偶像
鮎崎浪人
偶像
二月三日(一)
わたしは踊ることが好き、歌うことが好き。
そして、ステージで歌い踊るのが一番好き。
全力を尽くしてパフォーマンスを披露している一瞬一瞬が、わたしにとってのすべて。
つらくて孤独なレッスンを乗り越えて、ステージに立っている時、わたしはたしかに生きてるんだって感じる。
イヤなことや辛いことがあったって、わたしはすぐに忘れちゃう。
ほんと、自分でも不思議なくらい、とってもポジティブ。
誰もがスターになれるし、いつでもみんなが輝く権利を持っている。
それがわたしの信念。
仲間からは、頭の中が年中お祭り騒ぎだとか、脳内に天国が存在しているとか、よくからかわれるけれど、そのとおりだなって思う。
一度きりの人生を思いっきり楽しもうよ!
これもわたしの信念。
もちろん、いつまでも、アイドル・
いつかはこのステージを降りなければならないときがくる。
だけど、そのときがくるまでは、全力疾走するんだ!
二月三日(二)
むせかえるような熱気で埋め尽くされた満員の劇場。
運よく最前列の席を占めた俺だったが、他の少女たちには目もくれず珠夢羅早希のパフォーマンスをみつめていた。
早希だけを視界に収めていた。
持てる力をすべて出し切ろうとするかのような激しい動きに合わせて、彼女のトレードマークであるポニーテールもまた躍動する。
彼女が重度の腰痛を抱えていることを知っている俺は、胸が締め付けられるような息苦しさを感じながらも全身が熱く燃えるような衝動に突き動かされていた。
冷静に他のメンバーと比較すれば、ダンスの速さやキレにおいて劣ることは否めない。
だが、それがどうした!
彼女がステージに立っている、俺はそのこと自体に魅了されているのだ。
ルックスだって、そうだ。
冷静な観察など必要なく一目見ただけで、他のメンバーよりも見劣りすると感じる者は多いかもしれない。
だが、それがどうした!
彼女のすべてが愛おしい俺にとって、外見などはどうでもいい。
彼女がこの世界に生きて存在している、俺はそのこと自体に大いなる喜びを感じているのだ。
きっと多くのファンは、
俺はたくさんのメンバーの中から早希をみつけた。
それは運命としかいいようがない。
アイドルを「推す」とは、そういうことなのだろう。
長いような短いような、いずれにしろ退屈極まりないしょぼくれた俺の人生。
だが、彼女がいてくれるだけで、俺はいくらかでも救われている。
この先どれだけ生きていく気力が維持できるのか、それは俺自身にもわからない。
だが、この生が尽きるまでは、たとえ彼女のファンが俺一人だけになろうと、俺は早希だけを追い続ける。
俺はそう心に誓っていた。
だが、誓ってはいたけれど、一瞬でも考えたことはなかった。
まさかこの数時間後、追うだけで満足していた俺が早希と街中で偶然に出会い、あろうことか深夜の公園でキスを交わすことになろうとは。
二月三日(三)
彼女のために焦点を合わせた眩いスポットライトに照らされながら、神楽優衣は舞うように踊る。
これがオーラとでもいうのか、十数人の集団の中で、彼女は輝くばかりの存在感を発散している。
「天使のような」とたびたび評されるその笑顔を観客にまんべんなく振りまきながら、歌い、そして踊る。
すべての観客と目線を合わせるかのように、会場全体に顔をめぐらせる。
その蠱惑的な視線にとらえられた人々は、胸がときめくような感覚に心地よく身をゆだねる。
楽曲の世界観に忠実に寄り添い、あるときは、大人の色気を漂わせる表情をみせ、またあるときは、あどけない少女の笑顔をみせる。
神楽優衣の十八歳という年齢がなせる業であろうか、大人と少女の二面性が危うい均衡で保たれている奇跡のような瞬間であった。
少女たちの集団は、楽曲の進行に合わせ、フォーメーションをめまぐるしく変化させる。
だが、大事な見せ場で、ステージの最前列の中央でパフォーマンスを繰り広げるのは、もちろん神楽優衣だった。
彼女は少女たちの集団の中心として場を支配し、周りは彼女をひきたたせるためだけに存在しているようにみえる。
神楽優衣、彼女は今この瞬間、その姿に魅了された人々のまさしく偶像であった。
八月九日
二時間ほど前にコルクを抜いたボトルを満たしていたルビー色の液体は、もう五分の一を残すだけとなっている。
テーブルの上の陶器製の灰皿には、吸殻が積もっていた。
あのクソ野郎のせいで、わたしの人生は滅茶滅茶になる。
なにもかもが終わりだ。
酔って濃い赤に染まった顔を不機嫌そうに歪めながら大儀そうに右手でつかんだボトルがゴトンとすべりおちて、絨毯に赤い染みを描く。
だが、智香は一瞥もくれず、憎悪が剥き出しの目で天井をただただ見つめ続けている。
悪酔いがもたらす濁った思考に飲み込まれながら、佐藤智香は心の内で呪文のように繰り返し呟き続けていた。
あいつさえ、いなくなれば。この世に存在しなくなれば。
そうだ、あいつを殺してやる。
八月二十日
― それにしても、四十年以上も、よくアイドルグループを維持できましたね?
そうですね。その間、自分もだいぶ年をとりましたよ(笑)。
自分でもこんなに長く続くとは思ってもみませんでした。
山あり谷あり、紆余曲折ありましたが、自分を含めて演者やスタッフみんながベストを尽くした結果ですかね。
もちろん、ファンの方々の支えがあってこそですが。
― もう思い残すことはない?
私がこのグループを作ったときの目標は、大ヒットを飛ばし続けることよりも、野球やサッカーのように、日本人にとって身近で当たり前の存在になることでしたが、そのことはこれまでの年月が実証してくれたと言えるのではないでしょうか。
― この四十年間で世の中はだいぶ様変わりしましたが、このグループは変わらず存在していますね。
ええ、ありがたいことです。
ただ、世界が変わったと言っても、ここ数十年が暗い時代であることは間違いないでしょう。
不況が続き、貧困層の拡大はとどまるところを知りません。
若者や大人に関係なく、今や未来への絶望があるのみです。
日本中には無気力が蔓延している。
また、そのような風潮は欲望に流されるままの自堕落な人間を生む。
ただ、そんな時代だからこそ、このようなアイドルグループが存続できたとも言えるかもしれません。
夢や希望を語り、全力で自己鍛錬に取り組み、ストイックに恋愛に背を向けて、アイドルを演じる少女たちの姿が、観る人たちの感動を引き起こすのではないでしょうか。
俗悪なる世界だからこそ、聖なる存在は輝きを増す。
ある意味、暗黒時代が続いているからこそグループが存続できたと言ってしまえば、もちろんそれは言い過ぎになるわけですけれども(笑)。
― 週刊誌「エンタメ ウィークリー」の
八月二十三日(一)
劇場内にある本番を間近に控えた楽屋は、普段とは異なり、出演メンバーやスタッフのみならず、神楽優衣が招いた様々な世代の友人たちやメンバーの一人が連れてきた兄弟も加わって、喧騒と表現しても間違いではないようなにぎやかな雰囲気に包まれていた。
話題はこれから始まる公演のことが主だったが、中には無関係な世間話で盛り上がっている一団もあった。
岡田愛子は孫の自慢をくり返し、伊藤美幸は一人で切り盛りしているスナックの不況を嘆き、山田聡子は姑の愚痴をこぼし、田中千尋は経営している雑貨屋の店舗拡大を誇らしげに語っている。
神楽優衣とはだいぶ年は離れているものの、この四人の女性たちも彼女の大切な友人であることに変わりはない。
それどころか、この四人にはとりわけ丁重に接している優衣は、彼女たちの激励を受けて楽屋を出るときも深々と頭を下げた。
メンバーたちが軽やかな足取りで立ち去ると、招待客たちは思い思いの椅子に腰かけ、楽屋に備え付けられたモニターに目を向けた。
八月二十三日(二)
天道寺弘樹の死体が発見されたのは、八月二十三日の公演終了後の午後九時十五分であった。
現場は、女性アイドルグループ「エターナル・イノセント」が公演する劇場の舞台裏にあたるプロデューサー専用の個室。
天道寺のマネージャーが個室に様子を見に行き、その変わり果てた姿に遭遇した。
「エターナル・イノセント」の専用劇場は、東京都豊島区池袋のサンシャイン通り沿いに建っていて、映画館に隣接していた。
たびたび劇場に訪れる天道寺は、この日もふらりと現れ、公演開始三十分前の午後六時に個室に入った。
その際に、パフォーマンスを終えたアイドルたちを出迎えるような発言をしていたにもかかわらず、公演が終了しても姿を見せないことに不審を抱いたマネージャーの田中が個室で死体を発見した。
天道寺は、部屋の中央の床にうつぶせで倒れ、後頭部は真っ赤に染まっていた。
傍らに転がっていた調度品の青磁の花瓶による殴打が死因だった。
死亡時刻は、午後七時から八時と推定されている。
八月二十五日(一)
「というわけなんですよ、
警視庁刑事部捜査一課捜査第七係の冨吉は、確認を求めるように聞いた。
冨吉は、入庁五年目の若手で現在二十八歳の小柄な細身の男性。
顎が角張っていて全体的に四角い印象を与える顔の輪郭のため、黙っているといかつい感じがするが、笑うと目じりが下がって柔和な表情になる。
「ああ、わかったよ。それで、容疑者は絞られたのかい?」
答えたのは、冨吉と同じ係に所属する村重。
同じく小柄だが、酒と大食が影響して丸々と肥満した五十五歳の村重は、あと五年で定年を迎えるベテランである。
村重は、これまで別の事件を担当していたがその案件が片付いたため、天道寺弘樹殺人事件の捜査本部に合流することとなった。
そのため、今までの経過について把握する必要があるわけだが、村重は書類を読むのが大嫌いである。
代わりに後輩の冨吉から、捜査第七係の事務室で口頭による事件の説明を受けている。
「ええ、ある程度は。
劇場の出入り口にはセキュリティゲートがありますから、部外者が侵入するのは困難です。
実際、防犯カメラを確認したところ、不審者の姿はありませんでした。
ですから、容疑者は演者、それに演出家や道具係やマネージャーなどのスタッフ、あとは警備員や清掃員に限られてくるわけです」
「ちょっと、待てよ。
今までの話からすると、死亡推定時刻は公演中だったんじゃないのか?」
「そうですね」と冨吉はしっかりとうなずく。
「だったら、演者は舞台の上にいたわけだろう?
犯行はムリだよな?」
「いえ、そうでもないのですよ。
当日の公演には十六名が出演していたわけですが、その全員が常時舞台上にいるわけではないんですよ。
数人のメンバーによる楽曲披露が何曲か続いたり、曲の合間には、これまた数人のメンバーでのトークコーナーがあったりします。
ですから、自分の出番ではない時間帯を犯行にあてるのは十分可能ということになります」
「なるほどな。
ところで『エターナル・イノセント』ってのは、どんなアイドルグループなんだい? 俺はそういう世界にはうとくてね」
「僕もそうなんですがね」と冨吉。「今まであまり関心がなかったものですから、今回の事件を契機に多少は調べてみましたよ。
グループ結成は、一九八一年だから昭和五十六年ですか、今から四十二年前ですね。プロデューサーの天道寺が中心となりグループを起ち上げ、池袋のこの劇場でデビューを果たしました。
以来、ほぼ毎日、公演を行いながら現在に至ります」
「公演をほぼ毎日? そりゃ、すごいな」と村重は感心したように言った。
「劇場の収容人数は三百人程度と劇場としては小規模ですから、毎回満席になっているようです。
広いコンサートホールと違い、間近でアイドルを観れるのがウリなんですね。
もちろん公演のほかにも、CDやDVDを発売し、年に数回は全国を回るコンサートツアーも開催しています。
また、ファンとの交流を深めるツールとしては、平均して月一回程度のファンとの握手会やほぼ毎日更新されるメンバー個人のSNS、希望者に有料配信されるチャットやメールなどがありますね」
「へえ。頻繁に劇場に出て、SNSも毎日更新して、さらにチャットやメールまで。
毎月のようにファンと握手もすると。
結構、大変なんだな、アイドルをやるのも」
「初期の頃はマイナーなアイドルという時代が数年続きましたが、徐々に人気が上昇してCDも売れ始め、結成七年目には紅白歌合戦に初出場しています。
以来、一時期には、CDセールス百万枚以上を連発し、絶頂期には劇場を札幌、仙台、大阪、博多に構え、メンバーの総数は二百人を超えていたそうですが、栄枯盛衰はいわば世の常ですから、現在では池袋のこの劇場が残るのみでメンバーは四十五人。
それでも、メンバーの脱退と新規加入を繰り返して新陳代謝を図った結果、常に一定のファンがついているのでこれまで存続できてきたわけですね」
「だいたいのことは、わかったよ」と村重は満足そうに言ってから、
「それで、有力な容疑者は見つかったのかい?」
「われわれの捜査の結果、天道寺のマネージャーから重要な証言を得ましてね」
「ほう、どんな?」
「天道寺は一週間ほど前に彼のマネージャーにこう言ったそうですよ。
『僕は、神楽優衣に殺されるかもしれない』って。
冗談めかした口調だったそうですが、実際にこんなことになるとはって、呆然としていましたよ」
「神楽優衣っていうのは?」
「メンバーの一人でグループの中心です。
彼女はファンの間でとても人気が高いんです」
「彼女はその日の公演に出演していたんだな?」
「そのとおりです」
「彼女に動機はあるのか?」
村重は期待を込めた目で冨吉を見た。
「ええ、調査の結果、動機と考えられなくもない事実がわかったので彼女を訊問しましたよ。
彼女には体面がありますから、もちろん極秘で」
「で、どうだった?」
「神楽優衣は…って、ちょっとなんかヘンな感じだなあ」と、冨吉はまどろっこしい様子である。
村重はそれを聞きとがめて不思議そうに、
「何がヘンなんだい?」
「いやあ、神楽優衣として、訊問したわけじゃないんで」
「はあん?」
「まあ要するにですね、神楽優衣っていうのはアイドルとしての芸名でしてね。
アイドルの神楽優衣こと、本名、佐藤智香に訊問したわけです」
八月二十五日(二)
「われわれが調べた事実を佐藤智香に提示すると、彼女は割とあっさり白状してくれましたよ。
佐藤智香は、半年前から三か月ほど、妻子ある男性スタッフと不倫の関係を続けていたんですね。
それを週刊誌の記者が嗅ぎつけたらしい。
そのことを知った天道寺は、彼女にグループからの脱退を通告しました。
アイドルに、恋愛はご法度。
しかも、不倫ですからね、グループ全体へのダメージは計り知れない。
天道寺は隠ぺい工作を図るつもりだったようですが、万が一ことが公になったときのために、前もって脱退してくれと迫ったというんですね。
盛大な『卒業』セレモニーを開くからと。
彼女は、そのことに納得できなかった。
彼女がアイドルとしてデビューしたのは十三歳。
以後の五年間は心血を注いで、アイドルを演じ続けてきた。
過酷なレッスンに耐え、劇場公演に出演し続け、心ないファンからの誹謗中傷を受けながらも、やっとつかんだ現在のポジション。
佐藤智香にとっては、アイドルの神楽優衣としての活動が、生きる意味のすべてだった。
それを断たれるのは、死ぬのと同じことだ。
彼女はそう言ってましたね。
たしかに、アイドルを演じ続けるプレッシャーに耐えきれず、恋愛に頼ってしまったことはある。
けれど、もう終わったことだし、今はアイドルで全力を尽くしたい。
絶対、やめたくない。
それで天道寺とは当然意見が折り合わず激しい口論になったらしい。
感情を抑えきれず勢いで『殺す』と口にしてしまったかもしれない。
だけど、自分は絶対に殺していないとのことでした」
「十八歳で不倫とはねえ…。
それにしても、アイドルなんて、客前やテレビでにこにこ笑ってりゃいいと思ってたんだが、結構な重圧があるのかなあ。
なんかちょっと、かわいそうに思えてきたよ」
村重は慨嘆するようにそう言った。
彼女とじかに接した冨吉も同情するような表情を浮かべている。
「そうかもしれませんね。
ただし、これも週刊誌の記者が突き止めたことで、近いうちに大々的に報じるらしいんですが、彼女が未成年の身の上で、飲酒と喫煙の常習者だというのは、さすがにいただけませんがね」と言って冨吉は苦笑した。
「で、彼女のアリバイは?」
「それなんですがね、さっきも話したように彼女は人気メンバーですし、この後で話す理由からしても、舞台での出演時間が長いんです。
また、出演時間以外でも、何人かの人間の証言によって、彼女が常に人の目に触れていたことが確認できました。
従って、神楽優衣こと佐藤智香を容疑者から除外したわけです」
「なるほど、わかった。それで、次の容疑者は?」と村重は促した。
「次はですねえ」と不意に冨吉は子どもがいたずらをしかけるような顔つきになった。
「次も、神楽優衣なんでして」
「おいおい、神楽優衣の件はもう片付いたじゃないか」と呆れたように村重。
「ええ、佐藤智香の件は片付きましたよ」
「だから、神楽優衣だろう?」
「それはそうなんですが。
引き続き、神楽優衣の訊問を続けました」
冨吉のじらすような口ぶりに、村重は苛立ちの表情を隠さず、
「おまえは一体なにを言ってるんだ。俺にも分かるように説明してくれよ!」
「すいませんでした」と冨吉は軽く頭をさげてから、言葉をつないだ。
「神楽優衣は十人います」
「はあん」
「アイドルグループ『エターナル・イノセント』の芸名は襲名制なんです。あの日の劇場の楽屋に歴代の神楽優衣が集結していたんですよ」
にやりと笑いながらそう言った冨吉は、箇条書きの手書きメモを村重に差し出した。
佐藤里奈(九代目)、大学二年生。社会学部に所属しマスコミ理論を研究。
山本真唯(八代目)、大学四年生。アナウンサーをめざして就職活動中。
井上美咲(七代目)、家事手伝い。来春には、貿易会社社長との結婚予定。
高橋瑞希(六代目)、社会人十年目。航空会社に勤務し、国内線の客室乗務員。
鈴木萌絵(五代目)、女優に転身。舞台を中心に脇役として活動中。
田中千尋(四代目)、会社経営者。夫とは離別し二児を育てながら渋谷と代官山で雑貨屋を経営。
山田聡子(三代目)、専業主婦。姑との折り合いが合わずそのストレスから鬱病を発症し心療内科に通院。
伊藤美幸(二代目)、婚姻歴のない単身生活者。錦糸町でスナックを経営。
岡田愛子(一代目)、有閑夫人。夫、長男夫婦、二人の孫と三世代同居。
八月二十五日(三)
アイドルにはそれにふさわしい名前があるという天道寺の強い信念のもと、「エターナル・イノセント」の芸名は代々受け継がれている。
アイドルの寿命は短い。
メンバー本人が脱退を決意することもあれば、プロデューサーの天道寺から「引退勧告」を受ける場合もある。
「エターナル・イノセント」は五年周期でおおよそのメンバーが入れ替わる。
その際、メンバーの脱退と新規加入の時期が合えば芸名は襲名される。
だが、脱退時に新規加入するメンバーがいなければ、新しいメンバーを待つことなくその時点で脱退するメンバーの芸名は途絶え、逆に新規加入時に脱退するメンバーがいなければ、新しい芸名が天道寺によって発案されるというシステムが設けられている。
なお、襲名制であると、ファンが「エターナル・イノセント」を語り合うときに混乱を招きそうであるが、同じ芸名でも異なるニックネームが与えられることによって、そうした事態は回避されている。
例えば、
冨吉は、歴代の神楽優衣の現況と世代交代の仕組みを説明し、さらに村重への報告を続ける
「同じ芸名同士というのは、特に絆が深いみたいですね。
仲間意識が強く普段からお互いに交流があるそうです。
あの日は、生誕祭といいましてね、つまりメンバーの誕生日当日かその前後に行う公演のことを指すんですが、ちょうど佐藤智香の生誕祭だったため、そのお祝いも兼ねて、歴代の神楽優衣が公演を観に来ていたんです」
「で、捜査の結果は?」
「歴代の神楽優衣は、それぞれ境遇が異なりますが、グループ脱退後も天道寺とのつながりは途切れていなかったので、あるいは殺意が生まれる余地があるかもしれないと考えましたが、彼女たちからめぼしい証言は得られませんでした。
また、その後の捜査でも、これといった動機は浮かんできていません。
当日、アリバイがある人間もない人間もいたのですが、現時点では彼女たちの中に容疑者たりうる人物はいませんね」
「ふむ、そうか。
ところで、さっき小耳にはさんだんだが、楽屋にはアイドルオタクの男がいたそうだな」
「ああ、そうですね。
メンバーの兄なんですけど、弟を同伴して見学に来ていました」
「俺の偏見かもしれないんだが、どうもアイドルオタクという輩はオカシな奴らが多いんじゃないかっていうイメージがあってね。
その男にも訊問したんだろう?」
「ええ、もちろんです。
どうもアイドルオタクというのは、アイドルグループの運営に対して不満をもつことが結構あるそうなんですよ。
つまり、自分の推しているメンバーが、他のメンバーに比べて冷遇されているんじゃないか、とかね。
天道寺はプロデューサーとして絶大な権力を握っていたでしょうから、たとえばシングル曲の歌唱メンバーを選抜する際にも、五十人近いメンバーの中から通常は十六人を選ぶわけですから、そんなときには彼の発言が大きな影響力を及ぼすはずなんです。
だから、天道寺のせいで自分の推しが選抜メンバーから外されたんじゃないかって、そう逆恨みするケースも割とよくあるみたいなんですよ。
熱狂的なオタクであればあるほど、そうした恨みが積もりに積もって・・・ なんてこともありうるかもとは考えました」
「で、この男の場合、どうだったんだい?」
「彼も、なかなか強烈なオタクではあるんですけど、殺意については完全否定です。
たしかに、『自分の推しは、もっと運営から推されてもいいはずだ』と思ったことはあるけれど、だからといって殺すなんてとんでもない、いくらオタクだからって、そんなことをしてはいけないという常識くらいは持ち合わせている、とそういう発言でした」
「アリバイはどうなんだい?」
「確実なアリバイはないんです。
ただ、僕が実際に話してみた印象にすぎないんですが、彼が犯行に及ぶとはちょっと想像できないですね」
八月二十五日(四)
珠夢羅早希は、後悔という名の深い泥沼に沈んでいた。
あの時、どうして、あんなことをしてしまったんだろう?
自分で自分のした行為が信じられない。
懊悩、悔恨、自己嫌悪。負の感情に支配されて抜け出せなかった。
だから、少しでも救済されたくて、でもその一方でアイドルを引退することも辞さない覚悟であの日、天道寺の個室を訪ねた。
珠夢羅早希の公演での出番は少ない。
出演時間の合間を縫い、思いつめた気持ちで天道寺の元へ相談に行った。
でも…
あの時の悪夢が脳裏から消え去ってくれない。
永遠に息を止めて命の抜け殻となってしまった天道寺の姿。
自分の掌を染めた真っ赤な血。
無我夢中で部屋を飛び出しトイレに駆け込み、忌まわしい赤い液体を洗い落とした。
その時の様子は誰にも見られていないはず。誰とも会わなかったはず。
でも、ほんとにそうだろうか?
八月二十五日(五)
五歳の海斗には、中学三年生の姉と高校三年生の兄がいる。
その姉の由貴が出演する公演を観るために初めて劇場を訪れていた。
海斗の兄の達彦は熱狂的なアイドルオタクではあるが、自室に引きこもりがちな生活を送っていて、不登校が一年半ほど続いている。
そんな達彦の数少ない外出の目的の一つが、アイドルのライブに行くことだった。
いつも口数が少なく引っ込み思案だけれど、怒った姿をみせることがない心優しい兄に海斗はよくなついていた
兄に引率されて楽屋に入った海斗はまたたく間に人気者となり、姉の仲間たちに一斉に話しかけられたり頭をなでられたりお菓子やジュースをたくさん貰ったりした。
フリルで飾られたきらびやかで可愛らしい衣装をきたアイドルたちに囲まれて、海斗は緊張しっぱなしだった。
おねえちゃんも、ふだんのおねえちゃんじゃないみたいだった。
きらきらしてたなあ。
その楽屋に珠夢羅早希の姿もあった。
海斗は言葉を交わさなかったが、まるでその存在を忘れられたように隅の方にひっそりと座っているのを見て、「あのひと、なんなんだろう?」と思ったのを覚えている。
やがて公演が始まり海斗と兄は最後列の右端の席を占めたのだが、予想外の音響の大きさに海斗は怖くなってしまった。
その場にいたたまれなくなった海斗は、兄と一緒に楽屋に戻った。
楽屋には、公演の模様を映すモニターが設置されている。
公演の途中で尿意を催した海斗は楽屋を出て、少し離れた男子トイレで用を足した。
そしてトイレの出口に立った時、廊下から駆けてきて脇目も振らずに隣の女子トイレに入っていく珠夢羅早希の蒼白な横顔とそれとは対照的な真っ赤な手を目撃した。
あれは、血だったんじゃないかなあ。
やっぱり、話したほうがいいのかなあ。
海斗も一応、警官からの訊問を受けたが、子どもへの影響を考慮して殺人事件があったことは知らされなかった。
なにか重大なハプニングが起こったことはなんとなく察せられたが、わけもわからないまま質問された。
その質問者の警官の威圧的な雰囲気に怯えていたし、そんな海斗の様子を心配した兄がほとんどの受け答えをしたため、目撃したことを打ち明けるタイミングを失ってしまった。
そうして数日が経った頃、家族などの様子から、あの日にどうやら人が殺されたらしいことを薄々と海斗は感じ取ったのだった。
そうだ、ぼくがみたことをママにそうだんしてみよう。
八月二十五日(六)
村重への説明が一段落したところで、冨吉の携帯電話に着信があった。
三分ほどで通話を終えると村重に向き直って、
「後藤からです。やつは、『エターナル・イノセント』のメンバーの一人、伊集院美紀の自宅に行っているんです。
彼女の本名は栗本由貴、その弟が栗本海斗で五歳です」
「その弟がどうかしたのかい?」
「ええ、証人なんですよ。
彼は事件当日、姉の舞台を観るために、さっき話したアイドルオタクである兄の栗本達彦と一緒にあの劇場に来ていたんです。
それで、現場の方から女子トイレに駆け込んできた珠夢羅早希というメンバーの一人を目撃している。
その両手は血に染まっていたと」
「そりゃまあ、それが本当だとしたら重要な証言だが、そんな幼い子どもの証言をアテにできるのかい?」
そして村重は冨吉から珠夢羅早希についての情報を聞かされたのだが、にわかには信じられなかった。
ほんとにそんなことがあるんだろうかという疑問を拭いきれない。
「とにかく、重さん、劇場に行ってみましょうよ。
たしか、珠夢羅早希は今日の公演に出演しているはずです」
そう言う冨吉にせかされる形で、村重と冨吉は池袋の劇場に向かった。
約三十分のドライブを経て午後七時四十五分に到着した二人が劇場に入ると、そこは公演の真最中だった。
後部扉の脇に立って周囲に鋭く目を光らせていた警備員が、中途半端なタイミングで入場してきた村重と冨吉をとがめるようににらみつけた。
冨吉にとっては父親世代にあたる高齢の警備員だったが、二人の胸をおさえて会場の外に押し出そうとする腕の力は思いのほか強かった。
あわてて冨吉は警察手帳を取り出す。
その手帳に、薄い暗がりの中で目を細めて近づけた警備員は、手帳と冨吉の顔を何度か往復した後、ようやく納得したようにうなずいた。
そのいかにも不機嫌そうな表情は、ライブ鑑賞を邪魔されたファンのそれと変わらなかった。
ようやく警備員から解放された村重と冨吉は、あらためて劇場内を眺めた。
収容人数が三百人ほどの座席はぎっしりと埋まり、そこここで色とりどりのサイリウムライトが揺れて暗闇を破っている。
耳を圧する大音響が腹にずんずんと響いた。
スポットライトに照らされた狭いステージの上では、メンバーがパフォーマンスを繰り広げている。
ステージの前方中央は客席側へ半円形に出っ張っているが、今その上で三人の少女たちが歌い踊っていた。
音楽に混じって、観客の声援とも掛け声ともつかぬ野太い声が耳を打つ。
曲が終わるといったん劇場内は真っ暗になり、しばらくして明かりが戻ると、今度はさきほどとは別の二人の少女たちがステージで躍動する。
そのような光景が何度か繰り返され、メンバー四人によるトークコーナーが終わると、今度は出演している全メンバー十六人がステージに躍り出た。
村重は、ステージに向かって右端にいるメンバーの姿を目の当たりにして強烈な違和感を覚えた。
あれが… 珠夢羅、早希?
やはり、冨吉の話したことは本当だったんだ…
村重は、さきほど一課の事務室で交わした冨吉との会話を脳裏によみがえらせていた。
村重はこう言ったのだ。
「だって、その海斗って子どもは、初めて劇場に行ったんだろ?
姉の仲間たちに会ったのだって初めてだったんじゃないかい?」
「ええ、そうですよ」
「だったら、同じ年代の女の子がたくさんいる中で、トイレの出口でほんの数秒見かけただけのメンバーを特定なんかできないだろ?
子どもの目なんて、いい加減なもんだ」
「おっしゃるとおりです。同じ年代の女の子なら、ね」と冨吉はにやにやと笑いながら言った。
「はあん」と村重は途方に暮れた顔つきになる。
「つまりですね、珠夢羅早希という名前はグループ結成当時に発案された芸名なんですよ」
「それがどうした?」
「彼女、珠夢羅早希は初代です。
珠夢羅早希という芸名は一度も襲名されていません」
八月二十五日(七)
後藤刑事の優しい問いかけに、栗本海斗ははっきりと答えた。
「ぼくがみたのは、おねえちゃんとおんなじ服をきた、おばあちゃんだよ」
八月三十日
この記事を目にしている方の多くはすでにご存知かもしれないが、天道寺弘樹殺害の件で珠夢羅早希が被疑者として勾留され、なおかつ容疑について黙秘を続けているという噂が広がっている。
警察は何ら発表をしていないが、新聞報道やインターネット情報を見る限り、その噂の信憑性は高いと思われる。
もちろん、この件については慎重な態度を崩すべきではないし、軽々しく憶説を述べるべきではない。
だが、あえて、私は自らの意見を表明しようと思う。
表現の自由は保障されるべきだし、なにより私はアイドル評論家という肩書を持つ者として、真実を捉えているといういささかの自信があるのだ。
結論から言えば、珠夢羅早希は、天道寺弘樹の憐れな生贄なのである。
珠夢羅早希は、グループ結成当初のメンバーである。
当時十八歳だった彼女は、いち早くそのルックスの可愛らしさでファンの注目を浴び、「エターナル・イノセント」の中心的存在だった。
最も人気のあるメンバーという地位を二十五歳くらいまで維持し、歌手活動を主体にしつつも、テレビドラマやバラエティー番組にも進出し活躍の場を広げていた。
しかし、演技やおふざけにはあまり関心がなかったようで、二十代の後半に差しかかっても、女優やタレントへと転身を遂げることはなかった。
そのような年齢になれば、周囲からはアイドルとしての旬は過ぎたとみなされるし、本人もアイドルからの脱皮を試みるのが通例であるが、彼女はそうはしなかった。
それでも、大人の女性としての色気が備わってきていたので、もはやグループの中心的存在とは言えなかったが、ファンからのそれなりの支持は集めていた。
だが、三十歳を迎える頃になると、さすがに周囲の彼女に向ける視線は冷ややかにならざるを得ず、グループのファンの間からも「卒業」を迫る声が多く聞かれるようになった。
それでも彼女はアイドルであることを辞めなかった。
時の経過とともに、彼女のファンは無情にも確実に離れていき、テレビで彼女の姿を見ることもなくなっていく。
公演での出演時間も減少の一途を辿った。
その公演中に彼女に向けられるのは、かつての温かい声援から冷酷な野次に変わっていた。
彼女が再び世間の注目を浴びることはもはやないと思われていたが、四十歳になったとき、「おばさんのアイドル」として、マスコミに面白半分で取り上げられたことがあった。
このとき彼女が、世間から笑い者にされる覚悟で自虐的に振る舞えば、あるいは芸能人として浮上できたかもしれないのだが、珠夢羅早希はそのような道は選ばず、あくまでも正統派のアイドルであろうとした。
結果として、かつてアイドルとして眩しい輝きを放っていた珠夢羅早希は、世間からその存在を完全に忘れ去られ、グループのファンの口にもその名前が上ることはほとんどなくなった。
たまに話題にされるとしても、笑い話の種としてである。
彼女の容色は、四十代五十代と進むにつれ確実に衰えていった。
美容整形を施していないのだろう、不自然な若さや美しさは見受けられなかったが、そこにいるのは、年齢相応の中年女性でしかなかった。
長年にわたりアイドルを演じ続けていたことが、彼女を肉体的に疲弊させたのかもしれない。
あるいは遺伝の故か。
彼女はまだ若い頃、自分の家系は代々老けるのが早いから怖いと、冗談半分で嘆いていたという。
そして、今六十歳になった彼女が周囲から受けているのは、最も残酷な仕打ちであろう。
罵声や嘲笑よりも残酷で無慈悲な仕打ち。
それは、無関心である。
世間はもちろん、グループのファンやおそらくメンバーでさえも珠夢羅早希という存在への一切の興味を失っている。
これが、珠夢羅早希の現状である。
ところで、天道寺には、アイドルが存在しうる環境に対する妄想ともいうべき彼独自の思考があった。
彼が逝去する直前に発売された雑誌のインタビュー記事でも、そのことは如実に現れている。
彼はいかなる媒体での発言でも、必ず世相とアイドルの存立を結びつけるのだ。
そして、世の中に負の感情や行動が蔓延しているからこそ、正の存在であるアイドルが根強い支持を受けることができると結論づけている。
彼の思考では、まず負の現象ありきなのである。
長引く不況がもたらすものは、絶望や無気力であり、暴走する欲望である。
そんな時代だからこそ、アイドルは輝くことができると考える。
絶望の対比として、アイドルは夢や希望にあふれる詞を歌う。
無気力の対比として、アイドルが全力でレッスンやパフォーマンスに取り組む姿を見せる。
欲望の対比として、アイドルに恋愛の禁止を課す。
彼は冗談めかして、「俗悪なる世界だからこそ、聖なる存在は輝きを増す。ある意味、暗黒時代が続いているからこそグループが存続できた」と語っているが、これは彼の本心だろうと私は考える。
では、この、負の要素があるからこそ正の要素が成立する、という彼独特の思考を、アイドルグループの内部でも実現させたと考えることはできないだろうか。
私は大いにありうることだと考える。
その結果が、六十歳の現役アイドル、珠夢羅早希という存在なのである。
ここで対比されているのは、いたって表面的ではあるが老いと若さである。
また、醜と美である。
珠夢羅早希は、彼の妄念を成就されるために選ばれた犠牲者であった。
しかも、彼は単に脱退を認めずにいただけではない。
全力のパフォーマンスや恋愛の禁止に関しては、他のメンバーと同様に、彼女にも厳格に課していたのである。
このような天道寺の勝手極まりない所業が、大人の女性にとっていかに苛酷なものであるのかは言うまでもないだろう。
そして彼はどのような策謀を駆使し、彼女をアイドルに縛りつけたのか。
彼が甘言を弄し、彼女を肉体的に篭絡したのかもしれぬ。
または、彼女は少女の頃から彼に絶大な影響を与えられ続けたことにより、もはや一切の抵抗を奪われた精神状態に陥ってしまっていたのかもしれぬ。
あるいは、見返りとして多額の報酬を手にしていたのかもしれぬ。
いずれにせよ、珠夢羅早希の心中は察するに余りある。
彼女は他のアイドルたちを輝かせるためだけの存在として、容貌の衰えた姿を人前に晒すことにひたすら耐え忍んできたのである。
そんな彼女の鬱積した屈辱がいつしか殺意として醸成されたとしても、一体誰が彼女を責めることができようか。
前述したとおり、彼女は黙秘を貫いているということだが、今こそ堂々と自らの罪を告白し、赤裸々に天道寺の非道を訴えるときではないだろうか。
―週刊誌「エンタメ・ウィークリー」の記事より ―
八月三十一日
東山正という六十一歳の男が警察に出頭し、天道寺弘樹殺害を自供した。
「エターナル・イノセント」の専用劇場の警備員の職を得た彼は、天道寺が訪れるのを待ち続けていた。
犯行当日は、天道寺専用の個室の前で「不審者が侵入した形跡があるから室内を確かめさせてほしい」旨を告げて入室。
天道寺の隙をついて、背後から部屋に飾られていた花瓶で数度殴りつけ、彼を死に至らしめたと自供した。
その翌日、珠夢羅早希は釈放された。
九月三日(一)
珠夢羅早希が天道寺殺害容疑で勾留されたと知った翌日、俺は警察に自首した。
俺は今でもあの甘い歓喜の瞬間をまざまざと脳裏に描くことができる。
およそ半年前の二月のある日、久しぶりに公演を鑑賞した後、劇場で体感した興奮に引きずられるように、池袋のカラオケボックスに入店して深夜までひとりで歌い続けた。
心地よい余韻を引きずって、自宅のある巣鴨に歩いて向かう途中、珠夢羅早希を見かけたのだ。
高揚した気分の勢いのまま、ためらうことなく彼女に声をかけてみた。
長年のファンとして俺を見知っている早希とはいえ、素通りしてもいいはずなのに、ちょっとびっくりした表情を見せたあとで満面の笑みを浮かべながら俺に応答してくれた。
そして、どちらから言い出したわけでもなく、二人は肩を並べて二月の寒風吹きすさぶ街をぶらぶらと歩き、半ば無意識に、俺と早希の足は人けの途絶えた深夜の公園に向かっていた。
その公園のほのかに明るい街灯の下で、俺たちは立ち止まった。
俺の目の前に珠夢羅早希は佇んでいた。
ほんの少し手を伸ばせば、彼女の肢体に触れることができる距離に。
俺の理想を具現化したアイドルが確かに今ここに存在していた。
俺と早希だけの空間。
周りには誰もいない。
これまでにも、少しの時間なら言葉をかわしたことも握手をしたこともある。
そんな時にはわずかではあるが、気持ちが触れ合うのを感じることがあった。
だが、このときほど、俺の心が彼女の心に密着していると実感したことはなかった。
俺と早希だけの深くて濃密な空間。
もう、ためらうことはなかった。
少しうつむいていた早希はやがて顔を上げ、なにかを訴えかけるようなまなざしで俺を見つめた。
その視線に捉えられて、俺の体は鉄の棒のように硬直し、霞がかかったように思考は茫漠としている。
抑えようとしても、ぶるぶると小刻みな全身の震えが止まってくれない。
俺は機械仕掛けの人形のようなぎこちない動作で早希に身を寄せると、彼女のか細い背中を力みすぎた勢いでぐいっと引き寄せ、唇と唇をぶつけるように乱暴に重ね合わせた。
俺にとっては、ほんの一秒が一分にも感じられる息のつまるような長い時間がゆっくりと流れていった。
天にも昇る気持ちというのは、こういう瞬間のことを指すのだと思った。
映画のワンシーンのように、自分たち二人を中心に周りの風景がぐるぐると回転しているように感じられた。
「この世界で今の二人が一番幸せだね!」
若かりし頃から老いた今でも大好きな楽曲のフレーズが俺の頭の中を駆け巡り続けた。
俺の六十一年の人生にとって、珠夢羅早希はたった一人の偶像だった。
歳月を経てどんなに姿形が変わろうとも、彼女に対する畏怖に似た愛おしい想いは揺らぐことがなかった。
俺は彼女の外見ではなく、アイドルという存在としての美しさに惹かれていたのだから。
珠夢羅早希というアイドルなくして、俺の実存はありえなかった。
そんな中、不意に訪れた偶像との衝撃的な瞬間。
自分の命が尽きる時まで、彼女の唇の感触を忘れることはない、そう思った。
そう、確かにそう思ったのだが、翌朝を迎えてみると、本当に自分でも説明がつかずにとまどうしかなかったが、珠夢羅早希への熱くうずくような胸の高まりが消えていた。
昨夜の経験が、まるで何十年も昔の出来事のように、その印象がおぼろげになっていた。
たった一夜明けただけなのに、俺の中で珠夢羅早希は、どこにでもいるごく普通の、自分と同年代の女性に過ぎなくなってしまった。
この、あまりにも劇的な心境の変化を考えていたとき、ふと俺はその原因に思い至った。
とても筋道の立ったものとは言えないが、俺は感覚的に確信を抱いた。
そう、珠夢羅早希と唇を重ね合わせてしまったこと、それがたったひとつの理由なのだ。
あの時に何かが決定的に変わった。
理想のアイドルとのキスという憧れあるいは妄想が現実となったとき、その原動力となっていた想像力は役目を終えて跡形もなく消滅してしまう。
強靭な想像力こそが、彼女への想いを支えていたのに。
俺の長すぎた青春は、終焉を迎えたのだ。
そして、青春の終焉のその先にあったのは、天道寺の命を奪うことだった。
俺はいつしか早希のことを、天道寺の奴隷として人々の前で老醜をさらしている「おばあさん」としか見えなくなっていた。
聴衆の笑いものなっているとしか思えない彼女が憐れだった。
そんな彼女への憐憫が、天道寺への憎悪を形づくっていったのだ。
天道寺のせいで早希はアイドルとしての旬をとっくに過ぎても無理やりに続けさせられ、女優やモデルなど、ありえたかもしれない別の未来への道を閉ざされた。
そんな早希に代わって、俺は天道寺への復讐を執行したのだ。
もっともそんな早希の姿が、未来に何の希望もなく世間に見捨てられたような存在の自分と重なり合ったのかもしれない。
その意味で、俺自身のこの酷薄な世界に対する復讐でもあったのだろう。
俺は劇場の警備員として内部に潜り込み、天道寺殺害の機会を狙っていたのである。
そして、待つことおよそ半年、俺は念願を果たしたのだ。
しかし、早希が疑われるとは、まったく想定していなかった。
早希の勾留を知った俺は、すぐさま警察に出頭し自首をした。
今、この無機質で冷え切ったコンクリートの壁に囲まれた独房で思うことは、やはり彼女の幸福だ。
今までのつらくみじめなアイドル人生を忘れて、一人の平凡な女性としての幸せをつかんでほしいというのが、俺の切なる願いだ。
彼女自身もまたそれを望んでいるのではないだろうか。
九月三日(二)
あの雑誌の記事のように、わたしって、憐れな生贄なんだろうか?
珠夢羅早希は自問自答してみる。
だが、何度考えてみても、憐れとか生贄とかという結論には達しなかった。
アイドル評論家の記事をたまたま目にしたのだが、まるで共感するところがない。妄想の垂れ流しとしか思えなかった。
わたしは天道寺さんに強制的にアイドルを続けさせられていたわけでは決してない。
自ら望んで今もこの場所にいる。
だって、雑誌の記事にもあったけど、天道寺さんが課した全力でのパフォーマンスや恋愛禁止は、アイドルとして当然の姿だとわたしは思っているから。
パフォーマンスに自分の人生のすべてを捧げ、人である限り本能的に憧れる恋愛に対して断固として背を向ける、そういう生き方こそがアイドルを輝かせると信じているから。
もっとも天道寺さんにはあの人なりの思惑があって、わたしに「卒業」を宣告しなかったのかもしれないけど、わたしには関係のないことだし関心もない。
わたしは踊ることが大好き、歌うことが大好き。
そしてみんながわたしのパフォーマンスを見て笑顔になってくれれば、こんなにうれしいことはない。
本名の斉藤綾乃ではなく、アイドルの珠夢羅早希として存在しているとき、わたしは一番輝いている。
だけど、わたしがひとつまたひとつと年を経るごとに、みんなの気持ちが離れていってしまったのは本当に寂しいし悲しい。
女優になればいい、バラエティタレントになればいい、もうグループを「卒業」すればいい。
そんな声がわたしの元にひっきりなしに届いてきたけれど、わたしはアイドルを辞めるつもりはなかった。
自分の道は自分で決める。
いくら年齢を重ねたからって、自分の大好きなことをなんで諦めなければならないの?
確かにデビュー当時は、「あと何年かしたら、わたしも卒業するんだろうな」って漠然と思ってたけど、歌やダンスを通じてみんなと心がつながる、通じ合えることの素晴らしさを日を追うごとに実感するようになってからは、自分がもうダメだと思うときまでは全力で駆け続けようって決心した。
でも、まあ、周りがわたしのことを嗤っていることへの反発があったことも否定はできないけど。
そもそも、人って年をとるごとに変わっていかなければならないの?
子どもの頃に憧れていたアイドルになれた。
その憧れを持ち続けてはいけないの? 女優やタレントに転身することが成長することなの?
歌やダンスで得られる色々な人との一体感。
子どもだって、大人だって、男性だって、女性だって、みんなが笑顔になれる。
これは他の職業では味わえない、かけがえのない感覚。
もちろんアイドルではなくても、歌やダンスで表現はできる。
だけどわたしは、子どもの頃から憧れ続けた、かわいくて純粋無垢で楽しい夢のような世界に生きていたい。
これって、わたしのただのワガママなんだろうか?
そう思って気分がどん底に沈むこともある。
虚しくて涙を流すこともある。
そして、自暴自棄になって、自分でも思いがけない行動をしてしまうことも・・・。
珠夢羅早希は、およそ半年前の苦い記憶を再び呼び覚ます。
ふとアイドルでいることに疲れを感じ、気持ちが衰弱していたあの日。
レッスンを終えて深夜の池袋の街をあてどもなく歩いていると、男の人に声をかけられた。
それは、ずっと前から今まで、わたしを応援し続けてくれるファンの人。
自然と並んで歩きだし、たわいもない会話をしながら、いつしか小さな公園に入っていた。
そこで… そこで、わたしは初めて唇を許した・・・
それだけで、わたしたちは別れたけれど、その後からわき上がってくる後悔と罪悪感に耐えきれなくなりそうだった。
だから、半年悩みぬいた末、天道寺さんに告白することに決めた。
わたしは恋愛禁止の掟に背いてしまったことになるのか?
天道寺さんからの励ましを期待する一方で、もし断罪されたらアイドルを辞めるしかないとも思っていた。
本当は公演終了後と思っていたけれど、まったくパフォーマンスに集中できなくて、いてもたってもいられず、出番の合間に天道寺さん専用の個室に向かった。
扉をノックしても返事はなくて、試しにノブを引いてみたらあっけなく開いた。
わたしの目に飛び込んできたのは、部屋の中央に倒れていた天道寺さんの姿。
夢中で彼の傍に駆け寄ってひざまずいた。
なぜか後頭部の血に目が吸い寄せられて、右手で思わず触れてしまった。
彼はぐったりとしてピクリともせず、わたしは本能的にもう彼が助からないことを悟った。
あまりのことに呆然としていたわたしは、自分の右手に天道寺さんの流した血が付着しているのに気づいて、忌まわしいそれを拭こうとして左手をこすりつけてしまっていた…
しばらくして我に返ったわたしは、急いで部屋を飛び出し、トイレに駆け込んで両手の血を洗い流した。
このことをもちろん警察に話すべきなのはわかっていた。
だけど、怖かった。
正直に話しても、もしかしたら自分が殺人犯人だと疑われるんじゃないかって。
それだけでも、大スキャンダルになる。
そうなったら、もうアイドルを続けることはできなくなる。
そう考えたら、とても言い出す気持ちにはなれなかった。
皮肉なことかもしれないけれど、この事件をきっかけに、わたしはやっぱりアイドルを続けたいんだって確信できた。
わたしが警察に事情徴収を受けたことは、世間に知られてしまったみたいだから、わたしの立場がどうなるかはわからないけれど。
それに天道寺さんがいない今、グループがどうなるかもわからないけれど。
それでも、わたしは、やっぱり、自分にこう言い聞かせよう。
誰もがスターになれるし、いつでもみんなが輝く権利を持っている。
わたしの信念は、六十歳の今でも変わらない。
わたしは、みんなが驚き呆れるほどの楽天家。
あのアイドル評論家は、老いと若さ、醜と美の対比だって書いてたけど、わたしはそんなありきたりな価値観をぶち壊したいって今では思ってる。
等身大の六十歳のアイドルの魅力。
そんなものが本当にあるのかはわからないけれど、きっと存在すると信じて、そんな前代未聞の魅力でみんなをもう一度振り向かせてやろうって思ってる。
そのために、わたしがやらなければならないことはわかってる。
そう、わたしは、劇場のステージで最高のパフォーマンスを見せるんだ!
九月五日
珠夢羅早希は、ステージの裏手に佇んでいる。
開演二分前。
いつものように目を瞑って精神統一をする。
気持ちを一点に集中させながらも、どうしても右の腰の疼痛を意識してしまうのもいつものことだ。
慢性化した腰の痛みは、痛み止めの注射を打ったところで治まることはないが、そんなものだとだいぶ以前に諦めている。
客席からは、公演の開始を待ちわびるファンたちの掛け声が飛び交っていた。
だが、その声援が自分に向けられたものでは決してないことを知っている。
だけど、わたしはあきらめない。
天道寺さんの死を乗り越えて、「エターナル・イノセント」がこれからも活動を続けていくことが決まったのは、心からうれしい。
警察から疑惑の目を向けられていたわたしも、幸いにして世間からもグループからも特に制裁を受けることはなかった。
これからも、ずっとアイドルを続けていきたい。
その気持ちに変わりはない。
今のわたしには、たった一人のファンさえいないのかもしれないけれど。
わたしを思い続けてくれた東山さん。
きっとわたしのことを想うあまり、天道寺さんを殺めてしまったんだろう。
警察に勾留された後、わたしは直感的にそのことを悟った。
天道寺さんに対する気持ちは、きっと東山さんとわたしとは違うんだろうけど、わたしへの切実な同情が東山さんの殺意を育てたに違いないと思うと、わたしにも責任の一端があるような気がして、わたしは自分への疑いを晴らす気持ちは失せてしまって黙秘を続けた。
だけど、わたしが勾留されていると知ってすぐに、東山さんは名乗り出た。
そんな東山さんも今はいない。
でも、まだまだ、これから!
いつか再びみんなの視線がわたしに戻ってくるようにしてみせる!
できることなら、ステージでこの命が燃え尽きるまで、歌って踊って…
わたしはこれからも全力で走り続ける!
公演の一曲目のイントロが流れてきた。
珠夢羅早希は、少女たちの最後尾から、力強い一歩を踏み出した。
(了)
偶像 鮎崎浪人 @ayusaki_namihito
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