境界線上のレクイエム
東雲
境界線上のレイクイエム(1)
還りたい、あの時に。
一歩踏み出した先に踏みしめるコンクリートはなく、支える物が何も無い宙に投げ出された身体は重力に従って線路に落ちていく。電車が鳴らすけたたましい警笛音がホームに響き渡った。
ああ、これで還れる。
心底ほっとした。
過去に戻ったら何をしたいですか?とバラエティ番組が街頭でアンケートをとっている様子がテレビから流れてくる。インタビューを受ける街の人々は思い思いに夢を語る。お金持ちになりたい、失敗をやり直したい、もっと色んな事をしたら良かった、等など。つまりはこうだ、『人生をやりなおしたい』ということだろう。人生をやり直したら今度は何をしたいか、話が盛り上がるテレビ番組を冷めた目で北浜朝子は見ていた。
「非現実的な話し」
朝子はこの手のオカルトというか、ファンタジーな話しは余り好きでは無かった。本として楽しむ分は良い。この夜に存在しない物とわかっているから。でもそれをリアルの世界に持ってきて『もし』と言う話しをするのはリアリティの無い話しであり、時間の無駄だと思っている。そのような事に時間を使うよりも、趣味に費やしたり、自分の為に勉強したりともっと有効に貴重な時間を過ごしたい。そう思っていた。それに、朝子はあまり過去に戻りたいと思う事は無かった。確かにあの時あれをやっておけば良かったと後悔した事もあるし、辛い事もあった、でも楽しい事もいっぱいあった。過去があったからこそ今の自分がある。朝子は今の自分に満足していた。過去に戻って別の人生を歩む事など考えられなかった。夜眠れば何時も通り朝が来て、仕事に行って帰ってくる。休みの日には溜まった洗濯物を片付け、隅に落ちている埃などを掃除し、料理の作り置きをして、残った時間は本を読んでゆっくりと過ごす。そんな日常がずっと続いていくと思っている。
そんな朝子は今日も変わらぬ朝を迎えていた、ただし何時もと違うのは少し寝坊した。急いで出勤の支度をして、駆け足で駅に向かっていた。早く青信号に変われと思いながら交差点で信号待ちをして、ようやく信号が赤から青に変わり横断歩道に足を進めたその時だった。誰かが危ないと叫ぶ声がした。え、と思って足を止めた朝子の目の前に迫る鉄の塊。朝子はそこから動く事ができなかった。耳をつんざく様なブレーキ音、ハンドルを握る男と目が合った様な気がした。朝子の脳が車を認識したと同時に、衝撃が身体を襲った。軽いゴムボールの様に吹き飛ばされ地面にたたきつけられる身体、痛いと感じる間もなかった。大丈夫ですか!誰か救急車を!周囲の人が叫ぶ声が聞こえた。
「ああ、私事故に遭ったんだ。死にたくないな」
そう思ったのを最後に朝子の意識はプツンと途絶えた。死にたくない、これが夢であって欲しいそう強く思った。
悪夢を見た、様な気がした。身体が少し重たい。天井を見上げたが、違和感があった。さっき自分は事故に遭ったはずだった。ならば、目が覚めるとしたら病院であるはず。だが、病院におなじみの鼻にツンと来る消毒液の匂いは無かった。それにこの天井は今朝子が住んでいるアパートの天井ではなかった。でも見覚えのある天井、隅にある不気味な模様、ここは間違いない朝子が一人暮らしをするまでの三十年毎日見てきた実家の自室の天井だった。
「え?」
朝子の頭はパニックになった。何故さっき事故に遭った朝子が今は半ば物置になっている実家の部屋で寝ているのか?起き上がって身体を動かしてみるが、痛みや違和感は全くなかった。ますます混乱する。朝子は今こそ夢なのでは無いのだろうかと思った。そしてふと壁に掛けてあったカレンダーを見てさらに驚く事になる。なぜなら書いてある西暦が朝子の覚えている年ではなかった。うまく動かない頭で数えると十八年前のものだったのだ。朝子の混乱は最高潮に達した。
「落ち着け、まずは今どんな状況かを確認する事だ」
自分に言い聞かせながら部屋の中を観察する。目にとまったのが部屋に据え付けられている本棚、そこには真新しい専門書がぎっしりと入っていた。次に机、机の上には書きかけのレポートがあった。椅子に引っかけてある鞄の中身を漁ってみる。大体の予想はついているが、確信が欲しくて朝子はあるものを探していた。
「みつけた」
鞄の中からとりだした物は真新しい財布と定期入れだった。見覚えがありすぎて、確認するのが怖かった。緊張で震える手でなんとか目的の物を財布から取り出す、引き出したのは一枚のカード、それには学生証と書いてあった。そうそれは大学の学生証だった。その一枚のカードには持ち主が十八歳である事、大学一回生であることが書かれていた。隣に貼り付けてある顔写真は紛れもなく朝子の顔だった。
「やっぱり、私十八歳の時に戻ってる」
目の前が真っ暗になる感じがした。
「朝子、朝子、朝よ!起きなさい!」
学生時代に毎日聞いていた母の声をどこか遠くで聞きながら、朝子は呆然としていた。
遅刻するわよ、と母にせかされる様にして朝食を食べ、学生時代いや今が学生なのだが朝子にとっては学生時代となるわけだが、その時に毎日乗っていた電車に揺られて大学に向かう。新聞で今日の日付は確認した。今日は五月八日。丁度大学に入学して一ヶ月くらいたった頃だった。朝子は自分がこれからどうしていけば良いのかわからなかった。普通であれば過去に戻れた事を喜ぶのだろうか、かつてできなかった事、やり残した事をして違う将来を選ぶ。人生をやり直すのだろうか。しかし、朝子には違う将来を選びたいという気持ちは無かった。元いた時間に戻りたい、できるのであれば事故にある前の時に戻りたかった。
そんな事を考えている間に大学に着いた。朝子はとある大学の理学部に進学していた。講義のある部屋に入って見回す。朝子は、自分がいつもどこに座っていたか、思い出そうとしたがわからなかったので適当に前から四番目くらいの列に座った。そういえば、この大学で誰かと仲良くなった様な気がするけれど、結局は卒業後自然消滅したから、まあ良いかと朝子は思った。そんな事を考えながら今日はどんなことをするのだろうかと教科書を開いて確認していた時だった。
「隣良いですか?」
と一人の男子大学生が声をかけてきた。ちらと視線をそちらへ送ってみる。初めて会う顔だった。朝子の過去の記憶にこのような出会いは無かったはずだが、と思ったが偶然座っただけで次は無いだろうと思った。その男子大学生は、周囲は高校生から大学生になりたてで少々浮ついている学生が多い中、大人びた静かな空気を纏っており周りから少し浮いているような気がした。
「どうぞ」
とだけ答えて朝子は再び視線を教科書に戻した。だから朝子は彼が何か言いたげな視線を注いでいた事を気がついていなかった。
彼とはそれっきりだと思っていたが、それからも何度か授業で一緒になって、その度に『隣良いですか?』『どうぞ』のやりとりが繰り返されていた。それ以下でもそれ以上でも無い会話。この人、過去に出会った事あるかな?朝子は自分の記憶を遡ってみるが、それらしき人はいなかった。そもそも、いちいちどこで誰と挨拶を交わしたかなんて詳しい事は覚えていない。この男子学生もそのうちの一人だろうと、その時は思っていた。
昼休みに入って周りが喧騒に包まれる、周囲は新しくできた友人同士で学食へ足早に移動する。今日の講義の事、サークル何に入るかなど、これからはじまる大学生活への希望が満ちている。あの時の自分はどうしていただろう、周りみたいにはしゃいでいたのだろうか、十八年前の事は覚えている様で詳しい事までは記憶に残っていないのだなと思った。
「これからどうしよう」
周囲の明るい空気とは正反対に朝子の周りには暗雲が立ちこめており、心の中は不安で満ちていた。だが、不安がってばかりではどうにもならない。朝子はとりあえず今置かれている状況を整理して、自分がこれから何をしていけば良いか書き出していく事にした。
