白い結婚をした気弱で後ろ向きな「私」は、夫を捨てて好きに生きることにした。
柚木崎 史乃
第1話
雲間から覗く満月を窓辺で見上げながら、クリスはため息を漏らす。
クリスは訳あって、双子の姉の代わりに名門公爵家に嫁いだ。そして気づけば、邸に来て三週間目の夜を迎えていた。
新婚夫婦にとって夜の営みは大切な儀式だ。しかし、クリスには全く関係のない話であった。
何故なら、クリスと夫であるローレンスは愛のない政略結婚をしたからだ。
ローレンスは、そもそも最初から妻を娶りたいと思っていない。出来ることなら、一生独身でいたかったと言っているくらいなのだから。
とはいえ、仮にも名家の当主が独身なのは何かと都合が悪い。だから、お飾りの妻が欲しかったのだろう。
ローレンスはこう宣言していた。クリスを愛することは絶対にないと。跡継ぎに関しても、弟の子供が爵位を継ぐから問題ないそうだ。
つまり、表向きは夫婦だが実際には他人同士ということなのである。
現に、ローレンスはあまり家に帰って来ないし、顔を合わせてもほとんど会話を交わすことはない。
なので、クリスは彼の人となりをよく知らないのだ。
(まあ、別にいいけどね)
そう、夫についてはどうでもいい。それどころか、寧ろ興味がない。
ただ、クリスとしては少し困ったことがある。それは、「できる限り、地味な格好をしろ」と強要されていることと、邸に軟禁状態になっていることである。
(……仕方ないか)
ここで逆らうと、追い出されかねない。それに、もし追い出されたら実家である伯爵家の面目も丸潰れだ。
だから、言われた通りに大人しく邸で待機しているのだ。
クリスは、美しく聡明な双子の姉──エルミーナと比較されて育った。幼い頃からずっとだ。
お陰で、両親からは最低限の教養以外は要らないと言われ高等部に進学させてもらえず、服だってろくに買い与えてもらえなかった。
エルミーナと同じようにドレスを着たいと懇願しても、「お前は駄目だ」と言われ枕を濡らした夜もあった。
挙句の果てには、「一族の恥」と罵られる始末だ。兄弟たちもそんな両親に同調し、あからさまにクリスのことを見下していた。
そのせいか、クリスはいつの間にか自分のことをひどく卑下するようになってしまったのだ。
その結果が今の状態──政略結婚の身代わり花嫁である。
当初、ローレンスは「誰でも良いから、女を嫁がせてほしい」と手紙を寄越してきたらしい。
クリスには、双子の姉の他に兄と妹がいる。しかし、妹はまだ八歳なのでとてもじゃないが嫁げるような年齢ではない。
相手は仮にも名門公爵家の当主。本来ならば、教養のある優秀なエルミーナが嫁ぐのが妥当なのだ。
しかし、彼は女性に対する扱いがぞんざいで社交界での評判がすこぶる悪いため、エルミーナも「そんな殿方と結婚するなんて、絶対に嫌ですわ!」と言って猛抗議をしたのである。
愛娘であるエルミーナが「結婚したくない」と言えば、両親はそれを受け入れざるを得ない。
とはいえ、事業がうまくいかず傾きかけた伯爵家を立て直すには公爵家からの経済的支援が必要だ。
つまり、他に身代わりに最適な人間がいない以上、クリスが犠牲になるしかなかったのだ。
自己肯定感が低いとはいえ、クリスにも周りの令嬢たちと同じようにドレスを着たり化粧をしたりといった華やかな生活に憧れがなかったわけではない。
だから、嫁ぎ先では綺羅びやかなドレスを着ることが許されるかもしれないという淡い期待が心のどこかにあったのだ。しかし、その夢は無惨にも打ち砕かれてしまった。
(ローレンス様は、きっと私がエルミーナの身代わりだと気づいているんだ……)
もしそうなら、ここまで冷遇を受けているのにも合点がいく。
ここに嫁ぐ以前、クリスはローレンスに姉の身代わりだということを悟られないように徹底的に貴族としての教養を叩き込まれた。
短期間で行われたためほぼ突貫工事のようなものだったが、クリスは元々物覚えが良かったため、すんなりとそれらを身につけることができた。
