藍色庭園
香坂 壱霧
序
1
運転席に座る。運転は、初めてじゃない。公道を走るのは初めてだけど、そうは言ってられない。
昔、辺鄙な町の潰れたパチンコ店の広い駐車場で、父さんに運転を教わったことがあった。俺がねだってしまったから、仕方なくという流れだったと思う。
そこは父さんの知り合いが管理しているらしく、使用許可を取っているという話だった。
『本当は、車を運転できるのは十八歳になってからなんだぞ。良太が自分から何かしてみたいって、今までなかったから根負けしたけど、これっきりだからな?』
父さんは苦笑いしながらそう言った。そのとき慎二は後部座席にいた。俺が教わっているのを黙ってみていた。
『運転席に座ったら、座席の調整だな。そのときに、右側がアクセル、左側がブレーキ、それがちゃんと踏める位置。うん、それくらいだな。
それから、シートベルトしめて、ミラー調整。サイドミラーで左右がちゃんと見えてるか、ルームミラーは、背後の確認。
車幅感覚は、簡単には身につかないけど。慣れなら大丈夫だろうな。
でも感覚だけで運転しちゃいけない。ちゃんと自分の目で確かめる。習うより慣れろという言葉がある。とりあえずエンジンかけてみろ』
俺はどきどきしながら、エンジンをかけた。
『ほら、しっかりハンドルを持って。ブレーキ踏んでるのが確認できたらサイドブレーキ引く。それから、ブレーキ、足離して。
……良太は父さんの運転をよく見てるせいかな、初めてにしてはうまいぞ』
父さんに褒められたことが、凄く嬉しかったのを覚えている。
でも、こんな目的のために、再びハンドルを握ることになるなんて思いもしなかった。父さんは、この日のために、運転を教えてくれたわけじゃないだろう。
深夜一時過ぎた頃。
車にブルーシートを敷いて、スコップとメジャーとすだれと懐中電灯を積んだ。
夏休みの深夜は、この時間だと人通りも少ない。心配なのは、警察か暴走族に出くわさないかというだけ。
運転席に乗り込む。
エンジンをかけて、そっと発進する。
手の汗がひどい。汗でハンドルが滑りそうだ。汗をジーンズでぬぐった後、しっかりハンドルを握り直して国道に出た。
さすがに車は、ほとんど通らない。
国道を二十分くらい走ったところで左折し、T山の展望台へ向かう。展望台へ行くわけじゃない。目的地はその手前。
T山へ行くのは展望台目当ての人ばかりだ。その手前で曲がる細い道があっても、その道を選ぶのは地元でもごくわずかな人だけ。ましてやこんな夜中にこの道を選ぶ人はいない。
細い山道を十数分走ったところで、車を停めた。家の物置から持ち出したものを車からおろす。
荷物をおろした後、穴を掘る場所を探す。車からそんなに遠くない場所でいいところを見つけ、メジャーで穴の大きさの見当をつける。
そんなに大きくなくていい。深さがあれば。
慎二の足を折り曲げた状態にしていて良かったと思った。
慎二は俺より背が高い。足を折り曲げていなかったら、穴の大きさで苦労しただろう。
スコップを手にして、穴を掘り始める。汗が噴き出す。汗が目に入って、目の前がかすんできた。そんなことにかまっていられない。手が痺れ始めた。とにかく、掘る。ひたすら掘る。
天気予報で、しばらく雨は降らないと言っていた。雨で、これが見つかってしまうのは、困る。
ザクッ、ザクッ、と土を掘る音が暗がりの中で妙に響く。
俺は、慎二を殺した。
慎二は俺の大事なものを奪ったから、仕方ない。
小さい頃から俺と慎二は兄弟のように一緒にいた。お互いのことを理解しあっていると思い込んでいた。
香奈を奪われるなんて思わなかった。
あの日、信号が青に変わり、交差点の向かいに二人を見つけたとき、一瞬、足がすくんだ。
呆然としていると、二人がそのまま立ちつくしている俺の横を通り過ぎようとしていた。
そのとき聞こえた香奈の声に、俺は走りださずにはいられなかった。
聞いたことがない声色。
甘ったるい声。
それを聞いた俺は、その場から逃げ出すことを選んだ。
あの日のことを思い出すと、慎二への憎しみでいっぱいになる。香奈とはあれ以来、顔を合わせるのが怖くて会っていない。
どれくらい時間をかけたかわからない。いい具合の穴が出来上がり、そこに慎二を置いた。その上から、それが隠れるようにすだれを置く。さらに土をかぶせ、葉っぱや小枝を置いていき、自然な感じにしておいた。
車に戻り、タオルで汗をぬぐう。スコップについた土をはらってから、車に積んだ。庭にない土が車にあったらまずい。
帰り道も行きと同じように、慎重に運転した。家の前に着いたとき、はっとした。車は元の状態に戻さないといけない。バック駐車なんてしたことないけど、やるしかない。父さんがどんなふうにしていたか思い出しながら。
何度も切り替えして、それなりに車がおさまってほっとする。
車から降りたあと、タイヤにふだんなら付かないような土や葉っぱがこ
びりついていないかどうかをチェックした。
母さんがおおざっぱでよかった。神経質だったら、いつもと車の角度が違うことに気がついてしまうだろう。
何事もなかったように部屋に戻る。部屋に戻ると、現実を突きつけられる。
クローゼットからの、腐敗臭。
慎二を殺してしまってから、何日経つだろう。いつのことだったかわからないくらい、慎二と香奈が腕を組んで歩いていたことのショックが大きかったと自覚した。
ネットで強力な消臭スプレーを買い、クローゼットやその周りに振りかけた。それと、独特なにおいのするバリのお香を雑貨屋で買ってきて焚いてみた。
日に日に増していく腐敗臭。これはまずい。そう思って俺は、慎二の遺体をT山に埋めることを決意し、今に至る。
夏休みになってから、出歩くことがなかった。部屋と台所と風呂場とトイレの往復だけ。
俺は、汗でべたついたTシャツを着替えないまま、眠ってしまった。
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