落ち武者がいた村
森本 晃次
第1話 落ち武者
時は戦国、群雄割拠の世の中を、歴史の表舞台を歩く人間と、誰にも知られずに一生をいつ終えたかも分からない人間が、作っていた時代。悲劇を数えきれないほど繰り返しながら、着実に流れる時間に身を委ねている。まわりの自然は何事もなかったように時だけを刻むが、自然を形成している土の下には、どれほどの人間の血が流されたことだろう。そんなことを想像できるのは平和になった時代の人にしかできないが、同じ時代を生きたわけではない人に想像などできるはずもない。実に皮肉なものである。
――生い茂った草木が口を利けたなら――
歴史の目撃者は、物言わぬ草木や木々であった。彼らは人間よりもはるかに長生きだ。それなのに、殺し合う人間たちを見て、何を感じていたのだろう? 人間には人間の理由があるとはいえ、兵隊たちは、自分に縁もゆかりもない人を次々に惨殺していく。誰もが初めて目の前にした人ばかりである。もちろん、恨みつらみがあるはずもない。戦という言葉の元、
――殺さなければ殺される――
理由があるとすれば、たったこの一言に尽きるだろう。
もちろん、彼らが歴史の表舞台に現れることはない。命を全うすることもなく、人知れず死んでいくのだ。
しかも、まわりで斬りつけられて、悶絶しながら死んでいくのを見ながら、自分もキリ殺されるのを待っているかのように、がむしゃらに相手に斬りかかる。足軽風情に、褒賞や賛美などあろうはずもない。
――もし、今回生き残ったとしても、次の戦では、この命ないかも知れない――
そう思っている人も少なくないだろう。
さらに戦の悲惨なところは、戦が終わっても、躯はそのまま打ち捨てられることだ。もちろん、勝者の側にいれば、供養などもしてもらえるであろう。しかし、敗者となり、主君が滅亡でもさせられたら、誰が供養するというのだろう。今の平和な世の中からは、そんな過去の時代を想像することはできない。
そんな歴史の証人は、誰だというのだろう。だから、戦国大名のことを書き残す人物がいたのだ。
たとえば有名なところでは、織田信長の「信長公記」秀吉の「川角太閤記」、あるいは武田信玄の「甲陽軍鑑」など、その代表と言えるだろう。
ただ、歴史の証人として残された書物は、実は無数に存在している。名もない神社やお寺に代々受け継がれている書物もあれば、先祖が大名や家老だった家に家宝として伝わるものも残っていたりする。
ここで紹介するお話も、ある村に昔から伝わっている話で、書物としては、かろうじて村の鎮守に収められていた。
鎮守と言っても、それほど霊験あらたかなものなのかはハッキリとしない。ただ、大切に保管されて代々の神主に受け継がれてきた。
――中を決して開いてはいけない――
などという言い伝えもない。
それでも代々の神主は、開けてはいけないということを暗黙の了解として伝えてきた。そんな中、今の神主は、自分の興味本位からその書物を開いてみた。
彼は神主でありながら、あまり迷信めいたことを信用しているわけではない。ある意味現実的なところがある男の一人にすぎない。
もっとも、彼は神主になる前から書物に対して、かなりの興味を持っていて、神主になったのも半分は、この書物を読みたいと思ったからだ。
彼は名前を緒方といい、緒方神主は、生まれつき好奇心旺盛な性格だった。
――俺がこんなに生まれつき好奇心旺盛なのは、神様が俺の生きている間に何かこの性格を生かし、何かをさせたいという意図が働いているからなのかも知れない――
という思いに駆られるようになっていた。
子供の頃からその思いはあったはずだが、元々慎重な性格な性格も持ちあわせている緒方神父は、その思いを抑えていたのだ。
好奇心旺盛でも、その思いを抑えることができる慎重な性格を持ちあわせていることで、余計に最初に考えた、
――神様の意図――
が理解できるような気がした。
つまりは、
――神様が俺に何かをさせようとしている時期やその事柄をしっかり見極めておかないといけない。それは、きっと一回こっきりなのではないか。それだからこそ、高貴神宝聖菜性格と、慎重な性格という相容れない性格をわざと同居させたのではないだろうか?
ということであった。
元々、緒方神主はこの村の出身ではない。ある日、どこかから流れてきた女性が、赤ん坊を鎮守の前に置き去りにして、そのまま行方をくらましてしまった。当時の神主は警察に届けて行方知れずの母親の捜索をしてもらったが、結局見つかることはなかった。本来なら、捨て子として、施設に預けられるのが筋なのだろうが、警察に届けた神主から、
「この神社で引き取らせてはもらえないだろうか?」
という申し出があったことで、赤ん坊はそのまま神社で育てられることになった。
当時神主には子供がなく、
「この子は、神様が私たちに与えたるものだ」
と言って、鎮守で育てられることになったのだ。
結局、母親が見つかることはなく、神主にも子供が生まれることはなかった。最初に神主が下した選択に間違いはなかったのである。
緒方少年は、神主の思い通りに育って行った。
「この子は、神社の申し子なのかも知れないな」
と神主が感じたほどだった。
勉強は決してできる方だとは言えなかったが、記憶力は他の子供よりも優れていた。次第に神主は緒方少年の好奇心が旺盛なところにも気付いていたが、それは、緒方少年の記憶力が優れていることと関係していた。
記憶力が優れている反面、想像力はあまりよくはなかった。考えを発展させたりする学問や、芸術のようなものには疎く、暗記関係の学問には長けていた。
――想像力の欠如は、反動としての好奇心旺盛を煽っているのではないだろうか――
と思うようになっていた。
さらに、高校生の頃になってくると、緒方少年の性格が二重人格の様相を呈してきたことを、まわりの人にも徐々に分かってくるようになった。
一緒にずっと暮らしている神主には、緒方少年の二重人格性というのは、小学生の頃から分かっていた。
しかも、二重人格というのは、性格の根幹に当たる。つまりは大人になるにつれて変わってくることはおろか、なくなっていくということはありえないだろうと思っている。
その思いに間違いはなかった。
そういう意味では好奇心旺盛なところは、緒方少年の性格の中では
――悪い方――
に違いなかった。
緒方少年の中学時代に分かるようになってきた、慎重な性格を、
――いい方――
の性格だとして、神主は意識していたのだ。
そんな緒方少年に、神主は彼が高校生になった頃、この神社の所蔵としての「書物」が残っていることを初めて告げた。最初に気が付いた、
――好奇心旺盛な性格――
だけしか表に出ていなければ、緒方少年に書物のことを話すのは時期尚早だと思ったに違いない。だが、中学生の頃から徐々に慎重な一面を見せ始めた緒方少年を見て、
「今のうちに、書物のことを話しておこう」
と、感じたのだ。
神主は、緒方少年が高校時代、神主になって緒方が感じたことを、すでに感じていた。こういうことは本人よりもまわりの人間の方がすぐに気が付くものなのかも知れない。何しろ、血は繋がってはいないとはいえ、「育ての親」に変わりはないのだ。
――もしかすると、本当の親よりも、勘という意味では鋭く働くものなのかも知れない――
と感じるようになっていた。
神主が気が付いたというのは、緒方少年の「宿命」のようなものだった。
つまりは、好奇心旺盛なところを、両極端ともいえる、慎重な性格が補っていたところに、「宿命」のようなものを感じた。
――やはり、この子は神主の素質を持っているのかも知れない――
と感じさせた。
そう思うと、赤ん坊を神社の境内の前に捨てたというのは、ただの偶然ではないような気がして仕方がなかった。
――この子のことは、他の人ではここまで気付くことはないのではないだろうか?
親の色目と言ってしまえばそれまでだが、もし、他の神主が自分と同じ立場で、この子の育ての親であっても、ここまでは感じなかったに違いないと思えて仕方がなかった。
神主にとっての素質など、自分が神主であるにも関わらず、分かっていなかった。
――このまま引退するか、死ぬまで分からないかも知れない――
と思っていたほどで、もし、緒方少年が現れなければ分からなかっただろう。
しかし、逆に考えれば、自分が神主という立場だから分からないのだ。神主になる前に、自分の後継者を見て、
――神主にふさわしいだろうか?
と考えた時だけ唯一、
――神主としての素質――
というものに気が付くものだと思った。
そういう意味では、次期神主が緒方少年でよかったのかも知れない。もちろん、本心とすれば、自分の血を分けた子供であるに越したことはない。しかし、血の繋がりはないとはいえ、生まれた時からずっと一緒にいる緒方少年は、
――これ以上ない後継者――
と言っても過言ではないだろう。
緒方少年を見続ける神主は、次第に成長してくる姿に、
――だんだん私に似てきた――
と思うようになってきた。
しかし、実際には似ているわけではない。これは緒方少年特有の、まわりに自分の本当の姿を見せないところにあった。
これは緒方少年特有の、
――護身術のようなもの――
なのかも知れない。
特に緒方少年は、生まれ落ちてすぐに母親に捨てられたのだ。母親を恨むこともできないほど小さかった自分の中で、何かが燻っていたとしても仕方がない。
――この子は、何もかもすべて分かっていて、承知した上で行動しているのではないだろうか?
