名もなき虫螻に絶望を
橋立
第1話 変化
令和三年5月23日。
俺は普通にサラリーマンとして働いていた。
今日も普通に起きて、普通に朝食を食べて、普通に電車に乗って、普通に仕事をして、普通に帰りの電車に乗って、普通に夜飯を食べて、普通に眠りについて、普通に起きて・・・そんな生活を繰り返して、普通に死ぬ。
はずだった。
だが、今の俺は、何処からどう見ても普通とは言えなかった。
何故なら、姿形が、虫とも獣とも言えない中途半端な生命体に変わっていたからだ。
なんなんだ! なんなんだよ! これ? 意味が分らない。仕事どうしよう。
どうせただ疲れているせいで見えてしまっている、そんな幻覚だろうに、心配に声を漏らし、汚らわしく、気持ちの悪い腕を伸ばした。
腕から手に掛けては、細い毛が連なっており、指先の辺りは腕よりも更に細かくなっていた。
気持ちが悪い。不快だ。
気持ちの悪さを感じる毎に、指先からは、茶色のような、黄色のような、汚らしい色の粘液が漏れ、地面に垂れた。
気持ちが悪い、本当に不快だ。
不快で、不快でしょうがない、だが、俺は会社人間の社会の歯車だ。
早く会社に出勤しなければならない。でなければ解雇されるかも知れない。
早くこんな幻から目覚めなければ。
俺はベッドの上から、起き上がろうとした。
したのだが、したはずなのだが、体は起き上がらず、俺の体は起き上がることなどなく、ちょっとだけ横に動くだけだった。
おかしい。何かが可笑しい。幻覚のはずではないのか?
突如として、焦りの感情が湧いてきた。
それに伴うように、不快な粘液も漏れ出し、俺の体に掛かった。
どうして? どうしてだ? 意味が分らない。
幻覚にしてはリアルすぎる感覚、それに驚愕を抱きながら、目を閉じ開くために、瞼を動かそうとした。
動かそうとしたのだ。
だが、瞼は動くことなどなく、俺の視界は模様のない白い天井を写していた。
どうして? どうして? どうして? このままでは仕事が? 俺の人生はどうなるんだ?
焦燥が心を支配していくのが分かった。
それに伴い、更に不快な粘液は漏れ出て、ベッドのシーツを何とも言えない、緑色に染めた。
焦燥が増え、息が詰まる。止めどなく涙が出そうになる。だが、涙は流れることはない。
どっ、どうすれば? どうすれば? どうすればこれは直るんだ? 幻覚なんだろ? そうなんだろ? だって、こんなの現実的に、現実的にありえない。
吐き気を催し始める。
まだ。まだ夢の可能性が、夢の可能性がある。そうだ。そうだ! きっと! きっと! きっとそうに決まってる。だって、有り得ないじゃないか。人間が突然として、虫けらになるなんて。
夢だと思おう。それを如何に思おうと、木霊し続ける焦燥、恐怖は留まることなどなく、心を張り割くような感覚が続いた。
夢。夢なんだ。これは、これは、きっ、きっと全部夢なんだ。幻想なんだ。
度重なる言葉の連続により、心が安定しかけた頃、
『ヂリヂリヂリ』
スマホの呼び出し音が、けたたましく鳴り響いた。
否定されてしまった。夢だという幻想が。これが不条理にも現実だ、と言うスマホの音に。
なんなんだよ! なんなんだよ! どうして! どうして! どうしてだよ! 有り得ない! こんなの現実じゃない。有り得ない。おかしい。こんなの現実的じゃない。
ムカムカと浮くように上がってくる不快感、それに吐き気を催しながら、必死に起き上がろうと体を動かした。動かし続けたのだ。
それなのに、それなのにも関わらず、俺の努力を嘲るように、スマホの呼び出し音は、きれてしまった。
どうして? どうして切ってしまうんだ! もっと掛け続けろよ。掛け続けろ。掛け続けてくれよ。
どれだけ呟こうと、言葉が遠く先の職場に居る人間に伝わることなどないし、ましてや部屋の中に木霊することすらなかった。
気持ちが悪い。動いたせいだろうか? 吐き気がする。
不快感、それとキーンと頭を揺らすような幻聴に思いながらも、起き上がろうと体を必死に動かす。
起き上がらなければ、現状の報告も出来ない。
スマホを手に取り、職場に今の現状をありのまま報告するんだ。
そうすれば、きっと分かってくれるはずだ。
体を必死に動かし続けた。少しずつ、少しずつ動き続け、俺の体は、
『ゴンッ』
という音より、刹那先にベッドから落ちてしまった。
クソッ! どうして! どうしてだよ! クソ、クソクソクソ!
心の中で、無様に叫ぶ。
誰も聞いていない言葉を。誰にも届くことのないであろう言葉を。
それでも俺は、起き上がろうと無数に連なる足を動かし、体を左右にくねらせ、動き続けた。
無理かも知れない、だが、やらなければ可能性は存在する。存在するはずだからだ。
体を必死に動かし続け、俺の脳は、飽和しグチャグチャになるような感覚があった。
全てがグチャグチャになり、どちらが上で、下で、右で、左で。何もかもが分からなくなり始めた。
その時、俺の体は、背中を地面についた状態から、
『ガコンッ』
大きな音を鳴らしながら、傾いた。
よし! いける! いける! いけるはずだ! もうちょっと、もうちょっとだ、動け! 動け動け動け! 動け!
何度も、何度も、何度も繰り返し叫ぶ。叫んで叫んで、叫び続ける。
続けたのだ。続けたはずだったのだ。だが、そこに奇跡などなかった。
俺は再度、背中を地面についた状態に戻ってしまった。
どうして! ....どうして? どうして! どうしてなんだよ! どうして! どうしてだよ! クソが! クソッ! クソ!クソクソックソクソクソ! 何でなんだよ。どうして! あ゛ァ゛クソ!
心中で何度も何度も、怒りの言葉を吐き出す。
だが、どれだけ叫ぼうと、怒りは滲み出続け、それに際限などなかった。
クソ! クソが。どうして。どうしてなんだよ。どうして? どうして?
心中で言葉を漏らし、涙を漏らしたかった。
漏らしたかったのだ。だが、俺の現在の体はそれ程までに便利ではなかった。
涙など流れるはずもなく、ただ汚らしい粘液が、我先にと溢れ出してくるだけだった。
その後も怒りの言葉を、吐きながら、挑戦を続けた。
吐き気を催し、幻聴に気分を害されながらも続けた。
そして、汚らしい粘液が、辺りを塗らし、満たし始めた頃。
『グシャリッ』
汚らしい音をまき散らしながら、俺の挑戦は成功した。
成功したのだ! 成功したのだ! 成功したのだ!
よし! やった! やってやった! 成功だ! 成功したんだ! あとは電話を掛けるだけなんだ!
先程まで、荒れていた心は、少しだけ穏やかになったような気がした。
ベッド脇に置いてあるスマホを、どうにかして地面に落とし、起動させようとした。
起動させようとしたのだ。
だが、起動するはずなどなかった。
何故なら、人間用に作られたスマホが、虫けらに開けられるはずがないのだから。
....そっ、そうだ! さっ、最初に言うことを考えよう! そっ、そうしよう!
心中で、叫び気分を切り替え、発声練習をするために、台詞を考え、
「体調が悪いので休みます」
と発することを決め、声帯を震わせた。
震わせたのだ、震わせたはずだったのだ。だったのだが、
「グギュユ、グギギキュギュグ、ギュユウグギュギュ」
気持ちの悪い、泡を吐き出すような音が漏れ出すだけだった。
はっ? どうして? ....どうして? おい、どうしてなんだよ! 何でだよ。
どれだけ叫ぼうと、現実は変わることはなく、視界が暗闇に飲まれる感覚だった。
あぁ、気持ちが悪い。どうして? どうして俺が、こんな目に遭わないといけないんだよ? 意味が分んねぇよ。普通に働いて、普通に死なせてくれよ。
もう、何にも出来やしない。諦めようかな。もう無理だ。何も出来ない。こんな化け物は、誰にも救われるわけがない。
似たような言葉を漏らし続け、現実から意識を逃れさせ、会社でいつも通りに仕事をし、いつも通りに家に帰り、寝て、また仕事に行く。
そんな妄想を浮かべ続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます