第49話 第一章エピソード
湯の沸く音がする。向かい合う定信と秀統。茶を点てるのは定信であり、ゆっくりと茶を口に運ぶのは秀統であった。
「――高山主膳の件であるが」
そっと湯を定信は汲みながら、そう話し始める。
「旗本屋敷にて、突然の病により亡くなられたそうだ」
無言でそれを秀統はただ聞き流す。
「後継ぎもなく、高山家は断絶となろう。今回の騒動の顛末としてはいささか穏当ではあるが」
あの喧騒の夜。事が公になれば、関わったすべてのものはただでは済まない。後に大塩の乱が勃発することとなるが、その衝撃はそれを上回ったことであろう。私怨により直参旗本が高家と老中筆頭を襲撃したとあっては。
「一橋卿にもご了承いただいた。苦虫を噛み潰したような顔ではあったがな」
定信が苦笑しながらそう、つぶやく。
一橋治済。現将軍家斉の父親である。高山主膳を使い、己が野望を実現させようとしたが結果はかくのごとしである。
「しばらくは一橋卿もおとなしくなるだろう」
「さすれば――改革がはかどりますな」
はじめて言葉を発する統秀。そっと畳の上に茶碗を置く。
定信にはそれが皮肉っぽく聞こえる。自分の改革――世のため人民のための改革ではあるが、結局幕府の延命に過ぎぬのではないかと。
「一色どの」
定信は切り出す。
「この改革に参画せぬか。高家とはいえ、直参の旗本。許しを得れば幕閣に入り、老中となってこの改革をそなたの思うように――」
そこまで話して定信は言葉を途切れさせる。
「そうか。そうだな。今まで通り蘭癖を貫くが良い。それが、貴殿の世直しであるのなら」
やや、低めの声でそう定信はつぶやく。ゆっくりと頭を下げる統秀。
定信邸を出たのは、陽がまだ空にある頃であった。
いつも通りの蘭癖の衣装で馬にまたがり、門を出る。
そこには二人の人影。
男装した多鶴といつものように十手を掲げる平左の姿。
「まいろう」
そう、言い放つとゆっくりと統秀は馬をめぐらす。
この後寛政五年に至るまで、寛政の改革は続くこととなる。
一般には質素倹約、風俗の取締にうるさい時代と思われがちであるがそんな中で『蘭癖』は自分の生き方を貫くこととなる。大権現の遺命と自分の理想を叶えるために――
第一章 終
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