と、まるで神童のようにさえ思えるほどであった。
だが、そんなことあるはずはない。それこそ「親としての色目」なのかも知れない。そう思った時、急に緒方少年が何を考えているのか分からなくなった。それまで、
――私が一番、この子のことを分かっている――
と思っていたのにである。
そう思うと今度は、
――私が分からなくなったんだから、他の人に分かるはずもないーー
と思い始めた。
神主としての目よりも親としての目の方が強くなったのだ。
――本当は、こんなことを感じてはいけないんだ――
と思っていたが、親の色目が平等という意識を奪い、人間本来の弱い部分を浮かび上がらせてしまったことに気が付いていた。
――余計なことを考えなければよかった――
自分が年を取ってきたことをいきなり感じ、息子に神主を譲った瞬間から、普通の親になり下がってしまうのではないかと思った。
――一気に老けるかも知れないな――
自分に隠居が近いのを感じ、もし隠居すれば、神社を離れることを視野に入れるようになっていた。
神主の父親から神主の座を譲られた時、父親もこの神社を去って行った。
「これは、この神社の暗黙の了解のようなものでね」
と言われ、その時には何も感じなかったが、息子に譲ることを考え始めた時から、父親の気持ちが分かる気がした。
――私も、父親と同じように、「暗黙の了解」という言葉を口にするんだろうな――
と感じた。それは、言い訳ではない。実際に感じたことをそのままいうからだった。だが、言い訳のように言ってしまうのは、そこに確固たる気持ちが存在しているからだ。
――自信があるということで、言い訳がましくなってしまうのは、心のどこかで、その自身を否定したいという思いが働いている時ではないだろうか――
と感じていた。
神主も緒方少年も、成長の過程で、
――俺は将来、神主としての道しか残されていないんだ――
と感じる時期が何度もあった。その期間が短い時も長い時もある。成長するということは、試行錯誤を繰り返すことだ、身体は次第に大きくなるのに、精神状態がそれについてこない。身体の成長は自分の意志で影響されることはないが、精神状態は意志が深く関わってくる。いや、意志そのものが、成長に伴う精神状態を示唆しているものなのだということであった。
神主になった緒方少年は、いずれ自分が開くであろう書物の存在を、先代からその存在を教えられてから、揺るぎない思いを絶えず感じていたんだと思っていたのだ。
緒方少年は、自分がその書物をいる時がやってきた。
「これはとても難しい本だ」
と、先代の神主に言われていたので、自分が神主になっても、すぐに読むようなことはないだろうと思っていた。実際に、書物から遠ざかっていたのは事実で、何かきっかけがなければ、書物を開くことはないと思っていた。
きっかけというのは、前の日に見た夢だった。
自分が書物の前で見つめている姿を、夢を見ている自分が後ろから見ている。後ろ姿なので、それが自分だとは、すぐには分からず、自分だと分かっても、見ているものが、その書物だということになかなか気付かなかった。
暗い部屋に、蝋燭が灯っているだけの空間で、背筋を丸めて見ている姿は、実に不気味だった。白装束に坊主頭、読みながら心なしか身体が震えているように見えた。
蝋燭の明かりが風に揺られて、狭い部屋の壁の奥に写し出された影も、棚引いている。影が大きいためか最初は気付かなかったが、そこにいる自分は子供の頃の自分だった。
――なるほど、すぐに自分だって気付かなかったわけだ――
夢を見ている自分も子供の頃に戻ったような気がした。そんなことを感じていると、
――子供の頃にも同じような夢を見た気がするな――
と、感じたが、その時にはまだ書物の存在を知らない時だったはずだ。その時の自分というのが、お経の本を読んでいるのだと思っていたからだ。もし、書物の存在を知っていれば、夢に出てきた読んでいる本は、問題の書物であることに気付くはずだった。
ということは、緒方神主は、大人になって初めて、自分が書物を読んでいる姿を夢に見たことになるのだが、本当にそうなのだろうか?
いろいろと思い出してみると、
――以前にも見た――
という感覚は、それほど古いものではなかったように思うからだった。
その書物というのは、今では漆塗りの箱に入っていて、まるで玉手箱のように、紐でくくられている。
「霊験あらたか」
という言葉がまさにふさわしい感じがするが、子供の頃に見た夢も、まさしく同じような箱に入っていた。
――おじいさんになってしまわないだろうか?
まさに子供の発想だった。
白装束というと、葬儀を思い起させるので、最初は自分の死が近いのではないかと感じさせた。子供なのにそこまで考えるのは、神社という場所がそういう発想にさせるからなのかも知れない。
「やっぱり、子供の頃に一度勝手に見てしまったことがあったんだ」
と、自分に問いかけてみた。返事は返ってこなかったが、それが、否定ではなく肯定であるということを自分に思い知らさせた。
子供の頃に見た書物は、確かに難しくて、何を書いてあったのか覚えているはずもなかった。しかし、一度読んでいるのだから、いくら子供の頃のことだとはいえ、今読めば、まっさらな状態ではないだけに、きっと理解できるはずだと思えてきた。
「書物は確か、蔵の中にあったはずだ」
それも収めてある場所も分かっている。夢に見たあの時と変わっていないはずだ。蔵の中には、狭くて薄暗いが、確かに書物を読めるようになっている場所があった。いつその場所を確認したのか思い出せないが、夢で見たものではなかったことだけは、自信があった。
その書物に書かれていることは伝説であり、戒めでもあった。そのことは先代の神主からも聞いていたし、実際に子供の頃に読んだから分かっていた。
もっとも、子供の頃に読んだ時には、何が何か分からなかったが、後で神主から、
「伝説と戒め」
という話を聞いて、読んだ時に分からなかったことが分かったような気がした。
しかし、それでも、内容を理解できたわけではない。書物から湧きおこる雰囲気から、イメージしかことであった。それだけに、
「今だったら、分かるかも知れない」
と感じるのだ。
そういえば、一度神主が話していたのを思い出した。
「わしも、子供の頃に一度、先代に隠れてこの書物を開いてみたことがあった。あの時は何が何か分からなかったが、自分が神主になって読んだ時、分からなかったことが少しずつ分かってくるような気がしたものだ」
ずっとその言葉を忘れていた。どうしてそんな重要なことを忘れてしまっていたのか自分でも分からないが、神主も大人になって分かったと言っているのだから、自分にも分かるだろうと緒方は思った。
しかし逆に、
――分からなければどうしよう?
というプレッシャーもないわけではない。この書物の持つ意味はどこにあるのか、今さらながら緒方は感じていたのだ。
真っ暗な蔵の中に入ると、ツーンとカビ臭い臭いがした。それは、最初から想像していたものであったが、想像以上に湿気がすごいのには、閉口してしまった。まずは、蔵の中の空気を入れ替えることから始めないと、息苦しさから、何も考えられなくなりそうだった。
真っ暗な蔵の中に、日差しが差してくる。想像以上の埃だと思っていたが、日差しを意識すると、余計に息苦しさを感じる。舞い上がる埃は煙のように、小さな窓から表に逃げていく。
「そろそろいいかな?」
どこまで埃を逃がすかは適当なところで止めておかないと、キリがない。完全に埃を消すことなど不可能なのだ、いかに、
――限りなくゼロに近づける――
というしかないのだった。
この考えが、いずれ自分に重くのしかかる考えになることになるとは、その時まだ知らぬ緒方だったが、何か予感めいたものがあったのは事実だった。
蔵の中で差し込んでくる光は、ちょうど書物を読める場所を照らしていた。しかし、それは今という時間だけで、一時間もすれば、日は傾きかける。いずれは蝋燭が必要な時間になるのだろうが、緒方はその書物を蔵の中から出して、社屋に持って行くという選択肢は考えられなかった。
緒方は、蔵の中に入り、書物を探したが、想像通りの場所にあり、探すというほどの手間にはならなかった。引き出しを開けると、想像していたように埃をかぶっていて、カビ臭さを感じた。心なしかふやけているように感じられたのは、やはり湿気が強いせいだろうか。開けっ放しにしている時間が長かったので、書物のふやけた状態は、そんなに長くは続かなかった。次第に綺麗になっていくのが感じられたくらいだった。
緒方は書物を未来て見ると、最初に但し書きのようなものが書かれていた。プロローグと思えなくもないが、覚書のように思え、まずは丁寧に読むことを考えさせられた。そこに書かれている内容というのは、
「この村では一度起こったことは、二度とは起こらない。それは村長の在任中に限られる」
と書かれていた。
――どういうことなのだろう?
この村というのは、大正時代までこのあたりを収めていた地主がいて、その人が代々村長を務めてきたことは分かっていた。この村ではすべてが世襲で任されていて、ここの神主もずっと世襲を守られてきた。
今でこそ、世襲というのは守らなくてもよくなったが、少なくとも明治時代までは、その言い伝えを忠実に守ってきた。
「世襲を守るために、かつてのこの村では、かなりむごいことや、禁断とも言えることが行われてきたのも事実のようだ」
と、神主から聞かされた。
緒方が神主になるために、先代の神主は教えておかなければならないことを遠慮なく口にした。その時の神主の真剣な顔つきは、まるで人間の顔ではないかのような恐ろしいものだった。
――何かに憑りつかれているのでは?
と感じるほどの恐ろしさで、自分が神主になる上で、かなりの覚悟が必要なのではないかと感じた。
しかし、今さら自分の運命に逆らう気持ちもなかった。運命に翻弄される人生は生まれついてのものだということを覚悟していたからだ。
そして、最初の章に入ると、時は戦国。今からではまったく想像もできない時代であった。
ただ、書物には戦国時代という言葉が書かれているわけではない。戦国という当時、その時代に生きた人たちが、「戦国」という言葉を使っていたかどうか、疑問に思っているからだ。緒方が時代を戦国時代だと認識したのは、年号が「永禄」となっていて、「群雄割拠」という文字がすぐに飛び込んできたからだ。
それにしても、昔の筆で書かれた流れるような文字。一般の人には読めるはずもない。子供の頃に読んだ記憶があったのはウソだったのだろうか。だが、神主になってから見てみると、崩した文字であるにも関わらず、ハッキリと読めてくるから不思議だった。経文を読んでいるからだろうか。崩し文字も読めるようになってきた。
戦国時代でも永禄年間というと、まだまだ群雄割拠の一番活発な時代だったのかも知れない。織田信長の台頭してきた時代であり、各地でも有力な戦国大名が下剋上を繰り返していた時だった。
戦には、農民も駆り出され、田畑は荒れ放題。天下統一など、まだまだ目に見えてこない時代だった。
「いつまでこんな時代が続くんじゃ」
と、誰もが思っていたに違いない。
当時のこの村を収めていた領主は、当時かなり入れ替わっていたようだ。誰かがこの土地を支配するようになっても、隣国から攻められ滅亡し、新しい領主が誕生しても、下剋上の果てに、またしても領主が変わってしまったりと、まったく落ち着いたことのない場所でもあった。
ただ、農作物が豊富に摂れることもあって、この土地はいくつもの戦国大名にいつも狙われていた。戦だけではなく、和睦が成った場合にも、領地切り取りで話題になるのもこの土地、当時の領民は、他の土地の民衆に比べても、かなりピリピリしていたに違いなかった。
だが、この土地で農作物が豊富に摂れるおかげで、農民は兵役を免除されることが多かった。そういう意味では、少しだけ恵まれた村だったと言えるのではないだろうか。
そんな時代だったが、戦に駆り出されることのない村だったので逆に、
「他の村とは違うのだ」
という思いが、まわりの村からではなく、その村内部で誰もが感じるようになっていた。もちろん、そんなことは口には出さない。下手に口にして、領主の耳にでも入れば、せっかく兵役免除になっているとは言え、怒らせてしまえば、いつ兵役免除が解かれるか分からない。今の村民に変わって、他の村からよそ者が入りこんで、村の風紀を乱すかも知れない。そんな思いがあり、誰もが疑心暗鬼になり、こそこそするような体質の村になってしまった。
幸いなことには、この村の近くで大きな戦が起こることはなかった。領主のある城下町から離れているのも不幸中の幸いだったが、その代わり、兵糧への圧力は大変なものだった。
「兵役を逃れるのだから、それ相応の年貢を納めてもらうぞ」
と、領主からのお達しで、年貢米を捻りだすために、村の財政や暮らしはひっ迫していた。
困窮を窮めるとはまさしくこのことで、
「いくら兵役がないとはいえ、わしらに飢え死にしろというのと同じではないか」
と言って、村を脱出するものも少なくはなかった。それこそ、百年以上先の江戸時代の農民のようではないか。
そうやって出て行ったものも少なくないせいもあって、村はますます孤立していった。精神的におかしくなる人もいたようだが、それでも何とかなってきたのは、苦しいとはいえ、何とか年貢を納めることができるほどの作物を作ることができたからだ。村の存続は何とか踏みとどまっていたと言ってもいい。ただ、
「このままではいけない。何とかしなければ」
と、代々の村長がそう思ってきたのは事実のようだ。
そんな時代が江戸時代まで続いたようだが、落ち着くまでにはこの土地でも紆余曲折があったようだ。特に、この書物に書かれている永禄年間の出来事はショッキングなことであり、緒方は何度も読み直そうとしたくらいだった。
それは、
――どうしても、伝説として見ることができない――
という考えがあったからで、その根拠としては、
――他人ごとのように思えない――
という思いからであった。
戦国時代に思いを馳せるのは、この村の雰囲気が昔から伝わっている伝統のように思えるからで、それだけ現実の世界ではない雰囲気を感じさせた。やはり、永禄年間からずっと村は孤立していて、それを村人は誰もが、
――これが当然のことなのだ――
と感じていたからに違いない。
戦国時代がどんな時代だったのか、想像はできるが、絶対にそれ以上ではないと思っていながらも、この村で起きた昔のことは、他人事のように思えないという気持ちから、書物を読む気にもなったのだろうし、書物から浮かび上がってくる想像が、いかに事実に近いものなのかということを意識するようになっていた緒方だった。
書物を最初から見ていると、次第に自分がその時代に生きていたのではないかという錯覚に陥る。緒方は高校時代から歴史が好きで、学校の図書館では歴史の本ばかり読んでいた。街に出掛けた時も、必ず本屋に立ち寄り、歴史の本を物色したものだ。
学校の図書館で見る本は、史実に基づいたもので、街に出て買ってくる本は、歴史小説で、フィクションが多かった。最初に史実を研究しておいて、フィクションを読むと、ただ漠然と読むのとは違い、幅広く読むことができる。
「作者の意図はどこにあるのだろう?」
などという、ストーリー展開によっていろいろな発想を抱く余裕があるのだ。
歴史小説を読んでいると、ついつい自分も物語りの中に入りこんでしまいそうになってくる。
――まるで見てきたように感じられる――
そう思うのは、テレビの影響が大きいのかも知れない。
緒方が育った村は、まだまだ未開の土地、高度成長期の時代の貧富の差の激しさを思い浮かばせるほどだった。封建的な風習が残った村も少なくはなかった。政治家の力で封建的な村も次第に都会に近づけるようになっては来たが、そんなに簡単に行き届くほど、単純なものではなかった。
緒方が住んでいる村は、三ケ村という。三ケ村は山奥に引き籠ったところにあり、バスも一日数本しかない。山一つ隔てたところを、当時バイパス工事が行われていて、通路に当たる村は、活気が出てきたのだが、たった一つの山が隔たっているだけで、まったく都会とは隔絶されたかのようになっているのが三ケ村だった。
昔からある神社と、その奥に入りこむと大きな滝がある。滝つぼから流れ落ちた水が川となり、村の中心部を流れ、都会へと繋がっていく。
幸いにもこの川が氾濫するほどの災害は今までには起こっていないが、
「数十年に一度、今までに災害が起こっている。その時々で違っているという話なんだが、時々同じ災害が続く時があるというんだ。そんな時は、決まって村に大きな災いがもたらされるということだ」
この話は、村長から聞いたことがあった。世襲を重ねてきた村長だったが、村長の家にだけ伝わる伝説もあるという。伝説という意味で言えば、神社にもある。おそらくは村長も知らないことなのだろうが、封建的な村というところは得てして、そういう迷信めいたものが伝わっているようだ。
村長のところに伝わっている伝説はいくつかあるらしいが、そのうちの一つが、
「一度起こったことは、在任中に二度と起こらない」
ということなのだが、この話は神主から聞いた。公然の秘密のようなものに違いない。
神社に伝わる伝説がどのようなものなのかというのは、この書物が記しているのであろう。
緒方は書物を読み進むうちに、イメージが膨らんできたのが、滝つぼだった。
ゴーっという音とともに、舞い上がる水しぶき、前も見えないほどの強烈な威力に、そばにいれば、耳の感覚がマヒしてしまいそうに感じることだろう。
滝つぼで、ゴーっという音を聞いていると、遠くからほら貝の鳴り響く音が聞こえる。今度は馬の蹄の音、さらには、金属がこすれるような音、それは、まさしく戦を思わせる音だった。
――ここにはふさわしくない音だ――
こんな山奥で戦が行われるわけはない。山の傾斜はかなり急で、戦の陣を張るにしても、木々は生え揃っているだけに、そんなスペースなどありえない。戦に向くはずもなく、戦には縁のない場所だった。
ここから書物の話を織り交ぜていくと、滝つぼに一人の女が佇んでいた。その女性は村長の娘であり、年の頃は十代後半というところであった。
親同士が決めた祝言を控えていたのだが、彼女には心に決めた相手がいた。もちろん、村長の娘に生まれた彼女は、自分の運命を自分では決められない時代に生きていることを分かっていた。身分の違い、お家のため、いろいろな理由で、婚姻を自分では決められないのだ。
「分かっていたはずなのに」
それなのに、どうして他の男性を好きになってしまったのか、彼女には分からなかった。無理もない。生まれてからこれまで人を好きになったことなどなかった。運命にも逆らえないことも分かっていた。
「逆らえないのなら、逆らおうなどと思わなければいいんだ」
と、彼女は自分の運命に身を任せることしかない人生で、余計なことを考える必要のないことを悟っていた。下手に余計なことを考えれば、自分だけでなく、まわりを巻き込んでしまうのが分かっていたからだ。
「私さえ、大人しくしていれば」
と思っていた。
母親からも、そう言って育てられた。母親を見ていて、別に苦しんでいる様子もなければ、必要以上に何かを考えているというわけでもない。
――流されるように生きていくことが私の運命なんだ――
と、感じていたに違いない。
だが、そんなことをずっと思っていたにも関わらず、急に気持ちが自分で抑えられない時期がやってきた。
本当は母親にも同じような時期があって、母親もその時期を超えてきたのだ。母親に限ったことではない。村長の家系で、女として生まれた人は、誰もが一度は自分の思い通りにならない時期を通り超える性を持っているようだ。
彼女も、その時期を迎えた。それまで余計なことを考えないようにしていたから分からなかっただけで、自分の思い通りにならない精神状態を迎えた時、初めて自分が自分の頭で何かを考えることができるということに気が付いた。
しかも、それまで想像もつかなかったことが、次々に頭に浮かんでくる。それは、他の人の想像力をはるかに超越していて、人生を通して想像することができる人のすべてを、その一時期だけに凝縮されたかのようだった。
想像力は予知能力でもあり、意識の中の超能力と言えるのではないか。
「超能力とは、誰もが持っているもので、人は自分の能力の数パーセントしか使っていない」
と、未来では考えられていることを、その時の彼女には、分かっていたようだ。
ただ、この村の人は彼女に限らず、女性であれば誰でもそうだったのだ。百姓の子供でも、神主の子供でも、誰もが普段から何も考えないようにしていても、急に思い立ったように自分に目覚めることがある。その時期が他の女性は短いもので、鬱積したものを残すことはなかったが、その時の村長の娘は、鬱積したものを拭い去れずにいた。そのせいもあってか、彼女は、
――自分が自分であるというのはどういうことなのか?
ということを考えるようになっていた。
そして結論として導きだされたのが、
「私には、他に好きな人がいるんだわ」
という思いで、我に返って考えると、
――それなのに、どうして好きでもない、ましてや会ったこともない相手と結婚しなければいけないのか?
ということの理不尽さに気付いてしまった。
気付いてしまうと、彼女に残された感覚は、苦しみだけだった。前を向いているはずなのに、それが本当に前なのかどうか分からない。自分がやっと持てたはずの自分の考えに対して、自信ところか、何を考えているのかという自分を納得させられるだけの意識がないのだ。
ペットとして飼われていた動物を、いきなりアフリカのジャングルに放つようなものである。過ごしたこともない場所で免疫もなく放り出されると、当然馴染めるわけもなく、一日として生きていくことはできないだろう。
慣れという言葉もあるが、免疫がないのが大きな理由である。
――何をどうしていいのか分からない――
本能だけではどうしようもないものが、そこにはあるのだ。
自分に気付いてしまった彼女も同じだった。
好きになった人と二人で駆け落ちなどという現代の発想があるわけでもない。結局悩み苦しんでも、堂々巡りを繰り返すだけ、どうしていいのか分からずに達した結論は、
「死を選ぶこと」
それだけだったのだ。
それには、ちょうどいいところがある。村の神社の奥にある滝つぼだ。それまでお嬢様として育てられた彼女は、滝つぼに行ったことがない。滝というものがどういうものなのかというのは知っているが、ここまで力強いものだということを知る由もなかった。
神社で彼女はお参りをした。
死を目の前にして、何をお参りしようというのか、ただ、彼女は神社を目の前に、ただ通りすぎることができなかっただけだ。
手を合わせてお参りをしているが、自分でも何を祈ったのか分からない。ただ手を合わせていただけだった。
その頃の彼女には、まわりの喧騒とした音は何も聞こえない。鳥のさえずりさえ聞こえてこない。覚悟を決めている証拠なのだろうが、音が聞こえてくることにも恐怖を感じていたのかも知れない。
「恐怖?」
何が怖いというのだろう?
神社でお参りをしてから、滝へ向かって一直線。森の中の道なき道を掻き分けて行った。本当は、綺麗な道があるのだが、彼女には綺麗な道が分からなかった。いや、敢えて道なき道を行ったのかも知れない。お参りをしたのは、
「まっすぐな死をお与えください」
というものだった。
綺麗な道は、彼女の考える、
「まっすぐな死」
ではない。道なき道を掻き分けるようにして歩いている道こそ、まっすぐな道なのだ。「綺麗な道とは決してまっすぐではない」
この思いは、自分の置かれている立場が理不尽に満ち溢れていることを皮肉に感じているからだった。
「死というものがどこまでのものなのか分からない」
という思いをその時の彼女は抱いていた。無意識なのだろうが、死の向こうにも、さらに続きがあるという妄想に駆られていた。だからこそ、
「死は怖くない」
と自分に言い聞かせることができ、少しでも恐怖を和らげようとした。そのため、何が恐怖なのか分からないという気持ちに陥り、感覚をマヒさせることで、
「躊躇い」
を失くそうと考えた。
躊躇いというのは、百害あって一利なしだと思っている。
手首を切って自殺しようとする人が、一気に死ぬことができず、躊躇い傷を残したまま、結局死に切れないということだってある。もちろん、そんなことを彼女が知っているはずもないが、無意識に悟るのだろう。
死を前にした人間というのは、一気に悟りを開くことができ、それが後悔しないことへの布石になっているのではないか。死んでしまってから後悔するというのは、死んでから先も、自分は滅びずに続いていくという発想である。死んだからといって、苦しみからだけ逃れられるというのは、あまりにも都合がいい発想だ。当然、死を選んだ時から、苦しみだけではなく、それ相応の代償を伴うものだ。
どれほどのものなのか想像もつかない。いや、死を前にした人には、それを想像する資格はないのだ。
そんなことを考えながら、彼女は滝つぼに足を向けていた。それまで何も聞こえなかった耳の奥に、ゴーっという音が聞こえてきた。
最初は滝の音だけだったが、滝の音に加えて、違った音が聞こえてくる。
それが馬の蹄だったり、金属のこすれる音、それに伴って人の叫び声、同じ叫び声でも、腹の底から聞こえる気持ち悪いものも感じた。
――断末魔の声――
今まで聞いたこともなかったはずの声を彼女はその時感じていた。やはり、
――死を覚悟した人間にしか聞こえないものが存在しているのではないか――
と、彼女は思っていた。
急に風が吹いてきたのを感じた。滝つぼが近いことを悟ったが、その時の彼女には、滝つぼだけからの風ではないように思えた。
「風が舞っているわ」
普段とは明らかに違う風の向き、そして風の勢いは、今まで立ち入ったことのないはずの場所を、
「初めてきたという感じがしない」
と、彼女に思わせた。
それは、彼女が迎える別の世界の人生で感じたことだと思えてきた。
――私にも他の世界が存在するんだ――
パラレルワールドの発想が、その時の彼女にはあった。この思いも初めてではなかったが、それが、最近見た夢の中での感覚だということに、彼女はすぐに気付いていた。
何かに引き寄せられるように歩いていると、目の前に滝が見えてきた。
「いよいよだわ」
彼女は、今一度、自分の覚悟を自らに問いただした。
さっきまであったと思っていた覚悟とは、少し違ったものだった。そこには、胸の鼓動があり、鼓動は覚悟を少しだけ鈍らせるものだった。
――鈍る?
その思いは、意外なものだった。それまでにない躊躇いが、この期に及んで襲ってきたのだ。
その思いは死だけを見つめていた自分に、まわりを見る余裕を与えた。見えなかったものが見えてくる。それは、滝つぼを見ているとその流れに逆らうかのように映し出される戦の場面だったのだ。
緒方の想像はそこまで来ると、一瞬我に返ったように感じたが、それは一瞬のことで、またしても、当時の彼女の世界に入りこんでいった。
自分がこれから死のうとしているのに、彼女は不思議と晴れやかな気持ちだった。好きな人と添い遂げることもできず、かといって、他の土地で一緒になれるわけでもない。ましてや、一緒に死んでほしいなどと言えるはずもない。そして最後の選択は、
――自分一人で死んでいく――
ということだった。
寂しく一人で死んでいくというのに、晴れやかだというのはどういうことだろう?
考えられることとすれば、今まで感じなかった寂しさを感じることで、開き直りのような精神状態になったのではないかということだ。現代であれば、寂しさを感じていたとしても、孤独までは感じていないというのが本当なのだろうが、この時代は逆だった。孤独という思いが先にあり、そこに寂しさを感じれば、開き直ることができるのかも知れない。それほど、今よりも過酷で、厳しい時代だったに違いない。
確かにこの時、彼女の感覚はマヒしていたようだ。
滝つぼに近づいていくと、さすがに強い風が吹いている。その気はなくとも、滝つぼに吸い込まれていきそうな激しさに、死を覚悟しているとはいえ、少したじろいでしまった。轟音は想像以上で、吸い込まれていくのが当然であるかのような錯覚に陥り、
――今なら、何も考えずに死ぬことができる――
と思っていた。
轟音に今しも巻き込まれようとしたその時、またしても、別の音を感じていた。先ほど感じた戦の音に他ならなかったが、ここまで激しい滝の音に混じって聞こえるなど、ありえないという思いが、少し彼女の覚悟を鈍らせたのか、吸い込まれそうになっている自分に、待ったを掛けた。
一旦覚悟を固めて、その思いにひとたびの戸惑いを覚えたとすれば、もうその時に、死ぬことはできないだろう。一度緩んだ覚悟をその時もう一度取り戻すことなどできないのだ。
「人は二度死ぬことはできないからね」
と、誰かが耳元で囁いたのを感じた。その声は男の声で、もしその場にいたとすれば、きっと彼女に同じことを囁くに違いないと緒方は感じていた。
彼女は滝つぼから離れて、呼吸を整えていた。
「やっぱり、死ぬ勇気なんて、そう何度も持てるものじゃないわ」
死ぬことを信じて疑わなかった自分が、まさかの我に返った瞬間だった。我に返ってしまうと、確かに普通の人のように、死に対しての恐怖がよみがえってくる。しかも、一歩でも足を踏み入れたのだから、余計に恐怖は増している。
「一歩踏み外していれば、確実に死んでいたんだわ」
と考えた。
踏み外したというのは、何も足というだけではない。精神状態の歯車の噛み合わせという意味も含んでいる。
彼女は足をガクガクさせながら、腰が抜けてしまった。しばらく立ち上がれないほどの恐怖が身体に残っていて、金縛りに遭ったかのように、身動きができなくなってしまっていた。
息も絶え絶えに、何とか呼吸を整えていると、カッと見開いた目が、視線の延長上にある滝を凝視していた。
上から下に流れ落ちる水を、必死に目で捉えようとしている。
流れ落ちるなどという生易しいものではない。下に向かって、叩きつけていると言った方が正解だった。
あっという間に下まで行った水を追い、瞬きの間に、上まで頭を移してくる。またしても、水を追いながら、一気に滝つぼの真下に、視線は移っている。
――こんなことができるんだ――
水というのは、無色透明で、同じものが猛烈なスピードで移動している。流れ落ちるのを視線で追うなど至難の業のはずである。それなのに、できているということは、かなりの動体視力の持ち主なのだろう。一点をこうだと思えば迷うことなく一徹できるだけの自信と、気持ちに余裕がなければできないものだと思っていた。それを今のような死を前にしてできるということは、それだけ頭の中が無になっているのか、逆に一気に集中できるようになったのかということではないだろうか。
流れに目が付いていっているということは、やはり気持ちの中を無にできているからではないかと思ったが、同時に感じている恐怖も忘れるわけにはいかない。
「今、ここに誰かがやってくるような気がする」
根拠もなかったが、信憑性は感じていた。
そして、思った通り、そこに人が現れた。もし、彼女の精神状態が少しでも違ったものであれば、恐怖から何をしたか分からない。目の前に現れた意外なその人を彼女は、ずっと待っていたような気がしていた。
もちろん、その男性は自分が好きになった男性ではない。彼は思ったよりも臆病で、まわりの圧力にアッサリと負け、彼女を置き去りにして、さっさと家に帰ってしまった。
「ちょうどいい潮時だ」
とでも思ったのだろうか。家に帰ってからというもの、彼女の前に姿を現さなかった。今であれば、
「酷い男だ」
と言われるかも知れないが、当時は戦国時代。何が正しいのか、当時の人間が一番分かっていないのかも知れない。未来の自分たちはその後の時代も知っているのだから、その時の選択の正しさという意味では、同時の人間よりもいいのかも知れない。
ただ、しいて言えば、その時代の風俗習慣の本当のところを知らない。そこがネックになっているのだろう。
誰も自分のまわりにいなくなったということを自覚したからこそ、自らの命を断つ覚悟ができたのだ。男性であれば、戦場での死というものが現実的なものだけに、普段から覚悟もできるというものだ。しかし、女性というのは、どこまで自分が世の中の流れの中にいるのか、分からない。今のように情報が豊富ではないので、親やまわりの年長者から聞くしかない。そう思うと、当時の男性と女性の死への考え方には、かなりの差があったのではないかと感じる緒方だった。
彼女の目となって想像を膨らませていた緒方には、その時誰が現れるのか、想像がついていた気がした。
「やはり」
緒方は心の中でそう叫び、目の前に飛び出してきた影が、もしその時の彼女でなければ、そのままその男に殺されていたのではないかと思えるほどだった。
今の今まで死を意識していた彼女は、その男の姿を見ると、今まで感じていた死を急に感じなくなった。恐怖も一緒に吹っ飛んでしまったのか、男の顔をあっけにとられたかのように見つめていた。
その男がどうしていきなり現れたのかということを、その時彼女は少し考えたが、深くは考えなかった。そのことを、不思議に感じた緒方だったが、緒方の方には、それがなぜか分かったのだ。
「起こるはずだった竜巻が起きず、そのおかげで、目の前にこの男が現れたんだ」
その男は、身も心もボロボロになっていた。
――私よりもひどい状態だわ――
彼女は咄嗟にそう思い、自分が死のうとしていたことすら忘れてしまったかのように感じていた。
彼女は、男に対して弱いところがあった。
元々、好きになった男というのも、弱弱しいところがあり、
「私が守ってあげなければ」
という意識が強かったのだ。
その思いが、今度は突然目の前に現れた男に注がれた。それも無理もないことだった。男はいわゆる「落ち武者」で、完全に弱りきっていたのだ。
彼女は男に近づいた。
本当であれば、そんな危険な男に近づくのは危ないことくらい、ちょっと考えれば分かりそうなものだが、何と言っても、彼女はさっきまで自殺を考えていたくらい、精神状態は不安定だった。
「大丈夫ですか?」
男は俯いたまま、何も答えない。答えるだけの気力がないのか、微動だにしない時間が過ぎていく。
彼女は自分の胸の鼓動を感じていた。そして、男の心臓の音も感じていた。最初は違った鼓動を繰り返していたが、次第に音が一つに重なるようになった。すると、男は少し動き始め、生気を取り戻したように見えた。彼女はホッとして、男が話しかけてくるのを待った。
「かたじけない。声を掛けてくれたのに、わしは身体が衰弱してしまっていて、返事をすることができなかった。許されたし」
絞り出すようにそこまでいうと、頭を上げ、彼女を見つめた。彼女も顔が熱くなるのを感じながら、
「いいえ、大丈夫ですよ。まずは、ゆっくりと落ち着いてください」
精神的にはドキドキしているが、発する言葉は落ち着いていた。それだけ相手に対して自分が優位性を持っていることを分かっているからなのか、自分でも、優位性を持った時の自分が、これほど精神的に余裕が持てるものなのかと、内心驚いていた。
しかも、相手は見知らぬ男で、何と言っても落ち武者である。怖がって逃げ出すのが本当であろうに、やはり一度死ぬ覚悟をしたことで、神経が座っているのかも知れない。
その時になって、彼女はふいに、
「竜巻が起きなかったから、その代わり彼が現れた」
と感じた。
竜巻を感じたのは、さっき、無意識とはいえ、滝つぼに叩きつけられている水を見ていたからだ。目で追えるはずもない水流を追えたことで、ひょっとすると、竜巻が起こるはずだったということを理解できたのは、自分だけだと思っていた。
しかし、実際には、この場所に現れた落ち武者にも分かっていた。
「わしがここに現れたのは、どうやら想像もつかない不可思議な力に委ねられたものなのかも知れない」
落ち着きを取り戻した落ち武者は、そう呟いた。その時、彼女はこの落ち武者と心が通じ合えた気がした。そして、
――この人は私が守ってあげなければいけない――
と、使命感というよりも、一度捨てようと思った命を掛けてでも、助けようと感じたのは、愛情からなのかどうかを自問自答していた。
ただ、この自問自答は堂々巡りを繰り返し、いつまで経っても結論を得られることはないと思っていた。実際にその通りで、堂々巡りを繰り返すくらいなら、早くこの男を匿うことを考えなければいけないと思った。幸い、以前好きになった男ともし駆け落ちした時に、一時退避場所として、考えていた洞窟を思い出した。
それは、滝つぼの裏側にあるところで、絶対に安全だった。今となっては、未遂に終わってしまった駆け落ち、この男のために使えるのであれば、本望だった。ここは流れるような手筈で、彼女は落ち武者を洞窟に案内する。それなりの時間は掛かったが、二人にとっては、あっという間の出来事だった。
滝つぼの奥での落ち武者の生活は、決して楽なものではない。人に知られてはいけない立場であり、命を繋げるには、彼女の力が必要不可欠だった。男としては、
――この女、裏切って領主に言いつけたりしないだろうか?
という恐怖もあったが、今は彼女にすがるしかなかった。
男はそんな自分を情けないと思いながらも、落ち武者になってしまった自分がどれほど惨めなものか、考えていた。
それでも献身的に尽くしてくれる彼女に次第に心を開くようになり、いつしか二人は恋心を抱くようになっていた。最初に意識し始めたのは、彼女の方だった。
ただ、男と別れたことから、落ち武者に乗り換えたという思いや、同情が愛情に変わったという思いではないと感じていた。もしそうであれば、何のために死ぬことを思い止まったのか、意味がないような気がしてきたからだった。
彼女は落ち武者を見ていて、次第に心が落ち着いてきた。自分が死のうなどと考えたことすら忘れてしまうかのようだった。次第に元気を取り戻して行く落ち武者に、献身的な看護と施しは、相手のためだけではなく、むしろ自分に対してのものでもあったのだ。そんな彼女に落ち武者も次第に惹かれていくようになった。
「君は、わしの女房によく似ているんだ」
落ち武者には女房がいた。年齢的には三十歳を少し過ぎていると言っていたので、いても当然だったが、彼女の中では、
――この落ち武者こそが、自分の伴侶だ――
という思いを抱いていた。
そんな時に、自分には女房がいると告げられて、それまで見ていた甘い夢から覚まされたような気がした。
だが、彼女はそれでもよかった。
「あなたの奥さんに似ているのね。私を奥さんだと思ってくれてもいいのよ」
彼女は、落ち武者の本当の奥さんになりたいと思った。だが、そんな甘い生活は長くは続かなかった。
彼女の様子をおかしいと思った村の男の一人が、密かに彼女をつけてきたのだ。
洞窟に入っていく彼女を見て、男は落ち武者を発見した。
彼女としては見つかるはずはないと思っていた。しかし、
――この場所は絶対に見つからない――
という自信があったからで、まさか自分が人から気にされているということを意識していなかったからだ。実際に今まで誰からも気にされない石ころのような存在だった彼女は人から意識されることもなく、その思いが昔は寂しさを感じさせ、辛い思いだったのは、今から思えば、実に皮肉なことだったのだ。
「お前はこんなところに落ち武者を隠していたんだな?」
男は領主に早速告げ口し、男たちを束ねてやってきた。
「こいつをつき出せば、年貢は免除されるんだ。この村がその分、助かるんだ」
というのが、領主を初めとした男たちの言い分だった。
見つからないと思っていたのは、彼女の甘さが招いたことだった。何と言っても、狭い世界での出来事で、しかも、彼女には結婚が元で、少しまわりとの諍いもあった。本人はすでに時効だと思っていたかも知れないが、まわりはそうは見てくれない。彼女はおとなしくしているつもりだったが、いつの間にか落ち武者に恋をしてしまい、相手も女房に似ているという理由から、必然的ともうべきか、二人は恋に落ちた。
恋に落ちた彼女は、知らず知らずのうちに、自分が孤独だった頃のことを忘れてしまっていた。その気持ちが顔に出るのだ。彼女の正直な性格が災いしたのだが、仕方のないことだろう。
そんな中、彼女のことをずっと気にしている少年がいた。彼は相手に悟られないように、密かに胸の内を自分の中にだけ隠していた。表に出せない理由があったのだ。
彼は、僧であった。今はなくなってしまったお寺がこの村の戦国時代には存在したが、その寺の層が、密かに彼女を気にしていたのだ。
――私は仏門に遣える身――
と、何とか自分に言い聞かせてきたが、彼女が他の男性と恋に堕ち、駆け落ちまで考えていたことに自分の中でジレンマを感じていたのだ。
紋々とした日々を送っていたが、それでも何とか彼女が結婚もせずに戻ってきたことで、本人としてはホッと一安心だったが、逆に一息ついたことで、自分の中に不要な余裕が生まれてしまった。
途中から、そのことに気づいてはいたが、最初は分からなかった。いつの間にか、彼女のことを目で追っている自分がいる。そこに今まで自分が感じなかった終わったとは言え、相手の男への嫉妬心があったことに気が付き、今の自分が言い知れぬ不安から疑心暗鬼に陥っていて、どうしていいのか分からなくなりかかっていた。彼は、猜疑心を抱くようになったのである。
男は、猜疑心という言葉を知らないわけではなかったが、まさか自分が猜疑心を抱くようになるなど、思いもしなかった。それには、
「私は仏門に下っているのだ」
という思いが強かった。
仏門が自分の不安を今までは取り除いてくれていたのに、彼女のことに関しては、それが邪魔になってしまっていた。男にとって、初めて女性を好きになったからである。
坊主であっても僧であっても、結婚もすれば、子供も設ける。何と言っても、寺を受け継いでいかなければいけないのだから、子供を設けるのは、他の人が、
「家を守る」
というのと同じことである。
いや、寺を守るということは、それ以上のことなのかも知れない。何しろ、直接神仏に接することができる、
「選ばれた人間」
なのだからである。
彼は、女の行動が挙動不審なことに気づいていた。他の人たちは、そこまで考えていなかったのは、自分たちのことだけで精一杯だったからだ。
もちろん、それは彼女にも言えることだった。自分が今こうやって生きていることができるのは、落ち武者に出会うことができたからだと思っている。そして、
「この人を助けることは、私の運命なんだ」
と思うようになっていた。
彼を助けたからと言って、結婚できるというわけではない。駆け落ちまで考えた時ほど彼女は頭の中が、感情を掻き立てるものには至っていない。落ち武者と恋に堕ちたとはいえ、彼を助けて愛し合っている今を平和に過ごしていければいいという程度にしか考えていなかったのだ。
ある意味、割り切った考えだが、後先を考えているわけではない。そうでなければ落ち武者をかくまうなどということができるはずもなかった。
だが、そんな些細な幸せも終わる時がやってきた。ついに彼は村人に見つかってしまい、すぐにでも彼を捕らえに村の衆が押しかけてくる。彼女は必死になって、彼を逃がそうとした。
しかし、後先を考えていなかった彼女に、何ができるというのだろう。結局、何もできずに追手が迫ってくる。落ち武者も、最初は覚悟を決めていたが、せっかく助かった命、いずれは追手が来るかも知れないと思いながらも、深くは考えていなかった。
そんな状態の二人なので、考えることは一つだけである。
「もう、ダメだわ」
「そのようだな」
男としては、彼女を巻き込むつもりは最初からなかったかも知れない。
しかし自分が死を覚悟した時、目の前にいたのは、同じように死を覚悟した彼女だけだった。そして、覚悟を決めた二人には、自分たち以外の他の人の姿は見えなくなっていたのだ。
「一緒に死んでくれるかい?」
言い出したのは、落ち武者の方だった。
「ええ、もちろん。私はどこまでもあなたと一緒よ」
ここまで来ると、後は滝つぼに身を投げることだった。おあつらい向きに、いや、これ見よがしにと言っていいくらいに、目の前に滝つぼがあったのだ。
「元々、わしはあの時に死んでいたのだ」
と落ち武者がいうと、
「私も、あの時、私は生まれ変わったの。それはあなたと出会ったからよ。そういう意味で、私もあの時に死んでいたのだというのと同じなの」
落ち武者には、自分がどうしてあの時、あの場所にいたのかを話していた。彼はその話を真剣に聞いてくれた。自分は毎日死ぬか生きるかの戦場に身を置いているにも関わらず、男と女といういかにも俗世間の話を聞いてくれたのが、落ち武者に対して最初に恋が芽生えた理由だったのだ。
一緒に話をしていると、
「ずっと前から知り合いだったような気がするわ」
と、彼女の口から出た本音が、男の心を打った。落ち武者が彼女に恋心を抱いた最初というのは、この言葉だったのかも知れない。なぜなら、落ち武者も、心の中で同じことを思っていたからだった。
落ち武者は敢えて、その言葉に共鳴したということを口にしなかった。口にすれば、一瞬にして二人の距離は近づくことだろう。しかし、敢えてそれをしなかったのは、距離が一気に近づくことで、大切な何かを置き去りにしてしまうのではないかという落ち武者の考えだった。
彼は低い身分で、足軽というその他大勢ではあったが、一人になると、やはり立派な男である。生まれさえ違っていれば、きっと大勢の家臣を従える立派な殿様になっていたことだろう。
そんなことは二人の間に関係はない。ただ、女の方からすれば、落ち武者であるにも関わらず、大人の気遣いができる人だということは分かっていた。だから、彼には自分の想いを打ち明けられたのだし、彼と恋に堕ちてしまうことに、抵抗がなかったに近いなかった。
二人は、追手がやってくることを分かっていた。まだ落ち武者がどこにかくまわれているか分からない状態なので、それを追求するには、女に対してしか方法はない。女を捕らえて、何とか吐かせようとするだろうが、今のままの彼女では容易に白状はしないことも分かっていた。
「拷問に掛けられるかも知れない」
そう思うと、彼女もただでは済まされない。そのことは誰よりも落ち武者が分かっていた。だからこそ、
「一緒に死んでくれるかい?」
という言葉になったのだろう。ただ、その言葉には、落ち武者にしか分からない考えが含まれていたのだったが……。
彼女にも自分の置かれている立場が十分に分かってきた。前の駆け落ちとはわけが違う。もう後がない状態なのだ。それでも、彼女は考える、
「遅かれ早かれ、結局死ぬことになるんだわ」
そう思った。
以前、駆け落ちの時に、さすがに死まで意識したわけではなかったのに、
「遅かれ早かれ、結局」
というのはどういうことだろう?
以前にも死を決意した意識があるのだが、記憶にはなかった。不思議な感覚に襲われていたが、その思いがあるおかげか、死に対しての意識は思ったよりも、怖さはなかったような気がする。
「駆け落ちの時もそうだったけど、いざとなると、私は感覚がマヒしてしまうところがあるんだわ」
と感じた。
落ち武者と目を合わせた時、お互いに覚悟ができていることを確認しあえた気がした。今までの彼女は、
「心中なんて、考えられないわ」
と思っていた。
確かにいつ殺されるか、殺されなくても、蹂躙されたり、人質として自由を奪われるというのが、この時代の女性の立場だということは分かっていたので、自分から死を選ぶというのは、意識がなかったと言ってもよかった。もっとも、戦が起こることもない静かな山奥の村ということもあり、時代とは少しずれた世界を生きている意識はあったことが、あまりいろいろ考えることをしないようにするくせを付けたのかも知れない。その思いがあることで、
「考えれば考えるほど堂々巡りを繰り返す」
などということを考えないようにしていた。
ただ、それだけにこの村独特の風習が生まれ、理不尽なことでも、
「村さえよければ」
という発想からか、横行してきたこともある。もちろん、ここだけではなく、
「閉鎖された村」
では、同じことが起こっていたことだろう。
歴史書に残っているわけではないので、噂が噂となり、あるいは、都市伝説として残っているものの正体は、ここのような
「閉鎖された村」
から起こったことが多いのではないだろうか。
二人は覚悟を決めて、滝つぼに飛び降りた。いや、飛び降りたつもりだったが、寸でのところで助けが入った。それが、彼女を気にしていた僧の存在だった。
「おやめなさい。こんなところで命を落としていかがいたします」
僧はそういって、いかにももっともらしい説教を行った。そして、
「男の方は、私の方でしかるべき処置を試みることにいたします。女性のあなたは、ご一緒させるわけにはいきません。ほとぼりが冷めるまで、私の寺にて養生されるがいい」
と言って、二人を説き伏せた。
落ち武者の方は少し気になっていたようだが、彼女の方はすっかりと信じ込んでいた。いや、本音を言うと、
「この人を信じなければ私たちは終わりなんだわ。別れは辛いことだけど、彼を助けるためにはこれしかない」
と思ったのだ。
彼女は、
――悲劇のヒロイン――
を演じたいと思っているところがどこかにあった。そうでなければ、二度も違う男性相手に、このような波乱万丈な人生を選択させられることもないだろう。本人にとって願ってはいなかったことではあるが、
「男性に尽くすことこそが自分の人生」
と考えていた。
この時代の封建的な時代であれば、それも無理もないことだが、その中で独特の理念が存在している村にあっては、一種特殊な考えだったのかも知れない。
つまりは、育った環境の中で、普通に育まれた感情ではないということであった。波乱万丈の人生も、持って生まれた彼女の本能が影響しているに違いない。
だが、彼女の本能の中で、本当に波乱万丈を演出した性格というのは、この時の感情にも表れている。彼女は、人を疑うことがほとんどないのだ。自分が不幸な運命に翻弄されているのも、本当は男を信じ込んでしまっているからなのに、そのことに気づいていないことで、甘んじて自分で自分自身の運命を受け入れていることを美化することで、自分を納得させるしかないのだった。
そんな彼女に不信感を抱いている男性は少なくはないが、逆に彼女のことを好きになる男性も少なくない。好きになる男性の中には、彼女のそんな性格を、利用してやろうと思っている人もいた。その都度男に騙されてきたのだが、何しろ小さな村でのこと、まだ子供の頃だった彼女のことはさほど大きな事件となることはなかった。
実は彼女と駆け落ちを考えていた男も、途中までは、
「この女、利用できる」
と思っていたふしがあった。しかし、ミイラ取りがミイラになったとでもいうべきか、この男自身も、彼女のことを好きになってしまった。そういう意味では、利用しようと思った相手を取り込んでしまうところもあり、彼女を信用できないと思っている人の中には彼女のことを、
「魔性の女」
というように感じている人もいたようだ。
だが、それはあくまでも彼女がコウモリのような存在だったからだ。
つまりは、村人には、他の村のような女性に見え、この村とはそぐわないように見え、他の村から見て、いかにも閉鎖的な村に見えていたという、いわゆる
「どっちつかず」
の性格に見え、とらえどころのない女性として見られるようになっていた。
それを最初に感じたのが、他ならぬ落ち武者だった。気が付いていたが、彼女にすがるしかない彼は、最後の最後で、
「一緒に死んでくれるかい?」
という言葉になったこ、本人にしか分からないことだった。
落ち武者はしたたかな性格であったが、そんなことは彼女には分からない。
「この人は私がいなければダメなんだわ」
という気持ちだけが、彼女を突き動かしていた。
しかし、彼女は世間知らずだった。落ち武者が、
「もうダメだ」
と言えば、それを信じるしかなかった。
本当はそれ以外の方法を見つけるのが本当なのだろうが、その時の彼女は、死しか頭になかったのだ。
一度思い込むと、なかなか他を考えることができないのも、彼女の性格だった。猪突猛進というべきか、思い込んだら、まず突っ走るのだ。
だが突っ走ったところで、何か根拠に基づくものがあるわけではない。すぐに自問自答を繰り返すようになり、誰にでも目に見える結論に到達するしかなくなってしまう。誰もが目に見える結論というものほど、あてにならないものはない。彼女はしょせん世間知らずでしかないのだ。
だが、彼女には寸でのところで、人の想像を超える何かがあることがある。それが彼女をして、
「魔性の女」
と言わしめるものなのだろう。
この時二人は、覚悟を決めてそのまま滝つぼに身を投げた。
二人の身体は宙に浮き、下に落ちていくはずだったが、宙に浮いたまま、なかなか下に落ちていかない。それどころか、心なしか、高くなっていくくらいだった。
それだけ滝の勢いというのは凄まじいものがあった。
彼女は何も感じていないようだったが、落ち武者は落ちていくはずの身体が、さらに浮かび上がってくるのを感じていた。無意識に泳ぐような仕草をしたのは、助かりたいという気持ちの表れだろうか。
しかし、すぐに我に返った。
「どうせ死ぬんだから、一気に滝つぼに叩きつけてくれ」
と感じた。
今さら死ぬまでの間に時間を取ったとしても、それは生殺しのようなものだ。何も考えることなく叩きつけられれば楽に死ねると思うのだ。
死を覚悟した人間にだって、
「楽に死にたい」
という思いはある。
しかも、落ち武者は一度戦に敗れて死を覚悟したのだ。それでも彼女に助けられ、一度は、
「生まれ変わったつもりで生きてみよう」
と考えたのだ。またしても死を覚悟しなければいけなくなるのは、最初に覚悟した死に対してよりも何倍も辛いものではないだろうか。
「そう何度も、死ぬ覚悟なんてできないものだ」
と感じ、
「どうせなら、戦に敗れた時、死んでおけばよかったのだ」
という思いにも至るだろう。
彼女に助けてもらった命だったが、結局は彼女の甘さから、また死を覚悟しなければいけなくなるのだ。そう思うと滝つぼに一気に叩きつけられない自分の運命は、非情なものでしかないことを悟った。
身体が宙に浮いている間、いろいろなことが頭をよぎった。国に残してきた家族への想い、その思いを落ち武者になってから自分で無理に打ち消してきたことを後悔していた。
――思い出してやらなかったことが、今ここで思い出さなければいけなくなってしまったのかも知れない――
死への苦しみというものが、どんなものか、今さら思い出していた。落ち武者になってしまった時も同じことを考え、彼女に助けられた時から今まで、自分は記憶を失っていたのではないだろうか。
そんな風に感じると、
――わしの記憶は、どこに行ってしまうのだろう?
と感じた。
自分はこのまま死んでしまう。死んでしまったら、魂は残るというが、本当にそうだろうか? 記憶まで残るとは思えない。自分の記憶をどこかの誰かが拾いあげて、何かの拍子に意識することもあるのではないか?
落ち武者は、自分が初陣の時を思い出していた。
あの頃は、死を恐れることよりも戦に出て、自分が手柄を立てることしか頭になかった、たかが足軽ではあったが、いつ何時、相手の重鎮、下手をすると大将の頸を上げることもできるかも知れない。そんな思いをなぜ今さら思い出すのかと思ったが、そういえば、あの時、自分の記憶ではない何かが頭をよぎったのを思い出した。
それは、戦に対して、それまで感じていたこととはまったく違った感覚で、訳も分からず、恐怖が頭の中を巡っていた。
――どうして、こんな思いに駆られなければいけないんだ?
そう思った瞬間、今度は一気に背中に痛みを感じ、急速に下の方に叩きつけられていくのを感じた。
「ああ、いよいよ最後か」
この思いを感じることができたかどうか分からない。落ち武者はそのまま滝つぼに叩きつけられていた。
では、女の方はどうなったのだろう?
彼女の方は、運よくと言うべきか、身体が宙に浮いたおかげで、そのまま身体の軽さからか、滝つぼに落ちようとしていたにも関わらず、飛び込んだあたりに、もう一度叩きつけられた。
ただ大した高さではなかったので、気を失った程度で済んだが、それでもケガを負っていた。そのまま放っておけば命はないところだが、心中の様子をじっと見守っていた男が一人いたのだ。
その男こそ、彼女のことをじっと見ていた僧だった。心中しようとしている二人をなぜじっと見つめていたのか、我に返った今の彼にはよく分からなかった。本当は止めるべきだったはずなのに、
――このまま二人が死んでくれれば、私は迷わずに済むのかも知れない――
という思いがあったのも事実だった。
「彼女がいるから、私は惑わされているのだ」
好きになった相手に自分の気持ちを打ち明けることもできず、悶々とした気持ちになってしまっていたのをすべて相手のせいにすることがどれほど気が楽なのかということに、彼は気づいていた。
もちろん、僧としては許されることではないが、まだまだ彼は未熟な発展途上の修業の身、彼女への未練を断ち切って、修行に専念するには、相手のせいにしてしまうことも仕方のないことだと思うようになっていた。
――それなのに、どうして彼女は死んでくれないんだ――
と、その場に居合わせたことを今さらながらに、後悔した。だが、落ち武者だけが死んでしまって、彼女だけが生き残った。その事実に若い僧は、
「助けなきゃ」
と、純粋に思ったのは事実だった。若い僧は彼女を寺に匿ったが、いつまでも匿っていられるわけではない。いずれは見つかってしまうことになるだろうが、それまでに何とか次の手立てを考えておかなければならない。
女を奥の蔵まで連れて行った時、意識は戻っていなかった。
「まさか、このまま意識が戻らないなんてことはないだろうな」
と、若い僧は不安に駆られたが、そんなことはなかった。二日間ほど眠っていたが、三日目の朝には目を覚ました。
「ここはどこなの?」
彼女は自分の置かれている立場を分かっていない。自分が死のうとしたことも、すぐには思い出せないようだ。
無理もないことだと若い僧は思った。自分が同じ立場でも、きっと思い出せるはずもないと思ったからだ。だが、それはショックから来ていることであって、根本的に記憶が欠落しているわけではないので、ゆっくり思い出せばいいと思っていた。むしろ急速に思い出して、また死を考えないとも限らない。そのシナリオが、若い僧にとっては、一番嫌なものだった。
助けたことが仇になるというよりも、自分の身が危うくなるかも知れないという思いがあったからだ。本当なら落ち武者と一緒に村人に突き出さなければいけない相手、しかも、最初に彼女に疑念を抱いたのは自分だったではないか。これ以上、自分の思惑から独り歩きを始めると、どうしていいか分からなくなる。それが、若い僧にとって、一番困ったことだったのだ。
――このまま、記憶が戻らないということが一番いいのではないか?
若い僧にとって何が嫌かというと、自分が余計なことを言ったせいで、彼女がまた死を考えるようになるのが怖いことだった。
意識を取り戻した彼女は、言動を聞いていると、どこかがおかしいことは若い僧にも分かっていた。
「いったい、何が言いたいというのだろう?」
彼女は記憶は失っているようだが、それも部分的にだった。僧のことは覚えているし、以前に駆け落ちをしようとした記憶も残っているようだ。しかし、落ち武者を匿っていたことはおろか、落ち武者がいたということすら覚えていない。かといって、その頃の記憶がないというわけではない。断片的にではあるが、訊ねてみると、確かに落ち武者と一緒だったと思われる時期の記憶は残っている。
ただ、その記憶というのは明らかに彼女の目線での記憶ではないのだ。彼女のことを客観的に見ている記憶だった。
だが、若い僧にはそんなことはどうでもよかった。それが誰の記憶であれ、落ち武者の記憶がないということが彼にとって一番ありがたいことだったからだ。
若い僧には、身投げを試みるまでの彼女が、落ち武者に対してただならぬ気持ちを抱いていることを危惧していた。
――あんな奴よりも、私の方が――
という意識である。
相手は武士と言っても足軽で、しかも落ち武者ではないか。功徳を積んで、これから高貴な僧になろうかとしている自分とは、最初から比較にならないと思っていたのだ。それが嫉妬であることに気づいていなかったのは、若さゆえだと言って、片づけられるものではない。
女は最初こそ、食欲もなく心配されたが、次第に顔色もよくなり、起き上がれるようになっていた。二人が心中を図ってひと月ほどが経っていたが、その頃には、心中の相手であった落ち武者がどうなったのか、噂は村全体に広がっていた。
ただ、噂には尾ひれがつきもので、
「落ち武者は、滝つぼに叩きつけられて、即死した」
という話や、
「いやいや、死体は上がらなかったので、どこかで生きているという話もある」
という話など、さまざまだった。
一か月という期間は、噂を広げるところまで広げる期間であり、それが一つになることはないだろう。
「人の噂も七十五日」
というではないか、狭い閉鎖された村のことなので、そんなに長い話題になることもないだろう。そう思うと、落ち武者がどうなったのか、噂だけでが暴走する形で、尻すぼみになってしまうことは予想された。
幸い、彼女は落ち武者のことを覚えていない。今なら、そんな根も葉もない噂を聞かされても、他人事のように思うかも知れないが、それでも、彼女に落ち武者の話題を向けることは、若い僧にとっては冒険以外の何物でもなかった。
しかし、彼女が冷静になってくれば来るほど、若い僧の精神状態はおかしくなってきた。何か歪みのようなものがあるように思えてならない。もし、誰か客観的に見ている人がいたとすれば、
「彼は、何かあることをきっかけにして、思考回路が狂ってしまったのではないだろうか?」
というであろう。
表立って、彼の思考回路が狂うようなことはなかった。女性を匿っていることで、次第に、
――誰かにバレたらどうしよう――
という思いがあるのは事実だ。下手をすれば、和尚様から追い出されるかも知れない。しかし、若い僧とすれば、彼女を匿っていることは「人助け」であり、放り出すことは仏門に入った人間のすることではないと自負している。もっともそれは彼女に対しての贔屓目があってのことであり、立場的にはどうなのかを考えると、不安しか残らない。
――なるべく考えないようにしよう――
逃げに走っているのは分かっていたが、それ以外に、自分が人助けをしているという正論が通らない気がした。
自分が、他の村人と違う人間だということをずっと意識してきたが、この時ほど、そのことを正当化させたいと感じたことはなかった。この時に若い僧が感じた思いは「閉鎖的」という感覚であり、そう感じたことが、精神的なずれを生じさせたのだということに気づくはずもなかった。
自分の記憶が定かではない女性を匿うということがどれほど大変なことか、身を持って感じている若い僧だったが、彼の感覚はどうしても、「他人事」であった。
――記憶がないということはどういうことなんだろう?
他人事だとは思いながらも、何とか想像していようとはしていた。
例えば、今から一時間過ごしたとして、一時間後に、その間の記憶が消滅してしまったとすれば、どのように感じるだろう?
記憶の最後がつい今の感覚になってしまい、一時間が何もなかったわけではなく、時間を飛び越えて今に至ったと考えられないこともない。
彼はそんな発想を持っていた。
戦国時代にそんな考えを持てる人がどれほどいるというのだろう? ひょっとすると、僧という神仏に近いと思っている人間であれば、非現実的なことを考えるのもありなのかも知れない。武士や庶民のように、俗世に生きている人間にとって非現実的なことを考えるのは、自分たちにとって何の役にも立たない。それは損得の問題ではなく、もっと切実な生活している上で、必要不可欠なこと以外は、考える必要のないことだという世界なのではないだろうか。
特に武士の棟梁であったり、国主であれば、余計なことを考える暇などありはしないからだ。
封建的な時代であればこそ、余計に自分たちの役割が確固たるものであるべきではないだろうか。一糸乱れぬ統率がなければ、すぐに他国に侵略され滅んでしまう。それこそ封建的な時代の中でも群雄割拠が入り乱れる戦国の世だと言えるのではないだろうか。
そんな中、僧侶の立場というものは、曖昧だった。この時代の僧侶は、政治にも積極的に参加していた。それは、武士の世の中が来るまでの過去の時代の名残りからであるが、何と言っても、彼らは武装勢力でもあった。しかし、名もない山奥の僧には武装できるほどの集団があるわけでもなく、村の中でひっそりと暮らしているだけの立場だった。決して表に出ることもなく、神事がある時だけ「お勤め」をする。少なくとも村人には、それだけしか目には映っていなかった。
ただ、この若い僧は少し違っていた。
静かにしていればいいものを、どこか俗世に興味を持ってしまっていた。まだ若いので、破戒僧とまでは行かないが、心の奥では俗世間の人間と同じような欲望が渦巻いている。
特に女性に対しての欲望は、同じ年代の青年たちと同じくらいのものがあり、自分が僧であるという立場なので抑えなければいけないという気持ちが欠落していた。
最初から欠落していたわけではない。ある日突然欠落したと言ってもいい。
「悪魔が私に囁いたのだ」
と思っていた。
具体的な声が聞こえたわけではない。自分の心境の変化を自分で納得させるために考えた詭弁なのだろうが、それを認めたくなかった。認めてしまうと、今の自分の存在を自分自身で否定してしまうと感じたからだ。
この時から、彼にはジレンマが生まれるようになった。
「僧というもの、迷いが生じても仕方がないが、それを解消できるのは自分でしかない。そうでなければ、俗世間の人間たちを導くことができないからだ」
と僧がまだ子供の頃に、神主から言われたことがあり、
「どこに導くのですかか?」
と訊ねると、神主は笑いながら、
「それは、これから自分で探していくものだよ」
と答えた。
その時の神主の笑顔は、それまでに見たことのないものだったが、印象的なものだった。今ではそれが苦笑いだと分かっているが、子供の頃から、その時の神主の笑顔を自分もできるようになりたいと思っていた。
いつの間にかできるようになっていたが、そのことに若い僧は、ずっと気づかないでいた。そのことに気が付いたのは、自分にジレンマがあるということを感じるようになってからだった。
いや、ジレンマに気づいたから、自分の笑顔が苦笑いだと思うようになり、鏡を見て初めて、
「あの時の神主の笑顔とそっくりだ」
と感じたのかも知れない。
どれが最初だったのか分からないが、その時の順番の違いが彼にとって大きな問題であることは間違いない。
「私にも他の人生があったのかも知れないな」
と感じたが、それを感じた瞬間、それまでに感じたことのない恐怖を感じた。若い僧にとって初めて感じた「死」というものへの予感だったのだ。
自分が「死」を意識していると感じた時、
「あの女のせいだ」
と思った。
滝つぼに身を投げた時、少なくとも死を意識したはずだ。本人は忘れているようだが、その思いが自分に伝染したのではないかと思ったのだ。
だが、それは一瞬のことで、それを自分に対しての戒めではないかと思ったが、これから自分が感じることへの戒めだとは思わなかった。それだけ彼は落ち武者と身を投げた女に対して本気で恋をしてしまっていたのだ。
最初こそ純愛だったのかも知れないが、僧は次第に「オトコ」に変わっていった。それまで、
「禁欲こそ、功徳の道」
とばかりに、精進と修行の毎日だった自分を納得させる以前に、何も疑わない性格にしてしまったのは、
「私は俗世間の人間とは違うのだ」
という、優越感のようなものがあったからだ。
もちろん、本人は優越感だなどと思っていない。だからこそ、精進できてきたのだ。女を助けたことで自分の中に疑問を抱かせるものが浮かび上がってこようとは思いもしなかった。
「私はまだまだ修行が足りないんだ」
という思いもないわけではない。その思いがジレンマを作り、自分を苦しめることになる。
「自分を納得させるために苦しむなんて理不尽だ」
と思うようになると、自分が女を好きになってしまい、邪な気持ちを抱いていることに気づくようになった。
彼は真面目な僧だった。自分に邪な気持ちが宿った時点で、自分は僧として修業を積む資格はないと思っていた。なぜなら、それだけ自分に対して邪な気持ちを抱くなど信じられないと思うほど、自分を信じていたからである。
彼は大切なことを忘れていた。
「一番自分のことを分かっているのは自分のはずなのだが、本当に自分が一番自分のことを信じられるかというと、一概にそうは言えない」
ということである。
さらに、
「自分のことを信じる時には、『信用する』という言葉を使うが、他の人から信用される時というのは、『信頼される』という言葉に変わる」
と考えていた。
たかが、言葉尻の問題なのかも知れないが、彼にとって、「信用」と「信頼」とでは言葉のニュアンスがかなり違った。それは彼に限ったことではないが、言葉尻の違いに違和感を感じた人がいたとしても、それ以上詳しく考える人は稀で、彼はそんなことを考えているのは自分だけだと思っていたが、まさしくその通りだろう。
特に戦国の世というのは、現代とは違う。そういう意味では、この若い僧は、現代の人間に通じるような考えを持っていたに違いない。
考えられるだけ考えてみたが、結局はどこかで行きどまってしまって、考えていることは堂々巡りを繰り返すしかなかった。男は苦悩の末、考えることを自分で拒否する道を選んでいた。
そうなると、進む道は一つしかない。本能の赴くままに行動することだった。
男の本質は、今まで真面目で実直だと思っていた性格とは似ても似つかぬもので、一本緊張の糸がプツンと切れると、その本質は意外と悪知恵の働くものだった。女の方とすれば、
「お坊様なのだから、ご無体なことはしないだろう。しかも、身を投げた私を助けてくれた恩人なんだから」
と、完全に信用しきっていた。
いや、信頼していたと言ってもいい。相手に対して信用しているだけでは、どこか心の中に、まだ疑念が残っているのだが、信頼しているところまでくると、よほどのことがない限り、疑うことをしない。
つまり裏切られてショックが大きいのも、信頼していた相手から裏切られた時だ。信用してしまったことを後悔するのは、信用するところまでは自分の意志であり、そこから信頼に結びつくには、自分の意志だけではどうにもならない相手の目に見える行動や言動が疑う余地のないほどの信憑性を帯びていなければ成立しないことに違いない。
僧であるという立場と、一度は死を決意して、助けられた命であるということを感じた時点で、女には絶対的な負い目があった。
「この男を信用しなければ、このまま生きていけない」
と思ったのも事実で、一度死んでしまおうと思い、覚悟を決めた女。
「そう何度も死のうなんて覚悟、持てるものではない」
と自分に言い聞かせ、僧にもそういって、笑って見せた。彼がどこまで彼女の笑顔を信じたか分からないが、最初の頃の女は、僧から信用される必要などないと思っていた。
女の気持ちを知ってか知らずか、僧は自分が女から信頼されているという意識を持っていたことが欲望の抑えになっていたのに、今度はそれを逆に利用しようと考えていた。
「この女はもう私に逆らえないのだ」
自分に身を委ねるしかない女は、気持ちはとっくに萎えてしまっていて、自分に服従するものだと思っていた。しかも、彼女はマゾ体質で、自分はサディスティックなところがあると思い込んでいたのだ。
なぜなら、今まで自分にサディスティックな部分などないと思っていた自分が、この女を世話するようになってから、頭の中に抱く妄想は、サディスティックなものだったからだ。
それを男は、
「この女の性が、私の眠っていた性格を呼び起こしたのだ」
と、彼女の存在を、火に対する油のような存在に思っていた。
男がどのように悪知恵を弄したのか、自分でも覚えていないが、巧みに彼女に言い寄って、契りを結んだ。
彼女は、男が思っていた通り、マゾ体質だった。それが男を狂わせたのも事実だった。
もし、少しでもマゾ体質なところが見えてさえいなければ、男も彼女に対してサディスティックな部分を見せなかっただろう。ただ彼は真正のサディスティックな性格ではなかった。自分がサディスティックな部分を表に出したことを意識していなかった。
女は、サディスティックな部分が見えた男に対して、過剰に反応した。必死になって抵抗したのである。しかし、悲しいかな男の方はそんな彼女の態度に、
――これも、マゾ体質の成せる業なんだ――
と思い込んでしまった。
そうなると、お互いの気持ちは平行線、交わるわけもなく、行き着く先は悲惨な結末しかない。
女のショックは計り知れない。男に襲われて必死に抵抗している間に頭をよぎったのは、死を覚悟して落ち武者と一緒に滝つぼに飛び込んだ時のことだった。その時は必至で無我夢中だったことで、感覚がマヒしていたはずだった。しかし、助かってみて、まさかその時の感覚を思い出すことになるなど、思いもしなかった。
「もし思い出すことがあるとすれば、それは本当に死ぬ時だわ」
と思っていた。
それが、いつどのような形で訪れるのか分からなかったが、せめてあの時ほどの恐怖と不安に駆られることのない、
「安らかな死」
を、望んでいたに違いない。
しかし、心のどこかで、
「あの時死んでいた方が幸せだったかも知れない」
と思うような結末が待っているとも考えられた。それだけに自分の中で信頼できる相手がほしかったのも事実だった。
――それが、この男だったはずなのに――
これは、彼を信用したことに対しての後悔だった。
そして、後悔を通り越して、彼女はこれ以上ないというほどの恐怖を味わった。彼女にしてみれば、
「死ぬことよりも恐怖は大きかった」
と思っている。
しいて言えば、そのおかげで今度は死ぬことへの恐怖心が和らいだとも言える。
「今なら、死ぬことができそうだわ」
一度死を覚悟して、死ぬはずだったあの時に、彼女は戻っていた。
「待たせたわね。私も今から行くわね」
そういって、昔の記憶が完全によみがえった彼女は、滝つぼから飛び降りた。気持ちは安らかだった。
今度は完全に死ぬことができた。彼女にとって、それが幸せだったのかどうなのか誰にも分からない。しかし、死を選ぶことが幸せと同レベルで考えていいものなのかどうかは、やはり死んだ人にしか分からないことだろう。
それから、その僧がどうなったのか、誰にも分からない。
分かっていることは、そのそのお寺がそれ以降なくなってしまったということだ。どのようになくなってしまったのか分からないが、古文書にも記されることもなく、
「この世からその存在が消えてしまった」
と言っても過言ではないだろう。したがって、その僧のことはおろか、女が落ち武者を匿っていたことも、落ち武者がこの村にいたこと自体も分かっていない。一人の女が駆け落ちをしようとしてできなかったという事実だけは残っているが、それが落ち武者の女だったのかどうか分からない。女の存在すら、怪しいものだった。
もし、それらのことが歴史上の事実として表に出ることがあるとすれば、ちょっとしたきっかけによる歴史が変わってしまうことだろう。
いや、これらのことが事実として残っていない世界の方が、どこかで歪んでしまったのかも知れない。ただ、事実を裏付けるような事柄が、「都市伝説」として残っているだけだった。各地に残っているであろう、出所の分からない「都市伝説」の多くは、この村の伝説と同じようなものなのかも知れない。
その都市伝説というのは、
「同じ村長が在職中に、一度起こった事件は二度と起こることはない」
というものだった。
その思いが、一度死を覚悟するという恐怖を感じたあと。これ以上ないと思っていた死の恐怖よりも、さらに恐ろしいショッキングなことに見舞われた彼女の気持ちが、伝説として残っているからだった……。
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