第5話
「ど、どういうことですか」
声にも出てしまっていた。いやいやそんなことよりも、だ。
あたしは桐崎さんへ前のめりになる。だって当たり前のことを言っただけだもの。さっきの言葉で一体どんなことが腑に落ちたのか。わからなすぎて、一周回って興味が出てきた。
桐崎さんは目をぱちぱちさせると、
「
「エスプレッソ?エスプレッソってあのすっごく苦いコーヒーのことですよね」
言いながらあたしは頭の中でエスプレッソを浮かべる。イメージできたのは、普通のカップより二回り小さいカップに入ったコーヒーだ。イメージのエスプレッソは、通常のコーヒーより心なしか濃い黒色をしていた。まだ飲んだことはないけど、普通のコーヒーより苦いらしいから当たっていると思う。
「そうそう。エスプレッソは普通の
「コーヒーじゃないんですか」
「おぉ、そうだねぇ。確かにエスプレッソは珈琲の仲間なんだけど、普通の珈琲とは違うかな」
桐崎さんは両手でマグカップを包んだ。
「まず違うのは、エスプレッソマシンという専用の機械を使わないと上手く抽出できない点かな。というのも、エスプレッソは珈琲豆を素早く圧縮して作る飲み物でね。普通の抽出方法ではのんびり過ぎて、えぐ味とかの雑な味わいが出てきて美味しくないんだ」
「えぐみ」
口の中であたしは言葉を転がす。
えぐみ、えぐみねぇ。苦味とどう違うんだろう。ここのコーヒーは美味しいって思うけど、苦いのは同じだし。作り方が違うのはわかったけど、そこだけはやっぱりよくわからない。
いいや、今は話を聞こうっと。あたしは桐崎さんの言葉を待った。
「あとエスプレッソは抽出するとき、非常に深く焙煎して細かく挽いた珈琲の粉を使うのさ。本当にササッと作らなきゃいけない飲み物だから、できるだけ煎って細かくすることで抽出時間を短くするんだよね」
「へえぇ」
最近では美容にも効果があると言われているなど。次々に桐崎さんの言葉が右から左に飛んでいく。全然止まらない。
あたしはあんぐり口を開けていた。ぶっちゃけ桐崎さんが話し始めた頃から開けていたけれど、気に止めない。いや、向けられる意識が残ってなかった。
すごい。
エスプレッソはただのコーヒーじゃなかったんだ。ただ苦いだけで、普通のコーヒーとそんなに変わらないと思っていた。
「で、だ」
桐崎さんはぴんと、天井に人差し指を立てる。
「次にカフェラテとカフェオレですけど、波須歯ちゃん。おじさん、先に言っておくけども。カフェラテとカフェオレは別モノですよ、同じモノではありません」
「え、ええッ?嘘ぉ」
「嘘じゃないでーす」
すかさず桐崎さんが胸元でバッテンマークを作る。思わずあたしはのけぞった。両方ともコーヒーと牛乳のドリンクでしょ。どこが違うの。無性に続きが気になって、あたしは念を込めて桐崎さんを見た。
似ているようで結構違うんだよなぁ、と桐崎さんは頭を掻く。
「まずカフェラテ。カフェラテはエスプレッソと牛乳で作る飲み物で、エスプレッソよりも多い牛乳を注いで出来ます。そしてカフェオレはね、珈琲と牛乳で作ります」
「ん?やっぱり同じじゃないですか」
狐につままれるってこういうことなのかな。
あたしは持っていた丸い銀トレイ、プラッターで口元を隠す。違いって言っても使っているコーヒーの種類だけ。なら、同じようなものじゃないの。
桐崎さんはふるふると、かぶりを振った。
「そんなことないでーす。カフェラテはエスプレッソで作るけど、カフェオレの珈琲は抽出方法は何でも良いんだ。それこそインスタントでもサイフォンでも、珈琲であればなんでも作れる飲み物、それがカフェオレ」
「えッそうなんですか」
「そうだよ。裏を返せば使うのが珈琲なら良いんだから、焙煎方法も挽き方も決まりが無いんだよねぇカフェオレって。だからカフェオレはお店によって味わいが違うこともあるんだよ」
目から鱗が落ちた。
反射して脳内に浮かんできたのは、あたしの部屋にあるテーブル。その上にはあたし専用のマグカップが置かれていて、小麦色の液体が入っていた。
これは、コーヒーを淹れるお父さんに便乗して、あたしがたまに飲んでいたもの。中にはコーヒーと牛が同じくらいの量、入っている。砂糖は入ってないけど、牛乳が濃厚だから意外と苦いと思わないで、ごくごくと飲めたのだ。
これをあたしはカフェラテと呼んでいた。カフェラテだと思って飲んでいた。
でも今。桐崎さんの説明を聞いて、あたしの脳内映像は酷くぶれる。
もしかして、まさかとは思うけど。家で飲んでいたのはカフェラテではなくてカフェオレだったの。
途端。桐崎さんはばつの悪そうな顔になった。
ゆるゆると、あたしから目を逸らす。
「あー。今のカフェラテじゃなくてカフェオレ云々って言葉、おじさんばっちり聞こえちゃったからお答えするとね。エスプレッソマシンみたいな専用の機械とかが無い限り、素人が家で作れるのはカフェオレかな」
「うっ」
またしても声に出ちゃっていたみたい。あたしはプラッターを強く握りしめる。
勿論、あたしの家にはそんな専用の機械とか無い。ただのペーパードリップで入れたコーヒーと牛乳だ。今、記憶の中の飲み物が、カフェオレだと確定した。
桐崎さんの容赦ない言葉は続く。
「あとカフェラテとカフェオレの大きな違いは、使う牛乳の量と豆の焙煎方法くらいかな。そんなわけで残念ながら、いやおじさんはここの珈琲好きだから全く残念じゃないか。うーん兎に角、ここの珈琲はサイフォンで作ってるから、カフェラテではなくてカフェオレが正解だよ」
「うぅ。参りました」
降参です。
あたしは桐崎さんから顔ごと視線を逸らした。本当は叫びたいくらい恥ずかしい。でも仕事中だし、すごくかっこ悪いからそれだけは頑張って我慢する。だから、桐崎さんを直視できないのは許してくれるでしょ。多分。
あたしの頬はものすごくほかほかしていた。まるで初めて美形さんに詰め寄られたときのよう。あの時とは全然理由が違うけどね!
突如、空間を揺らすような笑い声が店内に響く。
飛び上がりそうになったけど、あたしの身体は動かなかった。お客さんの前で恥の上塗りをせずに済んだみたい。よしよし。
後ろを見たけれど、店内にはあたしたち以外はいなかった。
入り口の扉が動いた気配もない。ならお客さんが来て、帰ったとかでもなさそう。来店したお客さん放っておくのがいけないってことくらい、バイト歴2日目のあたしでもわかる。でも違うなら、怒られることもなさそうだよね。なら良いや。
我ながらちょっと、心の中がささくれていると思う。でも仕方ない。
何故なら今のあたしは、驚きよりも恨めしさの方が強かったから。だって今のやり取りの直後に発生した笑い声ってさ、つまり、そういうことじゃないの。
「……そんなに笑わないでくださいよ」
あたしは発生源の桐崎さんを横目に見た。
「いや、だってさぁ。参りましたってもう、本当に。あぁ、面白い子だなぁ波須歯ちゃん」
言っている最中も終わった後も、桐崎さんは笑う。引きつけをおこしつつ、腹を抱えて、ソファの上で笑っている。
うん、そっとしておこう。何となくツボに入ったのはわかったから。
あたしはそっと曇りガラスへ視線を向ける。それにあの大きな声も最初だけで、今はサイレントだ。逆に器用ですよね桐崎さんってば。楽しそうだけど。
桐崎さんは目尻を拭った。
「すまないな、波須歯ちゃん。いやぁ、ここに来る楽しみが増えた増えた!今日は来て良かったよ、ふふ」
「ソレハヨカッタデスネ」
「あはは、機嫌直して直して」
赤ちゃんをあやすみたいに、桐崎さんはあたしへ言う。気にかけてくれている、その気持ちはなんとなくわかった。
なら尚更、もう落ち着いても良いんじゃないかな。今言ってくれた言葉の後でも、ふふっ、って笑ったの聞こえてましたからね。
まだ笑い続ける桐崎さんへあたしは静かに目を細めた。
それから1分は経ったかな。もっと長かったかもしれない。覚えていない。
やっと桐崎さんは落ち着きを取り戻した。あたしがカフェオレを運んできたときのように、姿勢良く椅子に座っている。でも、まだ肩を小刻みに震わしていた。完治はしてないようだ。悔しい。
でも。
さっきもちょっと思ったけど、客席エリアに長居し過ぎた気がする。
あたしは逡巡した。特段仕事は無いし今はお客さんが桐崎さんしかいないし。
カウンターの美形さんに呼ばれることもなかったから、甘えてずっと居座っていたけれど。流石にもう戻るべきだよね。向こうに行こうっと。
カフェオレを口に含む桐崎さんを見て、あたしは踵を返そうとした。
「そうだ」と閃いたような声がしたのは同じタイミングだった。
あたしは声の聞こえた方向を見た。悪戯をする小学生男児のように、桐崎さんは口角を上げる。
「実はね、面白い話があるんだよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます