第275話 リーファの旅03
クルシウス殿の「エデル子爵の尾は踏むな」という忠告だかため息だかをきっかけに仕事の話は終わる。
「すっかり昼の時間を過ぎてしまいましたな」
という言葉をきっかけに私たちは食堂へと移った。
すると、あの匂いがしてくる。
「おお。噂をすれば…ではありませんが、バンドール君の話をした後でカレーというのも偶然にしては出来過ぎておりますなぁ」
と元伯爵が苦笑しながらそう言った。
私も、自分の腹具合のことを思って、
(なんとも出来過ぎた話だね)
と思い苦笑いしながら、
(さて、伯爵家のカレーとはいったいどんなものかな?)
と、期待を込めて待つ。
すると、目の前に出されたものは、カレーの匂いがするスープのようなものだった。
見る限り、具は何種類もの焼き野菜と厚切りで大ぶりなベーコンが乗っている。
(なんとも豪快な見た目だな)
と感心しつつ、さっそくスープをすすってみた。
(辛い!しかし、美味い。トーミ村のカレーとは全く違う。香辛料の味や香りが前面に立っているだろうか…。まごうことなきカレーだが、あのカレーではない。しかし、これもカレーだ。なるほど。バン君の言っていたカレーの奥深さというのはこういうことを指していたのか…)
そんな驚きとともにさっそくベーコンに手を付ける。
(くっ…。ここが伯爵邸でなければ豪快にかぶりつくものを…。…そして、クルシウス殿よ。なぜ、パンを添えた…)
そんなことを思いながら、ベーコンを丁寧に取り皿へ移しフォークとナイフを使って上品に食べた。
当然ながら、そんな残念な気持ちはおくびにも出さず、笑顔で食事を進める。
終始孫の話を聞きたがる元伯爵にユークとリアの様子を語って聞かせるという仕事しながら、私は、
(ああ、この野菜の香ばしさ。そして、あっさりとした見た目からは想像できない、おそらくボーフの骨と香味野菜をじっくり丁寧に煮込んで取った出汁の深い味わい。香辛料が織りなす絶妙な香り。そのどれもが一級品だ。それなのに…)
と、なんとも言えない残念な気持ちを抱えて昼食を食べ終えた。
そんな元伯爵の孫話要請からようやく解放され、夕暮れを合図に伯爵邸を後にする。
そして私は、門を出たところで、ふと立ち止まると、美しく夕日に染まるエインシリアの町を眺め、
「…米が食いたい」
とつぶやいた。
とぼとぼと宿へ戻る。
そして、宿の主人に米はあるか?と聞いた。
そんな私に帰ってきた返答は、
「残念ながら今日はパスタでして…」
というものだったので、さらに落ち込む。
だが、そこでふと昼間の話を思い出し、
「昼間言っていた『鹿の角亭』というのは夜もカレーを出しているのか?」
と一縷の望みを託すように宿の主人に聞いてみた。
「え、ええ。たしか出してたと思いますが…」
という主人の言葉に救われたような気がしたが、念のために、
「付け合わせはもちろん米なんだろうね?」
と息を呑みながら確認する。
「え、ええ。米ですよ」
宿屋の主人がそう言った瞬間、天上から光が差した。
「…すまん、ご亭主。今日はどうしても米が食いたい気分なんだ。代金はそのままでいい。夕食は外で食べてきてもいいだろうか?」
私は礼儀として一応確認というよりも念押しするような感じで宿屋の主人に聞く。
「ええ。もちろんかまいませんが…」
と、やや私の勢いに押されながらも快く了承してくれた宿屋の主人に、
「すまんね。明日の朝食には期待しているよ」
と言い残すと、私はさっそくその「鹿の角亭」を目指して宿を出て行った。
大通りから路地を抜けて一本先のやや狭い、昔ながらの雰囲気を残す商店街に出る。
宿屋の主人が教えてくれた通り、その通りに面した路地を少し入った所にその「鹿の角亭」はあった。
言っていた通り、見た目はややボロい。
しかし私は、
(お。良い感じじゃないか…。だいたいこういう店は美味い)
と感じ、さっそく扉をくぐる。
「1人だけどいいかい?」
私は、一応型通りにそう聞いて、
「あいよ。カウンターでも?」
と聞いてくる中年の女性店員に向かって、
「ああ、かまわん。カレーはあるかい?」
とさっそく注文しつつ、席に着いた。
そんな私に、その店員は、
「チーズは乗せますか?」
と聞いてくる。
(お。いいじゃないか!)
