始まりの終わり
森本 晃次
第1話 出会いのカフェ
桜井洋一は、仕事が休みの時、一人でゆっくりするための場所を探していた。本当は昭和の香りを残すような昔ながらの喫茶店を探していたのだが、なかなか見つけることはできなかった。別に毎日にあくせくしているわけではないが、休みの日に暇を持て余していることに少し疑問を感じてきた。もちろん、いまさらなのだが、暇な毎日がマンネリ化してくると、何も感じなくなってくることの寂しさに、急に気づいてみたりする。
今年、五十歳になる洋一は、結婚経験もなく、気が付けば五十歳を迎えていた。二十代、三十代は、仕事が忙しかった時期もあったが、それ以外は、仕事が忙しいということもなかった。責任を負わされる仕事をしてきたわけでもないのに、仕事を辞めることもなくここまで来たのは、ただ運がよかっただけなのだろうか? そんなことも考えようとしなくなった自分が、それを年齢のせいにしていた時期があったことに寂しさを感じていたのだが、それが寂しさではなく、言い訳だったことを感じた時期は確かに存在していた。
――自分はいつまでも若いんだ――
という思い込みが、洋一の根底にはあった。
いや、今でも存在していると言ってもいい。自分が若いと思っている間は、いい意味でも悪い意味でも年を取らない。気が付けば、身体だけがついてこなくなっていた。
だが、年齢も四十歳を超えたあたりから、自分が年を取っていないという錯覚に陥っていた。毎日、同じ時間を過ごしているのに、どれが昨日のことで、どれが今日のことなのかすら、意識できなくなっている。
――俺は、まだまだ若いんだ――
この感覚を無意識に抱いているため、同じ時間を毎日無意識に通り過ぎていくのが当たり前になっていた。本当に若い時期なら、若さを自分の武器にしようなどと考えるのだろうが、若さを自分に対しての言い訳のためだけに使っているのだということを普段から認識していれば、もっと自分のまわりにいる若い連中を意識していたに違いない。
――話しかければ、相手も自分を同年代のように扱ってくれるはずだ――
と思い込み、自分が輪の中心にだってなれるというくらいの思いを抱いていた。
「若さというのは、本当の年齢ではなく、考え方ひとつで変わるんだ」
と、飲み会で若い連中が話をしていたが、今でもその言葉が頭にあって、自分の発想の基礎にしていた。
その話を聞いたのは、三十代の前半、まだまだ若い連中と一線を画すものではなかったはずだ。
だが、若い連中からすれば、三十歳という年齢が一つの結界になっていた。三十歳を少しでも超えていると、まったく別世界の人間であるかのように見ている。自分も二十代の頃は同じ気持ちだったはずなのに、二十代の自分を遠くに見てしまったせいで、自分から、自分の若い頃を否定してしまうようになってしまっていた。
四十歳を超えると、精神的には別に変っていくことはない。しかし、肉体的には、明らかに衰えを感じさせるようになり、自分が先の見えた人間に感じさせるのだった。
――社会的には、そろそろ不要になってくる年齢だ――
と、勝手に思い込んでいる。
もちろん、同じ年齢くらいの人でも頑張って生きている人はたくさんいるのだから、その人たちに失礼だとは思うが。
――一体、俺はこの年齢になるまでに、何を残してきたというのだろう?
と考えるようになった。
そう考えるようになったのも、年を取った証拠であり、そろそろまわりのことよりも、自分のことだけを考えてもいい年齢になったきたのではないかと思うようになった。
しかし、別に家庭を持っているわけではない洋一は、最初から自分のためだけに生きてきたはずだった。だが、ふと今までの自分を思い起こすと、家族のために何かをしたわけではないのももちろん、自分のためにも何かをしたという意識はない。だからこそ、四十を過ぎると、毎日をただ無為に過ごしてきたのだということを感じるのだと、いまさらながらに分かってきた。
二十代の頃までは、
「まだまだこれから、むしろ年齢を重ねてからの方がモテるし、脂がのって、いい恋愛ができるに違いない」
と思っていた。
三十歳代の前半も同じことを思っていたが、後半に差し掛かってきた頃から、自分の考えていることに虚しさを感じるようになってきた。
その時が、自分への言い訳を感じ始めた最初だった。
「今の方が、年齢を余計に感じるようになった」
という話を同年代の人がしているのを聞いていると、
「ウソばっかり」
と言いたくなってしまう。
若い頃の方が年齢を意識していなければウソだと思うのは、若い頃の方が時間に対して焦っていたと思うからだ。
焦っていたというよりも、
「刻む時間を真剣に考えていた」
と言った方がいいかも知れない。
「若い頃は二度と戻ってこない」
というセリフがやけに心に響くのだ。
ある程度の年齢を通り越すと、今度は諦めの境地が芽生えてくるからなのかも知れない。それでも、年齢を気にしないようにするか、年を取ったというよりも、年を重ねたと言って、自分をごまかすかのどちらかになるだろう。
それでも年齢がどうしても気になる人は、何とか年齢を意識しないようにしようと思う。そのために、
――年を忘れよう――
と思うのだろうが、そのために、年齢以外のことまで忘れてしまうという弊害に、気づいていない。年を取るごとに健忘症になっていくのは、一つは、年齢を意識しないようにしようとする意識が働いてしまっているからなのかも知れない。
会社では、別に何をしていない。目立つこともなく、自分から何かをしようとも思わない。そんな無気力な人間が働ける企業があるというのも珍しいのかも知れないが、そんな洋一でも、二十代までは、
「会社の仕事が、三度の飯よりも好きだ」
と嘯いていた時期があった。
だが、いくら吠えてみても、それは自己満足でしかない。
確かに仕事の成果はそれなりにあり、上司からの信任も厚かった。同僚からも慕われていたが、それは体よく、
「仕事を押し付けられた」
と言ってもいいだろう。
しかし、それでも、仕事が三度の飯よりも好きなのだから、押し付けられても却って嬉しいくらいだった。ウソでも感謝され、自分も自己満足に浸れるのだ。
元々洋一は、人からおだてられるのが好きなタイプだった。
その傾向はすでに小学生の頃からあり、先生からは、
「洋一君は、人の嫌がることを進んで行うところが長所です」
と評されて、それを聞いた母親からは、
「あなたは、そんなところがお父さんに似ていて、素晴らしいところなのよ」
と言われ、洋一は苦笑いを浮かべながら、否定することができなくなってしまった。
それから、おだて以外でも、母親から褒められると、ついついその気になってしまい、否定など絶対にできないようになってしまった。
大人から見れば、
「いい子」
なのかも知れない。
しかし、同年代の子供から見ればどうだろう? 大人に媚びを売っているように見えないだろうか。その頃の洋一はそんな意識はなかった。それなのに、中学生になってから、クラスの女の子に先生に明らかに媚びを売っている女の子がいるのに気が付くと、闘争反応を示すようになっていた。
彼女の方から見れば、
「何よ。あなたには関係ないじゃない」
と言いたいだろう。
その証拠に、他の友達は何も言わない。
もちろん、分かっていないわけはないだろう。あからさまな時もあり、皆の顔を見れば、苦虫を噛み潰したような何とも言えない表情をしているように見える。それでも、なぜ誰も何も言わないのか、不思議だった。
そういう自分も何も言わないのだから、人のことを言える筋合いではないのだが、洋一には、
――彼女の気持ちは、僕が一番よく分かる。だから、余計にイライラするし、本当は言いたいことが山ほどあるんだ――
と思っていた。
人の心がよく分かると思うようになったのは、その頃だった。
本当は自分と似た気持ちの人のことしか分からないのに、他の人の気持ちまで分かるような気がしてきたのは、傲慢だったからなのだろうか?
いや、傲慢というよりも、
「人のことを少しでも分かってあげよう」
という気持ちの裏返しだったのかも知れない。
だが、人の気持ちを分かってあげようと思った時、自分のことが傲慢だと感じたのだ。その思いを簡単に打ち消すことはできない。いい方に考えればよかったのだろうが、中学のその頃というと、どうしても悪い方にばかり考えてしまう時代だった。自分の中では、
――余計なことは覚えないようにしよう――
と思っていた時代だったと解釈している。
余計なことを覚えてしまうと、必要なことを覚えられない。当たり前のことなのに、その当たり前のことをするのがどれほど難しいことなのか、それが分かったのはずっと後になってから、そう、もう気が付いても遅い時期になってからだった。
「いつも、俺はそうなんだ。気が付いた時には、もう遅いことばかりだ」
誰かに相談したり、助言を受ければよかったのかも知れないが、どうしても、人の意見を取り入れることに戸惑いを感じる。
「自分が人のことを心配するなど、それだけ自分のことを自分の目で見ていない証拠なのかも知れない」
と思うようになった。
自分のことを他人事のように見てしまうから、人のことを心配する自分が他人に思えてくる。
「しょせん、自分だって他人なんだ」
他人のように思わないと、どうしても先に進めないことがあるように思え、一度自分を他人に思ってしまうと、なかなか自分を主観的になど見ることができない。それが洋一にとって、自分の一番悪いところだと思うのだった。
洋一は、三十歳くらいの頃、馴染みの店を持っていた。
会社の近くにあるスナックだったが、しばらくは通っていた。三年くらいは通っただろうか。通い始めて数回で、すでに常連としての指定席もでき、他の常連さんとも話ができるようになると、それまでの自分とは違う自分を発見したような気がしていた。
週に二回くらいは通っていただろう。
結婚しているわけでもない一人暮らしなので、部屋に帰っても、待っている人がいるわけでもなければ、することがあるわけでもない。暗くて冷たい部屋が、いつも変わりなくそこにあるだけだ。
それなら、酔っぱらって気持ちよくなって帰った方がいい。寝るだけの部屋なのだから、たまには着替えをすることもなく、布団の上にぐったりとなってもいいだろう。その頃は布団を畳むこともなく、万年床にしていたものだ。
とはいっても、さすがに前後不覚になるほど酔っぱらうこともない。適当に気持ちよいところで切り上げて、部屋に帰るだけだった。最初はそれでよかったのだ。
スナックに通うようになって、洋一はその店の女の子が気になり始めた。もちろん、口説くなどできるはずもないくせに、彼女と話をしているだけで、
「これからデートしようか?」
と言いたくなる衝動をグッとこらえ、彼女の一挙手一投足を眺めている。
彼女もその視線を分かっているのだろうが、スナックで働く女の子には、それをいなすくらいのことは、さほど難しいことではないのだろう。思わせぶりな態度を取ることもなく、淡々とカウンター作業をこなしている。
店は、それほど流行っているということもなく、何度かに一度は他に客はおらず、貸し切り状態になることもあるが、そんな時の方が少し辛い。何を話していいのか困ってしまうし、何しろ気になっている女の子と面と向かってしまうのだから、始末に悪い。
それでも、ゆったりとした時間が流れていて、緊張していても、心地よいこともあったりする。
会話の内容がなければ、彼女の方から話しかけてくれる。それを待ち望んでいる洋一だったが、話しかけられると、話に乗っかるのは、自分としては苦手だとは思っていないので、結構ありがたい。却って相手がそう思ってくれる方が、こちらとしてもありがたいというものだ。
話しかける方も、会話に乗っかってくれる方がありがたい。何を話していいのか困ってしまっても、相手がちゃんと返してくれる人であれば、少々の的外れでも何とかなるものだ。
ただ、相手は常連さんなので、会話の内容で困ることはあまりなかった。彼女も客の趣味や、会話の反応をいちいち覚えていたりして、何を話していいのか、少し時間があれば、結構思いついたりするものだろう。そんな彼女との会話に洋一は、いつの間にか楽しみになっている自分がいることに気が付いた。
そんな彼女が店を辞めてから、洋一はその店に行かなくなった。
行っても話をする相手もいないし、最初は一人でもよかったはずなのに、話をする人ができてしまうと、その人がいなくなったことで、行きにくくなってしまう。
そんな自分を想像したことなどそれまではなかった。やっと話ができるまでになったのに、相手がいなくなると、それまでの自分が何だったのか、我に返ってしまう。
しかし、それは彼女と話ができるようになったのが無駄だったという考えではない。むしろ、自分にとって大切な時間であり、貴重でもあった。それだけに、彼女のいない店に行くことは自分を否定するような気分になってきた。
決して自分を否定するようなことはないはずであり、そんなに思い詰める必要もない。それでも、一度行かなくなると、自分の気持ちはすでにそこにはない気がして、一人になりたいと思うのだった。
一人になりたいという思いは、一人でいる自分を正当化したいからだった。
そんなことは分かっているつもりだったので、その時一番感じてはいけないという思いは、
「寂しい」
という思いであった。
寂しいと思ってしまうと、心のどこかで寂しさを埋めようという思いがどこかに生まれてくるはずだ。それを洋一は怖がったのである。
「寂しいという思いを埋めようとするくらいなら、自分を否定してしまった方が気が楽だ」
と感じるようになっていたのだ。
そんなことを考えていると、今度は、
「自分が女々しい男」
に思えて仕方がなくなっていた。
ネガティブに感じているということを知りながら、それはあくまでも自分の中にある男としての意地だと思うことに徹したいと感じていた。そのためには決して、
――女々しい――
などという感情を抱いてはいけないはずだったにも関わらず、その思いを一度でも感じてしまうと、
「今までにも同じ感覚を味わったことがあったような気がする」
と、昔のことを思い出そうとしてしまうのだった。
昔のことを思い浮かべていると、今まで自分が成長してきたことを再認識し、ホッとした気分になれる。
自分を否定したいと思っているくせに、昔の自分を思い返している時はそんなことは考えないのだ。
なぜなら、今の自分が昔の自分の目になって、先を見ているつもりでいることで満足できるからである。本当は、先を見ていたのかどうか覚えていない。しかし、今の自分は過去の自分からすれば、間違いなく、
「先の自分」
であることに間違いはないのだ。
その時の感情次第というよりも、立場を変えてみることで、どれほど自分を慰めることができるか、それが年を取ることで感じた思いだった。
それは角度によって、光が見える時もあれば、見たくないものを見ないで済む場所も分かってくる。そして、昔の自分が今の自分を想像していたかのように思うことで、今後ろを見ている自分がそのまま前を向き直ると、見えていなかったものが見えるような気がしてくるのだ。
ただ、寂しいという感情は若い頃のように簡単に隠すことはできない。年齢を重ねてくると、寂しさという感情は、リアルさを増してくるのだった。
そんな時、洋一はどうしても一人になってしまう。肝心な時に一人になってしまうことが多かったからなのか、結婚もできずに、年齢だけが重なって行った。
「結婚なんて、いつでもできる」
などという感情を抱いたわけではないが、結婚できないことに対しての焦りはなかった。むしろ、一人でいることの方がいいと思っていたくらいだ。洋一は一人でいる時、一人の世界に入り込むことが多い。そのため、結婚しなくても、結婚している妄想を抱くことで、一人でいても焦りなどを感じる必要もなかったのだ。
他の人にそんな話をすると、
「一人でいるから、そんな妄想するんだ」
と言われるだろう。
もし、洋一のまわりに人がいて、妄想している人を見ると、まるで汚いものでも見るような、思わず目を逸らしたくなる気持ちになるのではないかと思えた。
一人でいることが多くなると、時間が経つのが早くなった。
十代の頃は、一日一日があっという間だったのに、長い期間を考えてみると、結構時間が掛かったような気がしている。
二十代になると、今度は一日一日がいろいろあっても、長い期間では、あっという間だったように思う。
十代の頃の意識は忘れてしまっていたが、二十代の頃は、毎日が充実していたことで、そんな感覚になったのだろうと思う。しかし、三十歳を超えてからというもの、毎日があっという間で、しかも、長い期間で区切ってみても、あっという間に過ぎていった。
それなりに何かあったはずなのに、それすら記憶にない。
「一人でいたい」
という気持ちはあったが、それ以外に何を考えていたのか、思い出せないのだ。二十代の頃のことは結構思い出せるのに、最近のことは、直近のことですら思い出すことはできない。きっと、妄想の中の時間だけが過ぎていて、現実世界での自分は、どこかの瞬間から、取り残されてしまったのかも知れない。
妄想というのは、大人になってからというよりも、子供の頃の方がたくさん抱いていたような気がする。実際にまだまだこれからと思っている子供時代の方が、いろいろな発想を抱くことができる。テレビのアニメやゲームなどを見て、勝手な妄想を抱いてみたりしたが、
「子供だから許される」
という思いと、
「大人になったら、きっと妄想なんて抱かないんだろうな」
という思いとで、子供の頃の妄想は、まるで大人が仕事をするようなものだと思っていた。妄想することが、成長に繋がると思っていたのだ。
確かにそうに違いない。
妄想もできない子供は大人になっても、夢や希望など抱くことはできず、目標のない人生を歩むことになるということは、子供心に感覚的に分かっていたような気がする。だが、大人になってから抱く妄想はもっとリアルだ。だが、大人になって妄想を抱くことができるのは、一人でいる自分の特権だとまで思うようになったのは、いかがなものか。
だが、現実に雁字搦めに縛られて、
「それこそが大人の世界」
だとして、大人の妄想を否定しようとするくらいなら、一人で妄想していたいと思う。それをわがままだというのなら、洋一は頭の中で堂々巡りを繰り返し、出口のない頭の中でもがき続けるに違いない。それこそが、
「妄想のアリ地獄」
だと言えるのではないだろうか。
そんなアリ地獄になど落ちたくはない。出口がないのなら、出口を作っておいてから、妄想の世界に入り込む。それは逃げ道を作っておくのではなく、気持ちに余裕を持つためだ。もし、それを逃げ道だと考えるのであれば、大人になってからの妄想は、どんなに小さくても、魔が差したというほど些細なものであっても、一度入り込んでしまうと、出口を見つけることはできないのではないだろうか。
――一人でいることの意義は、妄想の中から見つかるものだ――
と、洋一は思っているのだ。
洋一は、三十代までは、そこそこ結婚の夢や妄想を抱いたりしていたが、さすがに四十歳を超えると、結婚の妄想も抱かなくなった。
洋一が抱いていた妄想というのは、自分が結婚してから子供が生まれ、マイホームを持つという、テレビドラマなどにありがちなイメージである。
もちろん、結婚したことはないので、抱くイメージはいい方にしか抱かない。ドラマでは、家庭の波乱万丈を描いているが、それも、
「いろいろなことがなければドラマにならないからな」
と、あくまでもドラマ作成のための、
――フィクション――
だというイメージを持っていた。
もちろん、いくら結婚したことがないからと言って、すべてが順風満帆に行くはずはないと思うのだが、どうしてもいい方にしか頭が向かないのは、抱いているのが、
――妄想――
だからである。
リアルで生々しいものが妄想であるはずもない。なるべく抱いた理想を壊すことなく、頭に描きだしたものである。それが、人間の心理であり、願望でもあった。
「妄想は、願望を形にして、ドラマ仕立てで頭に描いたものだ」
というのが、洋一の考えだった。
テレビドラマを見ていると、どうしても自分と同じ年齢の男性に目が向いてしまう。
四十代にもなると、子供たちは中学生、高校生になっていて、思春期の難しい年頃になっている。しかも、自分は会社では中間管理職。上からは押さえつけられ、下からは突き上げられる。板挟みになってしまっている状態からは、悲哀しか見えてこない。
そんな男性が主人公だとしても、それは悲哀から、脱却するための物語から始まる。つまりは、
「まずは、自分の惨めな立場を見つめることから始まる」
ということだった。
自分の立場を認めないと、物語は始まらない。テレビドラマでは最終的には脱却できるのだから、見ていてその過程を楽しめばいいだけだが、現実ではそうも行かない。いくら一人で家族を持っていないとはいえ、家族を持たない自分の立場を洋一自身で認めるということは、そうたやすいことではない。それができるくらいなら、以前から、もう少し自分の人生をあがいてみようと少しでも思っていたことだろう。
「気が付けば、こんな年になっていたんだ」
何度、そんなことを感じたことだろう。
前に感じたのがいつだったのか、正直覚えていない。
昨日だったのか、おとといだったのか、それとも一年前だったのか。それだけ、その間に何か他のことを考えていたという意識がない。考えていたのかも知れないが、違うことを考えると、それ以前に考えていたことを忘れてしまう。そんな毎日が、自分にとっての四十代だったのだろう。
同じ四十代でも、子供が思春期の難しい時期であり、自分自身が中間管理職という板挟みの時代を生きている人たち、どちらがいいとはいいがたいが、お互いに相手を見ると、羨ましく感じるに違いない。
「隣のバラは赤い」
まさにその言葉通りではないだろうか。
四十歳を過ぎると、同じ妄想でも、内容が変わってきていた。しかし、本人はそのことに気づかない。相変わらず、同じような妄想を繰り返していると思っていた。
では、誰がその妄想の違いに気づくというのだろうか?
気づく人はいないのかも知れない。気づくとすれば、本人以外ではありえない。とするならば、本人が気づかない限り、同じ妄想を果てしなく繰り返すことになる。
もし、本人が気づかない場合はどうなるか?
本人が無意識の中で年を取っていないことになる。ただ、本人は意識の中では、
「年を重ねている」
と思っている。
それは肉体の衰えが、身体の中に信号を送り、年を取っていることを教えているからに違いない。
ただ、それは意識してのことではない。
「本能が教えていることだ」
と言ってもいいだろう。
「あれだけ、十代、二十代の頃は鏡を見ていたのに」
と、四十代になると、急に鏡を見なくなったことを、しばらくしてから気がついた。いくら妄想だとはいえ、女性にモテたいという思いから、無意識に鏡を見ていたのだろう。それでも、四十代になると、自分の老けていく姿が目の当たりになり、嫌でも妄想から現実に引き戻されることに違和感があるのだ。
だからといって、鏡を見なくなったのはどれだけが原因ではない。
――自分の顔を見たくない。目の前にいる自分が本当の自分だというのを認めたくない――
という思いが強いからに違いない。
鏡というのは、左右対称である。
「自分が見ているのとは反対の顔をしているのではないか?」
そんなことを考えていたのが、二十歳過ぎの頃だった。
「順風満帆のように見えても、必ずどこかに歪が存在する。歪が存在するのであれば、順風満帆になど見えない方がいい」
と思っていた。
四十代になると、そんな感覚も失せていた。毎日が同じように始まり、同じように過ぎていく。
「同じ日を繰り返しているのではないか?」
などと、何度考えたことだろう。
そんなことあるはずないのに、勝手に頭に浮かんでくる。これは、
――いつも抱いている妄想の副作用のようなものなのだろうか?
などと、考えたりしていた。
以前通っていたスナックにいた女の子の面影は、ずっと思い出せないでいた。だが、彼女の存在を忘れたことはなかった。
――忘れたことはなかったのに、その面影を思い出せないというのは実にもどかしいものだ――
そんなことを感じているから、年を取っていくうちに、毎日への意識がマンネリ化して行ったのかも知れない。
五十歳を超えた今になり、また新しい店を馴染みにしようと思うようになった。それまでにも何度かスナックやバーに立ち寄ってみたが、どこも馴染みになれる木がしなかった。やはり、最初に気になる女の子がいた店のイメージが頭から離れなかったからかも知れない。
今では、スナックやバーに自分から訪れようという気持ちにもならず、喫茶店に立ち寄る程度が精いっぱいだった。
しかも、最初に常連になった店で強いイメージを抱いてしまうと、それ以上はおろか、足元にでも及びそうなことというのは、なかなかありえないと思ってしまうのだ。
――どこかが違う――
と、一瞬でも感じてしまうと、その店には二度と足を運ぶ気にはなれなくなってしまっていた。
そんなことが何度か続くと、
「もう、常連になれるような店を探さなくてもいい」
と思うようになった。咽喉が乾いたり、お腹が減ったりすれば、適当に目についたお店に入ればいいだけだ。そこが、別に想像していたほどおいしいものを出してくれない店であったとしても、
「目の前にあった店に入っただけだ」
と思うことで、損をしたような気にもならない。その店には二度と行かなければいいだけのことだからだ。
だが、目の前にある店に入っただけだと感じる店に限って、結構味がよかったり、雰囲気は悪くなかったりした。
「また、行ってみてもいいな」
とは思ったが、どうにも常連になろうという気はしてこなかった。店の雰囲気が常連が生まれる雰囲気ではなく、客の回転で営まれているようなお店で、利用価値としては、待ち合わせに利用できるかも知れないと思う程度だった。
実際に、最近では、昔あったような「純喫茶」を見つけることは難しい。昭和の頃であれば、商店街の外れだったり、駅前や、さらには住宅街から少し入ったあたりに喫茶店を見ることができた。洋一の印象深かった店は、住宅街から表通りに出たところにあったログハウスのような店だった。駐車場には十台分くらいの車を止めれるスペースがあり、当時であれば、いつも五,六台はいつも止まっていて、近づいただけで、コーヒーの香ばしさを感じることができるほどだった。昭和も終わりかけの大学時代。喫茶店最盛期から比べれば、ロウソクの炎が消える前だったのかも知れない。
今でも、もしそんな喫茶店が残っていれば、化石のような存在ではないだろうか。洋一は五十二歳の誕生日になったその日、懐かしくなってその喫茶店のあったあたりに赴いてみた。
ちょうど土曜日で休みだったというだけのことで、誕生日だったということには、後になって気が付いたのだが、その日は朝から何となくソワソワしたものがあった。そんな気分は、五十代になってからはおろか、ここ十年近くも感じたことのなかったことだったように思う。
予感めいたものがあったのだとすれば、何でもかんでもが面倒臭いと思うようになったのはいつ頃からだったのだろうか?
朝起きて、顔を洗ってから、横になりながら、ボーっとテレビを見る。
顔を洗うまでは今までの習慣なので、違和感はない。横になってテレビを見るのは、いつものことであり、
――気が付けば、テレビを見ている――
ということだ。
しかし、そんなことを感じることもないほど、まったく無意識の行動だ。
「今日は休みなので、何をしようかな?」
などという感覚はない。そんなことは十年以上も前から考えなくなった。十年前までは毎回同じように目を覚まして顔を洗ってから、考えようとする。しかし、考えても何かが出てくるわけではない。そのうちに考えるのが億劫になってくる。
――いつから考えなくなったのだろう?
それすら分からない。別に考えるのをやめようなどと思ったこともない。
一言でいえば、「ものぐさ」という言葉になるのだろうが、考えるということが億劫だという思いもなく、何も考えなくなったのは、「ものぐさ」という感覚とは、また違っているのかも知れない。
「横になっていて、起き上がるのが億劫なので、朝食を抜こう」
と考えたのだろう。朝ごはんを食べなくてもお腹が空くわけでもなく、朝食を抜こうということを考えたという意識すらなかった。
そのうち、
「今、何かを考えていたような気がしたんだが、思い出せない」
と思うようになった。
急に我に返ったからそう感じたのだろうが、本当に何かを考えていた自分が信じられないことの方が、思い出せないということよりも不思議に思えた。それでも、思い出せないという感情を抱いたのは、頭の中に何かがあったということを自分に言い聞かせるためのものではないだろうか。
こんな毎日を過ごしていると、部屋の中では自分が生きてるのか死んでいるのかすら分からない気分になってくる。いつも肘を枕にしてテレビを見ているのがこの部屋の自分の姿であり、それ以外は自分ではない。自分に乗り移るための分身にすぎないのだった。
それでも、三十代までは、部屋にじっとしているのが嫌で、表に出かけたりしていた。用もないのに電車に乗って街に出て、商店街をぶらぶらしてみたり、何かが見つかるとでも思っていたのだろうか?
そのことも十年くらい前までなら分かっていたはずなのだが、それ以降は、分からなくなった。完全に違う人間になってしまったようだ。
いや、違う人間というよりも、
「人間というもの、腑抜けになってしまうと、誰もがこんな感じなのかも知れない」
と思うようになった。
部屋にいて何もしていないのであれば、何かを考えていても不思議はないのに、考えているという意識がない。しかし、たまに気が付けば、何か考えていたという気配を感じる。そんな時、
「何か結論めいたものを見つけたのかも知れないな」
と思った。
それはまるで他人事のようで、そのことを感じると我に返ってしまい、
「今までの人生すべてが、他人事だったんだ」
と、勝手な結論を導いてしまうのだった。
テレビを見ていると、それなりにおかしなものに興味を持つ。それが他人事のように思える一つの要因に思えてきた。
それは若い頃に、同級生などを見て、
――情けない――
と思ったりしたことであった。
例えば、アイドルに憧れてみたり、ゲームに興味を持ってみたり、若い頃であれば、
「何がそんなに楽しいんだ?」
と、まるで汚いものを見るかのようにヲタクを見ていた自分を棚に上げ、ネットで検索し、それで得た情報を誰かに喋りたいという衝動に駆られたりした。
しかし、さすがに誰かに喋ることはない。幸いにも喋る相手がいないのだ。もし、友達がいれば、まるで勝ち誇ったかのように話題にするかも知れない。そんな状況を若い頃の自分が知っていたら、どう思うだろう?
――そういえば、若い頃に、やたらと年を取りたくないと思ったことがあったな――
理由は覚えていないが、年を取ることでモテなくなったり、孤独になったり、まわりの冷たい目に晒される自分を想像することで年は取りたくないと思ったことはあったが、この時は、その中のどの理由でもなかった。
若い頃と今とでは、どこがどのように変わったのかと言われると、正直何とも言えない。変わったところはたくさんあるのだろうが、それを一つ一つ確認していると、変わっていないところまで変わってしまったかのように思えてくるのが嫌だったのだ。
逆に、
「どこが分かっていないのか?」
と聞いてくれた方が答えやすいかも知れない。
ただし、その答えを導き出すには、かなり時間が掛かりそうだ。あまりにも変わったところが多すぎて、気が付けば消去法を変わっていないところを探している。
「これでは、変わったところを探しているのと同じではないか?」
と言われるのだろうが、あからさまに変わったところという意識で探すのと、変わっていないところを探しているつもりで探っているのとでは、同じ意識を持つうえで、重みが違ってくる。
どちらの重みが違うのかというと、
「変わっていない方の重みの方が、数段重たい」
と言えるのではないだろうか。それだけ貴重な部分であり、変わった部分から掘り出してみなければ、掘り起こすことのできないものであり、だからこそ、時間が掛かると言えるのではないだろうか。
ただ、時間が掛かると言っても、定期的に刻んでいる普段感じている時間ではなく、
「点から点に飛び越える時間という軸」
であり、肝心な部分を把握していなければ、すべてを見失ってしまうという危険と裏腹なものではないだろうか。
若い頃のことを思い出す時、急に怖くなることがあるのは、その意識が無意識に頭の中にある時だ。そういう意味では、若い頃と変わっていないところを探すというのは、自分にとっての諸刃の剣になるものなのだろう。
年を取ってから、やけに自分のことを他人事のように感じるようになり、あまり余計なことを考えないようにしている。毎日がマンネリ化しているのだが、それも仕方のないこと。若い頃にバカにしていたことを今さら興味を持ったというのは、自分を他人事のように考えられるようになったからなのかも知れない。
テレビを見ていてアイドルが出てくると、
「昭和の頃のアイドルとは、かなり違っているよな」
と思えてきた。
もし、自分が今学生だったら、アイドルを追いかけていたりしていただろうか?
いや、それはないだろう。アイドルを追いかけることが自分の本意ではないことに間違いはない。だが、自分が学生時代、アイドルに興味がなかったのは、自分に何か一生懸命になれるものがなかったことの裏返しのように思えてきた。何か一生懸命になれるものがあれば、自分のまわりのものにも目を向けるだけの気持ちもあったはずだ。それが気持ちの余裕というものではないだろうか。
アイドルをテレビで見るようになってから、それまで家に籠りっぱなしだった気持ちが、少し表に向いてきたような気がしてきた。季節はまだ冬真っ盛りで、本当であれば部屋から出たくないと思うはずなのに、表に向いたというのは、どういう風の吹き回しなのだろう。
その時に、以前何度か立ち寄ったことのある住宅街の近くの喫茶店を探してみようと思ったのだ。
まさか、今も残っているとは思えなかったが、とりあえず来てみようと思ったのは、何か予感めいたものがあったからだろうか。
探している喫茶店はすでになく、その場所は有料駐車場として活用されていた。少しがっかりはしたが、
「せっかく来たのだから、少し散策してみよう」
と思ったのだ。
大通りを少し入ったところに、白壁が見えた。
――あれは喫茶店では?
どうしてすぐに喫茶店だと思ったのか分からないが、デジャブを感じたかのようだった。
「前にも似たような喫茶店を見たことがあった」
というのがデジャブの正体だが、思い出してみると、大通りに面したログハウスの喫茶店のイメージが曲がって記憶されていたことで、まったく違った佇まいであるはずの白壁を、
「あれは喫茶店」
だという風に感じたのであろう。
イメージを曲げて記憶していたということに、何かの理由があるのだろうか?
馴染みの店を持てば、毎日のように通ってくるくらいだった洋一なのに、すぐに馴染みではなくなり、どうしてその店に行かなくなったのかということを覚えていない時点で、事実も意識も曲がって記憶されたと考えても仕方のないことではないだろうか。
洋一は、若い頃、馴染みの喫茶店を持ちたくて、たくさんの喫茶店に通ったものだった。しかし、なかなか馴染みになれないのは、他の常連の人たちと馴染めなかったり、馴染もうという思いが強すぎて、まわりの視線を意識しすぎて、自分の殻に閉じこもってしまったりしたのが原因だったということは分かっている。
だが、他にもあったような気がするのだ。
そのことを意識がしているが、自分でどうしてなのか、理解できていない。都合が悪いから忘れてしまったわけではなく、自分の中で理解できていないからだった。
「他の人なら、簡単に理解できたんだろうな」
この思いは結構強く持っている。自分をあまり他の人と比較することは年とともになくなってきたが、学生時代までは、結構他人と比較してみていた。
本当は人と比較することなど好きではないくせに、どうしてそんな気分になったのか、今でも不思議に思っていた。
白壁の喫茶店の扉を開いて中に入ってみると、想像していた光景とは違い、かなり質素な造りになっていた。白壁が太陽の光を反射させる効果があることで、目が白い色に慣れてしまっていて、明るさに感覚がマヒしているようだった。店の中に入ると、暗闇に迷い込んでしまったかのようで、一瞬不安に感じたが、慣れてくると、却って質素な雰囲気に安心感を覚えている自分がいた。
店に入った瞬間、暗闇に支配された空間は、すべてを飲み込んでしまっているようで、音も耳に入ってこなかったような気がしたが、目が慣れてくると、BGMにクラシックが流れているのに気が付いた。
質素な雰囲気は、耳に入ってくるクラシックのメロディのおかげで、最初に感じた明るさとのギャップを感じさせないものになっていた。
それでも、店の中の全貌が分かってくるようになるまでに少し時間が掛かった。その間に、洋一はいろいろ考えていた。いくら質素だからといって、それだけで安心感を与えられるわけもなく、
――やはり、どこかで見たことのあるような光景なんだろうか?
と感じていた。
確かに、この雰囲気は以前にも感じたことがあるような気がしていたが、どこか違和感があった。違和感の正体を感じるまでに、さらに少し時間が掛かったが、それは自分が必要以上に汗を掻いていることに気づいたからだ。
感じている汗は、冷や汗のようなものではなく、気持ち悪いものでもない。子供の頃にはよく感じたことのある汗だったが、
――汗を掻いていることに気づいたからこそ、この質素な光景を見て、安心感を与えられるんだ――
と、感じた。
汗を掻いているということは、夏の暑さに汗を掻いていると思うのが一番自然だった。夏に掻く汗は、気持ち悪くないと言えばウソになるが、暑さを紛らわせるために汗を掻かなければ、さらに気持ち悪くなるのを分かっていた。
汗が身体に絡みついていることで、一度耐えた暑さを、汗が今度は緩和してくれる。汗が乾いていくにしたがって、風が心地よく感じられるようになり、汗を掻くということが大切であるということを、身を持って感じさせられた子供の頃だった。
クラシックというのも、部屋の雰囲気にマッチしていた。
目が慣れてきて見えてきた店内は、表の白壁からは思ってもいなかった木目調の壁でできた風景が広がっていた。レトロな雰囲気にクラシックは実によく合う。学生時代に大学の近くに乱立していた喫茶店の中にはレトロな雰囲気を醸し出している店も少なくはなく、クラシックが奏でられている雰囲気も似合っていた。
そんな中でこの店のような木目調のログハウスのような雰囲気の店もあった。以前馴染みにしていたと思っていた店もログハウスのような店内だった。そういう意味では、洋一とログハウスのような造りは、引き合うものがあるのかも知れない。
だが、洋一が学生時代に一番気に入っていた喫茶店は、赤れんがで造られた店だった。店内にはクラシックが流れていたのは同じだが、明らかにログハウスの雰囲気とは違っている。
ログハウスが落ち着きを感じさせるものであるなら、赤れんがは、西洋における中世を思い起こさせる雰囲気があった。学生時代に通っていたその店の奥には、今では見ることのできないマントルピースがあったことだった。
暖炉装飾と言えばいいのか、赤レンガ造りに綺麗にマッチしていた。一番最初に見て感じたのは、
――サンタクロースがやってくる時の煙突――
のイメージだった。
ということは、赤れんがのイメージは自然と季節は冬になる。連想されるものはマントルピースになり、その横に赤い衣装のサンタクロースが立っていれば、完璧な赤れんがへの想像だった。
それとは逆にログハウスの雰囲気は、暑さの中の避暑的なイメージだった。
身体に纏わりついた汗に、流れていく風が当たると、心地よさを感じさせる。そんな雰囲気がログハウスにはあり、表の光景も目に浮かんでくるような気持ちだった。
赤れんがであれば、雪景色を想像してしまうが、ログハウスであれば、まわりは緑一色の高原が目に浮かんでくる。表に出ると、どちらが明るいかということは明らかで、真っ白い雪の反射は、目の錯覚を誘うほどに違いない。
白壁の外装に、内部がログハウスという一見、アンバランスな雰囲気に見えるが、洋一の頭の中で一つに組み立てられるような佇まいに洋一は、
――他人事のように思えない――
という思いを抱かせるに至ったのだ。
今までの人生の半分は、他人事だと思うことで形づけられていたような思いがある中で、目の当たりにしている光景から、他人事だと思えないものを感じることができたのは、
――今、自分が何かの転換点に来ているのかも知れない――
と感じさせた。
しかし、年齢的にはもう五十歳を過ぎている。何かがあるには少し年を取りすぎてはいないか?
もし、人生の中で味わうものが誰にも平等に用意されているのだとすれば、今まで変化を感じることもない人生だった今から考えれば、何かが変わっていくのだと言い聞かせれば説得力はある。
クラシックにも聞き覚えがあった。
――これは、チャイコフスキーだ――
洋一の好きな「くるみ割り人形」だった。
組曲になっていて、それぞれのパートはいろいろなところで掛かっているので、実際に曲を知らない人は、同じ曲だとは思わないだろう。
そんなことを感じながら聞いていると、次の章の曲がすでに思い浮かんでいる自分がおかしな気分になってきた。最近ではまったく聞かなくなったクラシックだが、学生時代の頃はよく聞いていたのだということを、いまさらながらに思い出させてくれた。
店内は思ったよりも広かった。奥まで続くテーブル席、カウンターも十人くらいは吸われるだろう。表から見た白壁の雰囲気からは、こじんまりとした佇まいに見えたのに、中に入ってみればここまで広いとは、ビックリさせられた。
扉から中に入り、入り口付近で、しばらく佇んでいたが、それも目が慣れるまでのことだということで、店の人も分かっているのか、誰も気にしている様子はなかった。
我に返って中に入ってくると、何の迷いもなく、カウンターの一番奥の椅子に腰を掛けた。するとアルバイトなのか、いかにも学生の雰囲気を感じさせる女の子が面前に立ち、メニューをカウンター越しに渡してくれた。メニューはカウンターの上に用意されていたが、わざわざ手に取って渡してくれたのだ。
「ありがとう」
彼女の目を見てお礼を言うと、
「いえ」
と言って、少しはにかんだ雰囲気が印象的だった。
彼女のことを、
「いかにも学生」
と感じたのは、このはにかんだ笑顔を最初から予期していたからだと思えてならなかった。
彼女ははにかんだ表情を浮かべたが、すぐに顔を背けた。
――恥ずかしいのかな?
と思うのは、自分に都合がよすぎるだろう。しかし、明らかにはにかんだ表情は恥じらいを感じさせるものだ。考えてから顔を背けたのであれば、他にも考えようがあるが、反射的と言えるほど瞬時に顔を背けたのだ。そこには他意はなく、やはり恥ずかしいと思っているからだと思うのが自然であろう。
洋一も、そんな彼女に気を遣ってか、なるべく顔を覗き込まないようにしていた。
その時店内は、テーブル席に数組の客はいたが、カウンターには誰もいなかった。その時はまだその店に常連客がいるのかどうか分からなかったが、カウンターに客が他にいなかったことから、
――今のところ、常連は誰もいないようだな――
と感じていた。
常連がいると、きっとからかわれたか、意識しながらも、ニヤニヤして、二人の様子を傍観していたであろう。もし、自分が常連客であれば、初めての客と、ウエイトレスの女の子の恥じらいを感じさせる雰囲気を見ると、イタズラしてみたくなるのも無理のないことだと思えたからだ。
その時間、後から聞いた話では、マスターは出払っていたということだった。アルバイトの彼女に店を任せて、一時間ほど外出していた。今までには、あまりなかったということだが、彼女も入ってきてからそろそろ半年ということもあり、
「だいぶ慣れてきただろうから、少しの時間任せても大丈夫だよね」
と言われて、ちょうど店を任されている時間だったという。
彼女は性格的に、嫌とは言えないところがあり、自信がなくても、それを言えないところがあるので、その思いから、かなり緊張もあったようだ。
カウンターに常連さんの一人でもいれば心強かったのだろうが、それもなかった。
早く常連さんが誰か来てくれることを望むか、店長が帰ってきてくれるのを望むかのどちらかだったようだ。
それでも、心配していたほどのことはなく、時間はいつものように刻んでいく。ただ、胸の鼓動がいつもより早回転なので、それだけ自分の中では時間の進みがいつもよりも遅くなっていることに気が付いていたのだろうか?
