第2話


 「ねえねえ、吉岡。」

 背中合わせの位置にいる二階堂由衣がキャスタ付の椅子に座ったまま下がってくる。彼女が猫撫で声を使って話しかけてくるときはお願い事がほとんどだった。シフトを交代してくれ、が第一候補、第二候補は飲み会のお誘いだろう。彼女は陽菜よりも二か月だけ入社の早い先輩で年齢は二階堂の方が一つ年上だった。


 「なんですか?」

 陽菜はモニタの数字と睨めっこしながら二階堂の方も見ずに返事をした。全国チェーンのコンビニエンスストア、その会計課の仕事は文字通りフランチャイズ店の会計処理が主であり、不明な会計処理があった場合は受け持ち店へと電話で問い合わせをすることだった。その受け持ち店で高額の返金処理が上がってきたがレシートが未添付の為、内容が分からない。電話をして尋ねなくてはいけないな、と考えていた時だった。

 「今日って暇?」

 「今日ですか?」

 陽菜は返事をしながら電話の受話器を取って対象店の電話をダイヤルした。

 「お世話になります。地区事務所会計課の吉岡です。松浦オーナーはいらっしゃいますか?」

 電話口の相手は女性のアルバイト店員だろう、声から考えて四十代くらいだろうか、保留音が流れている間に 陽菜はそんなことを考える。

 「お世話になっております。会計の吉岡です。二十二日の売り上げ日報に記載されている返品処理の内訳についてお調べいただいてもよろしいでしょうか? はい、はい、そうです、金額は 六千百十円です。」

 松浦オーナーが電話の向こうで日報ファイルを調べている音が聞こえた。おそらくタバコのカートンを間違えて販売したか何かなのだろうな、と陽菜は想像する。

 「はい、タバコをお客様都合で返品交換と コーヒーのサイズ間違いですね。ありがとうございます。はい、それでは失礼いたします。」

 陽菜は受話器を置いた。

 一連の動作を二階堂は黙ってみていた。

 「何かあるんですか?」

 「飲み会があるんだけれど 吉岡も一緒にどうかな、って思って。」

 「合コンですか?」

 「うん、わたしの友達の紹介なのだけれどね、三対三で飲もうって話になっていて。」


 流石に急過ぎるな、と陽菜は思った。おそらく最初に予定していたメンバに欠員が出てその役目が自分に回ってきたのだろう、と思う。もちろんそういう場に参加するのは取り立てて好きではないけれど 嫌いでもない。そういうお誘いがないと自分から誰かを誘って飲みに行くということもないし、外食もすることもあまりない生活をしている。まだ自分にも需要はあるのだな、と嬉しくは思うのだが 流石に急すぎる。

 「ダメ?」

 両手を合わせて上目遣いで二階堂は陽菜を見つめた。

 「今日はちょっとすみません。シフト上がりでネイルの予約をしているので。」

 陽菜は両手を二階堂に向けた。派手なネイルは流石に服務規程に抵触するのだけれどシンプルなものならOKであるという暗黙の了解が会計事務所にはある。

 「そうかぁ、急だもんねぇ………。」

 二階堂は残念そうに言った。

 「すみません、せっかく誘ってもらったのに。」

 陽菜は二階堂の目を見て謝った。

 「仕方がないよぅ、わたしだって同じ立場ならそっち優先するもの。」

 そう言って二階堂は両手の爪を陽菜に見せた。彼女の爪にはラインストーンが散りばめられていて服務規程は余裕でアウトのはずなのに 注意を受けたところを見たことがないのは要領が良いのか、例の噂が本当なのか、のどちらかだろう。


 陽菜は横目で会計課の課長 嶋田を見た。先月四十二歳の誕生日を家族で祝ったと話していた彼は趣味がゴルフで年中、日に焼けているイメージがある。左手だけがグローブをしているので焼けていないが それを自慢にしている節があった。女性の多い会計事務所の中で長年仕事をしている為か、女性の扱いに対してソツがない。家族旅行に行けば皆に行き渡る分のお土産を買ってくるし、誕生日にはプレゼントを渡してくれる。趣味のゴルフにはとどまらず基本的にはアウトドア派なので体型は引き締まっており それが着ているスーツの上からでもわかる。もともとはフィールドカウンセラ業務で担当地区のフランチャイズ店の相談役をしていたこともあり 人当たりも良い。仕事上で彼のことを悪く言う人はいないだろう。あくまでも仕事上という前提では………。表があれば裏があるのは人間として当然のことで世間的には良き家庭人であり、会計課の頼れる上司でもある嶋田だが 裏側は女性関係が派手で 部下に手を出す要注意人物とされていた。そしてその嶋田と二階堂が不倫関係にあるという噂を陽菜が耳にしたのは半年ほど前だった。事の真偽はわからない、直接確認をしたわけでもなく、仲睦まじく歩く二人の姿を目撃した同僚から伝わってきただけだ。


 誰と誰が交際して それが適切か、不適切かなど他人の自分には関係など無いではないか、本当に面倒くさい………、陽菜は溜息をつく。ランチタイムまであと二分ほどだった。

 「吉岡、今日はお弁当?」

 二階堂が聞く。

 「いえ、買いに出かけるか、ランチに行こうかと思っていますけど。」

 「じゃランチに行こ、ランチ。」

 「わかりました。」

 噂のこともあってか、二階堂はほかの同僚からは敬遠されている節がある。そしてそれを本人も自覚しているのか、どちらかといえば中立の立場である陽菜を誘ってくることが多い。


 二人して事務所の近くにある洋食店に入る。昼間になれば近隣のビジネスマンで混雑する店はハンバーグランチが人気で値段もワンコインだったが つい先日、物価高騰の煽りを受けて百円高くなりワンコインが売りではなくなったが それでも陽菜たちが店に入った時には満席近かった。

 「そういえばあの元彼はどうなったの?」

 おしぼりで入念に手を拭きながら二階堂がついでのように聞いた。ランチに付き合ってくれたお返しなのか、黙りがちな雰囲気を嫌ってか、話を振ってくるのは彼女の方からが多い。

 「相変わらずですよ。」

 「相変わらずってまだ帰り道につけて回っているってこと?」

 二階堂は驚くように言った。

 「はい。」

 陽菜は返事をする。慶悟の話を彼女にしたのもこうやって二人でランチに出掛けた時だった。同じように話を振られて 何気なしに元彼に帰宅時はいつもつけられている、とちょっとの話題提供になればと思って陽菜は言った。

 「大丈夫なの?」

 「実害はありませんからね、今のところ。」

 陽菜は答える。自分は警護対象者で離れた位置からSPが警護してくれているだけと思っていると伝えると二階堂は少し呆れた顔をした。

 「気持ち悪くない?」

 「そう思ったら警察に相談しようかとは思います。」

 「よりを戻す気があるとか?」

 「ないです。」

 陽菜はきっぱりと言う。すでに彼に対しては何の気持ちも残っていなかった。否、もしかしたら付き合い始めた時からそうだったのかもしれない。彼が毎日のように自分を付きまとっていることを自分が放っているのも彼に対して何の感情も抱いていないからだろう、と陽菜は思っている。

 「しばらく男はいらないかなって思うんですよね………。」

 「なんで? 寂しくならない?」

 「別に。」

 陽菜は不思議に思った。なぜ特定の彼氏がいないと寂しいということになるのだろう。他人と付き合うという行為は知らず知らずの内に神経をすり減らす行為だ。相手のことが好きだから、好きでい続けてもらいたいから、そんな単純な理由でどこかで折り合いをつけながら 男も女も一緒にいることを選ぶ。それが陽菜にとっては窮屈なのだ。籠の中の鳥は窓の外に広がる青い空を見つめて自由に飛べない自身の境遇を嘆いているはずだ。好きで飼われている動物などいない。人間だけが自ら進んで 自身に首輪をつけ 自由を放棄するのだ。恋人などいざというときは足枷でしかないはずだ。足枷が無いことを喜ぶ人間は大勢いるが 足枷を嵌めたいなどと思う人間はいないだろう。

 「寂しいんですか?」

 陽菜は二階堂を見つめて尋ねた。

 「そりゃあねぇ時々、無性に寂しくなるよ。周りはさ、学生の時から付き合っていた彼氏とかと結婚しまくるし、私はなにをしているんだろうってね………。」

 グラスの中、冷えた水に浮かぶ氷を彼女は指先で軽くつつきながら言った。

 「マッチングアプリとかでさ、良いなって思う人とかとデートとかしてみてもさ、説明は出来ないけれど なんかどこか違うなぁって思ったりして 結局、それ以上は進むこともなく………。」 

 「ペットを飼うっていうのもありじゃないですか?」

 「ペットぉ………? ダメだよ、ペットはダメ。」

 二階堂は首を振った。

 「どうしてですか? 室内犬とかめちゃくちゃ可愛いと思うし、癒されますよ?」

 「一人暮らしの男でも女でもペットを飼うと婚期が遠のくって昔から言うでしょう?」

 「はじめて聞きました。」

 陽菜は言う。


 目の前に深いお皿に盛りつけられたハンバーグセットが運ばれてきた。きちんと両手を合わせて いただきます、と呟いてからフォークを使ってハンバーグを割った。肉汁がしっかりと封じ込められた美味しいハンバーグだ。職場の近くにこの店があって本当に良かったと思える瞬間だった。

 「そうだ。私、昨日、クマを助けましたよ。」

 「熊? って、あのミカヅキとかホッキョクとかのあのクマ?」

 二階堂が混乱しているのが目に見えてわかった。

 「種類はちょっとわかりませんし、本物ではないですけどクマなことに間違いはありませんね。」

 「落ちていたヌイグルミを拾ったって話かぁ………、ややこしいこと言わないでよねぇ。」

 「ヌイグルミではなくて 着ぐるみですね。テーマパークとかにいるような、ああいう中に人が入って活動するやつです。」

 「着ぐるみ………を助けた………、ダメだ、私の想像力が乏しいのか、どういう状況になれば着ぐるみを助けることになるのかさっぱりわからない。」

 二階堂は首を振る。

 「うちのマンションの前で座っていたんです。」

 「着ぐるみが?」

 「ええ。」

 「それ怖くない? それって着ぐるみだけ? 中に人も入っていたの?」

 「入っていましたよ。」

 「余計に怖いなぁ、っていうか、迂闊に近づいたらダメだよ、それ。」

 「私もそうは思ったんですけどね、お腹が空いたっていうから。持っていた食べ物をあげたんですよ。」

 「なんで相手にするかなぁ、そういうのって無視するのが一番なんだから。あ、わかった。イケメンだったんだな?」

 「さあ、わかりません。顔も見ていないから。」

 陽菜は小鉢に入ったサラダをフォークで刺した。オレンジ色のドレッシングが掛かったサラダだ。市販のドレッシングだろうか、スーパーマーケットに行く度に同じドレッシングを探すのだけれどいまだに見つけられていない。シェフの自家製という可能性もあるな。お店で売ってくれたら買うのに、と陽菜は思った。

「男性か女性かもわかりませんよ。顔はおろか、声も聞いていませんからね。」

 「どうやってコミュニケーション取ったのさ?」

 「身振りとか手振りですかね。私は言葉を使いましたけれど本物の熊なら伝わらないけれど 見た目クマですけど中身は人間ですからね、コミュニケーションは普通に取れましたよ。ああ、でも多分、中身は男性じゃないですかね、クマだから雄ですね。」

 「どうしてそう思うの?」

 「普通に身長が私よりも高かったですから。」

 「変なおっさんだったらどうするの?」

 「どうもしませんよ。中身が若かろうが年をとっていようが見た目はクマですから。」

 「吉岡って変わり者って昔から言われない?」

 「今、初めて言われました。」

 実際に面と向かれて変わり者と言われたのは今が初めてだった。もしかしたら二階堂以外にも 自分のことを周りの人間は変わり者と思っていたのだろうか、陽菜は思う。ただそれも周りの自分に対する評価の一つなので別に気にしたわけではない。

 「そ。」

 二階堂は優しく微笑むとハンバーグを口にと入れた。

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