第20話 魔王誕生 紀元前52年

 ガリア・オーヴェルニュ地方 ジェルゴヴィア


はかったな!?」

 山道の途中で仁王立ちとなった弟セラヌリウスが大声を上げる。


「信じられない?」

 たった今、確かにびを入れた筈のメルティベスが、我等に向けて矢を放ったのだ。


「どう言う事? 『部族の誇りにかけて誓う』と言った筈の男が、舌の根の乾かぬうちにもうこのような事をしている」


「ちっ、仕損じたか。おい何をしている!? 皆、弓を構えろ! 次は絶対に仕留めるのだ!」

 メルティベスは金切り声を上げ叫び続ける。


「ゴフッ」

 うずくまった兄セラヌリウスが大量の血を吐き仰向けに倒れた。弟セラヌリウスはむせび苦しむ兄の上半身を抱き起こす。


「兄さん、ごめんよ。僕が人間を信じたばっかりにこんな。僕達は何時もこうだったよね。人間を信じ、そして何時も裏切られて… 親にさえ捨てられた僕らなのに。二人で森に居ればよかった。何時までも二人で森に居れば良かった」


 男達の集団は、より確実に弟セラヌリウスを射抜いぬける距離を目指して接近を続けている。


「兄さんは何時も言っていたよね。『人間をうらんではいけない。決して人間を恨んではいけない』と… だけどもう良いよね。いくつもの世を渡って、人間の行いを見て来たのだから…」

 弟セラヌリウスは、瀕死の重傷を負った兄を、大樹たいじゅの根元に寄り掛からせる。そして立ち上がると、背に収めた剣を抜き放ち、近づいて来る男達に向け絶叫する。


「お前ら人間とは、こんなものだ!!」

 雷鳴のとどろきのような弟セラヌリウス声は、男達の魂を震え上がらせる。


 しかし、おびえや恐怖から無闇むやみに矢を放つ者が出る事は無かった。


 メルティベスが即座に手を横にかざし、皆を制した事も抑制が効いたひとつの理由ではある。しかしそれよりも、(次に撃ち損じた時には確実に自分達が皆殺しの目に遭う)男達は皆、弟セラヌリウスの凄まじさを完全に理解したのだ。


 彼等は青ざめた表情で、慎重に慎重に、確実に弟セラヌリウスを射抜ける距離までの到達を目指した。


(お願い稲妻よ光って。弟セラヌリウスが又、闇夜にまぎれ込めるよう。お願い。もう一度皆の目を眩ませて)

 私は必死で神様に祈った。


 その時であった。


「お姉ちゃん。しっかり私にくっついて居て。母さんも一緒に、決して私から離れては駄目よ!!」

 幼いソフィーが洋服の袖口そでぐちを握り締め、強い力で私を引き寄せる。


「人間よりも”もっと恐ろしいものが"近寄って来ているの」

 ソフィーは不思議な言葉を発した。


「ソフィー。貴方どうしたの?」

 私は混乱し、もう何が何だか解らなくなっていた。


「ソフ…」

 妹に呼び掛けた筈の、私の声が途中で止まってしまった。しかし意識だけは、はっきりとしている。


(何が起こったの?)

 大地を濡らし続けた激しい雨音が、何時の間にか聞こえなくなっていた。それどころか、たくさんの雨のしずくが空中で止まっている。


(これは何?)

 迫り来る男達の姿も、皆そのままの姿勢で静止していた。


(何かが来る。いや、もう既にここに来ている。とても大きな力を持つ者。夕焼け空の上に広がる彩雲さいうん色彩しきさいを放つ者)

 パトリシアの心は叫びを上げる。


(よくは見えない。だけど確かに色彩の中にその者は存在する。人間ではない。とても冷酷な、恐ろしい存在)

 私の心は恐怖にしばられていた。


『待っていたよ。セラヌリウス』

 色彩を放つ者の言葉は、私のからだに直接染入って来る。セラヌリウスだ、色彩を放つ者は弟セラヌリウスを呼んでいるのだ。


『人間には愛想あいそが尽きた。ほとほと嫌になった。君がそう思う時を待っていたんだ』

 弟セラヌリウスは、兄の側に寄り添った姿勢で色彩を放つ者の話を聴いている。


『ずっと見ていたんだ。君達の事はね… 君達が森に捨てられる前からずっと、興味を持って君達を見て来た』

 セラヌリウス兄弟は互いの目を見合わせる。


(周囲の全ては静止していると言うのに、セラヌリウス兄弟はこの状況でも動く事が出来ている)


(厭、他にも動いている者はいる)


(ソフィー!?)


(ソフィーの小さな手は、私の身体をさすり続けている。それに私だって、視線は動かしているではないか)


『君達は何故森に捨てられていた? 君達の両親は何故君達を深い森に置き去りにした? 勿論、君達は知っているよね。それは君達二人が、前世の記憶を持ったまま、この世に生まれて来たからだね!』


『赤子であった君達が成長をして、言葉が話せるようになると、君達はたくさんの不思議な事を両親に話し始めた。君達の両親はそれを隠そうとしたよね。不思議な話を他人にはしないよう、君達は何時も注意を受けていただろう』


『だけど幼い君達は両親の言いつけを守れなかった。そして更に君達は、不思議な力を周囲に向けて使うようになった。人々は君達を恐れ、恐怖が集団的ヒステリー状態を運んで来た。小さな町の中では、君達の両親も彼らに従わざるを得なかったのだ…』


『君達は普通ではない。既に選ばれている者。私達に近い存在なのだよ。さあ行こう。人間はとても貧弱ひんじゃくな存在だ。君には私の形こそが相応ふさわしい」

 色彩を放つ者は、弟セラヌリウスに向かって手を差しのべた。


「ゴフッ。惑わされるな!」

 兄セラヌリウスが血を吐き出しながら、必死に弟を引き止める。


『ああ。君は良いのだ』

 その者が兄セラヌリウスに向い、冷淡な態度で語りかける。


『私が選んだセラヌリウスは君ではない。君は既に美しさを失ってしまった。何も失った腕の事を言っているのではない。私が欲するのは、太古の人間が有していた完全なhermaphroditeヘルマプロディーテ

 二人のセラヌリウスを前に、夕焼け空の上に広がる彩雲の色彩を放つ者は残酷に言い放った。


「弟よ、その者と共に行ってはいけない。その者は人間を誘惑する者。人間の不誠実な情念に取りき、人間を破滅へと導く者。この者の名はルシフェル。堕天使ルシフェル」

 息も絶え絶えに語る兄セラヌリウスが、再び血を吐き噎び苦しむ。


『ふっふっふっ。よく言った兄セラヌリウスよ、しかしもう手後れだ。既に弟の心は遠く人間からは離れている。今や彼の心は人間に対する猜疑心さいぎしん、そして憎悪の心に満たされているのだ』

 ルシフェルと呼ばれた存在は、自信に満ちた声で兄弟に告げる。


「弟よ。人を愛する心を忘れたのか? 嫌な事ばかりでは無かった筈だ!? 私達に優しさを与えてくれた人間の事を思い出すのだ」

 肺から喉へとあふれ上がる血にあえぎながらも、兄は懸命に弟を引き止めようとする。


「ああ、兄さん。けれど彼の言う通りだ。僕は心底人間には失望した。今は人間が余りにも憎い。確かに僕達を愛してくれた心優しい人達も居た。だけど、この世には、愚かな人間がとても多すぎるのだ!!」

 弟は苦悩に満ちた表情で、兄に訴える。


「確かにお前の言う通り、この世には愚かな人間が多く存在するのかもしれない。人間とは多くの過ちを犯す存在なのだ。しかし人間は過ちを悟った時に、それを正す事が出来る存在でもあるのだ。総てを憎んではいけない。お前の優しい心は、私が一番良く知っている」


『ふふっ。兄セラヌリウス。優しい心を持つ弟を良く知る兄よ。お前の言う通りだ。お前の弟は、優しい心を持つが故に苦しいのであろう?」

 ルシフェルと呼ばれた存在は高らかに笑い出した。


『セラヌリウス弟よ。確かに今の君では、どれ程深く人間を憎んでみても、最後の一滴まで人間を憎み尽す事は出来ない。それは君を捨てた両親を、君がどんなに憎んでみても、完全には憎み切れないのと同じ理由による。ふふっ、兄セラヌリウスよ。だから君は彼が人間の世界に止まると、私とは共には行かないと、そう考えているのだろう。しかしそれは間違いだ』


『セラヌリウス弟よ。君も戦場で多くの人間をあやめて来たのだろう。その者達にも家族や幸せな生活はあった筈だ。例え死なずとも、身体を不具にされた者の苦しみも、君には良く解る筈だ。そして今夜も、君は何人もの人間を殺し、あるいは不具にした。その者達のうめき声は、先程迄その耳に聞こえていた…』


あやめた者達の苦しむ声が、私の耳から離れることは無い!」

 弟セラヌリウスは苦痛に顔をゆがめる。


 しかし容赦ようしゃなくルシフェルは語り続ける。


『私は聴いたのだ。君の後悔の叫びを… 人間に対する憎しみや絶望は確かに君の意識を支配した。だが君の無意識はそれと異なる。人々を無残に殺傷した自責の念に、君の心は覆い尽くされていた。そして君の魂は、この世界からの逃避とうひを願った』


「ううっ。ううっ」

 ルシフェルの言葉に、弟セラヌリウスがうめきき声を上げる。


『戦士としては優し過ぎるのだ。しかし君は、気高く特別な存在だ。人間の事で何を苦しむことがあるのだ? その弱い心を捨てて、こちらの世界に来るのだ。君を裏切った人間達の事を思い出せ、君達を暗い森に置き去りにした人間の事を。そして森を壊し、愛する者を殺し支配しつくそうとする人間の事も、思い出すのだ。彼らに教えてあげよう。君がその者達の上にくらいし存在である事を』


「ううっ」

セラヌリウス弟は低い声をもらす。


『私の手に触れよ。君の苦しみを取り除けるのは、私だけだ。そして君は生まれ変る。これからは我等と共に、気高く人間を導いて行く存在となるのだ』

 堕天使ルシフェルの声は、弟セラヌリウスを引き寄せて行く。


「ごふっ、うっ。駄目だ。魔界の誘いに乗ってはいけない」

 兄セラヌリウスの顔には、既に死相しそうが現れていた。それでも最後の力を振り絞って、兄は弟を引き止める。


「うっ、ううっ。弟よ、よく周りを見るんだ。ルシフェルの背後には常に悪魔が付き添う。既にこの森にも沢山の悪魔が集まっているではないか。お前が、そんな者達の仲間に… ごふっ、ううっ。仲間になどなってはいけない」


「兄さん」

 セラヌリウス弟が、ルシフェルの許へ引き寄せられていた足を止め、兄の許に戻ろうとする。


『セラヌリウス』

 堕天使ルシフェルが弟セラヌリウスを呼び止める。


『君の兄は死ぬ。それもあと十六回呼吸を繰り返した後、更に深い呼吸を六回続け、それで終わる。唯、君だけが兄の命を救う事が出来る』


「兄を救える? 私だけが兄を…」


『そう。君だけが兄を救える』


「堕天使の話など信じるな!! ゴフッ」

 兄セラヌリウスが血を吐き出す。


『君の苦しみの泉、人間の弱くか細い心、それを置いて行けばいい。君が捨てた心は、君と同じ心と身体を持つ兄の胸に染入り、兄の傷は無くした腕と共に完全に修復する』

 ルシフェルは断言する。


「口車に乗るな! 私は死など怖れはしない」

 兄セラヌリウスは握り締めた拳を前にかざした。


『さあ、時間は無い!』

 堕天使ルシフェルは、兄セラヌリウスを迎えに来た”死に神”を押し止めている。


「兄さん、僕は行くよ!」

 兄の蒼白な顔を見詰めた後、弟は夕暮れ色の色彩を放つルシフェルの許に飛び込んで行く。堕天使ルシフェルの左手が弟セラヌリウスの左腕を握り締めていた。


「弟よ!」

 兄セラヌリウスの絶叫が森に木霊する…


 気が付くと、周囲から紅の色彩は消え去り、森は再び闇に支配されていた。雨音が地面に響き渡っている。


 男達は弓を構え、じりじりと私達に近付いて来ていた。


(もう終わりだ)

 私は死を覚悟をした。


(今日は何と言う日だろう。私は今、悪い夢を見ているのだ)

 心の逃避とうひが始まっていた。


「ここらで良いだろう。いいか!? 良く狙って、必ずあの男に命中させるのだ!」

 メルティベスの甲高い声が聞こえる。


(本当に死んじゃうのかな!?)

 ぼんやりと感じる。


「あれは何だったのかしら?」

 私は独り言を口にした。


「いいえ。まだ居る!」

 ソフィーが応えた。


「放て!」

 メルティベスが男達に矢を放つ命令を告げる。


 男達の弓から、一斉に矢が放たれた。飛来する矢を前に、私は両手で顔を覆った。


(矢は飛んで来ない?)


(何故飛んで来ないの!?)

 恐る恐る目を開けた私は、指の隙間から外の様子を伺う。


「ええっ、そんな事が?」

 私は思わず声を上げる。


 男達の弓から放たれた大量の矢が、弟セラヌリウスの前で総べて止まっていたのだ。


 弟セラヌリウスは鼻で笑いながら、ゆっくりと剣を動かし、空中で停止している矢を薙ぎ払う。放たれた沢山の矢は、だらしなく、バラバラと地面に落ちて行った。


「何をしている!? 放て! 放て!!」

 メルティベスは半狂乱はんきょうらんとなり、男達に命令を出し続ける。


 親ローマ派の男達の弓から、次々に矢は放たれるのだが、結果は総て同じであった。異様な光景に遭遇した男達は震え上がり、武器を捨て逃げ始める。


『君の名はセラヌ。魔王セラヌと改める事にしよう』

 何処からか堕天使ルシフェルの声が聞こえて来た。ルシフェルは弟セラヌリウスに話し掛けているのだ。


『魔王セラヌ。好い響きだろう。ふふっ、セラヌよ。彼等を空に上げておくれ。天界より突き落とされ、大地に縛り付けられた魔族を、星々の煌めく空へと押し上げておくれ』


『君には特別な能力がある。君は何度生まれ変っても前世の記憶を失う事がない。更には後世に肉体を繋ぐことも可能だ。よいかな、今日私は君に、人間を遥かに超越ちょうえつする力を与えた。君はその力で自由に人間を支配し、人間を高度に進化させるのだ。何時の日か、天空を翔る馬車を人間に造らせる程にね… それを忘れないでおくれ。君に力を与えたのは、その為なのだからね。ふふっ。それでは私は失礼する』


「待って頂戴ちょうだい!」

ソフィーが東の夜空を見上げ、毅然きぜんとした態度で、堕天使をルシフェルを呼び止める。


『お前には私の姿が見えるのか?』

 堕天使ルシフェルは驚き、幼いソフィーを見詰めた。


「ええ、しっかりと見えるわ。貴方は潔癖けっぺきで自信過剰。姿にも現れている」


「これは驚いた!?」

 ルシフェルはおどけた声を出す。


「貴方はセラヌリウス弟に何をしたの?」

 ソフィーは怖れる素振そぶりりも見せずに言い放った。


『今日は大切な友人が生まれた特別な日… 小さな天使ちゃんの事も多めに見る事としよう。但し、二度とそのような口を私にいてはいけない!』

 ルシフェルは強い口調でソフィーを威圧する。


『さあ、セラヌ。君の為にたくさんの雨を降らせておいたんだ! 解るだろう!? 彼等(悪魔達)もしびれを切らして待ちびているよ』

 それを言い残すと、声の主はこの場を去って行った。


 突如として大地に振動が起こり、森に大きな揺れが引き起こされる。地面を切り裂く轟音ごうおんが身体を貫き、私達は一歩も動けなくなる。


 私達の目前から森が遠退とおのいて行く。大地が割れ、私達から遠ざかっているのだ。逃げ出した親ローマ派の男達は、斜面を下り駆け続けている。大地から流れ出た大量の土砂が、メルティベスや男達を次々と飲み込んで行った。


(これが山崩れなのか!?)

 巨大な台地の崩壊をあたりにした私がそうと気付いた時には、既に大量の土砂や薙ぎ倒された大木が、大きな河のように斜面を下り降り全てのものを飲み込んでいた。


 目の前の風景は一変する。森が消え、けずられた地面が巨大ながけを形成していた。崖の下には土砂や大きな岩、樹木が雑然ざつぜんと放り出され広い範囲を覆い隠していた。


 弟セラヌリウスの姿は何処にも見当たらない。兄セラヌリウスがひとり、両手を大地に着け、うつ伏している。


 私はもう座っている事さえ出来ずに、仰向あおむけけに倒れ天をあおいだ。


(背中に人間の温もりを感じる)

 ソフィー、そして母親の温もりであった。


(私達は助かったのだ)

 虚脱きょだつした心に、肉親のからだの温もりほど有り難いものはない。


(何時の間に止んでいたのか?)

 あんなに激しく降り続いていた雨が止み、生暖かい風が雲を運んでいる。雲間から星が大地を覗くようになると、私の緊張もゆるみ始め、涙腺るいせんふたを開いてゆく。


 大粒の涙が止めどなく流れた。


(なんと言う犠牲ぎせいか…)

 私は絶句し、気を失うように深い眠りに引き込まれて行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る