その日の授業が全て終わり閑散としている食堂のあまり人が寄りつかない隅の方で、朝子はレポート用紙に向かっていた。ひとまず、過去に戻ってくる前の記憶の事を前世と呼ぶ事にする。今の状況は大学一回生である事。これは簡単な事であった。頭を抱えた事はこれからどうしていくかであった、授業中も考えていたのだが、過去に戻ってきた朝子は新しい人生をどう歩んでいけば良いのかわからなかった。良い事もあれば辛かった事、後悔した事など色々あったけれど、紆余曲折の末たどり着いた今が朝子にとって満足のいく結果だった。だから『はい、新しい人生を用意しました、どうぞやり直して下さい』と言われても困るだけであった。朝子は他の人生を歩く自分を思い描く事が出来なかった。どうにかして過去に飛ばされる前と同じような道を歩いて行きたい、そう思った。ならば、すべきことは決まっていた。朝子はレポート用紙に前の自分がどのような人生を送ったかを詳細に書き出した。いつ何があって、誰に出会って、どういう選択をしたか、思い出される限り書いた。もうこれ以上思い出せないと言う所まで書いたら、比較的新しい事は覚えているけれども、十年以上前の事は薄らとしか覚えていなかった。
朝子は文字で埋め尽くされた紙を前にして、今は何をすべきか考えていた。そして、一つ一つ何歳で何をするか再び整理して書いていった。それを朝子は『予定表』と呼ぶ事にした。『予定表』に従っていけば、前世に近い人生が歩めるのではないか、そう思った。十八歳だった朝子は特に友人を作らずに大学の勉強に集中していた様だった。ならば今は下手に動く事無く、穏やかな学生生活を楽しむ事に決めた。今まで何をしようか、どうなるのかと不安ばかりあったが少し気持ちに余裕が出てきた朝子だった。
当面の予定が決まった朝子は気持ちの切り替えが早かった。過去と違う事をするのは少し不安があったが、せっかくの人生二度目の大学生活をほんの少し自分の好きに過ごしてみようと思った。
その翌日も、朝子は同じ部屋の同じ場所で講義を受けていた。午前中の講義が終わりさて昼ご飯を食べに構内のカフェに行こうと荷物を片付け始めた時だった。
「すみません、少し良いですか?」
と隣に座っていた例の男子学生に話しかけられた。雰囲気は大人びていたのは知っていたけれど、隣に座っていた彼の顔をその時初めて見た。彼は雰囲気と同じような落ち着いた穏やかな表情をしており世間で言うところのイケメンだった。そんな彼に改まって話しかけられて何事だろうかと少し身構えてしまった。
「はい、何でしょうか?」
少し声が固くなってしまったかもしれない。
「実はさっきの講義の中でわからない事があって、教えて欲しいのですが。お時間大丈夫ですか?」
なんだ、そんな事か。少し肩の力が抜けた。
「良いですよ。どこですか?」
と答えると、彼も話しかけるにあたって少し緊張していたのだろう。快く応えてくれた事が嬉しかったのか、ぱぁっとはじける様な笑顔が顔に浮かんだ。なんだか、大型犬を見ている様だった、無いはずの尻尾がうれしさで揺れている様子が見えた気がした。
「では・・・・・・。ここがわからなくて」
と教科書を持って、彼は距離を席一つ分詰めて来た。彼が動いた事でふわっと爽やかな柑橘系の香りが朝子の鼻をくすぐった。おそらく彼がつけているものだろう。朝子はドキッとした。今まで男性とこんなに近距離で接した事は無かったが、彼が近くに来た事に対して嫌な感じは全くなかった。
「あ、ここは・・・・・・。こうで・・・・・・」
朝子はドキドキする心を必死に抑えて、何でも無い風を必死に装っていた。彼と面と向かって話すのは初めてだけれども、彼の声のトーン、話し方がとても心地よかった。
「これは・・・・・・こうなります。これで全部です。大丈夫ですか?」
長い様で短い会話が終わった。朝子は何だか、もっと話していたいなと思った。
「ありがとうございます。またわからない事があったら聞いても良いですか?」
と聞かれた。朝子には断る理由は無かった。
「大丈夫ですよ」
柔らかく笑って言う朝子に、彼はほっとした表情を浮かべた。
「本当に助かります。僕の名前は清水幾夜(しみずいくや)です。よろしくお願いします」
「私は、北浜朝子です。私もわからない事があったら聞くかもしれないので、こちらこそよろしくお願いします」
彼の名前をこの時初めて知った。清水幾夜、彼の名前をもう一度ゆっくりと口の中で繰り返す。そして、その名前は初めて聞くのに心の中にストンと落ちていく様なそんな感じがした。
彼と初めて言葉を交わしてから、幾夜と朝子はよく話をするようになった。最初はおはようの挨拶から、講義の合間の短い時間に、そして昼休憩も一緒に過ごす事が増えた。他愛ない話から講義の内容、趣味の話しなど少しずつ打ち解けて行った。お互いの距離が徐々に近くなっていくにつて、周囲からはある噂が聞こえてくる様になった。
「ねぇ、北浜さん、清水君と付き合っているの?」
というような噂である。時々周囲の人に聞かれるが、朝子は幾夜と付き合っているという感覚はなく、いつも付き合っていないと返答していた。なぜ聞かれるのかというと幾夜は実は隠れファンが多かった。雰囲気が大人びていて優しく穏やかそして、容姿も良かったからである。しかしながら、朝子にとっては幾夜は友人という認識しか無かった。なぜなら、朝子の将来に彼はいなかったから、幾夜とは大学だけの付き合いだと思っていたのだ。幾夜がわからない事を聞いて朝子が答えたから、仲が良くなった。きっかけは些細な事で、それ以上でもそれ以下でも無い。大学を卒業したら自然消滅する、そんな程度の関係だと朝子は思っていた。
朝子はあの日これからどうしていくか、どんな道をたどれば元の道に戻れるかどうかを書いた紙を鍵のかかる箱に入れていた。時折箱から出して順調に進んでいるか確認をする。順調に進んでいるかの様に見えたが、常に不安がつきまとっていた。どこで道が外れるかわからない。進むべき道がわかっていても、それしか無い朝子はいつ迷子になってもおかしくない状態だった。時々、見せる朝子の表情は今を見ておらず遠いどこかを思っている様であった。
穏やかに見えて、緊張感が続いた一年間を終えて、朝子は大学二回生になった。何とか緊張感にも慣れ、同じように二回生になった幾夜との関係もつかず離れずの状態が続いている。
変わらず、朝子は教室の前四列くらいに座り、その隣には幾夜が座っていた。一つ変化した事と言えば、一年かけて距離を席一つ分詰めたという事だろう。朝に挨拶を交わし、講義の合間にわからない事を議論し合っていた。この一年で朝子も幾夜だけで無く、何人かの女子学生とも会話を交わす様になり、お昼は別行動をしていた。そんな日常を過ごしていた時だった。
「北浜さん、執行委員会に入りませんか?」
と幾夜に声をかけられた。執行委員会とは学園祭や新入学生の歓迎会を取り仕切る学生の集まりである。幾夜はその執行委員会に入っており、どうやら朝子を誘っている様だった。朝子は去年の学園祭などで一つの物を作り上げるのに裏方で動く執行部のメンバーを見て、自分も何かを作り上げる手助けが出来れば楽しいだろうなと思っていた。でも、『予定表』には執行委員会に入るという項目は無かった。もし今活動に参加したら望む未来にたどり着けないだろうか、わからなかった。でも興味はあった、だからもし予定よりも大きく外れる事があったら辞めれば良いだろうと思い、執行委員会に入ろうと思った。
「誘ってくれてありがとう、清水君。入ってみたいな」
幾夜に誘われて入った執行委員会は朝子にとって、とても楽しい場所となった。新しい仲間も出来た、一つの物を作り上げるのに様々な意見を交わしあっていく。イベントの企画を練り、学祭の前日や当日は終電間際まで準備をしていた。仲間内で意見の衝突もあったが、それを乗り越えて自分達が手掛けた計画が形になっていく、その過程が楽しかった。二回生は勉強に加えて執行部の活動に力を入れていた為一年が過ぎるのがあっという間であった。三回生も同じように時が早く過ぎていった。授業は専門分野に入っていき選択授業が増えて行ったので朝子の隣に幾夜が座る機会は少なくなったが、放課後に執行委員会の部室に行ったら幾夜がいて次のイベントの準備の為の打ち合わせをする。友人と言うよりも戦友という印象の方が強かった。
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