永遠を繋ぐ
森本 晃次
第1話 永遠の命
「俺は、永遠の命を繋いでいる人がいるという話を信じられるんだ」
藤崎史郎は、スナックの女の子にそう言って謎かけをしたかと思うと、いつものようにタバコをシガレットケースから取り出して、おもむろに火をつけた。人に謎かけするのが好きな藤崎史郎は、謎かけをして相手が考え始めるのを見ながら、ゆっくりとタバコに火をつけるのが好きだった。
話しかけられた女の子は、
「うーん」
と言いながら、考え込んでいたが、実際には藤崎の話が唐突すぎて、考えが及ばないというのが本音だった。
しかし、せっかく客が謎かけしてくれているのだから、最初から考えることを諦めるような態度を取るのも失礼だ。そう思うととりあえず考えている態度を取っておくことが無難だと思ったのだ。
そのことを藤崎が分かっていないはずはない。
――どうせ考えたって、結論なんか出るはずもないんだ。逆に却ってきた答えに自分が頷くような答えを出されたら、俺の立場はないじゃないか――
だから、下手に頭のよさそうな相手には、謎かけをするつもりはない。
――確かに人それぞれ、いろいろな意見があってもいいんだけどな――
と思いながらも、藤崎の性格からすると、それも許せないと思うところは、彼の職業からすると、
――さすが――
と思わせるところでもあった。
藤崎史郎は、ミステリー作家だった。今はもう五十代に差し掛かろうとしているが、三十半ば頃に投稿した作品が新人賞を取ったことで、作家デビューとなった。ただ、彼の作品は、他の人にはない最初は物珍しさから、ウケたりもしたが、しょせんブームと呼べるような作品が、そんなに長くウケるということも珍しい。固定ファンはいたが、少数派であり、売れるという発想とはかけ離れていたのだ。
藤崎の作品が本屋の棚に並んだ時期は短かったが、固定ファンの間では、ネットで彼の作品に対してのツイットが多かった。それでも、出版社側は、
「それこそ、マニア受けというものだ」
として、増刷をすることもなく、次第に出版社への返品も多くなり、センセーショナルなデビューを果たしたにも関わらず、彼は文壇から影が薄くなってくるのだった。
彼が小説家以外の仕事をしているという話は聞いたことがない。確かに本を出してはいるが、印税で生活ができるはずもなく、別にアルバイトをしているという話も聞いたことがない。
「きっと、親の遺産が手に入ったんだ」
という噂がまことしやかに囁かれたが、実際に彼を少しでも知っている人は、彼の親が遺産を残せるほどの金持ちでないことも分かっているし、何よりも、彼の親は死んだわけではない。さすがSF作家、私生活も謎だらけだった。
彼がいつも来るこのスナックでも、金払いは悪いわけではない。毎回、
「いつもニコニコ現金払い」
をモットーとしていて、ツケにすることは一度もなかった。
藤崎史郎が常連としているこのスナックは、名前を「コスモス」と言った。名前だけを聞けばどこにでもありそうな気がしたが、藤崎が最初に入ってきた時、
「この店ほど、コスモスという名前が似合っているところはないような気がしてね」
店の人も、彼のセリフを、
「歯が浮くようなセリフ」
として、真剣み半分で聞いていた。
しかし、次第に彼のことが分かってくると、
「藤崎さんの言っていることは、一見突飛なことに聞こえるけど、冷静に考えてみると、実に的を得ていることが多いよね」
というように、藤崎への見方が急激に変わっていった。それは、いい方に変わったのであって、
――見直した――
というべきであろうか。
藤崎がこの店に来るようになって、そろそろ三年が経とうとしているだろうか。店のママさんは、SF小説マニアであり、不思議な話を自分で考えたりすることもあったという。さすがに文才のなさを自覚してか、小説として書くことはなかったが、思いついたことを、小説家のネタ帳のような小さなノートを持ち歩き、思いついたことを書き溜めるのが彼女なりの趣味だった。
そんな店に偶然とはいえ、最初に立ち寄った藤崎のことを、ママは知っていた。顔を知っていたわけではないが、話をしているうちに、
「ただ者ではない」
と感じたのだろう。
藤崎の方は、店に立ち寄ったのは偶然だと思っているが、ママの方が偶然ではないと思っている。どちらも自分の願望がそう感じさせるのだろうが、そのせいか、お互いに必要以上の意識をしているように思われた。
店の女の子も、藤崎が常連になった時、二人の間にある張りつめた空気に、戸惑いを感じていたようだが、二人の間に他意がないことが分かると、二人の間に存在しているものが、
「大人の会話」
だと思わせたのだった。
二人の間の関係は、店の女の子たちが考えているよりも、実際には親密なものだった。男女の関係が存在したことも事実だし、ただ、その割りにお互い、打算的なところがあるのも事実だった。
冷めた関係に見えることで、男女の関係はないだろうとまわりに思わせたのは、もし、二人の関係を知っている人から見れば、
「計算ずくのことなのかも知れない」
と思わせるだろう。
藤崎もママも、べたべたした男女関係とは無縁で、二人きりになった時はお互いの身体を貪るように愛し合うのだが、それでも、精神的には終始冷静であったのだ。
二人が待ち合わせをするところはいつも決まっていて、ホテルの部屋の予約も、ママの方でしていた。ホテルの従業員も二人が馴染みであることは分かっているが、その男女が、片や小説家であり、片やスナックのママだということを感じていないことだろう。
べたべたはしていないが、二人が一緒にいる時は、まわりから見ていると、一心同体に感じられるほどで、似合いのカップルであった。訳ありだとは思っても、元々の正体まで分かるはずはないだろう。
二人は無口ではなかった。絶えず何かを話していて、待ち合わせた時にいつもいくバーでも、いつも会話を勤しんでいるが、その内容をまわりの人が聞いたとしても、その内容は、不思議なことに、覚えている人は誰もいなかった。どんなに印象に残る内容であっても、この二人の会話だということで、後から思い出そうとしても、なぜか思い出せないというのが、二人を目撃した人の本音だった。
他の人に尋ねるわけでもないので、皆も同じことを感じていると思っているのだろうが、まさか、皆も同じように忘れてしまうことになるというのは、思いもよらぬことだった。誰もが忘れてしまうという発想よりも、
「自分だけがおかしい」
と思う方が、自分自身で納得のいくことのようであった。
ただ、この発想も実は藤崎が自分の小説に書いていることだった。だから、自分たちの会話をまわりが忘れてくれるということも、そのことを藤崎が小説に書いているということも、藤崎の小説を読みつくしていたママには、分かっていることだった。
だが、藤崎もママも余計なことを口にすることはない。お互いに考えていることで、本来なら口にすることで誰もが納得すると思えることでも、敢えて口にすることはなかった。
ママは、元々そんな会話ができる相手を探し求めていた。自分と同じことを考えていそうな人は今までにも何人か知り合ったことがあったが、誰もが、
「一言多い」
のである。
余計なことを口にさえしなければ、ママも相手に見切りをつけることはなかったと感じる相手が、結構いたことをいまさらながらに思い出すのだった。
藤崎の方も、ママが余計なことを言わないことで安心していた。
ただ、ママは最近になって、
「藤崎さんの中に、この私が立ち入ることができない場所があることに気が付いた」
と感じていた。
もちろん、余計なことを言わないのが、二人の間の暗黙の了解だったので、決して聞いてはいけないと思っている。しかし、それでも気になることは事実だったが、それを差し引いても、藤崎と自分との間では、他の人にはなかった、
「安心感をお互いに与えられる相手だ」
という意識は揺らぐことはなかった。
ママがスナックを始めるまでは、結構順風満帆だった。
元々、都会の有名クラブでナンバーワンホステスを何年も張っていた。そんなママが急に店を辞めると言い出して、店のスタッフが大いに慌てていたのも事実だった。
そんな様子をママは冷静に見ていた。まるで他人事のような視線を向けたものだ。
しかし、円満に店を辞めることができたママが、スナックを始めるというのは、まわりからすれば意外だった。確かにクラブを辞めて自分の店を持ちたいと思う人がたくさんいるのも事実だ。
しかし、ママがクラブでナンバーワンを張っていた時には誰も想像もつなかなった。要するにママの姿を見て、
「クラブのナンバーワン以外の彼女を想像することができない」
というのが、皆の共通した気持ちだったのだ。
しかし、店を辞めて、それほど間を置かずにスナックを開店することができた。
ママのことだから、クラブで仕事をしながら、スナックを経営する下地を、着々と進めていたのかも知れない。
しかし、もし店を辞めることができなければどうするつもりだったのかと思うと、先行して進めていくのはリスクが大きすぎる。
よほどママは計算上手で、性格的にも、
「石橋を叩いて渡る」
ような人だったに違いない。
「いや、あの人なら、石橋を叩いたって、きっと渡らないわよ」
と思うほど、店にいる頃は計算高さだけが目立っていた。
「決して無理なことはしないし、考えることもない」
それがママへのまわりからの印象だった。
そんなママがスナックを経営するようになると、それまで、
「日の当たる場所は、彼女のためにある」
とまで言われていたにも関わらず、自分で店を持つようになると、まったく表に出てくることはなくなった。まるで裏方に徹しているようで、
「華麗なる転身」
と言えるのではないだろうか。
そんなママを店の常連でも、
「なかなかママに会えることって珍しいんだ」
と言われるほど、店に出ることはなかった。
今はまだ四十歳になってすぐくらいだろうか、実際に店をオープンさせたのが、三十前半くらいだったであろう。
「三十代前半だったら、そりゃ、クラブの方も面食らうかも知れないな」
珍しくママが藤崎に自分のことを話した時に聞いた藤崎の言葉だった。
「確かにそうかも知れないけど、私にはその時が一番いいタイミングだと思ったの。自分が考えているタイミングを少しでもずらしてしまうと、私は自分で店を持とうという気持ちを失っていたかも知れないわ」
と、ママがいうと、藤崎は苦笑いを浮かべながら、
「なるほど、ママらしい」
「ありがとう……、と言っておくわ」
数少ない「大人の会話」の一つだった。
藤崎は、本当に余計なことを話そうとしなかった。
ただ、そんな態度はママとの間だけのことであり、スナックの女の子の前では、いつも謎かけをして楽しんでいる。
「悪趣味ね」
と、ママは笑いながら言ったが、そこに苦笑いは存在しない。悪趣味という言葉にも棘があるわけではなく、ママとしては、
「相槌を打っている」
という程度のものだと思っていたのだ。
ママも、藤崎との間では大人の会話だが、表に出ていた頃の品行方正な性格が他の人には定着していた。
「余計なことは口にはしないけど、だからと言って、気難しいという雰囲気ではないわ。自分をわきまえているという言葉が、一番しっくりくる人だと思うわね」
ママのことを聞かれたスナック「コスモス」の女の子は一様にそう答えていた。だが、店の女の子には自分が以前、クラブでナンバーワンを張っていたなど話していないので、女の子は皆、ママの本音がどこにあるのか探ろうとしても、分かるわけはないのだ。
「ママは、表に自分を出すことができない性格なのだと思うわ」
と、店の女の子は皆そう思っていて、店に来る客も同じであった。それが誤解であることを知っている唯一の人間は、藤崎だけだったのだ。
藤崎がスナック「コスモス」に立ち寄るようになり、常連にまでなったのは、ママがいたからに他ならない。藤崎は自分の馴染みになりそうな店を探してはいたが、なかなか自分の望みに合うような店は見つからなかった。店の女の子がママのことを気難しそうに言っているが、本当は藤崎の方がママよりも気難しい人間だった。そんなことを店の女の子が知るはずもなく、気さくな藤崎に心を開いてくれる女の子は多かった。
スナック「コスモス」には、結構常連が多かった。裏通りにひっそりの佇んでいるコスモスを、まるで隠れ家のように感じ、常連になる人は結構多いようだった。近所の人はもちろんのこと、少々距離のある人もやってくることが多いようだ。
そんな中に日向義久という男性がいた。まだ三十代の前半くらいであろうか、気さくというには程遠い感じの雰囲気で、むしろこの店の常連に多いタイプの一人だと言っても過言ではないだろう。
彼の仕事は営業だというが、
「あれで、営業が務まるのかしらね」
と、店の女の子は首をかしげていた。もちろん、面と向かってそんなことを言えるはずもなく、裏で話題になっているくらいだったが、客の中でも気さくな藤崎には裏方の話を漏らす女の子もいて、藤崎だけは、日向が店の女の子からどう思われているかということを知っていたのである。
ただ、あまり他人の噂を聞くのも口にするのも好きではない藤崎は、女の子が話してくれるのを右から左に聞き流していたが、言われなくても藤崎にもそれくらいのことは分かっているつもりだった。
スナック「コスモス」の客は、一様に暗い人が多い。それなのに常連になったというのは、藤崎にとっては不思議な感じだった。女の子の雰囲気は悪くはないが、店の雰囲気を考えれば、今までの自分なら、決して常連になるなど考えられなかった気がする。
――やはり、ママさんに魅力を感じているからなのかな?
男女の関係になったのだから、別にしょっちゅう店に顔を出すこともないのだろうが、どうしても立ち寄ってしまう。最初はそれがなぜなのか分からなかったが、日向への意識がそうさせるのだということに気が付いたのは、最近のことだったのだ。
藤崎がいつものように、店の女の子に謎かけを行っていた。それを横で聞いていたのが日向だったのだが、彼はまったく関心のないような素振りだったので、藤崎も意識していなかった。
もっとも、隣で意識されていたのが分かっているのであれば、最初から謎かけなどしようはずもなかった。謎かけをするのは決して勢いからではなく、その場の雰囲気を考えた上でのことだった。普段から勢いで話をすることの多い藤崎だったが、スナック「コスモス」では慎重に言葉を選んでいた。それだけ、自分の中の隠れ家のような場所を失いたくないと店の常連になった頃から考えていたのだ。
日向という男性は、会社では第一線から、指導職への転換期に当たっていた。
第一線で仕事をしていた時は、それなりにやりがいを持って仕事に当たっていたが、自分が指導する立場になると、かなりの戸惑いを感じていた。
「じれったい」
その言葉が一番似合っている。
今まではやればやるほどに成果が出ていたのだが、それは自分のやり方を信じることで力が発揮できたからだ。しかし、人にやらせるということは、自分への信頼を人に向けることであり、しかも、相手にやる気を起こさせるように仕向けなければならない。しかも、成果が上がらなければ自分の責任になる。それでも成果が上がれば自分の手柄でもある。しかし、それがどういうことなのか、日向には分かっていた。
「仕事を実際にしたのは俺なのに、どうして上司の手柄になるんだ?」
という思いを、自分が第一線にいる頃に感じていた。
それでも、やっただけの成果が出ることが嬉しくて、上司への不満は二の次だったので、表には出てこなかったが、自分が逆の立場になると、
「絶対に部下連中は、俺に対しての妬みを感じるに違いない」
と思っていた。
理由は、
――俺は彼らとは違う――
という思いが強いからで、それは部下に限らずまわりの人間に対して絶えず考えていることで、そのせいもあってか、日向は自分がどこか嫉妬深い人間であるということを自覚するようになっていたのだ。
そんな第一線の時代も二十代までだった。毎日が結構楽しくて仕方がなく、
「この仕事は俺の天職だ」
というくらいにまで感じていた。
しかし、実際に第一線から離れていくことは最初から分かっていたことで、なるべく二十代はそんなことは考えないようにしてきた。下手に考えてしまうと、悪いことばかりを考えてしまうようになることが分かっていた。
日向という男性は、いいことを考えると、とことんいい方に考え、悪いことを考え始めると、とことん奈落の底に落ち込んでしまうような性格だったのだ。
もちろん、自分では決していい性格だとは思っていない。
――損をする性格だ――
と思っていた。
今まで第一線にいた頃は、それがいい方に展開してくれて、悪くなる要素はまったく感じさせなかったが、第一線から離れるということが確定しているだけに、その時期が近づいてくると、嫌でも考えないわけにはいかなかった。それが、彼のネガティブな一面であり、いきなり直面すると、悪い性格である、
「とことん奈落の底に落ち込んでしまう」
という面が表に出てくるに違いないのだ。
「このままならまずいな」
そう感じた日向が考えたのは、
「仕事のことばかり考えているからいけないんだ。何か趣味を持つとか、馴染みの店を見つけて楽しみを増やさないと、ロクなことにならないだろう」
という危惧を持っていたからだ。
彼が前もってそう思うようになったのは、彼がそれだけ小心者だということではないだろうか。
「好事魔多し」
ということわざが、子供の頃から気になっていた。
「いいことは、永遠に続くはずはないんだ」
という思いは、逆に
「悪いこともいつかは抜けてくれる」
という思いに繋がってくる。どちらを選ぶかと言われれば、悪いことが永遠に繋がらないことの方が重要だと思えた。
それを自分では、
「慎重な性格だ」
と思っていたが、それよりも、ネガティブな面が見え隠れしていることを意識しないようにしていたのだ。
だが、ある意味では慎重であると言える。その証拠に日向のことを、
「慎重なタイプなんだわ」
と思っている人が多いのも事実だ。特に同僚にそう思われているようで、会社で孤立しないのは、きっとそう思われているからに違いない。
スナック「コスモス」の女の子も、半分は日向のことを慎重な人だと思っているようだ。口には出さないが、密かに思いを寄せている女性がいるのを藤崎には分かっていた。話をしている時、二人とも表情が明らかに違っている。そんな二人を藤崎はほのぼのした気持ちで見ていたのだ。
スナック「コスモス」は、謎の多い客が結構集まってくるようだ。藤崎をはじめとして、日向にもどこか謎の部分があった。もっとも、誰にでも一つや二つは人に秘密にしておきたい部分はあるものだが、藤崎のように、何をして生計を立てているのか分からないというような謎を日向も持っていた。
日向は会社や仕事の話をすることはあるが、自分のプライベートに関しての話は一切することはなかった。さすがに気になった女の子が聞いてみたが、
「この人ならと思うような人にでなければ話したくないんだよ」
という返事が返ってきた。そう言われてしまえば、誰もそれ以上追及することはできない。日向の本心は分からないが、この返事のおかげで、誰からも追及されなくなったということは、その時の最良の返事だったと言えるのではないだろうか。
藤崎が店の女の子に、
「俺は、永遠の命を繋いでいる人がいるという話を信じられるんだ」
という謎かけをした時、日向も店にいた。
藤崎が今まで店の女の子に謎かけをする時、日向がいたことはなかった。日向がいない時を狙って話をするのはわざとであり、特に日向を意識していたからに他ならない。
その話を聞いていた日向は、聞き耳を立てていた。聞いていないふりをしながら聞き耳を立てている人を感じるのは、藤崎にとって苦になることではなかった。
――日向さんの耳が微妙に動いたように感じたのは、気のせいだろうか?
いや、気のせいではなかった。藤崎は無意識に気になる人を横目で見ることがあったが、普段なら横目で見る程度なら、相手がどんな表情をしたのか感じることは難しい。
しかし、よほど気になっている人が相手であれば、横目で見ている時、ハッキリと見えているような気がしてきた。
――想像に違いないんだろうけど――
と思いながら、瞳を流した瞬間に、ハッキリと見えてくる。
ただ、それも一瞬のことであり、
――瞼の裏に焼き付いた光景――
一瞬見ただけのことが、そんなに瞼の裏に焼き付くことはないはずなのに、それが焼き付いているということは、本当に想像だけのことに違いないのだろう。
その時の日向の表情には、不敵な笑みが浮かんだような気がした。
「そんな話は、もっと昔から、俺は考えていたさ」
と言いたげに見えた。
藤崎はひょっとして、女の子に話をしたつもりで、本当は最初から日向に聞かせたいと思っていたかも知れないと感じた。そして、その時の日向のリアクションにしても、想像がついたような気がしたのだ。
不敵な笑みを浮かべた日向を感じると、反射的に顔が日向に向けられた。それは一瞬のことだったので、きっと同じように不敵な笑みが浮かんでいると思ったのだ。
しかし、実際にはまったくの無表情。いわゆる「埴輪」とでも言っていいような表情に対し、
――そんなに簡単に表情を変えられるものだろうか?
と感じ、
――不敵な笑みというのは、自分の錯覚で、最初から無表情だったのかも知れない――
という思い、
――反射的に顔を向けたと思っていたが、本当は一瞬ではなく、しばしの時間を要していたのかも知れない――
という思い、さらには、
――日向さんを意識したと思っていたけど、本当は横目に見はしたが、まったく見えなかったので、自分の妄想がイメージさせたことなのかも知れない――
などと、いくつかの思いを抱いていたのだ。
日向という人物が、藤崎の思っている人間に限りなく近いか、それとも、まったく違っているかのどちらかのように思えた。妄想するのもそのためで、そのどちらかによって、妄想の種類はまったく違い、それがそのまま日向に対する藤崎の思いに繋がっているように思えたのだ。
そういえば以前、
「日向さんは、ママと時々お話しているわ」
と、店の女の子から聞かされたことがあった。
その時、まだ藤崎はママを意識しているわけではなかったので、そのまま聞いた話をスルーしたが、実際にはその時の意識が燻っていて、その時に初めてママに対しての思いが浮かんできたのかも知れないと感じた。
しかし、実際にママに聞いてみると、
「日向さんとは、お仕事の悩みを聞いて差し上げたことはあったけど、あなたの考えているような親密なことはなかったわ」
と言って、微笑んでいる。さらに、
「あら? 嫉妬してくれているの?」
と、嘯いている。そんなことを聞くのは、本当に何もなかった証拠だと藤崎は感じていた。
「うん、嫉妬しているのさ」
本当は、嫉妬したわけではないが、ホッとしたのは事実なので、少し大げさに言ってみた。照れ隠しもあって、藤崎はその時、間髪入れずにママを抱きしめて、羽交い絞めにした。
「ちょっと、どうしたの?」
と口では慌てているような言い方だが、抗っているわけではない。
――こんなじゃれ合いも悪くはない――
と思った藤崎だった。
その時、藤崎は別のことを考えていた。
「やっぱり、俺には永遠の命が備わっているんだ」
という思いだった。
「以前にもまったく同じシチュエーションがあった」
それは酷似という程度のものではなく、本当にまったく同じシチュエーションで、考えていることも同じだった。同じことを考えているからこそ、
「まったく同じシチュエーションだ」
と感じたのであり、もし、そう感じたのであれば、真っ先に考えることとして、
「夢だったのではないか?」
という思いを抱くはずなのに、その時にはまったく夢などという思いを抱いたわけではなかった。
藤崎にはここ最近、同じような思いを感じることが結構あった。一度や二度であれば、気のせいだということで片づけてしまうのだろうが、短期間に何度も同じようなことを考えるのだとすれば、気のせいで片づけられないことは容易に想像がつく。
ただ、その思いがいきなり、
「永遠の命が備わっている」
などという発想に結びつくはずもない。
藤崎が何かを感じ、そしてそのことに思いを馳せる時、一種のパターンがあった。それがどんなパターンなのか分からない。
いや、正確に言えば、覚えていないのだ。
「その時には感じたはずなのに……」
そんな思いは今に始まったことではない。しかし、何度も繰り返していると、
「人生を堂々巡りしているのではないか?」
と思えてくる。
ただ、それはシチュエーションを繰り返しているだけで、本当に年を取っていないというわけではないだろう。それだけのことで、永遠の命などという発想が生まれるはずもない。一体、どこから生まれた発想なのか、覚えていない記憶の中に、その答えが隠されているに違いない。
その頃から日向に対しての思い入れは激しくなっていった。
ただ、そこには嫉妬があるわけではない。
「俺が忘れてしまった記憶を、彼がひょっとすると思い出させてくれるかも知れない」
という思いが浮かんだからだった。
「ひょっとすると、俺と彼は二人で一人の存在なのかも知れない」
という突飛な発想も浮かんできた。それだけ日向という男性を藤崎は無視することができなくなっていた。
だが、ごく最近は、スナック「コスモス」を離れると、日向のことを忘れてしまっていることが多い。それだけ自分のことで一生懸命なのかも知れないが、自分のことですら、時々上の空のことがある。スナック「コスモス」でのことは、本当にまったく別世界での出来事のように思えてならなかったのだ。
売れてはいないが、仮にも作家である藤崎は、小説を書いている時の自分が、まるで別人のように感じることがある。
「自分の作品に無意識に引き込まれている」
という意識を後から感じるが、作品を書いているのは自分、ひょっとすると、
「作品を書いているのは自分だと思っているが、見えない何かの力に突き動かされ、書かされているだけなのかも知れない」
と思うこともあった。
それは小説家としての自意識を著しく狂わせるものである。自信喪失にも繋がることだが、いくら売れないとはいえ、それでも小説を書いているのは、
「俺の作品は、他の誰にも書くことのできない独創的なものだ」
という自負があるからだった。
その自信を失うことは、生きている自分を否定するようで、自分としては承服できるはずがない。それなのに、見えない力を感じている自分がいるのも事実であり、この思いがジレンマとなって自分に襲い掛かってきていることが、一歩踏みさせない理由の一つではないかと思うのだった。
小説を書いている時は、どんな奇抜な発想のフィクションであっても、その情景を頭に思い浮かべなければ書くことができない。だが、時々自分が情景を思い浮かべたわけでもないのに、描写を描けていることがあった。
しかも、その描写は以前に自分が感じたことがあると思う描写であり、すべて後から感じていることのはずなのに、どうして気が付いたら描けているのかと思うと、見えない力の存在を否定することはできないだろう。
見えない力は、自分を別世界に連れていき、描写を頭の中に叩きこませる。小説を書いている時だけは、その見えない力の存在を知る唯一の時であるにも関わらず、その時だけは、見えない力の存在を否定したいと思っている自分がいることで、結局、その存在を確信することができない。だからこそ、
「見えない力」
という表現がピッタリなのだろうが、もし自分が小説を書いていなければ、その存在すら感じることもなかったはずだ。
そう思うと、見えない力が働いているのは、自分だけではない。誰にでも見えない力が働くだけの土台を持っていて、その影響を感じることなく、スルーしているのではないかと思うと、見えない力の存在を感じることができるだけ、藤崎は他の人と違った力を有しているように思えていた。
――だけど、そんな大げさなものではないのかも知れない――
小説の発想など、誰にでも持つことができる。ただ、
「自分には小説を書くなどという力が備わっているはずがない」
という思いを抱いていることで、せっかくの力を自分自身で握り潰しているのだろう。
藤崎は、自分の世界に入り込み、そして見えない力の存在を自分と同じように感じることができる人がいるとすれば、それは日向ではないかと思えた。逆に日向という男性と知り合うことで藤崎は、自分が小説を書く時自分の世界に入り込むのだということをいまさらながらに、そして見えない力の存在をこの時初めて実感できるようになったのではないかと感じた。
藤崎は、スナック「コスモス」のママと知り合ったことで、彼女をモチーフにした小説を書いたことがあった。ママ本人が読んだとしても、その内容が自分のことだとは思えないように、内容的にはかなりの着色を加えていたが、意外と二人のことを知っている共通の知り合いが読めば、何となく分かってくるのではないかと思えてきた。
「小説というのは、誰にでも自由な発想を生み出すことができる土壌と、作者の意図によって知らず知らずに引き込まれている世界を読者が感じることなく、ごく自然に物語が進行していることではないかと思うんだ」
と、ママに話したことがあった。
それを聞いてママは含み笑いしたが、その時にはすでに自分のことを題材にして藤崎が小説を書こうとしているのだと、気が付いていたようだった。
しかし、ママはそのことを一言も藤崎に話をしなかった。ママが気づいていたなどということを藤崎は夢にも思っていなかっただろう。藤崎という男は小説を書くだけあって想像力は発想は優れているところもあるが、他人の気持ちを読んだり、場の雰囲気を掴んだりということは苦手だった。それだけに、まわりの人との協調性はあまりなく、孤独なことが多かった。
それでも、自分と考えが似ている人や、同じような発想ができる人を見抜く力は備わっており、仲間内では一目置かれていたのだ。
そんな両面を持った藤崎だったが、その両面を知っている人はごく少なかった。ママと日向は分かっているようで、藤崎の数少ない理解者だと言ってもいいだろう。
ママは藤崎に自分のことを書かれることに抵抗はなかった。
「せっかくなら、世に出ればいいんでしょうけど、今の彼に売れる本が書けるとは思わないわ」
あまり小説を読む方ではないママだったが、藤崎の話があまりにも唐突すぎて、一般受けするとは思えなかった。本人も自覚している通りの、「マニア受け」である。
藤崎の小説を読んでいると、本当に唐突に感じられるが、小説を書く上での骨格に、信憑性がなければ書ける話ではないと思っているのは、日向だった。
日向も突飛な発想をするが、まったく火のないところに煙が立っているというわけでない。何かを思いつく時も、それまで考えていたことをすべて忘れてしまうほどの突飛な発想であるため、いきなり出てきたような気がするのだろうが、いきなり発想が生まれるなどということはなく、その前兆が確かにあったのだ。
その前兆が長ければ長いほど奇抜なものであり、繋ぎ合わせた個所が多ければ多いほど、まるで「わらしべ長者」のお話のように、入り口と出口の大きな違いが、形となって現れる気がしていた。
「藤崎さんの頭の中の構造を、覗いてみたい」
ママが話していたが、日向はそこまでは思わない。
「自分は少し発想を変えるだけで、藤崎さんと同じ発想を思いつくに違いない」
と思っていた。
ただ実際には、日向が考えているほど藤崎の頭のなかは単純ではなかった。
「入り口を見つけることはできても、出口を見つけることはできないかも知れない」
つまりは、
「一度入ってしまうと、抜けられなくなる」
という思いがあるからか、迂闊に飛び込んでいけないことを感じていた。
それでも藤崎が話していた、
「俺は、永遠の命を繋いでいる人がいるという話を信じられるんだ」
という発想は、日向にも分からないわけではない。この発想を謎かけとして、店の女の子に話をする時点で、藤崎の中では、
「それほど、突飛な発想ではない」
という思いがあったのかも知れない。
しかし、何となく発想が浮かんでくる日向には、藤崎が考えているほどこの発想が単純なものではないことを分かっていた。
実は日向も同じような発想を、昔したことがあった。
その時は、まだ学生の頃で、藤崎が作家デビューした頃だっただろうか?
藤崎の小説を日向は読んだことがなった。ずっと最近まで、藤崎が小説家だということも知らなかったくらいである。
「不思議な発想をする人だ」
という意識はあったが、それ以上のことを何も感じなかった。
そういう意味では、藤崎の方が、日向の方を意識していた。なるべく不思議な発想をする時、日向がそばにいてほしくないと思っていたこともあった。しかし、最近は逆に、日向の前での方が饒舌になっていた。
日向のことを意識することで、もっと突飛な発想が思いつくような気がしていたからだった。
日向は藤崎が、
「ひょっとすると、俺と彼は二人で一人の存在なのかも知れない」
などと思っているなど、想像もできなかった。
しかし、藤崎を見ていると、日向の方も、
「自分が意識してこなかったことでも、藤崎のような男なら、意識に止めていただろうに……」
と感じていた。
日向は藤崎のように、あからさまに自分の記憶が抜けているという意識を持っているわけではないが、その代わり、
「自分が考えていることを知っている人が、この世には何人かいる」
と思っていた。
それは、何も言わなくても、姿を見るだけで看過できるということで、広い世界のどこかには、そんな人が一人や二人はいても不思議ではない。日向の場合、その思いの信憑性は高く、さらにそのうちの一人は、実に自分に近い位置にいるのではないかと、ずっと以前から感じていた。
「それが、この藤崎という人なのかも知れない」
年齢的にもかなり上ではあるが、五十代の発想というよりも、若い頃の発想がそのまま膨らんでいき、今の自分と同じくらいの年齢の時から、それほど発想は変わっていないのではないかと思えた。それだけ、外見と発想とにギャップが感じられ、日向にとっても、藤崎は無視できない存在だったのだ。
ただ、お互いに意識し合ってはいるが、その意識がぶつかることはなかった。相手が自分のことを必要以上に意識しているということにお互い、気づいていなかったのだ。
藤崎には自分の精神的な年齢が、まだ三十代であるという意識があった。それは三十歳からの発想年齢が進んでいないということよりも、あっという間に過ぎてしまった年月が、発想を年齢とともに重ねさせないための力が働いたのだと思っている。
年齢を重ねることと、精神的な年齢を重ねることを同じ土俵で考えないようにしていた。なぜなら、精神的な年齢というのと、一般的に言われる「精神年齢」とを分けて考えたかったからだ。
一般的に言われる「精神年齢」とは、
「年齢や時間を重ねるごとに、洗練されていくものだ」
という考えであり、子供の頃よりも大人になって、さらには老人になるにつれて、洗練されなければいけないという思いであった。
しかし、藤崎が考える精神的な年齢は、子供の頃が大人になってから考えることに劣っているということが、果たして言い切れるかどうかということである。子供の頃の発想が大人になってできなくなることも往々にしてあるもので、それを子供の頃の方が、まだ成長途上だったという理由で劣っていると言えるのかどうかである。
子供の頃の方がむしろ自由で、枷のない発想が生まれていたかも知れない。
藤崎は、年齢を重ねるごとに、いろいろなことが分かってくることで、せっかく頭に浮かんだ発想を打ち消してしまうのが嫌だった。
「いつまでも、少年のような心を失いたくない」
というセリフを、ドラマで見たような気がしていたが、
「まさしくその通りだ」
と感じた思いをずっと忘れたくはなかった。
特に最近は、物忘れが激しくなってきたこともあって、記憶力の衰えを実感していた。いくつくらいの頃から物忘れの激しさを認めるようになったのか覚えていないが、記憶力の衰えと、自分が感じた「忘れたくないという思い」とを切り離して考えてみたいと思うようになっていたのだ。
「私、小学生の頃からSF小説が好きで、少し変わってるって言われていたのよ」
ママとねんごろになった頃、湿気を帯びた気だるい空気の中で、天井を見ながらタバコを燻らせていた藤崎に抱き着きながら、ママが耳元で囁いた。
「女の子だからと言って、SFが好きだから変わっているというのは、違うんじゃないかい?」
「普通ならそうなんでしょうけど、私の場合は、他の人と違う考えを持っていたので、変わっているって言われたのよ」
なるほど、藤崎がママに惹かれたのも、ママの雰囲気に、自分と同じようなものを発見したからだったが、すぐにはどこに惹かれたのか、藤崎には分からなかった。それまでの藤崎はあまり女性と縁がある方ではなかった。秘密主義のある藤崎を女性が好むはずはないと思ったからだった。
「藤崎さんには分からないところがたくさんあるけど、それを一つ一つ探していくのが楽しみなのよ」
藤崎の秘密主義は今に始まったことではなく、子供の頃から人とは違った発想をしているうちに、まわりとの接触が億劫になった時期があった。その頃からまわりを冷静に見るようになり、自分に近づいてくる人の気持ちが分かるようになってきたのだ。
そのほとんどは興味本位というだけで、本当に心を割って話ができる相手だとは到底思っていないだろう。もっとも、藤崎もそんな相手に対して、自分から歩み寄る気など、サラサラない。
しかし、ママは違った。
藤崎も最初からママには、自分と同じものを感じていたが、それがどこから来るのか分からなかった。スナックを経営しているのだから、秘密主義というわけではないだろう。ただ、プライベートと仕事の間には隔たりがあるのは分かっていた。それでも、最初から藤崎もママのプライベートに興味を持ったわけではない。
今も、ママのプライベートに興味があるわけではない。ママが藤崎に見せている姿をすべてだと思ってもいいくらい、ママのことを必要以上に知りたいとは思っていない。
普通、気になる相手だったり、ねんごろになった相手であれば、
「すべてを知りたい」
と思ってしかるべきだろう。
しかし、藤崎はそんなことは思わない。仲良くなったとしても、相手のプライバシーに干渉したりしないのが、大人の恋愛だと思っている。
ただ藤崎は、大人の恋愛をしたいから、ママと関係を持ったわけではない。冷静な二人のことを知っている人がいるとしても、冷静な付き合いである二人は大人の恋愛をしているように見え、大人の恋愛をしているという事実に満足しているように見えるだろう。
藤崎もママも、本当はそういう恋愛に憧れを持っている。しかし、二人とも、
「この人とは、冷静に見つめ合うことができても、いわゆる『大人の恋愛』をしているわけではない」
と思っているようだ。
「お互いに似た者同士だと、考え方が似ていることもあって、相手の考えていることが手に取るように分かることもある。だけど、分かりすぎるがゆえに、遠慮が働いて、結局、ある一定の距離から近づくことをしないんじゃないかな?」
「そうかも知れないわね。特に自分がされたら嫌なことは、相手にもしないのが暗黙の了解。目に見えない結界のようなものが、そこには存在しているのかも知れないわね」
そんな会話をしたことがあったが、その会話が、そのまま自分たちに当て嵌まるとは思っていない。
――それにしても、彼女の口から「結界」なんて言葉が出てくるとは意外だったな――
と思ったが、その時から、ママがSFに興味を持っていたのではないかと思うようになった。
それでも、藤崎は敢えて自分からSFの話をしようとは思わなかった。ママは藤崎がSF作家であることは知っているはずなので、そのうちにSFの話になるだろうと思っていたにも関わらず、ママの口から一向にSFの話が出てくることはなかったので、この話は二人の間ではタブーなのだと思った。
女性の方から、男性の仕事のことを話題にするのを嫌う女性もいる。ママもそんな女性だと思っていた。
しかし、それなのに、いきなりSFの話を持ち出してきたのはどうしてだろう?
ねんごろになったとはいえ、まだまだお互いのプライバシーには一切入り込む気持ちはないと思っていたのに、急にSFの話を持ち出したのは、それだけママが藤崎に対して心を全開にしたからではないかと思えてきた。
藤崎は嬉しさを隠しきれなかったが、そんな表情は表に出すこともなく、いつものように冷静に受け流していた。これからのママとの会話の中に、今まで知らなかったママの本性が現れてくるのではないかと感じたからだ。
「私、SFを読むようになったのは、浦島太郎のお話がずっと気になっていたからなのよね」
「確かに昔話の中には、SFとは切っても切り離せないようなお話が多い。かぐや姫の話にしても、一寸法師のお話にしても、話の内容は、SFやホラーに近い感じがするからね」
「特に浦島太郎のお話は、時間を飛び越えるという意味で、一番怖かったのを覚えているわ。どうしてもお話というのは読んでいると、ついつい自分に置き換えて読んでしまうものですものね。かぐや姫のお話も興味があったんだけど、最後に月に帰るというところで、スケールが大きすぎて、却って興味が薄れたところがあったわ」
「確かに、浦島太郎のお話とそれ以外のお話を考えると、浦島太郎のお話は、読んだ時にはハッキリとしないモヤモヤしたものが残るだけで、他のお話のように、読み終わった後に、ゾッとしたものを感じることはなかった。逆に浦島太郎は、読み終わってからしばらくしてから、恐ろしさが込み上げてきたのを思い出したよ」
「昔話というのは、結構科学的な根拠がありそうなお話が多いと思うわ。でも、浦島太郎だけは別格だったの。もちろん、小学生の頃には、相対性理論などという話を知っているはずもなかったのにね」
アインシュタインの相対性理論というと、同じ時間を過ごしているつもりでも、高速になればなるほど、時間が経つのが遅いという考え方だ。浦島太郎のお話は、海の中の竜宮城にいたのは、数日だったはずなのに、陸に戻ってみると、知っている人は誰もおらず、時間は数十年、いや、百年以上は経っていたのではないかというお話だった。
太郎は、玉手箱を開けることで、自分も年を取り、時間的な辻褄が合うという話だったが、このお話は、読んだ人間それぞれで、きっと感じ方が違っているに違いない。
どの部分に重きを置くのか、作者が一体何が言いたいのか、そう思いながら読んでみると、ひょっとすると、同じ人間であっても、何度か読み返してみると、その時々で感じ方も違っているかも知れない。
ママは続けた。
「とにかく私は、浦島太郎のお話から、時間というものに対して不思議な感覚を覚えるようになったの。特にタイムトラベルを題材にしたような小説を、好んで読んだわ。そういえば、その中に、作者は忘れたんだけど、不思議なお話を読んだのを覚えているの。でも、その本は人から借りて読んだ本で、一度読んだ時、不思議な感覚に陥ったんだけど、もう一度読み返してみようとは思わなかったの」
「どうしてなんだい?」
「どこか怖いというか、薄気味悪い感覚だったの。すぐに読み直すと、また違った感覚になるんでしょうけど、それが怖いと思ったの」
「その小説はどうしたんだい?」
「確か、貸してくれた人に返したんだけど、それから数か月して、無性にもう一度読みたくなったのよ。それでその本を本屋や図書館で探してみたんだけど、見つからなくて、再度本を貸してくれた人に聞いてみると、そんな本、知らないというの。さらに、私に本を貸したということすら忘れてしまったのか、覚えがないっていうのよ」
「それはおかしな話だね」
「ええ、それ以来、気になって気になって仕方がなかったんだけど、ある時を境に、急に思いが冷めてしまったの。そう、私がどうしてその本が気になっていたのかということも一気に忘れてしまったのよ」
「それって、痛みが消えていく時のような感覚とは違っているの?」
「いえ、そうなのよ。今までその感覚が何かに似ていると思っていたんだけど、痛みを感じた時の思いと似ているということに、どうして今まで気づかなかったのかしら?」
目からウロコが落ちたというのはこのことだろうか。ママは不思議な感覚に陥りながらでも、スッキリとした表情になっていた。ママが本当に藤崎に惹かれたのは、この時だったのかも知れない。その時はそこで話は終わってしまい、お互いを貪ることで、その日の夜は更けていった。
目が覚めてから、ママは自分がどこにいるのか、一瞬分からなかった。カーテン越しに朝日が漏れていたが、そこにはシルエットになって、藤崎が後ろ向きに、つまりは表を見ながら立っていた。
一糸纏わぬその姿は、後姿にこそ、男性の色気を感じるものだった。
ママは以前にも似たようなシチュエーションを感じたことがあったが、それがいつのことで、相手が誰だったのか、思い出すことができなかった。
――今目の前にいるのは、確かに藤崎さんに違いないんだけど、本当に私を抱いてくれた藤崎さんなのだろうか?
と感じていた。
いくら逆光を浴びて、身体中から噴き出している汗が光って見えるとはいえ、一番覚えているはずの自分の身体が、
「この人じゃない」
と教えてくれている。
「じゃあ、この人は誰なの?」
恐る恐る眺めていると、その逞しさに心は奪われている。
「誰だっていいじゃない」
とさえ思えるほどで、ママはその後ろ姿に抱きつきたい衝動に駆られた。今まで感じていた男の魅力というものが、根底から覆されようとしていたのだ。
しかし、ママは抱きつく前に、極度の睡魔に襲われた。
「どうしたのかしら?」
確かに、声は出ていたと思う。なぜなら、男はその声に気が付いて、こちらに振り返ったからだ。
それでも顔を確認することはできなかった。それなのに、彼の笑顔だけは感じることができた。その時ママは幸せな気分になり、安心したからか、そこからの記憶はまったくなかった。
目が覚めると、そこには男はいなかった。そして、枕元には小さな箱が……。
「まるで浦島太郎だわ」
直感で、その箱が玉手箱のように思えてきた。
「これを開けると私はおばあさんになってしまうのかしら?」
目の前の小さな箱は、玉手箱とは似ても似つかぬもの。ママ以外に、その箱を玉手箱だと感じる人はいないだろう。
「もし、これが玉手箱ではないとしても、開けてはいけない『タンドラの匣』であることに違いはないわ」
ママは、その箱をずっと眺めていた。眺めながら、時間がどれほどのスピードで推移しているのか、自分なりに想像していた。
すると、今度はその箱から目を切ることができなくなった。顔を横に向けてみても、箱が気になって、目を切ることができないのだ。
「まるでヘビに睨まれたカエルのようだわ」
そのうちに、遠近感がマヒしてくるのを感じた。一点だけを集中して見ているからだということはすぐに分かった。
そこまでが、夢から覚めての記憶だったが、その時、急にママは何かに思い立ったようだ。
「夢から覚める時のことを、目が覚めても覚えているというのは、今までになかったことだわ」
と感じたのだ。
そう感じると、違和感が急に消えていった。消えていったと同時に、瞬きする間、今いた部屋と寸分狂っていないはずなのに、
「おや? どこかが違っている」
と感じた。
まず、先ほど感じた目覚めと、今の感覚では同じ目覚めでも違うように思えた。少なくとも、さっきの目覚めの延長でなければならず、どんどん意識がしっかりしてこなければウソである。
それなのに、今感じているのは、
「今目が覚めた」
という感覚で、
「時間が戻ってしまったのかしら?」
と感じた。
しかし、時間が戻るという感覚よりも、本当に今目を覚ましたのだという感覚の方が自然であり、無理はない。そう思うと、先ほど感じた目を覚ましたという感覚は、夢の中で感じたことではないかと思えてきたのだ。
「ということは、夢から覚めたという夢を見ていたということになるのね」
と感じると、その割には先ほど感じた目覚めが、思ったよりもリアルだったのを感じていた。
「夢から覚めるという感覚を、ぼんやりと感じていたからなのかも知れない」
今までに見たと思っている夢も、本当は見ていたわけではなく、目を覚ました時の願望が、夢という幻を見せたのかも知れない。
「そんな話の本を読んだことがあった気がしたが、それが以前、再度読み直したいと感じた本だったような気がする」
結局読み直すことはできなかったが、その思いが嵩じて、夢の中で目を覚ますという夢をよく見るようになったのかも知れない。
――もしも、夢の中で夢を見ていたとすれば、時間的な感覚はさらにマヒしてしまっているのだろうか?
藤崎は、夢の中に時系列は存在しないと思っている。存在しないというよりも、存在したとしても、優先順位はかなり低いところにある。
普通に生活していると、時系列を優先順位として考えることはない。時間の流れは自分たちにはどうすることもできないもので、決まり切っているものだと思っているからだ。それだけに、夢の中で思い出すことは、完全に時系列を無視していることなので、夢の世界と別世界だとして位置付けるに十分なのだ。
では、夢の中の優先順位とは何なのだろう?
「夢というのは潜在意識が見せるもの」
という話を藤崎も信じている。その思いがあるから、自分がSF小説を書けるのだと思っているのだ。
「ということは、夢の中の優先順位の一番は、何をおいても、潜在意識ということになる。ではその次は?」
と考えると浮かんでこない。潜在意識を最優先と感じた時点で、他に優先するものはなくなってしまったのではないか。それは時系列にしても同じことで、普段の生活で時系列は絶対のものであるのと同じで、潜在意識とは夢の中で、普段の時系列と同じくらいに、絶対的なものなのかも知れない。
そのことを自覚することで、ホッとしている自分がいることに気づく。
夢の世界はどこまで行っても架空のもので、現実と比較になるものではないと思ってきたからだ。
だから、SF小説というジャンルが生まれ、現実ではない「フィクション」がいろいろと想像されるのである。だが、SF小説などを書いていると時々、
「自分の描いている世界が本当にあってほしい」
という妄想に駆られてしまうことがある。
現実では、
「そんなことはありえない」
と思いながらも、
「勝手に妄想するのだから、この世界は自分だけのものだ」
として、存在していてほしいという気持ちもあった。
そんな気持ちがあるからなのかも知れないが、藤崎の書くSF小説は、突飛なものが多い。反則技ギリギリの発想で、読む人によっては、不快にさせてしまう内容もあったりする。
「玄人好みするかも知れないが、一般読者には、毒が強すぎる」
と、編集者の人間に言われたこともあった。
「申し訳ありません」
とは口では言ったが、実際には、
「それだけの覚悟がなければ、SF小説なんて書けやしないんだ」
と心の中で呟いていた。その時の表情から決して藤崎は承服しているわけではないことは明らかで、編集者の人も、苦笑いをするしかなかったようだ。
どうしても信念を曲げないという態度の藤崎に、編集者も困っていた。
「尻すぼみになりますよ」
脅し文句なのだろうが、それくらいの言葉を言われるのは覚悟していたつもりだ。しかし、それでも面と向かって言われてしまうと、ショックは隠せない。思い切ったことをする割には、小心者のところがあるのが、藤崎だったのだ。
小説がなかなか売れなくなると、さすがにショックも大きかった。
今でこそ、何とか生活は切り抜けていけたが、以前はどうしていいのか途方に暮れていた。
もちろん、アルバイトやパートの類もやっていた。ただ、どこもあまり長続きしなかった。藤崎の方から辞めてしまうこともあったし、店の方から引導を渡されたこともあった。「売れない小説家というのは、あんなものなのかね」
と、雇う側の責任者は皆感じていたようだ。
確かにアルバイトをしながら、下積みの作家人生を歩んでいる人もいるだろう。そうなると、プライドも何もあったものではない。藤崎も同じような思いをしてきたが、最近では本が売れているわけではないのに、どこか羽振りがよかった。
そんなこともあってか、馴染みのスナックを作り、そこで楽しく過ごせればいいと思うようになっていた。それがスナック「コスモス」であり、ここにいれば、最初に想像していたよりも、楽しい人生が歩めそうな気がして、
「人生、捨てたものでもないな」
と、感じるようになっていた。
その中で分岐となった一つに、
――ママと知り合ったこと――
があった。
ママは正直、今までの藤崎の好みのタイプではなかった。どちらかというと、年下で甘えてくれるような女の子を好みだと思っていたが、まさか、大人の女性に自分が惹かれるようになるなど、想像もしていなかった。
しかし、ママと知り合う前の小説の中に出てくる恋愛は、そのほとんどが、大人の恋愛だった。自分がしたこともなければ、憧れていたわけでもない大人の恋愛をどうして描こうと思ったのか、しかも、実際にイメージして描くことができているのか、自分でも分からなかった。
元々、スナックに立ち寄るという発想も、この店に入る前にはなかったことだ。喫茶店で、アルバイトの女の子と仲良く話すことはあっても、それはあくまでも店の中でのこと、それでいいと思っていた。
以前まで通っていた馴染みの喫茶店では、いつも三時間近くは店にいる。その半分は、テーブルで小説を書いているのだが、残りの半分は、カウンターに席を移動して、店の女の子と話をするような感じだった。
その時に、よく謎かけをして遊んだものだ。藤崎が謎かけすることもあれば、アルバイトの女の子が謎かけすることもあった。最初は藤崎の方が多かったが、ネタも尽きてくると、今度は彼女の方が多くなってくる。きっと、自分なりにいろいろ調べてきたのであろう。
本屋に行くと、結構雑学の本や、クイズ、なぞなぞの本も置いてあったりする。藤崎もたまに情報収集の名目で立ち読みしていたが、興味の出た本は買ってくることもあった。もちろん、小説のネタになることも転がっているので、本を買っても、別に損したというような気持ちになることはない。
馴染みの喫茶店に立ち寄っていた頃というのは、かなり昔のことである。まだ、小説で新人賞を取る前のことで、
「ある意味、その頃の自分が一番輝いていたのかも知れない」
と思える時期だった。
「上を見ればきりがない。しかし、下を見ても、底なしに見える」
どちらにでも行くことができる、言い方によっては、自由な時期だった言えるのではないだろうか。
下も上も見えない時期は、それほど不安ではなかった。そんな時に限って、いろいろな夢を見たからだ。
夢というのは、目が覚めるにしたがって、忘れていくものなので、覚えている夢というのは極めて少ない。よほど怖い夢だったのか、あるいは、印象の深い夢だったのか、どちらにしても、夢を見るということは、それだけ熟睡しているということでもあり、嫌なことがあった時などは、夢を見ることで、気分転換ができたりした。
最近では、熟睡できないことが多い。その理由について最初分からなかったのだが、最近では何となく分かるようになってきた。最大の原因は、
「不安に感じることが多い」
ということである。
何に対しての不安なのか分からない。一言でいえば、
「言い知れぬ不安」
ということなのだろうが、何とも曖昧ではあるが、その曖昧なことのために言葉ができているということは、それだけ感じている人も多いということである。
夢に対しての考えも様々である。藤崎は、以前から、
「夢を見ているその中で、また夢を見ることがある」
ということを感じていた。
自分が実際に見たことがあるかどうかは別にして、存在そのものを意識していたのは間違いない。
「夢の中の夢から覚める時、夢の中で、覚めてくる感覚はあるのだろうが、その夢が覚めて、現実の世界に戻る時に、そのことを忘れてしまうのではないだろうか?」
つまりは、夢から夢に繋がる時というのは意識できているもので、忘れてしまうのは、夢から現実に引き戻される時だけだという考えであった。
藤崎が夢を見てるその中に、また夢があるという意識を持っているのは、夢の中で、そのことを感じたという思いが、記憶の中に引っかかっているからではないだろうか。
また、藤崎の意識の中で、
「記憶は意識に含まれるが、意識は記憶には含まれない」
というものがあった。
根拠があるわけではないので、ただ漠然と感じているだけなので、誰にも話をしたことがなかったが、夢の中にまた夢を見るということを意識するようになってから、
「この思いが根拠に繋がるのではないか?」
と感じることで、誰にも話をしなかったことをボカシながらではあるが、話すようになっていった。そのボカシ方というのが、いわゆる謎かけであり、最近よくスナック「コスモス」の女の子に対して謎かけをするようになったのは、その影響だった。
人に話したからと言って、納得のいく答えを求めているわけではなかった。むしろ、
「一人で抱えているのが重たくなった」
と言った方がいいくらい、一人で何かを抱えていることが億劫になってきた。この思いが、
「言い知れぬ不安」
に繋がっているということを、その時はまだ藤崎は分かっていなかった。
しかし、、一つずつ、頭の中にある曖昧なことを解消していけば、忘れてしまっていること、あるいは、繋がらないと思って最初から繋げて考えないようにしていたことを繋げられるようになるのだった。
藤崎は自分のことを、
「簡単に諦める性格だ」
と感じることが往々にしてあった。
いろいろなことを頭の中で巡らせてみるのが好きなくせに、考えが突飛すぎて繋がらない時など、考えてしまったことを後悔してしまうことすらあった。そんな時、自分が不安を感じているのだという意識と繋がっていないことが分かってくると、
「諦める必要なんてない」
と思うようになっていた。
そんな時考えたのが、
「意識と記憶の違いについて」
ということだった。
最初は、
「起きている時、つまり現実世界では意識しているということも、寝ている間の夢の世界では、意識していたとしても、それは現実に戻ってくる間に記憶に変わってしまうのではないか?」
と思うようになっていた。
そして、
「記憶は意識に含まれるが、意識は記憶には含まれない」
と考えるようになったのは、すなわちそれは、
「現実の世界が本当の世界で、夢の世界は架空の意識が作り出すもの。つまりは潜在意識のなせる業なんだ」
という結論に達したのだ。
もっとも、この思いは藤崎の中で、今生まれたものではない。実はずっと以前から感じていたものだ。それを意識と記憶という考え方をすることで、自分の考えを裏付けるものになっていた。そういう意味では絶対的な説得力を持っている。
「この考えが今後も揺らぐことはないだろう」
と思わせるに十分だったのだ。
ただ、
「意識は時間が経つにつれて記憶という装置に組み込まれ、『累積』していくことになるが、記憶の中にあるものが突然顔を出し、意識に取って代わるということはありえないだろう」
という思いもあった。
その思いが崩れた時、夢と現実の間の関係が自分の中で崩壊してしまうような気がしていたが、なぜか藤崎の中で、
「近い将来、崩壊してしまいそうな気がする」
と思い続けていた。
ただ、それがいつの頃からそう感じるようになったのかが思い出せないこともあり、いきなり突然に瓦解してしまうこともありうると思うと、心の準備をいかに整えればいいのか分からない今は、不安でしかないのだった。
藤崎が見つけた結論の中に、
「夢は潜在意識が見せるものだ」
という思いがあり、この思いも絶対だった。しかし、
「現実の世界が意識であり、夢は記憶である」
という思いも、甲乙つけがたいほどの説得力を持っている。
ということは、
「潜在意識とは、いわゆる『意識』ではないのか?」
という疑問が生まれる。
藤崎が、
「俺は、永遠の命を繋いでいる人がいるという話を信じられるんだ」
と考えるようになったのは、夢と現実の考え方が自分の中である程度定まってきたからなのかも知れない。何か二つのものを比較対象にする時、その違いを最初から意識して望まないと、自分の考えを見失ってしまうという考えを元々藤崎は持っていたが、その思いが確定に変わってきたのは、夢と現実の違いについて考えるようになったからだったと言っても過言ではないだろう。
もちろん、藤崎は自分が永遠の命を繋いでいる本人だなどとは思っていない。ただ、疑問として浮かんでいるのは、
「永遠の命を繋いでいる人は、自分の中でその意識を感じているのだろうか?」
という思いだった。
あまりにも突飛な考えなので、自分の中で自覚している人でも俄かに信じられないとし、こんな話を人にするのもおこがましいと思うようになると、自分が他の人と違っているところを無意識に探し始めるのではないだろうか。
永遠の命、つまりは、
「不老不死」
というものは、昔から憧れられていたものだ。
中国の「西遊記」などでは、
「高貴な坊主の肉を食らえば、永遠の命を手にすることができる」
というところに話が繋がって、冒険活劇の様相を呈しているのだと思っている。特に中国では、
「永遠の命」
ということに、執着が深いのかも知れない。
ただ、これは古代文明を考えれば、西洋でも日本でも十分に昔の人が考えていたということが分かる。
ピラミッドにしても、日本の古墳にしても、
「再度生き返った時のため」
ということで、土葬にして、ミイラ化させるようにしている。これはまさしく、
「生き返る」
ということが、永遠の命を繋いでいるという発想に繋がるのではないだろうか。一度肉体は滅んでも、精神が生き続ける限り、復活できるという発想である。
この発想には、
「肉体は滅んでも」
という意味が隠されている。そういう意味で藤崎は、永遠の命を、
「繋いでいる」
という表現をしているのだ。
――肉体がなくなった精神は、まるで夢の中の世界のようではないか――
という思いを持っていた。
つまりは、
――潜在意識という名の記憶だけが、支配している世界――
ということになる。
夢から覚めた時、見ていた夢の内容を覚えていないのは、命を永遠に繋ぐために違う肉体に入り込んだ時、前の身体の時に育まれた記憶を持ったままでは、新しい肉体に宿る意識を記憶していくには、無理がある。記憶するための領域にも、当然が限りがあるのだろう。
――人間なんだから、限りがあって当然だ――
それは、神の存在を信じ、人間は神によって作られたものだという発想の裏付けでもあった。
前世という発想があるが、それが生まれたのも当然のことであるが、いきなりその発想になったわけではないだろう。永遠の命を育むという発想はあるだろうが、不老不死というものに憧れを抱き、それを手に入れるのがどれほど困難なことであるかという発想を題材にした小説が流行るくらいである。永遠の命の発想は、不老不死への憧れと困難さを示すことで、それをプロセスにして前世という発想に辿りつくのだ。
考えてみれば、不老不死の発想が困難であるというイメージを抱かせる話が日本にだってあるではないか。ママとの話の中に出てきた浦島太郎の話がまさにその代表である。
まったく年を取らずに本当は数百年が地上では経過しているのに、自分の感覚としては数日でしかなかったという、本当に夢のような世界を経験してきて、戻ってきてからの反動が半端ではなかった。
――浦島太郎という話は、一体何を言いたいのだろう?
藤崎は、浦島太郎の話を思い出すたびに、そんなことを考える。
最近では、ママと話をした時に感じたこととして、
「浦島太郎の話には、複数のことを言いたいのだという思いがあるんだけど、でも、突き詰めてみると、すべて同じところに戻ってくるような気がするの」
と言っていたママの話を聞いて、それまで漠然としてしか考えていなかった浦島太郎の話の中に、何か不可思議な感覚を覚えたのだ。
最初は、カメを助けて、そのお礼に竜宮城へと案内される。
「いいことをすれば、ご褒美が貰える」
という発想は、今も昔も変わりがない。
ただ、他のお話であれば。ここがクライマックスであり、竜宮城へ案内されたことで、大団円を迎えるような結末を想像してしまう。
しかし、この話はここからが始まりなのだ。
苛められていたカメを助けたことで、竜宮城へ招かれた。考えてみれば、他のおとぎ話の類は、そういう別世界というものを、人間には見せないものであり、それを好奇心から見てしまった人間が不幸になるという話が多いではないか。
人間には好奇心というものがあり、それが人間の成長を促したという事実に変わりはないが、それが逆に作用することもある。むしろ、そちらの方が物語になりやすく、戒めを感じさせるには絶好の題材であると言えるだろう。
好奇心というものを、浦島太郎は感じさせない。カメを助けたことで、カメに対して興味を持つこともなければ、カメが連れて行ってくれた竜宮城で、乙姫様にもてなしを受けるが、乙姫様に対しての男としての感情が描かれているわけではない。完全に受け身である。
おとぎ話の主人公としては、あまりにも消極的ではないか。
ということは、それだけ物語はヒューマニズムがテーマではなく、物語自体に大きなテーマが隠されていると考えるのが普通だろう。
ただ、おとぎ話から、人間性を切り離して考えることはできないと思っている藤崎は、浦島太郎の話をいろいろな側面から考えてみたことがあった。
確かに、浦島太郎は終始ストーリーに翻弄される主人公を描いてきたが、最後の最後で玉手箱を開けるか開けないかという選択を迫られることになる。
開けてしまった彼を誰が責めることができるだろうか。むしろ、開けてしまって老人になってしまったことで、何度も読み直しているうちに、安心感さえ芽生えてくる。
もし、あのまま誰も知らない人の世界、物語的には未来なのだろうが、一体どうやって生きていけばいいのか、分かる人などいるはずもない。
それでも生きろというのは、ある意味無理強いをしているのと同じではないだろうか。
「浦島太郎という人物は、本当は宇宙人であり、竜宮城へ行った浦島太郎と、竜宮城から帰ってきた浦島太郎とでは、本当は別人なのかも知れない」
そんなことを話しているやつもいた。
大学時代に浦島太郎についていろいろな意見を持っている連中と話に花を咲かせたことがあり、個人個人で様々な思い入れがあったようで、話題に尽きることはなかった。
「相対性理論の、高速では時間が経つのが遅いという発想からこの話に入ったのであれば、宇宙人説というのも、あながち突飛な発想でもない。考えてみれば、カメの背中に乗って海の底に行くということに違和感を感じないというのはおかしい。だって、呼吸ができないんだぞ。そう思うと、カメの背中に乗って竜宮城に行ったというよりも、ロケットに乗って、他の天体に行ったという方が発想としては、的を得ているような気がするな」
「確かに、浦島太郎の話はその時々で、辻褄が合っていないところがあるような気がするな。それというのも、主人公があまりにも優柔不断に感じるからで、カメを助けたから竜宮城に案内されるという発想からして、胡散臭さを感じないものなのだろうか?」
「独立した話が一つになって、浦島太郎という話を形成しているとすると、分かってくることも多いような気がする。ただ、相対性理論という大きな理論に裏付けられた話になるので、枝葉はそんなに目立たない。密かに仕組まれた話のような気がして、突き詰めればいくらでもいろいろな発想が浮かんでくるような気がする」
「玉手箱を開くところは、彼の意志が含まれている気がするけど、でも、本当に彼の意志で開けたのだろうか? まわりは知っている人もいない。何をどうしていいのか分からない状態で、目の前にある箱を開けることで、少しでも前に進めればいいという考えを持ったとするならば、その気持ちを促す何かの力が働いていると考えて、不思議はないのではないだろうか」
「何かの力が働いているというのは、他のおとぎ話と類似したところがあると思う。それも、『開けてはいけない』、あるいは『見てはいけない』と言われると、人間っていうのは、否定されることが気になってしまって、絶対に逆らってしまうという性を持っているような気がするんだ。だから浦島太郎が玉手箱を開けたのは、同じような心理があったんじゃないかな?」
「確かにそうだけど、浦島太郎の場合は、ある程度分かっていて開けたんじゃないかって思うんだ。いわゆる確信犯なんだろうけど、そこが他のおとぎ話と一番違うところなんじゃないかな?」
「じゃあ、自分が年を取ってしまうことを知っていたということかい?」
「俺はそう思っている。少なくとも、それを開けることが自分に対していいことでもあり悪いことでもあるという両方の意識を持っていたんじゃないかな? そうなると答えは一つ、自分が年を取ってしまうことになるんだよ」
そこまで言える自分が怖かったが、そこで感じたことは、
「浦島太郎は、生きていて一番怖いことを孤独だと感じたんだろうな」
ということだった。
「本当の孤独を知らない人間が、不老不死を望むんじゃないかな? 古代の人たちがそれでも不老不死を望んでいたのは、その頃の人間は、今の人間が感じる孤独というものとは違った印象があったのかも知れないな」
そんな話をしているうちに、藤崎はおかしなことを考えるようになった。
浦島太郎の話がいくつかのパートに別れているとすると、そこには、最初から、
「永遠の命を繋ぐ」
という発想が根底にあり、
「命を繋いでいくという発想は、同じ人間がそれぞれ何度か人生を繰り返すことで成り立っている」
という発想も成り立つのではないか。そこでイメージしたのが、
「リピート」
であった。
リピートというのは、一人の人間が何度も自分の人生を繰り返すというもので、永遠の命とは、少し発想が違う。永遠の命は、時系列に沿って繋がっていくものだが、リピートは、
「一度歩んできた人生を、再度ある時点に遡って、もう一度歩み直す」
というもので、永遠の命とは、時系列以外にも何か違いがあるのかということを考えてみた。
「永遠の命を繋いでいるという感覚は、実際に持つことはできない気がするが、リピートは、人生を何度もやり直しているという意識を持つこともありではないか」
というものであった。
浦島太郎の話を、
「永遠の命を繋いでいる」
という発想で考えるなら、リピートは浦島太郎の話になぞらえてはいけないことなのだろうか?
「いや、あながちそうだとは言えない」
一度歩んだ人生を、再度歩むことができるとすれば、もちろん、意識を持ったままでなければ意味がないだろう。そういう意味では、浦島太郎の話を書いた人、あるいは、話を考えた人は、どこから持ってきた発想なのだろうか? そう考えると、この話がいくつものパーツから成り立っているというのも分からなくもない。それだけテーマが存在しているのかも知れないと思うからだ。
「夢と現実だって、交互に繰り返しているじゃないか現実の方が圧倒的に長いんだろうけど、人間は眠らないと生きてはいけない。つまり、絶対に夢を見る環境には自分を持っていくことができる。ただ、夢を見たということを覚えているか覚えていないかというだけの違いじゃないか」
と、藤崎は考えている。
藤崎がスナック「コスモス」で謎かけのように話した中には、これだけの思いが含まれている。永遠の命を繋いでいるということを聞いて、聞いた人間が、まず何を発想するかということに興味があった。
このリピートという発想は、なかなか藤崎の中で生まれてこなかったが、もし、
「永遠の命を繋いでいる」
ということを感じなければ、もっと早くにリピートという発想が生まれていたのではないかと思うと、不思議な感覚に陥っていた。
――同じ人生を繰り返すという発想は、パラレルワールドに繋がるものだ――
と思っていた。
可能性の数だけ発想があり、さらに次の瞬間には、さらに可能性の数だけの発想がある。ある一点を起点にすれば、ネズミ算式に、どんどん発想が膨れ上がってくることになる。なかなかこの発想に行きつかないのは、ネズミ算式に膨れ上がる発想を食い止めようとする見えない力によるものなのかも知れない。
藤崎は、今まで書いたSF小説の原点になっているのがおとぎ話であることを意識していた。特に、
「見てはいけない」
ということであったり、
「開いてはいけない」
ということに意識が集中していたのである。その言葉と、自分が夢で見ることが、どこか結びついているような気がして、小説のネタの基本が、そこにあるような気がして仕方がなかった。
最初は、小説のネタを考えるのに、一つのことに執着してしまっては、皆同じパターンの小説が出来上がってしまうことを危惧していた。しかし、同じような話であっても、違う結論を結びつけるのであれば、立派な違う話が出来上がる。いかに同じようなネタをたくさん発想できるかというのも、幅広いジャンルで書いている人と、さほど変わりはないのではないかと思うのだった。
特に、プロの作家には、自分のジャンルというものが存在する場合が多い。きっと皆同じような悩みを最初は抱きながら、試行錯誤を繰り返す中で、自分独自のジャンルを築き上げたに違いない。
藤崎は、小説家としての自分の限界を感じてはいた。それでも書き続けるのは、
「自分のジャンルを持っているからだ」
と思っている。
「今は世間に認められないかも知れないが、時代が変われば認められる時がやってくる」
というのが、藤崎の考えだった。
だから藤崎は、
「俺は、永遠の命を繋いでいる人がいるという話を信じられるんだ」
ということを平気で言えるのかも知れない。
藤崎の小説は、今までにいくつかのパターンがあった。しかし、最近では一つにまとまりつつある。以前のように少しでも売れている時は、たくさんのパターンを書くことはできなかった。本人の中では、
「たくさんのジャンルを開拓しなければいけない」
という焦りにも似たものがあった。それが生き残りに繋がると思っていたからだ。
最初は小説を楽しみに書いていたはずなのに、最近では少しも楽しいとは思わない。ただ、以前と違って小説を書いている時は、完全に自分の世界に入り込んでいる。特にSF小説などを書いていると、俗世間が見えてこない方がいい。そう思うと、孤独もまた悪くはないと思うようになった。
ただ、そう思うようになるには、自分の感覚をマヒさせる必要があった。
「寂しい」
などという感覚は打ち消さなければいけないと思うようになっていた。
しかし、そう思えば思うほど、寂しさを感じずにはいられない。
寂しさが孤独になり、孤独が言い知れぬ不安となって襲ってくる。
「そうだ。俺が恐れていたのは、寂しさでも孤独でもない。不安だったんだ」
と感じるようになっていた。
寂しさや孤独は、どんなに膨れ上がっても、他に何か補えるものがあれば、解消できるものだ。しかし、一度感じた不安を払拭するには、他のことではだけなのだ。不安を感じた原因を見つけ出し、根本から解消するしかない。そう思った時、寂しさや孤独からやってくる不安に対しては、さほど怖さを感じることがなくなった。感覚がマヒしてきたように感じたのだ。
――寂しさや孤独を感じていたのは、いくつくらいまでだったのだろう?
藤崎は、思い返してみた。
二十代には完全に感じていたはずだ。
藤崎は二十代に一度結婚し、三十代の前半に離婚した。子供はいなかったが、離婚ということに直面した時、まるで他人事のように感じたのを覚えている。それまでの藤崎は、「離婚する夫婦ほど格好の悪いものはない」
と思っていたし、どちらにどんな理由があるにせよ、悪いのはどっちもだとさえ思っていた。
しかし、自分がその立場になると、話は別だった。
離婚を持ち出したのは藤崎からではない。奥さんの方から切り出したのだが、奥さんが切り出した時には、完全に決意が固まった後のことで、藤崎にはどうすることもできなかった。
「何で急にそんな離婚なんてことになるんだよ」
と藤崎はそれまで他人事だと思っていた離婚が急に目の前に現れたことにパニックになっていた。
ただ、それはもちろんのこと、最初に切り出された時は、何が起こったのか分かる前に、身体が震えだし、まるで引き付けを起こしたかのように、痙攣している自分の身体を感じた。
だが、冷静に考えてみると、痙攣してしまうほどに身体が反応したということは、自分の中のどこかに予感めいたことがあったということだろう。後から思えば確かに、
――俺は、最初から想像していたのかも知れない――
と思えた。
しかしそれは、自分の臆病から起こったことではないだろうか。
急に何を言われても覚悟ができているように、常に何かよくないことが起こった時のことを考えてしまう。いわゆるネガティブな性格の表れなのだろうが、藤崎はまさしくそんなタイプだったのだ。
考えてみれば、小説を書けるようになったきっかけも、普段からいろいろなことを考えていたからであって、その中には当然ネガティブなことも含まれていた。
何かあった時に自分がショックを受けないように、いろいろな場面を設定し、最悪の場面を思い浮かべることで、いざという時に備えている。それがまさか小説を書く上での翁発想の要素になるなど、想像もしていなかった。
「小説を書いてみたい」
とは子供の頃から考えていた。
しかし、どうしても書くことができない。話が続かないのだ。骨格になる発想が浮かんでくるわけでもないし、当然何もないところから書き始めて、話が続いていくわけもなかった。
そんな藤崎が書けるようになるまでには、かなりの苦労があった。
原稿用紙を前にしてマス目を埋めていこうと考えるが、埋めることはできなかった。一文字一文字が大きすぎて、考えていることをスムーズに書くことができない。しかも、マス目というのは、何かに縛り付けられているという思いを抱かせ、縛られた状態で、自由な発想など生まれるはずもなかったのだ。
「よく昔からの小説家の先生たちは、原稿用紙に書いてこられたな」
と感じた。
――やはり小説家になる人は、それだけ選ばれた人でなければいけないということなのか?
と感じたのだ。
原稿用紙を諦めて、次はノートに書くようにした。ノートであれば、少々汚い字でも、続けて書くことができる。何よりも大切なのは、
――思い立ったことを、そのままの文章で、いかに書きとめることができるか――
ということだった。
それができるようになってからは早かった。
家で机に向かって書いていたのだが、最初は図書館に赴いて書き始めたが、却って気が散ってしまった。
今度は、ファミレスで書いてみたが、これが意外と書けるものだ。人の往来や、窓から見える光景を描写する感覚になれれば、文章はおのずとついてきた。そのうちに馴染みの喫茶店を見つけて、そこで書くようになると、本当に自分が小説家になったような気分が沸いてきて、その時、生まれて初めて、自分の中に優越感を持つことができた。
優越感と言えば、普通はあまりいいように言われることはないが、藤崎がその時感じたのは、人に対しての卑下ではなく、自分が初めて人に優れるものを持てたという発想で、これがどれほど気持ちのいいものなのか、初めて感じることができたのだ。
自分で感じることのできた優越感が、それまでの自分と、それ以降の自分を変えたような気がした。それがいいことなのか悪いことなのかは分からない。しかし、人にはバイオリズムがあり、
「いいことと悪いことは交互にやってくるものだ」
と誰かが言っていたのを頭の中に記憶していた。
藤崎が小説を書けるようになったのは、離婚してからのことだった。それまでにも書きたいと思ったことは何度もあったが、なかなかうまく書くことができず、すぐに諦めていた。しかし、離婚してからというもの、すぐに諦めることがなくなった。それが自分の中にあった「幸せボケ」のせいだったということは分かっていた。ただ、それを認めることは、自分の気持ちに反することになると思い、あまり「幸せボケ」を意識することはなくなったのだ。
離婚を経験した時、
「今まで生きてきた中で感じていた溜まりに溜まった不幸を、今、一気に吐き出しているような気がする」
それまで、躁鬱症を感じたことはあったが、それまでの躁鬱症とは違うものだった。
「どこが違うんだ?」
と、自問自答をしてみるが、すぐにはその答えを教えてくれない。分かるようになったのは、離婚後初めて、
――記憶に残らない夢――
を見た時だった。
離婚してから、毎日のように夢を見ていた。それも、似たような夢で、楽しくデートしていた時のことを思い出させるものだった。
しかし、目が覚める瞬間に、いきなり現実に引き戻されるシチュエーションがあった。途中まではいつも同じような展開なのに、目が覚める瞬間の現実に引き戻されるシチュエーションは、いつも違っていた。
「どうせ、夢なのだから」
という言葉で片づけられるものではなかった。
毎回最後だけ違っていると、夢を見ている時にでも、
「これは夢の中なんだ」
という意識を持つことがあった。
そう感じると、目が覚める時のことを思い、
「このまま、夢から覚めないでほしい」
と感じた。
しかし、その思いを打ち消す自分もいた。
「このまま夢から目を覚ますことを欲していると、本当に夢から覚めないことになるが、それでもいいのか?」
誰かがそう語り掛ける。
そんなことを思ったこともなかった藤崎は、
「嫌だ。それは困る」
と反論した。どうしてそんな反論をしたのかというと、
――こんな不気味な夢の世界。これからどんな恐ろしいことが待ち構えているか分かったものではない――
と感じたからだった。
毎回、最後だけ夢の内容が違っていることが分かっているので、その感覚には信憑性があった。
――このまま逃れられないなんて嫌だ――
どんなに怖い夢であっても、怖い夢であれば、覚えているものだ。しかし、楽しい思いはなかなか覚えていない。それなのに覚えているというのは、その時の藤崎にとって、楽しい思い出というのは、怖い夢に匹敵するだけの意識があったのだ。
ほとんど毎日のように見るこの夢から目を覚ました時、うなされていた自分がそこにいたことを意識させた。額から流れる汗、身体中から湧き上がってくる悪寒を伴う汗は、種類こそ違えど、その元になっているものは決して違うものではない。
夢を覚えていないと感じたその時、藤崎はそれが怖い夢ではないと分かったつもりだったが、急に怖い夢を見なくなった自分が信じられなかった。
――一体、どうして?
この思いはしばらく続いたが、次第にそのことも忘れてしまっていた。
それを思い出したのは、
――俺は躁鬱症なのではないか?
と感じた時で、元々の躁鬱症の正体を知りもしないのに、なぜ分かったのかというと、
――忘れてしまった夢が、教えてくれてるんだ――
と、感じたからであった。
躁鬱症を感じた時、
――昼間と夜とでは、同じ世界なのに、違う世界のようだ――
と思ったのが最初だった。
昼間、特に夕方などは、身体に気だるさを感じ、汗も掻いていないのに身体が衣服にベッタリとくっついてしまい、全身に極度の重たさを感じていた。空気全体が黄色かかっていて、もやが立ち込めているかのようだった。
しかし、夜になると、身体に纏わりついた「穢れ」は解き放たれて、スッキリとして感じられるのだ。ネオンサインや信号機もくっきりと見え、信号機など、昼間は緑に見えた青信号が、夜になると、真っ青に感じられるから不思議だった。
昼と夜の違いが、そのまま精神的な躁状態と鬱状態の違いへと繋がっていくのだから面白い。
「俺は永遠の命を繋いでいる」
という時に口にする「繋いでいる」という言葉、意味としてはまったく違ったものだが、藤崎には切っても切り離せないものに思えてならなかった。
躁鬱性を感じるようになってから、躁状態と鬱状態が、同じ感覚で交互に襲ってきていることに気が付いた。大体感覚的に二週間周期で、躁状態と鬱状態が入れ替わっていた。
どちらが最初に抜けるのに気が付いたかというと、鬱状態を抜ける時の方が、分かるようになっていた。それは躁鬱症ではないかということに気が付いてから、結構早いうちだったような気がする。
鬱状態というのは、昼と夜とでは感じ方が違う。それは精神的な面でも、肉体的な面でも同じことで、身体に言い知れぬ重みや疲れを感じた時、自分が鬱状態だと分かるのだった。
鬱状態から抜けるのを感じる時、まるでトンネルから抜ける感覚があった。トンネル内の黄色いランプは、鬱状態である自分の精神状態を映しているようで、言い知れぬ身体に感じる重たさ、そして疲れを想像させる。
トンネルの出口が近づいてくると、同じ黄色い色でも、真っ暗な中に灯された黄色い明かりを思わせた鬱状態から、表の空気に触れようとしている感覚を思わせる風が吹いてきたのを感じた時、
「そろそろ鬱状態を抜けるんじゃないか?」
と感じさせた。
その思いは時間とともにハッキリとした意識へと繋がり、夢から覚める時の感覚に似たものを感じさせた。しかし、その時の意識は夢を見ている時のようなおぼろげなものではなく、
「怖い夢以外は覚えていない」
いや、
「怖い夢であれば、覚えていることができる」
という感覚とは違っているものであった。
鬱状態とは、
――空気が風もなく、湿気を帯びたもので、水のように密度が濃い状態で、身体に纏わりついたことで、言い知れぬけ重たさと疲れを感じさせるものだ――
と思うようになっていたが、夢との違いは、その時のことを覚えているか覚えていないかの違いのように思えてならなかった。鬱状態の時は、忘れることはなかった。
年齢を重ねることに、忘れることが極端に多くなり、そのおかげなのか、躁鬱状態にはなかなか入ることがなくなっていた。
――躁鬱状態を感じなくなって、どれくらいが経ったのだろう?
若い頃に躁鬱状態を続けていた時、
――躁鬱状態から抜けることは一生ないかも知れないな――
と、「知れない」という但し書きを付けた上で感じていたが、本当は、
――躁鬱状態から抜けることはないだろう――
という思いが大半を占めていた。それだけ躁鬱状態に一度入り込んでしまうと、抜けることはないと感じてしまうのだった。
その理由としては、鬱状態と躁状態を繰り返ようになると、躁状態の後には鬱状態、そして鬱状態の後には躁状態という流れしか、考えられなくなるからだった。
それは、まるで一度入り込んでしまった森からは、絶対に抜けることのできないという樹海のようなイメージを感じていたからだった。
この感覚は、同じことを繰り返している「リピート」にも通じるものがある。藤崎が、「永遠の命を繋いでいる」
として感じている「リピート」は、彼の元々あった躁鬱症の発想からも想像することができる。
藤崎の感じている「永遠の命」は、若い頃から繋がっている躁鬱症に端を発
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