両親からも「記憶力が良いのがお前の唯一の取り柄だ」と言われたくらいだ。
実際、クリスの立ち振る舞いは完璧だったし、感づかれる可能性は低いはずなのだが……。
(今後、もっとひどい仕打ちを受けることになるかもしれない……)
クリスは日々、頭を悩ませていた。
そんなクリスの唯一の心の拠り所は、読書であった。
最近よく読んでいるのは、婚約者に裏切られたある貴族令嬢が一念発起して仕立て屋を経営し、どん底から這い上がっていくサクセスストーリーを描いた小説だ。
「裁縫、か……」
本を読みながら、クリスはぽつりと呟いた。
そういえば、クリスは昔から縫い物が好きだった。刺繍をしたりレース編みをしたりするのが得意だったし、学院で手先が器用だねと褒められたこともある。
不意に、クリスの頭にある考えがよぎった。
(服を買い与えてもらえないなら、自分で服を仕立てればいいのかも)
自分で縫ったものなら、どんな出来であろうとも愛着があるはずだ。
そう思い立ったクリスは、早速、使用人の部屋に忍び込んで布地を探し始めた。
使用人が使うものなだけあってどれも地味だったり古臭いデザインのものばかりだ。それでも諦めきれず、あちこち探した結果ようやく上質そうなコットン生地を見つけた。
(これだけあれば、足りるかな?)
試作でシンプルなブラウスを作るだけだから、恐らく問題ないだろう。
そう思ったクリスは、裁縫道具を持って急いで自室に戻った。
そして、裁断をするためにハサミを手に取り、いざ服を作ろうとしたのだが──。
(……うーん、どうすれば綺麗に見えるのかな)
いざ始めてみると、これが意外と難しい。特に肩口がどうやったら美しく見えるのか分からず試行錯誤を繰り返した。
そうやって何度も失敗した末、ようやく満足の行くものが出来上がった頃にはすでに真夜中になっていた。
だが、これで一応形になった。クリスはその晩、ベッドの中でそれを眺めながらどうやってコーディネートしようかと思いを馳せることにした。
翌朝。朝食を済ませたクリスは、昨日作った服を着て街に繰り出すことにした。
こっそり邸から抜け出すと、小一時間ほどで何とか王都に到着した。クリスは、早速気になったブティックに入る。
(わあ、可愛い……!)
思わず、感嘆の声を上げそうになる。
店の中にはたくさんの美しいドレスがあった。まるで花畑にいるような気分になるほど鮮やかで、色とりどりなドレスにクリスは目を輝かせる。
本当は、気に入ったドレスを買って帰りたい。けれど、クリスは現金を持ち合わせていないし、そもそも持ち歩くことすら許可されていない。
一般的な貴族の夫人は、もし出先で気に入った商品を見つけたら執事や侍女を通して購入するのだろう。
けれど、もしクリスが同じことをすれば店で服を買ったことがローレンスにばれてしまう。
(……残念だけど、諦めよう)
しかし、折角来たのだから少しくらい楽しんでもいいだろう。
「ねえ、そこのあなた」
「は、はい!」
突然声をかけられ、クリスは素っ頓狂な声を出してしまう。振り返ると、そこには妖艶な雰囲気を纏った美しい女性がいた。
年齢は、クリスより少し年上──十八歳ぐらいだろうか。
「あなたが着ているブラウス、とても素敵ね」
「え? あ、ありがとうございます……」
褒められるとは思っていなかったため、つい顔が綻ぶ。
「どこのお店で買ったものなの? よかったら、教えてくださらない?」
「え、えーと……」
まさか、自分で縫って作りましたとは言えずクリスは返答に詰まってしまう。
「ごめんなさい。言いたくなかったかしら」
「い、いえ……! そういうわけでは……」
身なりから察するに、恐らくこの人はどこかのご令嬢に違いない。
後ろには侍女とおぼしき女性も控えているし、間違いないだろう。クリスは冷や汗をかいた。そしてあれこれ悩んだ末、結局本当のことを言うことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます