第2話

【2】




翌朝。学園寮の使用人控え室からやってきた公爵家の侍女が三人、昨日の婚約破棄の騒動なんてとっくに知っているだろうにおくびにも出さず私の身づくろいをする。髪の係と衣装の係、残る一人が部屋の整理整頓。


不思議なものだ。髪を結ってもらうのもコルセットをしめてもらうのも、アマルベルガは当然とみなして他人にやらせていたことだ。その記憶は私に奇妙に入り混じり、まるで百回見た映画みたいに思い出せる。だけど日本人としての私は恥ずかしくてしょうがない。げんに今も、コルセットのあとにワンピース型の下着の皺を整えてくれる侍女の手がお尻に触れ、


「きゃっ」


と小さく悲鳴を漏らしてしまった。彼女は礼儀正しく内面の読めない無表情で、


「申し訳ございません。お嬢様」


と頭を下げる。


「いいえ」


私は首を振り、それで作業は進む。そう、これはまさしく作業だ。


化粧台に座って髪を結ってもらいながら(「本日はどのようにいたしますか?」「いつものシニョンでいいわ」)、アマルベルガの記憶の通りに振る舞いながら、私はいつボロが出るかどぎまぎしている。


そのとき、コンコンと部屋の扉をノックする音がした。衣装係の侍女が人が五人は隠れられるだろう衝立を広げ、その間に整理整頓係の侍女が応対をする。


「お嬢様、公爵家より使いが参りました。お父上様よりご伝言とのことです」


きた。


私は拳を握りしめた。いつの間にか化粧台の上にはあのカミソリがあって、きらりと光る。


「入れなさい」


「失礼いたします。明朝よりご訪問のご無礼お許しください。ワルグナー公爵閣下よりご令嬢へご伝言でございます――」


と、話はこのようだった。


このあとすぐ、とるものもとりあえず、公爵家に戻ってこいと。授業も朝食も昨日の懇親会の言い訳もなしで。


公爵家の邸宅はこの王都のほぼ中心、宮廷からお呼びがかかればすぐに駆け付けられるところにある。このほかにも直轄領に豪華な城、飛び地のような小さな領地や森に山にもそれぞれ狩りのための館や砦があり、代々続く権勢を誇っていた。


衝立の向こう、直立不動の伝言係が、侍女に便箋を手渡す。彼女はそれを私の元へ、うやうやしく銀の盆に載せてやってきた。なんて悠長なことだろう。アマルベルガは疑問にも思わなかったあれこれが、私には気が遠くなるほどゆっくりに見えた。こういうのが優美で高貴なやり方だとされているのだ。主人公が何故あれほどこの国に怒りを覚えていたかわかるような気がしてしまう。


私はその手紙をついと流し目で見た。貴族令嬢らしく、大げさに両手で取り上げたりしない。髪型の侍女はほとんど作業を終えており、あとはシニョンに挿す髪飾りの候補を並べて声がかかるのを待っている。


「わかりました。代筆人を呼びましょう」


高貴な身分の人間は手紙すら自分で書かない。代筆人はその名の通り、手紙を書く係の人だ。


私はアマルベルガの記憶の礼儀作法に従い、そう言ったが、


「お嬢様、まことに恐れ入りまする」


と伝言係が声を上げた。礼儀に反するとまではいかないが、あんまり褒められたものではない行動だ。香水の瓶を棚から選りすぐっていた侍女が眉を顰める。


「公爵閣下におかれましては、返信はいらぬ、この従僕めが口頭でお伝えするようにとのご厳命でございます」


「そう。では、父上のおっしゃる通りにいたしますとお伝えなさい」


私は侍女に頷いて見せ、彼女は衝立の向こうへ。伝言係に私の言葉をそっくりそのまま伝えた。それでそのようになった。


朝の空気は冷たい。私は急ぎ足で部屋を出た。裏手の門に馬車が迎えに来ているそうだ。


大理石の外廊下は荘厳な真四角を描いて、中央にある女神像を取り巻いている。侍女が数人、私の後ろに付き従っている。彼女たちは私の世話をするため、学園までついてきた。どれほどの人数を取り揃えていられるかで、家の格と財力が測られる。


アマルベルガの身体は眠れなかったせいで疲れ切り、精神としての私は慣れないことの連続で疲弊している。なのに学園の道筋、早朝というのにすれ違う人々へのその身分に沿った挨拶は考えなくてもできた。


王族、貴族の子弟子女のみが通うことを許された聖マリ学園。各国の若者が礼儀作法と基礎知識を学び、人脈を作るために造られた小さな国際宮廷がここだ。身分制度や仰々しい礼儀作法に、疑問を抱かないどころか誇りさえ感じていたアマルベルガを思う。この子はだから、皇子に与えられた屈辱を決して許せず、命を以て自らの名誉を守ろうとした。


――でもね、マール。


私は心のうちに彼女に語りかけた。中庭には朝日がこうこうと差し込んで、今日一日の始まりを祝うかのよう。


――死んじゃったらおしまいなんだよ。あなたが死んだら、みんなあなたの噂をするの。妹に立場を奪われて死ぬなんて、なんておバカさんって。誰も立派だったなんて言ってくれないよ。


あるいは彼女は、それをわかっていたのかもしれない。それでも悲しくて悔しくて、首を切ってしまったのかも。今となってはわからないことだ。


回廊の西の果てから裏門へ。公爵家の紋章をつけた馬四頭立ての馬車がいる。御者は父上の印章を額に焼き印した【奴隷人形】だった。魔法で人格を去勢された罪人だ。刑罰の一種として、皇帝陛下の臣民としての権利も何もかも捨てて、貴族個人の持ち物とされるのだ。ときどき借金苦で自ら身売りする平民もいる。


私が馬車に乗り込むと、


「お嬢様、わたくしどもはここでお見送りでございます」


と侍女たちはスカートを両手で広げ、最敬礼をした。


「そう。ついてこないのね?」


「はい。公爵閣下のご命令でございます」


「そう。今までご苦労様」


と、おそらくはこれで最後になるであろう彼女たちの顔を眺めたが、残念ながら私個人に感慨は沸かなかった。彼女たちも無表情なので、内心は分からない。


扉が閉められ、私は袖に入れてあった扇でコンと窓枠を叩いた。御者は応えて馬を走らせる。公爵家までは日本でいう三十分もかからないだろう。




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