第一章、世界  第一節、階段 ②

 ずっと階段を上ったり下りたりしていたからなのか、それとも強い不安のせいなのか、ボクの背中を大量の脂汗が流れた。どこからともなく吹いてくる湿度を帯びた風で、脂汗で濡れたTシャツが中途半端に乾かされ、背中にベッタリと貼りついて気持ちが悪い。


《すごく蒸し暑い。涼しい風が欲しいな……。》


 ボクは思わずつぶやいた。

 ここに来て初めて出した声だった。しかしボクが発した声は声ではなく、耳に水が入ったときのようなくぐもった音だった。

 別の誰かが発した音のような響きで、本当にボクのノドから出たのか分からない。この空間が、吸いとったボクの声を別の場所で放したような響きだ。


 もしかして、この空間そのものが大きな生きものなのだろうか。声すらも、くぐもった音に変えてしまう、ひらけているのに孤独で閉ざされた空間。でも時計の音だけは、空間中響き渡っている。気持ち悪い。


《もう嫌だ、もうたくさんだ! ここはどこ? どうしてここにいるの? ボクは……、ボクは……、》


 孤独と不安が限界を越え、狂ったように叫んだそのとき、ひとつの疑問がボクの心にふっと姿を現した。




 ──ボクは、誰?




 ボクは、『ボク』が誰なのか知らなかった。


 途端に自分が不安定な存在に思えて怖くなり、腰の力が抜けてその場に尻もちをついた。鉄錆のザリザリが、むき出しで汗まみれの脚にまとわりつく。


 ボクは、あまりの気持ち悪さに飛び上がるように立ち上がった。呼吸を整えながら脚についた錆を丁寧に拭き取り、ため息をついた。


 恐怖も不安も孤独もそのままだけど、今ここでそれを爆発させてみたところで、何かが変わるわけじゃない。ボクの存在が不安定に思われても、ボクがここにいるのは間違いないから、ボクが何者であっても、ボクは、ボクだ。


 ……時計を、探そう。


 下るよりなら上るほうが気が楽だな、上を向いていられるから。


 ボクは、階段を下りるのをやめた。この階段だって、どこまで続いているのかも分からないし、下り続ければ時計に出会えるという保証もない。


 それならばせめて、上を向いて歩こう。


 ボクは一歩一歩踏みしめるように階段を上り始めた。

 時計を探す理由は分からないけれど、この空間から出るためには時計を見つける必要があるのだと、ボクの心が訴えている。


《早くここから出なくちゃ。》


 ゴールの見えない階段を見上げた。どこまでも続いているように見える。上っても上っても、周りの景色は変わらない。


《この階段、どこまで続いてるんだろう。本当に進んでいるのかな。》


 真っ白空間に真っ直ぐ伸びる朱色あかいろの階段を、ボクは首をかしげながらも、ただひたすら足を運んで上り続けた。


 どのくらい上ったのだろう。もう何時間も上り続けたような気がする。そもそも、この世界に時間は存在するのだろうか。何時間もだなんて考えること自体が間違っているのかもしれない。それでもやっぱり、かなり長い時間、歩いているのは間違いない。


《……あれ?》


 さっきより、時計の音が大きくなっているような気がして、ボクは立ち止まって辺りを見回した。時計に近づいているということだろうか。


《誰かいるの?》


 ふと、誰もいないはずなのに誰かの気配を感じて、息を殺して身構えた。時計の音がボクの耳を支配する。


 やはり誰もいない。でも、本当に気のせいなのだろうか。靄がすべてを覆っているから気づかないだけで、実はボクの他にも誰かいるのかもしれない。この靄が吹き飛ばされれば、もっとよく見えるのに。


 突然、ボクの背後から爽やかな風がひゅうと吹き、たちこめていた靄を一気に吹き飛ばした。


《また別の階段?》


 さっきまで無かった別の階段が靄が晴れると同時にボクの前に姿を現した。これまでと違ってコンクリートでできているように見える。その階段に興味を持ったボクは、落ちないように気をつけながら飛び移った。


 爪先で階段を叩き、その材質を確かめる。コンコンと乾いた音と足に伝わる感触、そしてこの独特なちょっとだけ鼻を刺激するにおい。思った通りコンクリートでできているようだ。それに傷や欠けたところが見当たらないから、この階段はできて間もないのだろう。


 木の階段のような、包み込むような温かさはないけれど、今にも崩れそうな錆ついた階段と違って、しっかりした安定感と安心感がある。


 何より目眩がなくなった。


 ボクは、この階段を上ってみることにした。



 ▤ ▥ ▦ ▧ ▤ ▥ ▦ ▧ ▤ ▥ ▦ ▧ ▤ ▥ ▦ ▧ ▤



 冷たくて無機質な階段にタンタンタンと響くスニーカーの軽い音が心地よい。


 声は吸われてしまうのに、こういう音は消えないらしい。

 この世界では、声とそれ以外の音は、きっと何かが違うのだろう。

 それでも、自分が発する音が聞こえるというのは、どこか救われるような思いがする。


 自分はちゃんとここに存在していると、自分の足音が教えてくれるから。


 明るい足音と、だんだん大きくなる時計の秒針音を聞きながら、ボクは、階段を順調に上り続けた。

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