と、心の中で喚起しつつも、やや冷静さを装って、
「ああ。お願いするよ」
と言って、さっそく出された水をひと口飲んだ。
店はけっこうにぎわっている。
とはいえ、ぎゅうぎゅう詰めという訳でもなく、6つほどあるテーブルが5つほど埋まっていて、カウンターには私1人だけ。
みんな地元の常連のようだ。
仕事終わりなのだろう。
それぞれに美味そうなものをつまみながら酒を飲んでいた。
(お。あのステーキはボーフか?意外と分厚いな。ん?隣は揚げた丸イモにケチャップ!…くっ。美味そうだ…。いや、あっちの炒め物も美味そうだが、なんの炒め物だろうか…)
と店の様子を観察していると、カウンターの奥から、
「あいよ。カレーいっちょう!」
という意外と威勢のいい声がする。
そして、その声に先ほどの女性店員が、
「あいよ」
と答えると、お待ちかねのカレーと米がやって来た。
「お待ちどうさま」
という店員の声に、
(ああ。待っていたよ!)
と心の中で興奮気味に叫びつつも、
「ああ。ありがとう」
と冷静を装う。
そして、おもむろにスプーンを持つと、待望のカレーをひと匙すくいあげた。
見た目は私の知っているカレーとは違って、茶色い。
しかし、匂いは確実にカレーだ。
(ほう。こういうパターンもあるのか…)
と感心しながらも、
(肝心の味は)
と期待しながらひと口食べる。
その瞬間未知の味が私の口の中に広がった。
(…!シチューのような見た目だがシチューじゃない。これもカレーだ。しかし、シチューのような濃いうま味と肉や野菜が良く煮込まれた時に出てくるあの香りもある。これもまたいい…)
とまずはその味を感じる。
そして、次に、観察対象を具に移すと、
(肉はボーフ…すね肉?この周りのとろとろとした所がたまらん。たしか、あの部位は調理に手間がかかると聞いたことがあるが…)
と思い出し、このカレーがどうやら時間をかけて作られているだろうことを察した。
(しかし、ボーフ以外の具が見当たらない。…と言うことは、あれか。あのバン君やドーラさんが言っていたフォンドボーとかいうやつか。たしかあれも手間がかかると言っていたが…。ふっ。いいね。その手間。そう言う手間が、飯を美味くするんだよ)
そんなことを思いながら、黙々と食べる。
(お。このチーズもいい。良い感じにカレーの熱で溶けてとろとろだ。この匙で持ち上げると、「みにょーん」と伸びるところなんか可愛げがあっていいじゃないか。その可愛げが辛味を和らげてくれている。しかし、このチーズは可愛いだけじゃない。肉とは別のうま味でこのカレーの味をさらに奥行あるものにしている。…なんともにくい演出だ。たまらん。たまらんよ)
そう思った私のスプーンは止まらなくなり、いつの間にかそのカレーは皿のうえから綺麗になくなっていた。
(いやぁ。美味かった。さすがは宿の主人が勧めるだけはある。たしかに、ここは当たりだ)
そんなことを思いながら腹をさするが、私の胃はどこか物足りなさを感じている。
(…これは、あれだな。カレーの魔法にまんまとやられてしまった、というやつだな)
そんなことを思って私は密かに苦笑した。
カレーの悪い所だ。
この辛味と香りが妙に胃を刺激して、いつも以上に食欲を増進させる。
本当は、満腹になっているはずの胃が、なぜか次を求めてくるんだ。
(これは、カレーが悪い)
私はそんな意味の分からない言い訳を自分にすると、
「おーい。すまんが、エールと揚げた丸イモをくれ」
とさきほどの店員に向かって注文を出した。
たらふく食って、
(…いかん。いくらなんでも食い過ぎた)
と反省しながら宿に戻り、ごろんと横になる。
(いかん。少しは腹ごなししないと苦しい)
そんな独り言を心の中でつぶやき、宿の主人が風呂は近所の銭湯を使ってくれと言っていたのを思い出すと、さっさと道具を取り出し、重たい腹をさすりながら銭湯へと向かった。
ひと風呂浴びて、やや胃が落ち着く。
宿屋に戻ると、部屋の窓を開け、夏の夜風を浴びながら、
(さて、この先どうするか…)
と考えた。
(とりあえず、西の公爵領でルシエールに会うのは確定だね。しかし、あとはどうする?まぁ、そのまま薬草の調査をしつつエルフィエルかな?ユーリエスのいるルクロイ伯爵領には…クルシウス殿が手紙でも出すだろうからそれで済む。寄る必要はない。マーカスのいるイルベルトーナ侯爵領もそうだ。…ん?イルベルトーナ侯爵領?…よし、西の公爵領の次はイルベルトーナ侯爵領にしよう。多少回り道だがあそこには行くだけの価値がある)
そんなことを考えて私はひとりほくそ笑む。
(ふっ。バン君の悔しがる顔が直接見られないのは残念だね)
そんな悪だくみをしながら夜空を見上げた。
エインシリアの町はトーミ村よりも明るいからだろうか。
夜空の星が幾分少なく見える。
そんな星空を眺めていると、不意にトーミ村の家族の顔が浮かんできた。
(まったく…。もう里心かい?)
思わず苦笑してしまう。
そんな苦笑いを浮かべたまま私はそっと窓を閉めた。
程よく落ち着いた腹を抱えて、ベッドにゴロンと横になる。
(いい夢が見られそうだ…)
心の中でそうつぶやくやいなや、私は笑顔で眠りに落ちていった。
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