にしてくれているそれの大きさと、溜飲が下がる効果は果たして比例するのか。


 彼女に確かめる余裕は無かった。包丁は手から力無く滑り落ち、落下する際に腕の傷を僅かに拡大したが、もしその痛みが人を解放出来るのだとしたら、彼女が泣き崩れる事も無かった筈だ。


満「既読付かないなぁ(独り言」


 園恵が平日に出社しないのは入社以来初めてのこと。未出社の理由が彼女の方から伝えられなかっただけに、上司である満の心配は膨らむ一方だった。


 そこへ拍車を掛けたのが今朝の親子焼死のニュース。この家族からの依頼を過去に園恵が担当した事を満は知り、未出社との関連を疑っていた。


 今日も午前で仕事を切り上げる為、帰りがてら園恵の家に寄っていこうと帰路のルート変更を車椅子に指示する。二人が住むのは同じマンションでそれに気付いてからというもの、よく園恵はお茶飲みに満宅を訪問していた。


 就職を気に親元を離れ一人暮らしを始めた園恵にとって、満は第二の母親の様な存在だったのだ。


 対して満も、そんな人懐っこい園恵を我が子同然に可愛がっていた。純粋無垢な人がいる事自体極めて稀であるこの時勢、棘を自衛と称して過剰発達させた薔薇などそこかしこに咲き乱れている。それらの棘に刺された気配が無く、又自らも棘を持っているという事さえ認識していない無知さに、満は期待を寄せていたのだった。


 そして彼女には違う理由でもう一人期待している人物がいる。玄凪はまだ先輩達の様に、出社中の予定が依頼で埋まる程仕事が貰えている訳ではない。それでも誠実に依頼を熟している姿は既にチーム内で一定の評価を得ていた。


 そんな彼が今日一日依頼無しとなっていても出社してきたのは、平日に家で過ごしているという罪悪感に駆られたからではなく、将来的に飛び込み客からの依頼も引き受ける事を見据えているから。


 とはいえ現段階では予定が無い日に出社しても、先輩の仕事風景を見学するしかない。本来なら彼も今頃は、お手製おにぎり三兄弟を頬張る園恵の隣りで、冷凍食品の楽さに感けた弁当をつついていた事だろう。


 指導役の先輩が来ないと知った彼は、午前で上がるつもりでいたが、突然彼もチームの後輩として、そして同期として園恵を案じている。


 夏休みも終盤に差し掛かって尚、多くの家族連れが観光名所を巡りに繰り出しているこの頃。普段は陰鬱な都会にどれほど陽気が流れ込んでいるかは、スクランブル交差点やその他観光地の様子が一つの指標となる。


満「真九だったら酷く濁ったオレンジって言いそうな雰囲気だね」


玄「ああ分からなくもないです。ただでさえ尖った空気で嫌いな都会に熱波まで来たら、そりゃもう……」


満「ゲンにはそう見えるんだ。まあ私もここは好きじゃないんだけど。――外の雰囲気が少しでも明るくなれば、それも仕事のモチベーションに繋がるよね」


 スポーツや祭り、国民的行事などでの活気は言わばドーピングの様な一過性のもの。それで活気付く内はまだ希望が持てるとして、或いはそうと知っていながらも自身等の功績の一部であると、自らを言い聞かせ受け止めるなどし、Airgunの社員達は日々奮闘している。


 そうでもしなければ自分を守る事さえ儘ならぬ程過酷な仕事に身を置いて、世の為人の為にと働く彼等のその動機には多く、国の未来に対する危機感が共通している。


 この国はいよいよ、文化が劣り廃れ、経済が破れ、最後は人種がという瀬戸際まできた。彼等、特に英彦星達七人は特段、この危機への自覚が強い。


 それが長所であると同時に弱点でもあると認識出来ていたなら、彼女が今日も出社している未来となっていたかもしれない。


 郊外の一等地に立つマンション。玄凪はその豪壮たる外観に、そこで住んでいる人達の財力を憶測する。


 一番高い棟で五十階あるこのマンションの二十階まで上がれば、その憶測も少しずつ現実味を帯びてくる。そこのA―2022番号の部屋に歳下の同期が住んでいるとなれば尚更だ。


 二人はインターホンから園恵の返事が返ってくるのを待ったが、二度の呼び掛けに彼女が応じる事は無かった。もしこれが無断欠勤だったら満は管理人を呼び出し、扉を開けて中に入っていただろう。


 幾ら待ったとて扉の向こうから人の気配が漏れ出てくる事は無い。彼女は寝ているだけかもしれないと満は自分を納得させて、その場は心配を持ち帰る事とした。

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