第19話

「それで、破局する理由だったかな」


 何気ない水野さんの言葉があたしの耳を貫く。あ、忘れてたッ。いっぱいに広げた右手を、大きく開けた口へ当てる。

「はい、そうですそうなんですッ」


 かつん。

 言い終わるが早いか、足元で聞こえた靴音にあたしは我に帰った。

 見れば右足が一歩、前に出ていた。


 うひゃあ。しおしおとあたしは右足を元通りに戻す。ずいずいと水野さんへ詰め寄るところだった。そんなことしたらきっと困っちゃうよ水野さん。




 肝心の水野さんは目を丸くしていたけれど、ふわりと表情を緩める。


「そうだねぇ、僕も経験豊富なわけでは無いけれど。確かに言えるのは、関係の終わりがいつもいつもドラマチックな出来事とは限らないってことかな。例えば、ほんの一回の八つ当たりが原因で絶縁状態になったり、相手と違う小物を買った所為で自然消滅したり。あとは――」


 う、うわぁ。

 水野さんの話は懇々と絶えない。あたしは話を聞きながら戦々恐々としていた。

 他愛もないことで関係がなくなることはあるっていうことだけは、よくわかった。でも、事例が生々しすぎる。


 もっとも、八つ当たりの内容とか小物の種類によっては別れちゃう気持ちがわからなくもない。だけど、その。

 さらっと世間話のように語られる内容では無いと思います。


 ふんふんと、大人しく聴く晃あきらさんを横目にあたしは脱力した。

 水野さんはほわほわと笑う。


「──というわけで。きっかけが些事であっても、色々あるものなんだよねぇ人間関係って」

「そ、そ、そういうものなんですかねぇ」


 あたしは長く長く息を吐いた。

 過剰な湿気を含んだ胸の中がずっしり重たかった。今の溜息で全部無くせたはずだったのに、身体はまだまだ重たいままだ。ううう、とあたしは小さく唸る。


「やっぱり納得はできないです。どうしたら別れないでいられるんでしょうね」

「うーんそうだね、それは難しい話だなぁ。人生最大のテーマって言っても良いかもしれない」


 水野さんは眉を下げて、首を捻った。

 え、とあたしの口から小さく叫び声が出る。


「そんなに壮大なんですか」

「うんうん。だって人による、としか言えないからね」

「人による」


 オウム返しにあたしは呟いた。水野さんはゆったりと腕を組む。


「だって、人間は一人ひとり性格が違うでしょ。待ち合わせに遅れても全く気にしない人がいたり、反対に1秒でも遅れれば何日も口を利かなくなる人がいたり。だから同じようなシチュエーションになっても、別れるカップルと別れないカップルができてしまうからね。絶対にこうだ、って断言できないんだよ色恋は」


「へぇえ」

 あたしは首をかくかくと上下に振った。

 同時に肺から一挙に、空気が出ていく。


 大人で頭の良い水野さんが、困ったように言うのだ。本当に難しいんだろう。初恋もまだなあたしだけど、理由が通じなくて感情で雁字搦めなものなのは何となくわかった。






 ふぅと息を吐く音がして、意識を戻す。水野さんの声より近く聞こえた。

 ということは、晃さんかな。顔を上げれば、矢張りというかなんというか。すんとした顔をする晃さんと目が合った。晃さんは言う。


「老けた顔をしているね」

 思わず肩が吊り上がった。


「え、な、なッななな、なんでぇッ」

「ちょっと!?晃ッ、ななな、なんてこと言うんだッ」

 水野さんが泡を食ったように、晃さんへ詰め寄る。「冗談だけどね」と肩を揺さぶられながら、表情を変えずに晃さんは言った。


 お、おう。まぁ冗談だよね。知ってた。おそらく、怒ったり悲しんだりすべきなんだろうね。多分、セクハラってヤツじゃないのこれ。

 でも、急だったし。予想外と言うべきか、否か。驚きが強すぎて感情が全部吹き飛んでしまった。




 水野さんは晃さんの肩を掴む手に力を込めた。

「いいかい、もう一度言うよ。晃の冗談はね、黒すぎるんだって。言うにしても、もっと別のものにしなさい。ほら、波須歯はすばさんにきちんと謝るッ」

「波須歯さんごめんね」

「軽い、軽いからそれッ」

「あ、あのぅ。もう大丈夫ですよ」


 おそるおそる話に割り込むと、二人とも同時にあたしを見た。わわ。途端に胸がすくむ。晃さんはぬぼっとした表情をしているけど、水野さんは鬼気迫ったような顔つきだ。落差が激しいにも程がある。


 どきどきしていると、晃さんの肩から水野さんは手を放す。

 一気に力が抜けたように、水野さんは溜息を吐いていた。


「晃。波須歯さんがこう言ってくれているから、僕はもう言わないよ」

「うん」

「ただし、後でお話があるからね。きっちり、覚えておきなさい晃」


 大人しく晃さんは頷く。顔つきだけは神妙だった。

 お話ってなんだろう。気になる。訊かないけど。話題が蒸し返されそうだし。そればっかりは御免だ、やーめよ。あたしは黙って二人を眺めた。


 晃さんは切り出す。

「そう、それでカップルが別れるって話のことだけれど」

「あ、はい」


 あたしは頷いた。

 そういえばそんな話をしていたんだった。それで恋って大変で難しいって結果になったんだっけ。世知辛いよね。

 あ。思い出してきたら、少し気分が重くなってきた。はぁ。




 晃さんは口を開こうとして、ぴたっと止める。それから目を少しだけ細めた。


 音の鳴りそうな睫から見える瞳が、ランプの光で仄かに赤色を帯びる。きらきら瞬いて、ショーケースの宝石を見つめている気分になってきた。

 ちょっと、綺麗かも。見ないでいるのが惜しくて、ずっと見ていたら、晃さんの声が聞こえた。


「恋というものは感情に振り回される概念だ。概念なのだから、そんなに気にしなくて良いと思うよ」

「え」


 飛び退くみたいに身体が震えた。

 だって、だって気にしなくて良いって。気になるのに無理だよ。

 なんて言葉にしたかったけど、上手く纏まらず。晃さんもまだ何か言うみたいだから挟むわけにもいかず。開いていく唇を見ながら、あたしは黙っていた。


「当事者でもなければ関係性も一切無い、外野の中の外野。それが今の俺たちでしょう。だったら手を出す必要もなければ、出すべきことでもないんじゃあないかな」


 そ、そうなのかな。あたしはざわざわする胸に手を当てていた。居ても経ってもいられなくて、右手で前掛けの裾を握ったり離したりと、繰り返す。


 そりゃあ、まぁ。あたしは赤の他人だけど。それでも、やっぱり気になるし、どうせなら仲良くして欲しいし。今すぐにでも仲裁に行きたいくらいだ。


 「それに」と言って晃さんはあたしを一回だけ見た。そうしてふぅ、と息を吐く。

 え、何。あたし今なんでやれやれ、って感じで見られたの。納得いかないんですけど。遺憾の意を示すために、あたしは眉をぎゅっと寄せた。

 無言で抗議するあたしを余所に、晃さんは続ける。


「たしか、世間でもずっと言われているでしょう」



 ──邪魔すると馬に蹴られる、ってさ。






 ガシャンッ。

 不意に、何かが倒れる音がした。方向はあたしの右側からだった。つまり客席から。え、客席ってことは。猛スピードであたしは客席を見る。


「うわ、わわわッ」

 彼氏さんの机で、グラスが倒れていた。グラスが壊れているような雰囲気はない。でも、中身が盛大にぶちまけられていた。

 彼氏さんは慌てて椅子から立ち上がる。しかし拍子に膝で机を揺らしてしまった。


 がたり。

 音と共に、氷が淡いブラウンの液体の上で踊る。


 瞬く間に、ことり、ことり。

 氷は、次々床へ落ちていった。


 それを見て、更に彼氏さんは焦燥を強めたよう。ぶんぶんと辺りを見渡している。わかる。紙ナプキンを探しているんだよね。それでちょっとは惨状をマシなものにしておきたいんだ。


 って、ヤバいじゃんこれ。


 脳内実況している場合じゃないでしょあたしッ。


「あたし、ちょっと行ってきますねッ」

「よ、よろしくね波須歯さんッ」

 水野さんの声を背に、プラッターを持ってスイングドアから飛び出した。早足で客席へ急ぐ。今は、今はどうなってるのッ。

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