第20話


 客席はてんやわんやだった。茶色に染まったペーパーナプキンが、机に散在していた。埒が明かないと思ったんだろう。彼氏さんはショルダーバッグからハンカチを取り出したところだった。あたしも加勢しようと足を早める。

 そんな時だった。





 目の前で人影が横切った。


「本当に、仕様の無い人」

 そう彼女さんは言った。

 彼女さんは彼氏さんの机の傍でしゃがむ。持っていたハンカチで机を拭いた。


 じわり。白いハンカチが茶色に染まる。

 青いスカートの裾が、黒色に濁る。


 彼氏さんはあっけに取られていた。しかし、すぐにハッとした顔になると自らも机に近づく。あたしも我に返って、二人に近づいた。



「すみません、ご協力ありがとうございますッ。グラスもお下げいたしますね」

 言うが早いか。あたしは銀トレイ、プラッターへ空になったグラスとナプキンの残骸を集める。床の氷は既に消えていた。ポケットに入れていた布巾もといダスターで机を拭くと、風のようにカウンターへ戻る。


 グラスを水野さんへ任せて、ごみを捨ててプラッターを保管場所へ戻す。控え室への扉をくぐり、裏手でモップを手にしたところで、頭が常温まで下がってきた。


 ころり。落ちてきた疑問をキャッチする。

 あのお客さんの二人、どうしてるかな。


 バケツを片手に、そろりと店内へ戻る。

 カウンター内では手を拭く水野さんと、静かに客席を眺める晃さんがいた。あたしはすぐ傍の壁に掃除用具を置く。晃さんに倣って、静かに視線を向けた。





 二人は真っ直ぐ前を向いて座っていた。気難しい顔で、お互いに黙り込んでいる。でも、肌を裂くような空気は霧散していた。


「汚してしまって良かったの。お気に入りなんだろう」

 ぼそりと、彼氏さんが切り出す。目の先は机の上。


「別に良いのよ」

 彼女さんも自分の手元を見ていた。まっ茶色になったハンカチを畳みつつ、言う。


「やらなきゃ良かったのに」

「やりたかったの」

「俺が不甲斐ないだけだったのに」

「誰にでもあるわ」


 ぐっ、と。死角なのに彼氏さんが唇を噛んだのがわかった。

 彼氏さんは彼女さんの席の反対方向に、俯く。しばらくして、絞るように悲しげな声が聞こえてきた。


「いつも、そうだ。俺は不甲斐ないばかりだ。何もできない、何も上手くできない。お前に、気を遣わせてばかりで。本当に、俺、どうしようもない、な」


 はは、と乾いた声がした。力なく首を振って、彼氏さんは彼女さんへ顔を向けた。

「矢っ張り、別れようか。お前は、もっと別の人と一緒にいた方が良いよ」


 あたしは口元に手を覆った。本当に別れちゃうの。折角、冷静になれたみたいなのに。良いの、こんな終わりで。少し鼻がつんとするのを自覚しつつ、あたしは成り行きを見つめた。



 ぱちり。バッグの金具を閉じる音が、小さくも確かにカウンターまで届いた。

 彼女さんは顔を上げる。そのまま黙って彼氏さんを見ていた。

 何回か瞬きをして、彼女さんは口を開く。


「ねぇ。あたしのこと、嫌いなのかしら」


 彼氏さんは答えなかった。顔を少し下へ向けて、目を逸らしていた。

 彼女さんは返答を待っていたようだった。けれど、一向に返ってこない現状に溜息を吐く。切れ目の目元を細めた。


「そう、じゃあ。嫌いってことで良いのね」


 瞬時に彼氏さんは彼女さんへ向いた。


「そんッ、い、いや。なんでも、ない」

 彼氏さんは、またしても彼女さんから顔を背けてしまった。だというのに彼女さんは動じた様子が無い。「なら」と、そのまま追及した。


「あたしのこと、好き?」

 彼氏さんは答えない。彼女さんは分かっていたみたいだ。「どっち?」なんて延々と彼氏さんへ訊いている。


 はわわ。あたしは両手が震えそうになった。

 また雲行きが怪しくなるんだろうか。

 またあの怖い雰囲気を見るのは、あたし、ちょっと嫌だ。



 焦れたように、彼氏さんは彼女さんへ向いて、叫んだ。

「あぁ、もうッ。未だに好き、好きだよ、決まってるだろ、悪いかよッ」


「そう」

 ひぇ。

 彼女さんは短く返事をするだけだった。怖い。


 彼氏さんはきッ、と強く彼女さんを睨んだ。しかし彼女さんはふい、と正面へ身体を戻す。気に病んだ素振りは無い。


 何か言おうと、彼氏さんが口を開けた。

 しかし。「それと」なんて、彼女さんは強調した。

「被害者面しないでくれる」

「は、はぁッ?なんだよそれッ」


「勘違いもしないで。あたしは貴方が不甲斐ないことくらい、ずっと前から知っているわ」

「な、ならッ。別れても、良いんじゃ」


 もごもごと、俯きながら彼氏さんは言う。内容まではカウンターへ届かなかった。でもその言葉は最後まで続かなかった。それだけは知っている。


「あのね」

 理由は彼女さんがぶった切ったからだ。



「その不甲斐ないところを直そうと只管ひたすら頑張っている人が、あたしは堪らなく愛おしいの。頼らないように、良いところを見せられるように、なんて。一所懸命な貴方が大好きなのよ、とも





 呼吸が止まった。


 呼吸が止まっていたことに、息が苦しくなってから気がついた。


 声が出ないように、一層強く手に力を込める。え、ねねねッ、ねぇ。今なんて言ってた、なんて言った?!


 とも、と彼女さんが言った瞬間。彼氏さん、義さんは彼女さんへ振り返っていた。そこから、身じろぎ一つしていない。彼女さんは前を向いたまま、続ける。


「だけど、あんまりにも貴方、頑張りすぎているから。すごく不安にもなるの。もっと、あたしに寄りかかって欲しい。彼女なんだから、一緒にいるんだから頼って欲しいの」


あん……」

 彼女さんは、杏さんは言い終わるとマグカップへ視線を落とす。


 義さんは声を失っていた。

 少しだけ、義さんの右肩が動いたような。そんな気がした。




 何、何これ。ちょっとよくわかんない。展開が早すぎて急すぎてよくわかんないッ。でも、でもでも、一つだけ。一つだけなら、はっきりわかっていることがある。


 これ、一切の邪魔も見逃しもしちゃあいけないッ。



 脱力したように義さんは背もたれへしなだれた。

「なんだ、そう、だったんだ。てっきり、てっきり俺が駄目だから、お前が気負い過ぎているんだとばかり」


「ねぇ、ずっと訊いてみたかったのだけれど」

 杏さんが困惑したように、義さんを見つめた。

「その気負うとか、気を遣わせてばかりとか。何のことなの。まるきりあたしには身に覚えがないのだけど」


「え。だって杏、どこか無理していないか」

 義さんは意外そうな声色で言った。杏さんは訝しげに眉を寄せる。

「何。あたし、何処も無理しているところなんて無いわよ」


「だって、お前」

 などと言って、義さんは一旦言葉を切る。

 思い出すように、ゆっくりと連ね始めた。


「例えば、服とかさ。お前スラックスとかのシンプルで格好いいタイプの、大人っぽい種類のものが好きだったろ。なのに最近、フリルのシャツとかふわふわしたスカートとか。可愛らしい服をよく着るようになったじゃないか」

「え」




 え。

 うっかり同じ言葉が出そうになる。

 勢いそのまま、あたしは義さんから杏さんに視線の中心を移した。

 杏さんも目を丸くしたまま、ぼんやりと義さんを見ていた。


「最初は趣味が変わったのかなって思っていたけれど。ショッピングに着いて行ったときに見た顔からして、そうでも無さそうだったから、違うんだろうなと。もしかしたら無理させているのかなって」

 義さんはそのまま言葉を紡いでいた。さも不思議そうに。


 あ。違う、多分それ違う。

 あたしは小さく首を振る。

 それから杏さんを見て、確信した。義さんは気づいていない。


 杏さんの耳が、真っ赤になっていることを。


 杏さんの服のタイプが変わった理由。それは十中八九、義さんが原因だ。

 多分アレじゃない?義さんが可愛い服着てる子が好きとか、そんな情報をゲットしたんだよ。だから、それに合わせて服の種類変えたんだよ。


 うん。そうだよね。あたし、初恋すらまだだけど、それくらいはわかる。


 だって女子だもの。



 義さんは少しだけ、そっぽを向いた。

 ちらりと見えた頬は、杏さんの耳と同じ色をしていた。


「まぁ、そりゃあ、さ。今みたいな服を着た杏も可愛いけれど。好きな服を着て笑っている杏も同じくらい可愛かった、っていうか。そもそもいつも可愛いっていうか」

「そ、そう。そうなの、ね」

 


 杏さんが言い終わると。ぶつり。お互いに黙り込んでしまった。しかしながら。漂う空気はこれまでと全く異なる種類のものだった。胸は暖かく、そわそわ落ち着かない。いや、暖かいを通り越してもたれてくる頃合いかもしれない。


 眺めていると、突然。同じタイミングで、二人が弾かれたように背筋を伸ばした。あ、不穏。そう思った瞬間に、客席から視線が一斉に注がれた。や、やばッ。急いであたしは、くるりとモップの方向へ身体を向ける。


 背中の遥か向こうで、ひそひそと男女の声がする。


「......たから、出ましょ......」

「そ......ようかッ、それが良......」


 しばらくすると、ぴたりと内緒話が収まった。かと思えば、がたがたと椅子の音が鳴る。互いにバッグを肩に下げつつ、二人はそそくさと出口へ足を進めていった。


「ありがとうございました」という水野さんの声にも。

 二人は下を向いたまま過ぎていってしまった。


 けれど、ドアから出る前。二人とも真っ赤な顔で会釈をしてくれていた。

 最後まで大人な人たちだった。






 あたしは黙ってプラッターを取った。机を片付けて、カウンターへ帰る。ゴミを捨てて、プラッターを戻した。瞬間、あたしは重たくため息を吐く。やらかした。


「やらかした」

 声にも出ていた。でも、全部どうでも良いや。

 モップを掴んでそのまま愚痴を出す。

「うう、もっと見ていたかった。カレカノ、カレカノおぉ」


「まぁ、ドンマイ波須歯さん。こういうこともあるよ」

 水野さんが労るように声をかけてくれた。少し心が軽くなる。優しさはプライスレス。涙が出そうだ。


 あれ、そういえば。

 あたしはハッとした。ぎゅるんと、高速で水野さんと晃さんを見る。


「っていうか、なんであたしだけ、あたしだけ注目されたんですかッ。二人とも全部見てましたよねッ」


 そう。

 先程注がれた二人分の視線は、あたしのみに集中していた。


 同じカウンター内に水野さんも晃さんもいたのに。なんなら晃さんはイケメンな上に私服なのに。いや、まぁ。派手な私服じゃないけどさ。

 静かに肯定する晃さんの横で、困ったように水野さんは笑う。


「こればっかりは、経験だねぇ。今みたいにガン見するわけではないけれど、お客さんの様子を違和感なく見るのもお仕事のうちだから」


「そ、そんなぁ」

 およよ。切なくなって、あたしは肩を落とした。経験を積めばあたしでも出来るってことだ。それはわかる。

 でも、でもッ。今、まさに今。出来ていたかった。激しくそう思う。



「次は上手くできるよ。頑張っていこうね波須歯さん」

 水野さんが優しくあたしの肩を叩いた。くっ、優しさが暖かい。水野さんの背中から光がにじみ出てきている。そんな幻覚をあたしは見た。

 その横で、無表情で晃さんが親指を立てる。


「波須歯さん、頑張ってね」

「いや、うん。晃も大概だけどねぇ」

 水野さんは頬を掻いた。


「まぁ、晃の場合はお客さん側も目を逸らしたり見つめたりするからね。観察していても、あまり印象に残らないんだろうなぁ」


 あ、そうなんだぁ。

 ははは、と水野さんはそのままの表情で笑う。ただ、笑い声を聞いていて少しだけ哀愁を感じた。あぁその気持ち、理解できる気がします水野さん。モップを置いた場所へ近寄りながら、あたしは雲の上に想いを馳せた。






 あぁでも。

 掃除用具を手にあたしは思う。浮かべたのは仕事終わりの一杯だ。


 いつもはカフェオレを頼んでいる。

 けれど、今日の一杯はブラックコーヒーが良いかもな。


 それで、さっきの光景を浮かべながら飲みたい。一組のカップルが、並んで消えた後ろ姿を。あれは、きっと良いものだったから。そう思えば、うん。今日の終わりがすごく楽しみだ。



 踊る胸と共に、あたしはカウンターの外側へ一歩踏み出した。

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