少年王と魔石の乙女

重田いの

第1話

 

(そういえばこの子は昔から、こうやって怒ってたっけ)


 マイヤは花茶を啜って微笑みをごまかす。


 喫茶店は石畳の大通りに面していて、窓ガラスはちっとも泡や凹凸のない質の良さ。丸テーブルにかかったレースのクロスは純白で、店内はバカ騒ぎをする人もおらず、ごく上品な低い抑えた話し声に満ちている。何もかもがコヤの街とは違っていた。あっちなら昼下がりのこの時間、こういうお店はおばさまたちの姦しい笑い声で頭がキンキンするほどだから。


 目の前でユリウスはふてくされている。銀髪に青い目、若い顔。綺麗に洗いざらいしたシャツにサスペンダー。元は父さんのだったのをちょろまかしたズボン。


「ごめん、強く言ったわね。でも、心配だからこうして話したいの。お願いよ。生活はどう? 苦労してない? 姉さんに教えてちょうだい」


 ぶすっとしたままユリウスは、マイヤにぐいっと身を乗り出した。


「だからっ、大丈夫だってば。姉さんが心配するようなことはなんにもないよ。俺はうまくやってる」

「どうだか」

「どうせ今日だって母さんに言われてきたんだろ。姉さんはいっつもそうだ。親のいうことなんでもハイハイって聞いてさ。あの働き口だって母さんが見つけてきたとこだ。自分が毎日通うとこさえ自分で選べないなんて――」

「今は私の話じゃないでしょう。あなたの話をしにきたのよ、ユル」


 ユリウスは一瞬、かっとなった。青い目がぱっと空の一番高いところじみて白く輝き、白目とのふちだけが真っ青に深くなる。身内だもの、マイヤにはそれが弟の逆鱗の合図だと知っていた。弟の震える手がテーブルの端を掴むのを、通り過ぎたウェイトレスさんがそれを気づかわしく見とがめたのを、マイヤは感じた。


 姉は十九歳、弟は十六歳。この年頃の姉弟にしては、彼らは感情を抑えて会話できる方である。


 青い色の足首まであるワンピースをきちんと着こなし、輪っかのかたちに結った黒髪、それから黒目、生成り色の肌をもつマイヤは、正直ユリウスの実の姉には見えない。だが話し方や目線のやり方、それから内側に根付いた倫理観などを総合すれば、同じ親に育てられたということはすぐわかるのだった。


「……俺は父さんの言いなりになって、自分のやりたいことを捨てるなんてできないよ」


「それで、これがあなたのやりたかったことなの、ユル?」


「そのユルって呼び方やめろ。ちゃんとユリウスって呼べよっ」


 石畳の大通りを四頭立ての馬車が通り抜けていった。ぱっと道をあけた群衆が再び往来に戻るまで、マイヤはそれをぼんやり眺めた。


「もし私が悪かったら、謝るから。母さんだってすまながってる。父さんは……多分、考えを変えてくれることはないと思うけど。それでもお互い話し合わないと、解決しないと思う」


 マイヤはユリウスを振り向いて、胸元でぎゅっと手を握り合わせた。


「お願いだからいっぺん家に戻ってきて。マーネセンはいい街だし、あなたの冒険者になりたいって夢だって立派だと思う。でも見て? この街がきれいなのは上辺だけよ。大通りを一本外れたら物乞いがいたわ。足のない人だった。冒険者は十六歳の男の子にはあんまりにも危険な職業すぎる――」


