お前の匂いが消えないから
華月ぱんだ。
ヤニ臭せぇ
鍵を開けて部屋に入って、1番初めにやる事は窓を開けることだ。
安いからと選んだ西日のきついこの部屋は、カーテンを締め切るのが定石なのは分かってる。
だが、この部屋に入って初めにやることは、この部屋の窓を開けること。そうして、こもった空気を外に出すのだ。
今日は調子が良くて早めにバイトを上がれたから、普段より日差しはキツくない。
近くの通りで工事をしてるから、騒音は酷いが景色は悪くない。見晴らしがいい部屋がいいと、選ぶ時アイツがごねたからだ。
大学の授業もバイトも過渡期で余裕がなかったあの時はどうでもよかったそれが、暇になった今は丁度いい。
何もやることがなくても、景色を見てるだけで時間が過ぎる。窓の外を見るのが好きだったアイツの気持ちは、今になって分かりすぎるほど分かった。
大学四年生と言うのは案外暇で、内定が決まっていたら尚更だ。バイトと単位取得に青春を捧げた俺には、こういう時間を潰す相手は居ない。地元から出なけりゃ、声掛けた一時間後に集合するようなそんな無茶も通ったのかもしれねぇなと、ノスタルジックな気持ちになる。
そこまで思って不意に気がついた。ノスタルジックなんて俺の言葉じゃない。アイツの鼻につくカッコつけたフレーズとやらだ。
あぁ、また余計なことを思い出したなと、思う。
仕方が無いので、昨日の途中から荷造りを再開する。
詰めるのは衣類と俺の私物だけ。
二人で買ったものとか、二人で使ったものとかは全部置いていこう。食器とかは可哀想だから餞別にやろう。そうやって仕分ければ、残ったものはそう多くない。
一つずつ、丁寧に詰めていく。
引越し屋なんて大仰なものは呼んでないから、その辺で貰った段ボールに、丁寧に。
壊れないように、傷つかないように。
近くの工事現場からヤニの匂いがしたから、慌てて窓を閉めた。
俺は、ヤニが嫌いだ。
体に悪いし、臭いし、人に迷惑かけてくるし。
臭いし。
折角いい空気を入れようとしたのに最悪だ。
途中で放り出されたままの段ボールは、口が開きっぱなし。このまま閉めれば匂いが篭もるだろうと、全部取り出す。
別の日に、またやり直そう。
今日はもう、終わるから、また明日。
取り敢えず、なにか食べれる物を作ろう。
つい、癖で二人分。
風呂もついでに沸かしておこう。
アイツは、バスボムを入れるのが好きだから、選べるように出しておく。俺は今日は柚の気分だ。
ああ、そうだ。洗濯も回しておかなくちゃ。
一人分だから貯めて置けるけど、アイツはまた大量に汚い服を持ち帰ってくるはずだから、そしたらちゃんと洗えるように、毎日ちゃんとこまめに回す。
アイツがまだいるみたいな日常を、装う。
三年も一緒に暮らせば、当たり前が出来てるから。
七年も一緒にいれば、アイツの癖がもう分かるから。
この汚いアパートの安い部屋は、ちゃんと残しておこう。俺が引っ越せばいいだけだ。家賃はどうせアイツの口座から落ちるから。
アイツがちゃんと帰って来れるように、なんて。
もう、別れようと思うのはこれで何回目だろうか。
もう、離れようと考えるのはこれで何回目だろうか。
思うだけで動けないのは、もう何回目だろうか。
引っ越そう別れようなんて思うのに、荷造りはゆっくり、生活は二人分のペースで、何かを期待するみたいに日常を繰り返す。
馬鹿みたいだとは分かっているのに、どうしてもどうしても繰り返す。
アイツとひと月連絡がつかないのは、初めてじゃない。
女作ってしばらく帰ってこないのも、別に初めてじゃない。
付き合い始めた時から、アイツはずっとクズだ。
分かってるのに、分かってたのに、それでも好きになったのは俺で。
だから、別れを言い出すのはきっと俺の仕事だ。
分かってるけど、アイツが好きなタバコの匂いが、部屋に染み付いてまだ取れないから。
アイツの好きな歌手のCDが、まだ届いていないから。
アイツが買ってきた金魚が、まだ元気に泳いでるから。
アイツが好きな炭酸飲料が、まだちゃんと炭酸飲料だから。
アイツのよく着てた服のシワが、まだちゃんと伸びていないから。
アイツが無くしたピアスが片方、まだ見付かっていないから。
アイツの電話番号が、まだ変わっていないから。
アイツのインスタのアカウントが、まだ更新されるから。
だから、まだ、まだもう少し。
意気地無しな俺は今日も、アイツのいない布団に入って、荷造りをまた一日引き伸ばした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます