第11話 夫婦喧嘩は魔犬も食わない
ケルベロスが吐いた炎を、私の水魔法が鎮火していきます。
それはまるで、妻の怒りをなだめるが如き勢いで、なんだか身につまされる表現なので、言っててちょっと落ち込んできたのですが、明らかに私が優勢でした。
そもそも、水は火に強いのです。川端は何を考えて、私にケルベロスをぶつけてきたのでしょうか。単なる嫌がらせかしら。
怪訝に思っていると、遠巻きに眺めていた町民達が、歓声を上げました。
「さすがは勇者様だ! 軽々と消火しやがった!」
「ケルベロスといやあ、うちのかみさんみてえに手に負えない化け物なはずだ。それがどうだ? 勇者の手にかかれば、まるで子犬じゃねえか」
「あんた、あたしのことそんな風に思ってたのかい」
「げっ、ジュリア!?」
なにやら夫婦喧嘩が勃発したようですが、川端は意に介さず、新たな指示を飛ばしました。
「いけ、ハツコ! かみくだくだ!」
ガシンガシン、とケルベロスが顎を動かし、首を振り回します。
けれども私は、左翼活動で足腰を鍛えておりましたから、ひらりと身をかわすことができました。
学生時代、ビラ配りで駆け回った甲斐があったようです。
「中々やる。では、これは如何かな。いけ、ハツコ! 夫の稼ぎをなじるだ!」
ワオーン! とケルベロスが遠吠えをします。
犬語でなじっているのかもしれませんが、私には聞き取れませんでした。
しかし、それでも構わぬ、重要なのは数だと言わんばかりに、川端は命令を発します。
「いけ、ハツコ! 夫の酒量をなじるだ!」
「ワオーン! ワオワオーン!」
「いけ、ハツコ! 急にしおらしくなって罪悪感を刺激するだ!」
「キューン……」
「いけ、ハツコ! 実家に帰らせて頂きますだ!」
「ワンワン!」
精神攻撃でした。
ハツコの名前と、心当たりのある夫婦喧嘩単語の組み合わせは、的確に私の心を削ってくるのです。
私の精神は、今や完全にあの頃に引き戻され、気まずい沈黙、地獄のおべっか、疑惑と信頼の間を行ったり来たりする、振り子の夫婦生活を思い出し、立っているのもやっとなほどでした。
頭を抱え、さめざめと涙を流していると、ケルベロスが近付いてきました。
目が合います。
黄色い目を輝かせ、じっと私を観察する貌からは、知性めいたものが感じられました。
犬は、少しだけ人間の言葉わかるらしいのです。叱られるとしょげ、褒められると喜ぶ。特に、餌、散歩といった言葉にはよく反応します。愛犬家はこれがたまらないようですが、私のような犬ぎらいは、薄気味悪いとしか思えませんでした。
いやになる。こいつらは、こっちの言っている事がわかるんだ。これじゃ、迂闊な事を口にしたら、がぶりとやられるじゃないか。
私は、お得意の軟弱外交、追従笑いを浮かべてみました。
するとケルベロスは、べろりと私の顔を舐めまわし、ハッハッ、と荒い息で返してきました。
「何をしているのかね、ハツコ」
川端の声など気にならないようで、またも私の頬を舐めてきます。
何という皮肉。
私は恐怖と憎悪からご機嫌取りをしていたのに、ケルベロスに好かれてしまったのでした。
そうなのです。私は犬をきらっているのですが、犬は、私が好きなのです。いつも微笑を浮かべ、声を荒げないようにする。そういう態度を取っていると、とてつもなく愉快な遊び相手に見えるらしく、やたらと懐かれてしまうのでした。
「ケルベロス……いや、ハツコ。おいで!」
名前で呼んでみたところ、これがハツコの心に一層響いたようで、川端を振り落とし、私の元へ駆け寄って来ました。
「おお、よしよし」
人間のハツコは寝取られましたが、犬のハツコは奪えたようです。
私に懐く愛犬を見て、川端は何を思ったか、袂から一冊の本を取り出しました。
グリモワールでした。
「犬に頼ったのが間違いであった。やはり作家は、文章で戦う運命にあるようだ」
この男のことですから、魔導書に小説を書いたに違いありません。
私も、懐中の「ニンジン失格」を引き抜きました。
さながら、剣客が刀を抜くような、緊張に満ちた動作でした。
川端は、じっと私の手元を凝視しています。
「……魔導書に書き記した文章は、それが美文名文であるほど、効力が強くなる」
「そうなのですか」
「貴方がどれほど成長したのか、とても楽しみだ。異世界芥川賞の審査と思って、存分に力を見せるとよい」
「その余裕、いつまで維持できるか見ものです」
二人、同時に本文を読み上げます。
「カロチンの多い生涯を送って来ました!」
「国境の長いトンネルを抜けると異世界であった!」
予想通り、川端もまた、この世界で体験した出来事を、自身の作品に反映させているようでした。
あの端正な文体と、異世界という題材が混じり、調和し、まったく見たことのない「美」を生み出しているのです。
奇術師の名に恥じない、自由自在の作風変化。
私の知る川端より、さらに文章が磨かれているように思われました。
この男の筆力は、ひょっとすると、ノーベル文学賞の域に達しているのかもしれない。
見目麗しい、異世界の景色。もののあはれの世界観。源氏物語に匹敵する、珠玉の恋物語が、川端の声で紡がれていきます。
それは魔力のうねりとなり、町をすっぽりと包み込み、
『金を貸してくれませんか』
と、けたたましく鳴り響きました。
ひどい。酸鼻の極みだ。どうしてこんなに美しい詠唱から、お金を催促する魔法が発動するのでしょうか。
『金を貸してくれませんか……金を貸してくれませんか……欲しい壺があるのです……金を貸してくれませんか……』
頭が割れそうでした。
何千倍にも増幅された、耳を聾せんばかりの声が、頭上から聞こえてくるのです。
声が収まったあとも、ズキズキと頭が痛み続けました。
「私のグリモワールはどうかね。ひどい頭痛でしょう。常人ではまず動けない」
川端の言う通りでした。
並の人間であれば、しゃがみ込んでしまうほどの頭痛なのです。
しかし、私はそうではありません。
「どうやら油断なさったようだ」
「……? もう、動けるのかね。いったい、」
「僕は日常的に二日酔いしていたので、頭痛には慣れっこなのです」
「――!」
粛々と、グリモワールの続きを読み上げます。
それは作中、最も悲劇的な場面でした。
「その夜、自分たちは、鎌倉の海に飛び込ました……」
自暴自棄に陥ったニンジンが、大根と一緒に入水自殺をし、水温が高かったのでこれはただの野菜スープではないかと疑念を抱きながらも、海底に沈んでいく。ニンジンとして生を受けながら、根菜社会に馴染めなかった悲哀。せめて葉野菜に生まれていれば、という無念。
読み終わると、野次馬達は滂沱の涙を流していました。
川端も言葉を失い、ケルベロスは私の尻を嗅ぎ回り、トミエは目元をハンケチで拭っておりました。
やがて魔法が効力を発揮し、地面からニンジンが生え、怒涛の速度で発育し、川端の足元に直撃しました。
「よもや、ここまでとは……っ」
ニンジンに突き上げられた川端は、東の空へと吹き飛ばされていきます。
「しまった、あの方角はあいつの領地じゃないか」
西に飛ばしておけば、生け捕りにできたのですが。
惜しいことをした、と空を睨んでいると、町のあちこちで祝杯が上がりました。
「勝ったあ。勇者様がお勝ちになったぞ」
つられて、私もビイルを一杯頂いたのですが、トミエは不思議そうに呟くのです。
「でも、魔王はどうして毒ガスを使わなかったのでしょうね」
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