 ユリウスの目の色がますます薄くなり、ほとんど白く見えたときだった。


 カランと入口のベルを鳴らして一人の男が入店してくる。そして睨み合う姉弟に気づいて手を振った。


「おーい、ユリウス? 荷物持ちのユリウスじゃねえか。どうしたんだ、こんなとこでンな真剣な顔してぇ」


 と、へらへら近づいてくる大柄な男。ユリウスがときどき所属するパーティーのリーダー、赤毛のヴェインだった。


 のしのし言う彼の足音を聞きながら、まずい、とユリウスは硬直した。日に焼けた肌を惜しげもなく晒した半袖姿、腰に下がる数々のナイフ。今はさすがに戦装束ではないが、歯欠けの口だとか昼日中から酒を煽ったのだろう体臭だとか、どう考えても姉にとっては未知数だろう――彼女は、そしてユリウスは、田舎者なのだ。


 田舎には、コヤの街にはこんな男はいない。あそこは飯屋の数より花屋の数の方が多いくらいで、住民はみんな清潔に白くしたシャツを着て働いている。彼はそんなつまらない街が嫌いで、あんなふうにあくせく働く人間になりたくなくて、家を飛び出したのだった。


「おっ? どちらさま?」


 ヴェインはにかっと笑った。そしてマイヤを見るやいなや、


「見ない顔だね、お姉さん! こいつの何だい? 年上の恋人かぁ?」


 と、ドラゴンの尾を踏む発言をぶちまける。ユリウスはうなじの毛が逆立つかと思った。


「ちょ、ちょちょちょ、ヴェインさんっ、こっちは俺の姉さんです。その……俺を心配して、来てくれたんですよ」


「へえ、ダンジョン封鎖の日をわざわざ知って? そりゃあいい姉さんじゃねえの! あははっ。はじめましてぇ、おりゃあヴェイン・クライドと言いますよ。お見知りおきを」


 もしマイヤの目が黒くなく、ユリウスと同じ青だったなら今頃、真っ白になっていたことだろう。


 さっきとは立場が逆転してしまった。ユリウスは姉の爆発をひたすら心配し、ウェイトレスは水でも出すべきかしらと思案し、それまでの会話がちょくちょく耳に入っていた周りの客たちもちらちら三人を見守る。厨房の奥で大好きなコーヒー豆にたわむれる店主と、ヴェインのあまりに冒険者然とした態度に非難の目線を送る幾人かの客だけが、ことの成り行きに無関心だった。


「……はじめまして。マイヤ・リニムです。ユリウスの姉です」


「はいはい、さっき聞いたよォ」


 それでもマイヤは冷や汗をかく弟の前で自分を抑え、座ったまま礼儀正しく頭を下げた。手を差し出すことはしなかった、手にキスされるほどマイヤの身分は高くないし、それはヴェインも同様だろうと思ったからだった。


「そんで? 冒険者なんてやめなさーいって言いにきたの、お姉さんは?」


「……親も心配していますし」


「ああーっ、ヴェインさん! は、なんでこの店に? 今日は仕事もないし、いつもの酒場でも行って

るのかと思いましたよ」


 ユリウスは立ち上がり、言葉通り身体ごと二人の間に割って入った。マイヤはさっきから目の端をひくひくさせている。これはまずい、大変まずい。姉は家族以外に癇癪の堪えがきかない人なのだ。普通逆じゃないかと思うのだが。


「おお、それがなあ。待ち合わせなんだよ。まだ来てねえのかなあ?」


「へえーっ、すごいですね。魔法使いさんとかですか? あの、いつもご一緒の」


 ヴェインが口をへの字に曲げた。そうすると、欠けた前歯のへこみがよくわかる。


「あいつとは喧嘩中」


「あ、そ、そっすか。失礼しました」


 と、あたふたやっているうちに、再びカランとベルの音。


「おっ」


 とヴェインは振り返り手を挙げた。さっき姉弟に上げたときより高く。


「よーう、待ってたぜェ」


 相手はコクンと頷いた、ようだった。ローブ姿の、やっぱり魔法使いのようである。けれどもユリウスの記憶にある妖艶な美女とは明らかに違った。ローブの下に鎧を付けているらしい、角ばった姿だった。


 ヴェインがそちらに行ってしまうと、姉弟はどちらからともなく目線を合わせた。


 席を立ったのは同時だった。ウェイトレスがちょっと肩をすくめて会計してくれた。


 大通りは相変わらず賑わっている。ドレス姿の貴婦人に背広姿の紳士もいれば、冒険者くずれの詐欺師が誰彼構わず話しかけてくるし、子供たちは走り回る。そこにひっきりなしに辻馬車やら専用馬車やら荷車を引いたロバやらが通り、ようやく慣れたユリウスはまだしも、田舎街のコヤでのんびり過ごしてきたマイヤはなんとも危なっかしい。


 しょうがないのでユリウスはマイヤの手を取り、自分の肘に捕まらせた。もはや弟の方が背が高いのだった。


「……あんな、人の下について冒険者をやっているの? あんな下品な」


 とマイヤは鼻に皺を寄せる。あたりの喧噪に紛れて誰の耳にも届かないだろうことに、ユリウスは感謝した。


「そういうこと言うなよ。それにあの人はときどき雇ってくれるパーティーのリーダーさんで、直接の雇用関係があるわけじゃない」


「ふうん、そう。どうあれコヤにああいう人は、いないわ」

「そりゃ田舎だもん」

 姉弟は視線をバチバチ飛ばし合う。ユリウスの肘のところに背が低い人の兜が当たった。

「おっと、ごめんよ」

「あ、イエ」


 ちょろりと駆けていったのはドワーフの血が混じった人だろう、豊かな栗色の髪とずんぐりした体躯が印象的だった。ユリウスがポケットの財布を確かめていると、マイヤはそれを目ざとく見つけてため息を吐く。


「コヤの街に亜人はいないわ……スリもいない。物乞いも」


「だーからっ、そういうこと言うなってば。マーネセンはでっかい街なんだよ、いろんな人がいるさ」


「そうね、影人族も天使様もお見掛けしたわね」


 というのは、暗黒島からやってくる影人族はもっぱら夜陰に紛れて人を殺す暗殺者と名高く、羽の生えた天使族はその神々しい見た目を武器に新興宗教を立ち上げては政権に敗れてきた歴史があるのを言っている。


 マイヤは人間しかいない街の田舎者で、森の女神と街の祖たる大賢者を信仰しており、それ以外の価値観を受け入れない。亜人なんて! たまに来る旅芸人でさえ、母親たちは警戒して子供を早く家に入れる。コヤの街はそういう人たちの集まりだ。


 そしてユリウスは、とにもかくにもそれが耐えられない。


 大通りから続く円形公園に二人は入った。周りには屋台が立ち並び、真ん中には噴水がある。ところどこに置かれたベンチ。天高くそびえる大理石の柱は合計六本で、これはマーネセンの街を開いた六人の英雄を表す装飾がなされている。


 どうにか空いたベンチを見つけ、二人は腰を落ち着けた。


「お茶でも買ってくる?」

「いらないわ。さっき飲んだもの」

「うん」


 目の前で転びかけた子供を母親が支えた。母子の耳は兎のそれだった。


 通りすがる身なりのいい年配の婦人たちの噂話が、聞くともなしに聞こえてくる……隣のおうち、空き家になったと思ったら新しい人が入ってきて……どんなだったと思います? 冒険者をしてお金を貯めて、家を買った人だというじゃありませんの。しかも旦那さんは腕にウロコが生えていて!……まああ奥様、そんな。町内の品位も下がりますわね。


 マーネセンは大きな街だが、元は素朴な村だった。前々からここに住んでいた人たちにとって、新しくやってきた冒険者たちは目の上のたんこぶだ。たとえ彼らのおかげで街が発展したのだとしても。そして彼らを呼び込んだダンジョンも。


 ユリウスはベンチの背もたれに身体を預け、ぐっと首を上げてその塔を見た。マーネセンのかたわらに鬱蒼と広がる【大森林】の奥地から、ダンジョンは発見された。十年前、はじめにそれを見つけたのは木こりだったという。

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