そんな中、やってきたのが洋一だった。
店内を見渡してみれば分かるように、その時、単独の客は他にはいなかった。カップルだったり、女の子同士だったりと、必ず誰かパートナーがいた。彼女はそれだけでも、かなり安心していたはずなのに、洋一がやってきた。
一人での来店の最初の客が初めての客だというのは、それまで安心できていた彼女の気持ちを一気に不安に落とし入れた。
――どうしよう――
と思ったに違いない。
しかし、それは洋一も同じこと、女の子が一人でソワソワしているのを感じていると、自分も不安になってきそうな気がしたが、最初にはにかんだ笑顔を見せてくれたことが、洋一にとって、安心できるだけの要素を十分に秘めていた。
彼女の方も、洋一がすぐに意識した視線を送らなかったことはありがたかった。二人のぎこちない時間は五分ほどだっただろうか? どちらの方が長く感じたのかは、それぞれの性格的なものの違いから一概には言えないだろうが、洋一の方だったかも知れない。
何といっても初めての店であったことが一番だが、そんな中でも、
――以前にも来たことがあったような――
という思いを抱かせた一番の原因が彼女にあるということに気が付かなかったことで、考え込んでいる時間が長かったのは、想像以上に、彼女とのぎこちない時間を長く感じさせるものだったに違いない。
奥での仕事よりも、カウンターの裏での仕事の方が多いのは、すでに、ランチの仕込みを終えてから店長が外出しているからだった。
まだモーニングの時間なので、ランチタイムまでには時間がある。彼女の主な仕事としては、洗い物に専念することのようだった。
洋一は、洗い物をしている彼女に興味を持った。
――自分にも奥さんがいれば――
と、いまさらながらにそんな思いを抱かせられたのだが、嫌な気はしなかった。あくまでも実現不可能と思えることなので、勝手な想像は、どんなに膨らませても罪はないと思ったからだ。
奥さんというものに対しての憧れは、若い頃に感じていたのは、自分がリビングに座っていて、キッチンで料理をしている奥さんを、横目に見ることだった。
自分はソファーに座り、テレビを見たり新聞を読んだりしてくつろいでいる時、奥さんはこちらに気づくことなく、一生懸命に家事をしている姿。そこに萌えるのだと思っていた。
実際には、一度だけ若い頃に同棲した女性がいて、彼女の様子を垣間見たことはあったが、いつも彼女から気づかれていた。
「ねえ、どうしたの?」
甘えた声が返ってくる。
それはそれで嬉しいのだが、家庭を想像してのイメージとは程遠いことから、どうも実感が湧かなかった。
しかも、設定は、リビングが分かれている部屋であるにも関わらず、同棲していた部屋は、マンションからは程遠い、コーポにもならないようなアパートだった。想像のシチュエーションが少しでも違うと、まったく違った設定になってしまうことは、妄想にはあることだ。
想像を妄想だと思っていなかったことも、イメージから遠ざけるものになっていたようで、同棲していた時期も数か月という短いものだったこともあり、数十年も経った今では、同棲していた時期があったということすら、記憶から消えかけていることを感じていた。
――いまさら、思い出すこと自体、おかしなことなんだ――
と、本当なら、もっと早くに忘れ去ってしまうものだったということを、感じるようになっていた。
喫茶店でカウンター越しに忙しく仕事をしている彼女は、当時の同棲していた女の子を彷彿させるものがあった。
さすがに数十年も経っているので、どんな顔をしていたのかなど、まったく覚えていない。かすかに、のっぺらぼうに影が差したような彼女を想像することはできるが、なぜか不気味には感じない。顔は見えないまでも、表情を想像することはできるような気がしているからだった。
顔を覚えていないことが、却って同棲していた女性を彷彿させたのかも知れない。なまじ記憶があると、少し似ていた程度では、彷彿させるまでの感情には至らなかったに違いない。洋一にとってかつて付き合っていた女性を思い出すということは、少なくともその時、誰か女性を好きになりかかっているという証拠であった。
その時に相手がいなくてもよかった。出会いを感じさせる予感があるだけでもいいのである。そう思うことでそれまでの自分と違った明るい妄想を抱くことができるのだし、本当の出会いが待っているのかも知れない。
若い頃であれば、過度な妄想は禁物だと思っていたが、五十歳を過ぎての妄想は、それが叶えられるかどうかは別にして、妄想を抱くことで気分的にポジティブになれるかどうかが一番の問題なのだ。
若い頃というのは、猪突猛進だと言われるが、洋一の若い頃もそうだった。だが、それも妄想が伴って、初めて猪突猛進になれるのであって、あの頃は、
「妄想を現実にすること」
それが、一番ポジティブな考えだと思っていたのだ。
三十代も後半を過ぎてからの洋一は、
――毎日が同じことの繰り返しだ――
としか思えなくなっていた。
それでも、四十代前半くらいまでは、毎朝起きると、その日に何かハプニングのようなことが起きてくれないかと思ってワクワクしたこともあったが、さすがにそれもなくなってくると、朝の目覚めも億劫になってきた。要するに、朝の目覚めがマンネリ化してきたのである。
満員電車に揺られての通勤電車。元々嫌だったが、さらに嫌になってくる。以前は、そばに女性がいてくれれば、それだけでほんのりとした気分になれたものだったが、今では女性が近くにいると、却って煩わしく感じられる。
――こんなに近いのに、その距離は果てしなく遠い――
それが距離の問題なのか、自分が勝手に創造してしまった結界のせいなのか、どちらにしても悪いのは相手ではない。自分の気持ちの持ちようが、まったく変わってしまったことが原因なのだ。
同棲していた女性とは、今から思えば、おかしな関係だったように思う。
元々、かわいいと思っていた女性だったが、まさか同棲をするようになるなど、想像もしていなかった。
――付き合ってみたいな――
とは思っていたが、自分から告白するだけの勇気もなく、自分としては悶々としていたのだ。
そんなオーラは簡単にまわりの人に悟られるもので、最初から隠そうとしていなかったのだから、見破られても別に構わなかった。
中にはおせっかいな人がいるもので、しっかりデートの段取りまでつけてくれて、行かないわけにはいかない状態を作られてしまった。
洋一としても、まんざらでもないと思っていたので、乗っかることにしたのだが、これが結構うまくいくもので、
――勇気がなかったというよりも、余計なことを考えすぎていたのかも知れないな――
と感じた。
どんなことを考えていたのかはおっぼえていないが、考えてみれば、勇気がないということも、
「突き詰めれば余計なことを考えているから、勇気がモテないだけなんだ」
と言えるのではないだろうか。
洋一は、まわりの気遣いのおかげで、彼女とのデートにこぎつけることができ、恋人として付き合い始めた。
さすがに最初は結婚など考えていたわけではない。
――結婚できれば、それに越したことはない――
という程度のことで、
――ひょっとすると、他にいい人が現れれば乗り換えるかも知れない――
とまで思っていたほどだ。
しかし、次第に彼女の様子が変わってきた。どうやら、親から、
「誰かお付き合いしている人がいるなら、結婚を前提にしなさい」
と言われていたようだ。
実は彼女は年上で、まだに十歳代だったが、彼女の母親が厳格な人のようで、二十代のうちに結婚することを望んでいた。彼女も母親の意志を忠実に守る性格のようで、本人もまだ結婚までは実感がなかったようだが、母親のプレッシャーを感じるせいか、気が付けば、洋一の部屋に転がり込んできていた。
これが同棲のきっかけだったが、今から思えば、
「夫婦ごっこ」
に違いなかった。
それ以上でも、それ以下でもない。ただ一緒に住んでいるというだけで、お互いに先のことを話すことはなかった。むしろ避けていたと言ってもいいだろう。お互いに、一緒に暮らしながら、あての腹を探っていたというのが、その時の実情だったのかも知れない。
そんな状態なので、均衡が保たれている時は問題なかったのだが、どちらかの精神状態に異変が起こると、バランスが崩れてしまう。最初にバランスを崩したのは、彼女の方だった。
最初は些細なことから始まった。喧嘩というには些細すぎるほどのことで、他の人が見ると、
「痴話げんか」
でしかなかっただろう。
しかし、二人にはそれだけでは済まなかった。
売り言葉に買い言葉、
「喧嘩というのは、こうやってひどくなっていくものだ」
というのを、まるで絵に描いたようになっていった。
喧嘩ばかりしていると、それまで一番の理解者だと思っていた相手が、
「今では一番一緒にいたくない相手」
として君臨することになる。
別に夫婦でもないのだし、一緒に住むという理由もない。むじろ、同棲自体が無理を押し通していることなのだから、喧嘩が絶えなくなった時点で、彼女が出て行ってくれれば、それでいいはずだ。それなのに、彼女は出ていこうとしない。そして洋一も追い出そうとはしなかった。
その理由は、その時は分からなかったが、今ならハッキリと分かる。
「もし、あの時喧嘩が原因で追い出したり、いなくなられたりしたら、自分の中に残った後悔は一生消えなかったかも知れない」
という思いに至った。
それは年齢を重ねたから分かることであって、今まで年齢を重ねることは負の要素しかないと思っていたが、それだけではないようだ。
――今まで分からなかったことが、徐々に分かってくる――
という思いが浮かんだが、考えてみれば、
「逆も真なり」
なのである。
つまり、分からなければいけなかったことは、分かることが、望む望まないに限らないということだ。知りたくもないことを分かるというのも、あまり嬉しいことではない。
――知らないなら知らないで、このまま永遠の秘密であってほしかった――
と思えることも多々あるだろう。
ただ、それをどれほど本人が自覚しているのか分からない。
分かってくることはたくさんある中で、どれが望む望まないことになるのかということを、本人としてすべて理解できているか不思議だからだ。同棲していた相手とのことが分かってくることにしても、そのすべてが本当に理解できることを望んでいるのかということを知るにはどうすればいいのだろう? あまりにも昔のことなので、自分でもよく分かっていない。
だが、思い出すにつれて、次第に同棲していた時期のことが、すべてを混同してしまいそうなほどの遠い過去ではないように思えてきた。それは意識しているわけではないのに、そう感じるのである。
同棲していた時の彼女は、寂しさだけしか今では思い出すことができない。しかし、思い出すことのできる表情は笑顔だけだった。
――このギャップが示している意味というのは、どこにあるのだろう?
一つは、洋一自身の思い違いというのがあるだろう。それが一番大きいのは明白で、だが、それがどのようなものなのか、ハッキリとしない。
もっとも、今思い出してハッキリとするくらいなら、当時分かっていたはずだ。
――分かっていないつもりでいただけで、本当は無意識に理解していたのかも知れない――
と、感じるのは、少し無理のあることであろうか。
思い出そうとしている時間が長くなれば、次第に彼女の顔の輪郭が分かってきた。顔を思い出すまでには少し時間が掛かるだろう。それなのに、彼女の笑顔だけは思い出すことができる。顔を思い出せないというのに、その笑顔だけが思い出せるというのもおかしなものだ。
――それだけ思い込みが激しいということだろうか?
同棲している時、彼女は決していつも笑顔だったわけではない。むしろ、笑顔だった時期は珍しいくらいだったように思う。笑顔を浮かべていても、そこには本当の笑顔ではない、
「作られた笑顔」
が存在していたように思える。
「笑顔というのは、自分の本当の気持ちを覆い隠すのには都合のいいものなのかも知れないな」
と言っていた友達がいたが、その友達は学生時代の友達だったように思う。ということは、同棲していた彼女と一緒にいる頃は、その言葉が頭の片隅にはあったはずである。
ただ、今は思い出すことのできない彼女の笑顔だが、彼女の顔を思い出すとすれば、まずは笑顔からに違いない。
「どうして、彼女と付き合うと思ったんだい?」
と聞かれたとしたら、
「彼女の笑顔には、何か魔力のようなものがあったのかも知れない」
と答えるに違いない。
彼女の笑顔には、それだけの魅力があったというべきか、それとも、今は思い出せない彼女との付き合った理由を、「笑顔」という適当な言葉で妥当に纏めようとしているのかも知れない。
どちらにしても、彼女の顔を思い出すことがあれば、まずは笑顔からだと思うのも、無理のないことだろう。
――そういえば、彼女は自分の笑顔に自信を持っていたような気がする――
普通は自分の顔を鏡で確認しなければ、なかなか自分の表情を確認することはできないだろう。だが、女性は男性を意識するあまり、自分の顔を絶えず鏡で確認しているものだと思っていた。
しかし、すべての女性がそうではないだろう。特に自分に自信が持てない人は、自分の顔を確認しても、ネガティブに考えてしまうばかりで、次第に鏡も見なくなる人も少なくないように思える。
身だしなみ程度には鏡を見ても、そんな時間ですら苦痛に思っている人もいるだろう。それほど繊細な神経を持っている人であれば、余計に鏡を見るのを嫌うはずである。
せっかく魅力を持っている人でも、自分の気持ちを内に籠めてしまっては、もったいないの一言に尽きてしまう。
その点彼女は違っていた。
積極的に性格を表に出して、いつも輪の中心にいるような性格だった。しかし、本当の中心には違う人がいて、彼女の場合はいつもそのそばにいるという雰囲気が多い。自分を中心にしてしまうと角が立つことを知っていたのだ。それよりも、
――ナンバーツーでいることで本当に自分のことを気にしてくれる人を見つけやすくなる――
そんな打算的な考えがあったのも否めないと思うが、それでも自分の中に籠ってしまうよりもよほどいい。欠点を補ってあまりある長所を持った女性だった。
しかも、彼女の場合は、
「短所は長所と背中合わせ」
であるということをよく知っている。しかも、
「長所と短所は紙一重」
であるということも分かっていて、その相容れないように思える考えが彼女の中でうまく噛み合って、他人に自分の長所も短所も意識させないようにしていた。
長所というのは、自分から表に出さなくとも醸し出されるものだ。長所を表に出そうとすると、その横にある短所も目立ってしまう。下手をすると、長所よりも短所の方が目立ってしまい、そのせいで、せっかくの表に出そうとした性格が裏目に出てしまう。
そのことを自分で察してしまうと、表に自分の性格を出すことを戸惑うようになる。
内に籠ることがその人の性格になってしまい、せっかくの出会いもなくしてしまう。
出会いというのは異性との出会いだけではない。もちろん、同性との出会いもそうであるが、仕事や学校という出会いも逸してしまうことになる。
受験に失敗したり、就職の時に面接で落とされたりするだろう。相手は百戦錬磨の面接官、内に籠る性格の人を見抜くことくらいは朝飯前に違いない。
付き合っていた彼女がそうだったとは思わないが、ついつい悪い方にばかり考えてしまう洋一の悪い性格のせいで、思い出そうとすると、ロクなことを考えない。そのせいで、我に返った時、自己嫌悪に陥ってしまい、洋一はそれ以上、思い出そうとするのをやめてしまうのだった。
「思い出さなければよかった」
本当は、そのまま思い出してしまいたいという気持ち満々だったはずなのに、結果としては、思い出そうとしたことを後悔している。それだけ自分に対しての保守の考えが強いというべきだろうか。
白壁の喫茶店で、アルバイトの女の子を見ながら、かつての同棲時代を思い出すなど、いったいどうしたことなのだろう?
洋一は、元々一人でいることに慣れていたはずなのに、急に寂しさを感じていることがあった。それを感じさせるのは、
「寂しい」
という気持ちからではない。
自分が誰かと知り合いで、その人と違和感なく付き合っているという感覚に陥った時だった。その相手というのは、女性であり、男性ではない。洋一の想像は女性以外にはありえない。想像というよりも、妄想なのである。
妄想していると言っても、セックスしているような大人の妄想ではない。本当なら、大人の妄想をしていたいと思っているはずなのに、そんな時に限って感じるものは、まだ恋をしたことのなかった中学時代くらいの思いである。
キスはおろか、手も握ったこともない純情無垢な男の子。顔にはニキビが溢れていて、身体の奥から込み上げてくる感覚が、何なのかも分からずに、妄想ばかりを膨らませていた。
そんな時に限って、まわりの友達が、
「悪魔の囁き」
を送ってくる。
どうして身体がムズムズしてくるのか?
どうすれば、ムズムズを解消できるのか?
気持ちいいというのはどういうことなのか?
大人になるって?
などと、モロモロ囁いてくる。
聞かないふりをして聞いているが、そんな感情はすぐに表に出るもので、同い年なのに、明らかに大人と子供の差がそこにはあった。
洋一はその時、自分のことを、
「変態じゃないか?」
と思うことがあった。
その思いが自分によっての初めてのトラウマだったのかも知れない。
「絶対誰にも言えない。悟られてもいけない」
という思いを抱いて、完全に殻に閉じこもっていた。
同じ思春期の男の子たちがまわりにいるのに、自分のことを変態だと最初に思ってしまったことで、自分を孤立させてしまうことを覚えたのだ。
今であれば、そこまで変態だとは思わないかも知れない。
確かに、大人になった自分から見ればそうであるし、「ヲタク」などという言葉が流行ってくれたおかげで、フェチやコスプレなど、市民権を得たような気がする。しかし、何といっても日本に根付くマンガ文化、アニメの影響で、少々であれば、「ヲタク」で許されるのかも知れない。
ただ、考え方によれば、
「変態の幅が広がっただけ」
と言えるかも知れない。
しかし、それであっても幅が広がれば、一つのフェチは薄い存在になっていくのかも知れない。
洋一が、
「人には言えないこと」
と自分で感じていたのは、
「学生服が気になって仕方のない」
ということだった。
それはセーラー服であっても、ブレザーであっても一緒である。セーラーであってもブレザーであっても、胸元のリボンが一番気になっていた。
洋一が好きになる女の子はその時から決まっていた。
「学生服の似合いそうな女の子」
だったのだ。
洋一が高校時代くらいから、アニメブームに火が付き始めたこともあって、今から思えば、当時は洋一のような人はたくさんいたように思う。同じ思春期の男の子たちは、なるべくまわりに自分のことを知られたくないという思いを抱いていたことで、まわりと一線を画そうとしたが、それは却ってまわりの意識を自分の中に感じさせ、まわりを包んでいる暗い空気がどこから来るものなのか分かっているはずなのに、分からないふりをしていた。
洋一は、中学時代が嫌いだった。
「人生で、一番暗い時代だった」
と思っているからで、本当なら、もっと暗い時代があったはずだと思っているにも関わらず、なぜ中学時代が一番暗い時代だったのか、ずっと分からないでいた。
今から思えば、
「一番嫌いな時代だったから」
という回答になるのだが、これはある意味禅問答のようなものである。
「どうして嫌いな時代だったのか?」
と聞かれると、
「一番暗かったから」
と答えるだろう。
「どうして暗かったと思うのか?」
と聞かれると、今まではその答えをできないでいた。
きっと、一番嫌いだったという答えを分かっていたからであろう。分かっていたので、余計に答えられなかった。その答えは堂々巡りを繰り返すということが分かったからだった。
しかも、自分が変態だと思っていたこともあって、余計にまわりと関わりたくなかったのだ。
しかし、まわりも皆同じような悩みを持っていたのだということに気づいていたのなら、少しは違っていたかも知れない。
そういえば、中学の頃に、やたらと明るいやつがいた。それも、
「俺は変態だ」
と宣伝しながら、ただ明るいのである。
そんなやつを見て、
「俺はあんなやつとは違うんだ」
と思っていた。
なぜなら、やつは自分が変態だと明るくまわりに宣伝するだけで、なぜかやつのまわりには人が集まってきていた。洋一には、到底信じられることではなかった。そいつを毛嫌いしていた。しかし、本当は羨ましかったのかも知れない。同じような思いをしているにも関わらず、ちょっと態度を変えただけで、やつのまわりにあんなに人がいる。自分との違いを思い知らされたが、本当にそれが明るいだけが原因なのか、そいつにも自分の中で分かっていなかったに違いない。
きっとそいつのまわりに人が多かったのは、同じような変態がたくさんいたからなのかも知れない。
洋一は、
「自分以外に、変態はいない」
という思いが強かった。
いくらオープンに、
「自分は変態だ」
と言われても、変態の内容が少しでも違っていれば、気持ちが通じ合えるわけはないと思っていたのだ。
「自分は、人とは違う」
という思いが根底にあって、それがいい意味でも悪い意味でも洋一の意識を縛り付けている。
しかし、他の人は違う。きっと自分以外にも同じような変態がいると思っていたのだろう。そういう意味で、オープンに自分のことを変態だと言ってまわりに宣伝している人の存在はありがたかった。一人で暗い人生を歩まなければいけないと思っているところへの朗報というものだ。
洋一は、まわりの人がオープンに変態だと名乗っている人を中心に、一つの輪ができていくことに違和感があったのだ。
「どうして恥ずかしいことをそんなにまわりに示すことで正当化しようとするんだろう?」
その思いは、すでに自分の目が変態ではない位置にいて、変態と言っている連中を見ているところから始まっている。
「自分のことを棚に上げて」
と言われればそれまでなのだが、もし、オープンに自分のことを変態だと言っている人が現れなければ、自分が変態ではない位置に目を置くなど、ありえないことだったに違いない。
それが違和感だったのだ。
自分が身を置いている場所と目だけは違う場所にある。
「自分の身体を離れることができるのは、目だけなんだ」
としばらくして思うようになるが、その思いはその時から始まっていた。
その時に時分の目から見える景色は、それまで見えていた景色とはまったく違ったものだった。
「初めて見たような気がしない」
今ではデジャブと分かる現象だが、その時はそんな現象があるなど、想像もしていなかった。
「変態であるがゆえの、妄想に違いない」
暗い時代だと思っている間は、どんなことでも、変態だという意識と結び付けないわけにはいかなかったのだ。
高校生くらいまでは、暗い時代が続いていた。それでも、自分の意識を知ってか知らずか、まわりの女子高生の制服は眩しく、見とれている間、自分が暗い時代を歩んでいることを忘れさせてくれたのだ。
ただ、制服の似合う女の子というのは、眩しいくらいに目の前を行ったり来たりしている。それなのに、自分が好きになれそうな女の子は、なかなか現れない。
「そもそも、自分の好みというのは、どんな子なんだろう?」
――制服の似合う女の子――
と分かっていても、自分が好きになる女の子として意識できる人は、なかなかいなかった。
高校を卒業してから、大学生になり、その頃になると、やっと自分の好みの女の子というのが分かって気がした。しかし、その時点では、制服が似合う女の子というわけではなかった。なぜなら自分が好きになった女の子というのは、
――相手から、自分のことを好きになってくれた女の子――
だったからだ。
「自分が好きになった女の子からは好かれないけど、好きでもない女の子から気に入られるってことあったりするよな、皮肉なことだって思っていいのかな?」
と相談を受けたことがあった。
まさか、自分にも同じようなことが訪れようとは思ってもいなかったので、
「やっぱり好きな人から好かれたいと思うのが本当なんじゃないかな?」
と答えたが、それまで、女性から好かれたことのない洋一だったので、思ったまま答えたが、その時の答えが、洋一にとって軽いトラウマになって残ってしまおうとは、思ってもみなかった。
その時の女の子と、半年ほど付き合った。
実はそれまで洋一は女の子と付き合ったことはなかった。いつも女の子と腕を組んだり手を繋いだりしている友達を羨ましく見ていた。その感情は押し殺すようなことをしなかったのだが、他の人から指摘を受けることもなかった。
――自分で隠そうと思っていることほど、まわりには悟られやすいのかも知れないな――
そんなことは中学時代から分かっていたかのように今では感じるのだが、実際にそう思ったのは、大学に入ってすぐくらいの頃のことだった。
――自分が意識していることで、つい最近のことだったように思っていると、結構前のことだったり、逆に子供の頃に感じたことだと思ったことでも、本当はごく最近感じたことだったりするのかも知れない――
と感じるようになっていた。
大学時代に読んだ青春マンガのセリフの中に、
「好かれたから好きになるんじゃなくて、好きだから好かれたいんだ」
という言葉があり、印象的なセリフとして頭の中に残っていた。
そのマンガを読んだのは、自分のことを好きになってくれた女の子と付き合い始める一年くらい前だったように思う。マンガを読んだ頃は、
「印象的な言葉だ」
として頭に残っていて、それが当たり前だとは思わなかった。
「いくつかある考え方の一つ」
として頭の中に残っていた。もし、それを当たり前のことだという意識を持っていれば、もっと前から、
「好きになってくれた女の子が自分の好みだ」
と、意識するようになったかも知れない。
もちろん、マンガのセリフとは矛盾している。矛盾しているからこそ、余計に気になってしまい、自分のことをもっと深く顧みることになるだろう。自分のことを意識するというのは、そういうことなのかも知れない。
喫茶店の女の子に話しかける勇気はその日には持てなかった。
「通っていれば、そのうちに機会があるさ」
と思っていた。
週に二回ほど通うようになると、常連の域に達するまでには、さほど時間が掛からなかった。
ただ学生時代に、通っていた店で、
「俺は常連の一人なんだ」
と思っていたのだが、実際には自分が感じている常連とは少し違っていた。その理由は、自分が思っていたよりも常連が多く、ぶっちゃけ、客のほとんどは常連だった。確かに常連の多い店は嫌いではなく、自分もその一人だと思うと嬉しくなるのだが、常連が多い店というのは、えてして洋一が懸念しているところが多いのも否めない。それは、
「常連の中に派閥がある」
ということだった。
しかし、この店は派閥が存在するわけではなく、どちらかというと、政治でいうところの一党独裁型だった。
常連に派閥はないのだが、一人の人を頂点に成り立っていて、一人だけで常連というのが存在しない雰囲気だった。一人だけの常連になりたいのであれば、他の店に行くか、常連という意識を捨てるかのどちらかにしかならない。
基本的に自分の納得できない相手に媚びることをしたくない洋一は、その店を避けるようになった。早いうちに気づかなかった自分が情けない。
洋一は、その時、常連の店の中に「一党独裁型」と、「派閥型」の二種類が存在し、自分がそのどちらにも属さないことを再認識した。そのため、大学時代には、なかなか自分が常連として馴染める店が見つからないことは覚悟していた。
「常連にならなくとも、一人ゆっくり佇むだけの場所があればいい」
堅苦しく感じることのない店を好きになったのは、そういった理由からだった。
五十歳を超えた今、その頃のことを思い出していた。
三十代から、四十代にかけて、馴染みの喫茶店を持っていた。それは、学生時代に夢見ていたような理想の店で、常連というのは、近くの商店街に店を構える店長さんたちだった。
彼らは、常連でつるんではいるが、派閥や一党独裁のような雰囲気ではない。それぞれに自分の城を持っていて、馴染みの喫茶店では、
――自分の時間を大切にできる場所――
として、利用していたのだ。
今はその喫茶店もなくなった。その場所にはしばらくしてから薬局が営業していたが、すぐに更地になり、今では有料駐車場になっている。
それからしばらく馴染みの店になれそうなところを探したが、見つからなかった。そんな時に白壁の喫茶店を見つけたのだ。
この店には、一見して常連と思うような人はいない。普通常連のいる店なら、少し通えば、誰が常連かということは分からないまでも、常連がいる店であるということは分かるというものだ。だが、店の雰囲気は常連がいることを示している。ということは、常連同士、仲が良いというわけではないようだ。
「自分はこの店の常連だ」
と、それぞれが思っているだけなのだ。
洋一に違和感はない。洋一自身、自分が常連になりたい店の雰囲気というのが、こういう雰囲気の店だということを再度感じた。
洋一は、その時になってやっと、アルバイトの女の子に話しかけてみた。
「この店に通い始めて、何度目になるんだろう?」
何度も声を掛けようとしてやめていた。最初の頃は、それでもよかったが、次第に声を掛けられなかったことを後悔するようになった。
「五十歳も過ぎたおじさんが何を言っているんだ」
と、店を離れるとそう思うのに、店にいる時には、
「まだ、三十代くらいにしか思えない」
と思うことで、彼女に話しかけられる自分を想像していた。
最初に何を言おうか考えていたが、なかなか考えが纏まらない。そんな洋一を彼女はニコニコしながら見つめている。
「俺が話しかけようとしているのが分かるというのか?」
自分では感じていなくても、相手には伝わっているのかも知れない。そう思うと、急に恥ずかしくなってきた。
彼女の名前だけは分かっている。これだけ何度も来ていれば、彼女の名前を呼ぶ店長の声を何度も聞いていた。
名前を彩名と言った。苗字までは分からないが、
――彩名ちゃんか、いい名前だな――
と、店長が彩名を呼ぶたびに、そう思って思わずニッコリと微笑んでしまう洋一だった。
「彩名ちゃんは大学生?」
これが最初の言葉だった。当たり障りのない質問だが、いまさらの感もあった。
「ええ、そうですよ。今年で二年生になります。桜井さんから見れば娘みたいな感じなのかな?」
いきなり娘という言葉を出されて、少しドキッとした。しかし、
「あ、ごめんなさい。私も何をどうお話していいのか戸惑っているので、変なこと口走ってしまったら、ごめんね」
「いやいや、堂々としたものだと思うよ」
実際には堂々として見えるのに、本人の口から戸惑っていると言われると、本当に戸惑っているように見えるから不思議だった。
すると今度は、洋一の、
「堂々としたものだよ」
という言葉が効いたのか、彩名は饒舌になった。
彩名が饒舌になると、今度は洋一もここぞとばかりに饒舌になる。ひょっとすると、お互いに、相手の饒舌になるフラグを引き合ったのかも知れない。
「相乗効果という言葉があるけど、一足す一が、三にも四にもなることがある」
そう自分に言い聞かせていたが、まさしくその通りである。
洋一もこの時とばかりに会話が弾んだ。
「こんなに会話が楽しいなんて、何十年ぶりなんだろう」
というと、
「そんな大げさな」
と、彩名に言われたが、なまじ大げさでもなかった。
――こんなに楽しい会話って、いつぶりだろう?
と思うと分からないが、
――最後に楽しい会話をしたのって、いくつの時のことだったんだろう?
と思う方が、実感が湧いた。
――そう、あれは、まだ三十代だった。後半だったように思う。そう思うと、すでに十年以上は経っている。さらにそれを思い出せないということは、実際の年月よりもはるかに遠い昔をイメージしている。そう思えば、何十年ぶりという言葉もまんざらではなかったのだ。
彩名は、学校では保育士を目指して勉強しているという。確かに雰囲気は、
「幼稚園の先生」
という言葉がピッタリで、エプロン姿で作業している姿が思い浮かんできた。
ずっと一人でいたので、自分の子供のことを想像することもなかった。自分が子供時代に戻って見上げる姿、それ以外に想像できるものではなかった。
だが、そのイメージもすぐに消えた。彩名への想像は、これから先のことというよりも、今まで彩名が育ってきた雰囲気を思い起こすことの方がイメージできた。過去の彩名を知っているわけではないので、未来のことも過去のことも同じくらい想像力を働かせないとイメージなど浮かんでくるはずもないのに、どうして過去なのか? 洋一には、彩名の過去が今は見えていなくても、知り合っていく上で見えてくることを信じて疑わなかった。
彩名と話をしていると、面と向かって話しかけてくる時の目力に、
――どこかで感じたことがあるような気がする――
と思った。
最初は、自分の過去をずっと遡っていったが、どうにもそのイメージに近づくことはできなかった。遡るスピードが速すぎるというのもあるのだが、それ以上に、まったく自分の中でときめきを感じないのだ。
――急いで通り越してしまった?
とも思ったが、どうもそうでもないようだ。
――本当は、ごく近くに感じられるもののようだ――
そんなに時代を遡るものではなく、それよりも、今の時代で、自分が近寄りがたい存在だとするならば、もう少し違った目で見ることができるかも知れない。
――そういえば、最近、アイドルに興味を持ち始めていたな――
アイドルのMVを見ていたりすると、引き込まれそうになることがある。それが目力によるものだということをすぐには分からなかったが、今、彩名と面と向かって話をしていて、ドキドキする感覚は、アイドルに見つめられた時をイメージした時と同じだった。
――五十歳を過ぎて、アイドルに興味を持つなど、やはり僕はヲタクだったんだ――
三十代の頃までは、アイドルのおっかけをしたり、アイドルにうつつを抜かしている若い連中を見て、
「この国の行く末を思うと情けない」
と思ったものだが、その裏には、
「俺は決して、あんな情けないことはしない」
と思いながらも、集団意識を認めたくない自分がいたのだ。
今では、
――何がこの国の行く末だ――
と、こんな自分がこの国のことを語るなど、ちゃんちゃらおかしいとでも言いたかったのだ。
アイドルにうつつを抜かす若い連中に情けなさを感じているわけではなく、アイドルの応援というのは、集団意識の中にある気持ちを、表に出さないようにしようとする意志が含まれているように思えて、その思いがアイドルにうつつを抜かしている姿よりもまわりに知られるのが恥ずかしいことだという意識を持っていることに気づいているのに、あくまでも隠そうとしている姿が、洋一には許せなかった。
自分はもちろんのこと、他の人であっても、自分の前に存在している感情を、言い訳なしに覆い隠そうとする行為が、却ってわざとらしく感じられ、気持ちの悪い思いを残すことになったのだ。
言い訳ではないが、洋一は、
「俺が最近アイドルに興味を持つようになったのは、彩名に出会うための前兆のようなものではなかったのだろうか?
と考えるようになっていた。
アイドルに興味があるなどということを、本当であれば恥ずかしくて口に出すことはできないはずなのに、自分がアイドルに興味を持ったことに対して話をしたくてたまらない時期があった。
「ええっ?」
と言われて、驚かれるというそれだけでよかった。逆にそのことを突っ込まれると、何と返事していいか分からなくなる。相手が起こしたリアクションがどのようなものなのか、それを考えることが楽しいのだ。
ただ、年齢を重ねてくると、あまり恥ずかしさも感じなくなるのも事実だった。
若い頃のように、アイドルに興味があるなどというと、
「ヲタクじゃないか」
と言われ、それだけで罵られているようにしか聞こえない。
――特に女性には知られたくない――
という思いがあり、次第に口数も少なくなっていく。
そういえば、大学時代に極端に会話が少なくなったことがあった。
――何を話しても、相手には分かってもらえない――
と考えている時期があり、どうしてそんな気持ちになったのか、自分でも分からなかった。
ちょうどその頃、人生で初めての躁鬱状態に罹っていた。最初は躁状態から始まった。そのことはハッキリと自覚している。そして、躁状態が終われば、どうしようもない鬱状態に陥ることも分かっていた。そして、その二つがしばらくの間、繰り返すということも分かっていた。
――もう、この状態から抜けることはできない――
諦めの境地と言ってもいいのか、抜けられないと意識しても、別に苦痛ではなかった。まるで他人事のように冷静で、ただ、笑い方は完全に忘れてしまっていた。
三十歳代後半になると、躁鬱状態に陥ることはなくなっていた。三十代前半は、何度となく躁鬱状態を繰り返していて、まさか、そんな簡単に躁鬱状態ではなくなるなど、想像もつかなかった。
三十代後半になると、一気に自分の心境が変わってきた。
一番大きかったのは、それまで感じていた結婚願望が、音を立てて崩れていき、寂しさという感情に違和感がなくなってきたことだった。
だが、それでも女性を求める気持ちは変わっていないような気がした。それは恋愛感情というものではなく、本能からの欲求が表に出てきたからだろう。本能からの欲求は元々そこにあったもので、いまさら湧き出してきたものではない。恋愛感情が消えたことで、表に出てきただけのことなのだ。
年を重ねるごとに、気になる女性の年齢が下がってきた。三十代中盤までは、同い年くらいの女性を意識していて、五十歳を超えて気が付けば、高校生や大学生の女の子が気になってきた。
――きっと優しくしてくれるかも知れない――
そんな思いがあったのも事実。だが、あくまでも感情としては相手に求めるものではなく、こちらが与えるものであると思っていた。
アイドルを気にするようになったのは、そんな思いからなのかも知れない。若い頃であれば反対に、
――アイドルから与えてもらおう――
あるいは、
――アイドルに自分にない妄想を求める――
というものだったが、今は、与えられるような気がしてくるから不思議だった。
彩名と知り合ってしばらくして、洋一は喫茶店に行かなくなった。二人で表で会うようになったからだ。洋一は、
「まるで学生時代に戻ったようだ」
というと、
「私も洋一さんといると、とても新鮮なの」
と、彩名は答えてくれた。
彼女だと思ってはいけないという感情を抱きながら、
――この思いは表に出すわけにはいかない――
と思っていると、そんな思いなど、彩名にはすぐにお見通しのようで、いつもニコニコ笑っている。
しかし、ふとした時に見せる笑顔には、
――大人でも子供でもない。それでいて、これ以上妖艶な笑顔はない――
と思わせるところがあった。
そんな笑顔にも、惑わされては「いけない」という思いを抱きながら、我に返ると、今までの自分ではないことに気づかされた気がした。
一気に二十代に若返ったような気がしていた。
――毎日が何をやっても楽しかった時期――
それが二十代だったのだが、それ以上に、一番不安と背中合わせだったのも、この時期だったように思う。
不安を感じていたのは二十代だけではない。十代も、三十代もそうだったし、今でもそうだ。しかし、二十代の不安は少し違っていた。その裏に、
――何をやっても楽しい――
という思いがあったからだ。
逆に三十代になれば、不安というものが、何かと背中合わせであるということは分かっていたが、何と背中合わせなのか分からない。れっきとしたものがなければ不安は他人事に変えてしまうことができる。どうしても楽な方に逃げたくなるのは人間の性のようなもの、他人事だと思えるのであれば、そう思った方がよかった。そう思うと、不安だった気持ちがスッと気が楽になり、急に時間の流れが速くなってきた。
「時間があっという間に過ぎている」
と感じるのは、自分を他人事にして逃げているからなのかも知れない。
人によっては、
「客観的に見ているだけだ」
というだろう。そういって自分を納得させた方が、必要以上に神経を使わなくても済むからだ。しかし、洋一は他人事だという感覚にはなれても、
「客観的に見ているからだ」
という思いにはなれなかった。言い訳にしか聞こえないからだ。
言い訳も生きていく上の手段としては正当なのかも知れないが、言い訳にしか見えなかったり聞こえなかったりするものは、正当とは言いがたい。洋一にとって言い訳だけにまみれるのは、自分で到底納得のできないことだった。
彩名と一緒にいるようになって、生活のリズムも完全に変わった。
「考え方が変わったから生活のリズムが変わったのか、それとも生活のリズムが変わったから考え方が変わったのか、どっちなのだろう?」
洋一は、そんなことを考えていた。両者は明確な違いがある。
考え方が変わったから生活のリズムが変わったのであれば、そこには自分の意志が働いていることは明白で、生活のリズムが変わったから、考え方が変わったというのは、本当に自分の意志が働いているか、不明なところも多い。しかし、少なくとも、リズムが変わったことで考え方が変わったというのは、何かの力が働いたということであるのだから、自分の中に何かの力を生むという潜在意識が備わっていたことを示すであろう。そういう意味では、どちらであっても、「自分の意志」という意味では大差はないような気がする。洋一にとって生活のリズムも、考え方の一つに当たるのだろう。
四十歳になった頃からだろうか。生活のリズムについてあまり考えないようになっていた。
「ものぐさに生きているわけではないが、立ち止まって我に返る機会がめっきりと減ってしまった」
と思うようになっていた。
ただ、自分が過ごした二十代と、今の二十代とでは、時代が違っている。考え方の根本が違うということはないと思うが、環境が変わると、おのずと見えてくるものも違ってくるだろう。
同じものを見ているとしても、見え方も違ってくるであろうし、自分が二十代だった時代には見えていたものが、今二十代になったと仮定した時に果たして見えてくるだろうか?
「若返った気持ちになる」
ということは、単純に考えられることではないような気がする。今の自分に、どれだけ妄想する力が残っているかということでもあるだろうし、下手をすると、相手に合わせてしまうことにもなりかねない。
相手が自分を慕ってくれているのであれば、相手に合わせるということは、最もしてはいけないことではないだろうか?
分かっているつもりではあるのに、果たして行動が考えについてくることができるであろうか?
洋一は、人に合わせるということがどういうことなのか、今までの人生であまり深く考えたことがなかった。そのことが何を意味するか、五十代になってやっと分かってきたような気がする。自分が若かった頃に、年上の人をどのように見ていたのかを思い出してみると、ゾッとするほどの恐ろしさに見舞われたのだった。
洋一は、元々人に合わせるということが嫌いな方だった。
特に大学時代に、広い講義室の中で、まわりを見渡すと、いつも同じ席に皆座っているような気がする。いくつかの集団に分かれていて、それはさらに大きな集団を作っている。
一番前でノートを取っている連中。真ん中あたりで、講義を聞いているのか、それとも他のことをしているのか、ハッキリと分からない連中。さらには一番後ろで、講義室から出たり入ったりしているよく分からない連中。どの連中も異様な雰囲気を醸し出している。そんな連中を教壇の上から一目瞭然に見ることのできる教授は、どんな思いなのだろう。きっと、教授も自分の研究や立場のことで頭がいっぱいで、学生などどうでもいいと思っている人が多いのかも知れない。
講義を一歩出ると、集団は息を吹き返す。講義室では集団を作ってはいるが、まったく話もしない連中が、講義が終わると堰を切ったように和気あいあいだ。
当たり前のことなのだが、洋一には、それを当たり前のこととして受け止めることはできない。
――皆、相手に合わせようとしているんだ――
講義が終わって、堰を切ったように話している連中を見るとそう思った。そのため、楽しそうにしている姿もどこかウソ臭く感じられ、白々しさに気分の悪くなるくらいになっていた。
その頃から、
「相手に合わせる人」
を毛嫌いするようになった。
元々、群れを成して行動することを嫌っていた洋一は、
「自分は人とは違う」
という考えの下、気が付けば、相手に合わせる人間を毛嫌いするようになっていたのだ。それは、人に合わせることがウソ臭さと、欺瞞に見えたからだった。
「人に合わせることは、相手の軍門に下ること」
とまで思うようになったのは、やはり、大学時代の講義室と、講義室を一歩出てからのそれぞれの人の態度の違いを見てからだった。
本人たちがどこまで意識しているか分からないが、少なくとも、洋一が感じているほど極端ではないだろう。それだけ余計に、
「俺は絶対に人に合わせたりなんかしない」
と思っている。
ただ、一つ大きな懸念があった。
「必要以上に人に合わせることを意識してしまうのは、無意識に自分が人に合わせていることに気づいているからなのかも知れない」
と思っているからだ。
気が付けば、急に我に返っていることがある。我に返るということは、それまでの一部の記憶が失われているからであり、何を一体それまで考えていたのか、不安で仕方がなくなる。
――記憶のない間、果たして自分の理性は、自分の考えを抑えていることができたのだろうか?
つまりは、普段は本能で抑えることができる。それは理性を本能が理解しているからである。
しかし、記憶を失っている間、自分の本能は、果たして自分の思っているような行動を取ってくれるであろうか?
そう思うと、理性が効いたのかどうか、分かりかねるところがある。
洋一は、我に返ることが年を取るにつれて増えてきたような気がしていた。
――人間の記憶領域には限界があり、ある程度年齢を重ねてくると、古いところからどんどんと忘れていくようになるのではないか?
と感じるようになっていた。
それに伴い、記憶する力にも陰りが見え始め、それと同時に、思い出す力も衰えてくる。それを単純に、
「年だから」
ということで解釈してしまってもいいのだろうか?
「記憶すること、忘れないこと、そして、思い出すこと、それぞれの機能のうち、一番衰えさせたくないものは、どれなのだろう?」
洋一は、そう考えるようになっていた。
若い頃であれば、
「記憶すること」
だと答えるだろうが、今では、
「思い出すこと」
と答えるかも知れない。
年齢を重ねてきて、後ろよりも先が見えてくるようになると、記憶することよりも、思い出すことの方が重要に感じるようになってくる。ただそれも、本当に先が見えてくるからなのかも知れない。思い出すことを重要に感じるようになるのは、その人にとっての危険信号と言えるのではないだろうか。
洋一は、思い出すことが大切だと感じるようになってから、急に学生時代のことを思い出すようになった。
きっかけは、夢を見たからだった。
その夢が楽しい夢であったのなら、そこまで意識しなかったのかも知れないが、見た夢というのは、不安に感じていたという夢だった。もっとも、
「夢というのは、悪い夢ほど、目が覚めるにしたがって、忘れていかないものだ」
と言うではないか。
洋一にとって学生時代の思い出は、あまりいいものではなかったということなのかも知れない。
そういえば学生時代のことを思い出すなど、四十歳を超えてからあまりなかったことだ。むしろ、学生時代のことは思い出したくないと思っていた。その理由として、
「先が見えていると思い始めたからではないだろうか?」
と思っている。
そんな時に、過去を振り返るのは怖いことだ。まるで敵に背を向けるのと同じ感覚ではないか。今から思えば、四十代に比べて五十代の方が楽しく思えてきた。それは四十代の暗い時代があったことで、まるで開き直りのような五十代がやってきたからだと思えてきた。
そんな学生時代のことを思い出させてくれるきっかけになったのが、彩名の存在だった。もし、彩名以外の若い女の子と話をしていたとして、自分の学生時代のことを思い出したいという思いはあったとしても、果たして思い出すことができたかどうか怪しいものだ。
いや、あながち思い出せたとしても、その記憶が正しいものなのか、疑わしい。
彩名と一緒にいても、思い出したことが本当のことだったのかどうか分からないが、思い出したくないことまで思い出してしまったということは、信憑性は高いと思ってもいいだろう。
逆に思い出したくないことを思い出してしまう時、そばにいたのが彩名だったということが大切なことだと思っている。
「大切なのは思い出すことであって、思い出す内容ではない」
これがもっと若い頃であれば、内容が問題だったのかも知れないが、そのことを感じさせてくれたのも彩名という女性だったと思うと、
「この出会いには、運命的なものを感じる」
と思うのも、無理もないことである。
元々、洋一は学生時代のことを思い出したくはなかった。思い出したくないものがあり、それが出来事だったのか、それとも、人間だったのか定かではない。しかし、思い出すにしたがって、それが人間だったのだということが分かってくると、
「思い出したくないことというのは、出来事が多いように思うけど、本当は誰か知っている人の方が多いのではないだろうか?」
と思うのだった。
彩名と知り合ってしばらくしてから、洋一は会社の部下とスナックに立ち寄った。真面目だと思っていた部下だったが、スナックに行くと饒舌になる。その日を境に彩名としばらく距離を置くことになったのだが、どうして距離を置く必要があったのか、後になって考えてみたが、考えれば考えるほど、おかしなものだった。
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