第10話 秘儀 西暦525年
ヒベルニア島 Hibernia Island
岩窟の床に横たわり、バッジョは老人の言葉を思い出していた。老人はセラヌこそ、人間に苦悩を与える魔王であると言った。更にセラヌは600年もの昔より存在し、人間の命を
老人は、陽が暮れる前に月を見ると言って出掛けて行った。今の頃の月は、沈む太陽と入れ替わるように東の空に現れるのだと言う。
何故、
そして老人は死後の世界はあると言う。しかし、自らで命を断った者は、気の遠くなる程の長き時間を、一人孤独の
「騎士殿。騎士殿」
岩窟の外から、バッジョを呼ぶ声が聞こえる。
「騎士殿。風が雲を運んだ。
「はあ」
話の意図が全く理解できないバッジョは、老人に曖昧な返事をしてしまう。それをまるで気に止める様子も無く、老人は話し続ける。
「騎士殿。儂と共に川に行き、身体を清めるのだ。そして今宵は二人、巨石の
「巨石のですか?」
「ああ。暖かな季節に成りつつある。
「そこで眠る事に、どのような意味があるのでしょうか?」
バッジョが聞き返す。
「今宵は月様のお力をお借りして、騎士殿を死の領域にお連れするのだ」
「死の領域に?」
「そうじゃ。望んでおろう」
言葉の意味もよく飲み込めぬまま、バッジョは岩窟を後にする。
からだに染み入る小川の清流は、弱ったからだを痛めることも無く、まだ若い肉体を持つバッジョには、思いのほか心地の好いものであった。
からだを清め終えたバッジョは、清潔な衣類を与えられ、毛布を
東の空に昇りはじめた赤みがかった月に向かい、どのくらいの距離を歩いたのであろうか。森をぬけたバッジョは、突如として現れた巨大な建造物に驚かされる事となる。
「おおっ。これは、ソールスベリー平原に建つストーンヘッジにそっくりではないか!?」
巨大な建造物が建ち並ぶ光景を目の当たりにしたバッジョが、感嘆の声をあげる。
「騎士殿よ。凄いであろう!? この建造物は、ソールスベリー平原のストーンヘッジ同様、石器の時代、青銅の時代を経て現在に至る神秘の遺跡だ。かつて我等が祖先は、巨石の祭壇を使い数々の奇跡を起こしてきた」
「貴方はドルイド僧なのですか?」
バッジョが老人に尋ねる。
「いいや。儂の場合はそれとは異なる。まあ儂の事は、いずれ判る事であろう。その為にも共に出掛けよう。今宵は死の領域に参り、騎士殿がアーテリーや儂と、どのような繋がりを持っているのか? それを知って欲しいのだ」
「繋がり?」
バッジョが反応する。
「そうじゃ。儂らには繋がりがある」
「どんな繋がりがあると言うのです?」
バッジョが老人に詰め寄る。
「騎士殿。そう
老人は不思議な
「騎士殿。これを塗らせておくれ」
手に持つ
「御老人。これは何の
「騎士殿の霊と魂が死後の世界に行った後に、残された騎士殿の肉体に悪霊が入り込まないようにしているのだ」
文様を描きながら、老人は話し続ける。
「人間は他者を優しい心で温める事が出来る。また逆に
「悪を憎むなと言うのですか?」
「そうじゃ。
「それでは悪はどうするのです?」
「憎しみではなく、神聖な心で倒す!」
「憎まずに倒す…」
「そうだ。憎しみ、
「心の中で克服する大切なもの?」
バッジョは考える。
「人の心の恐怖や
「それもある。騎士殿らしい答えだのう」
作業の手を
「恐怖や不安の心を持たぬ事。それも大事な事じゃ。しかし儂が言った、克服すべき大事なものとは少し内容が異なる」
石台に寝かされたバッジョが、
「人間が克服すべき大事な事とは、『人間に恐怖や不安を
バッジョは老人の言葉に、
バッジョは石台から飛び降り、振り向いて自分の影を探した。影に悪魔が隠れているような気がしたのだ。
「大丈夫だ。もう離れておるわい」
バッジョの心の動きを知るかのように、老人が応える。
「騎士殿。よく聞いておくれ」
老人は、立ち上がったバッジョの背中に文字を描きながら話し続ける。
「人間にとって死は終わりではない。肉体
「死は終わりでは無い?」
「そうだ。この世で肉体が滅びるとき、それは人間が生まれる前の世界に帰る事を意味する。つまりこの世との別れだ。その間際に人間は、これまで自分が
バッジョは初めて聞く話に驚きながらも、老人の言葉に素直に耳を傾けている。
「それでは王子は…」
「そうだ。王子は今まさに自身の人生を振り返る旅を歩き始めている。貴殿は今死んでも、王子に会うことは叶わぬ。但し、おぬしが生きていれば、王子の
バッジョは老人に
「本当ですか!? いま言ったことは、誠の言葉なのですね!?」
「儂は嘘は
老人は嬉し気に笑った。
「さてそれは後で教えるとして。死後の世界に行く為には、実は今話した方法の他に、もう一つの隠された道がある」
「もう一つの道?」
「そう。それは眠りの道を通る方法」
「眠りの道?」
「そうじゃ。死後の世界、それに精神世界や神界にでさえ… 人間は眠りの道を通りそこに行くことが出来る」
「本当ですか?」
バッジョが真剣な面持ちで尋ねる。
「勿論だ。人間の眠りにはたくさんの秘密が隠されている。実は人間は眠りの度に、生まれる前に居た世界、死の後に帰る世界に戻っているのだ。しかし眠りから戻る時には、人間はそのことをすっかりと忘れて目覚めているのだがのう。よし。これで良い!」
老人はバッジョのからだに墨の文様を描き終えたようである。
「貴方の高貴な唇から溢れ出る言葉は、とても信じられない。いいえ。貴方の事は信じているのです。私は貴方の唇から放たれる言葉を、信じる事が出来る人間になりたい!」
「だから行ってみようではないか。
老人は石台に新たな毛布を敷くと、その上にバッジョの身体を横たえた。
「良いか騎士殿。眠りの中でも、特に眠りに落ちる瞬間に注意を払って下され。眠りに引き込まれる瞬間に、己の意識を集中するのだ」
「眠りに瞬間にですか!?」
「そうじゃ。眠りに引き込まれる瞬間に、からだは眠らせても意識だけは眠らせずに持続をするのだ」
「そんな事が出来るのでしょうか?」
バッジョは、とても出来そうにないと言う表情をみせる。
「修行も訓練も積んでおらぬ騎士殿には、ちくと無理かのう」
老人は笑っている。
「それではどうするのです?」
「儂が
「お願いします」
「よし。騎士殿はその時に目を覚まそうとはせず、静かにその場にそのままに… あたかも樹皮の隙間に身を隠す虫たちのようにひっそりと、
「自分の
「そう。その
「解りました。それならば出来そうです」
バッジョが嬉しそうに笑った。バッジョの笑顔など、何日ぶりのことであろう。
「それが出来れば、後は自然に事が運ぶ。騎士殿が運ばれたその先で、儂は貴殿を待っている事としよう」
「待ってください。運ばれるとはどのような事なのですか?」
「後は自然に光の道が騎士殿を運び入れてくれる。それには心配は無用だ。唯…」
「唯!? 何なのですか?」
「唯、先で待っている儂と合流してからは、儂から片時も離れずにいて下され。これは約束だ。どんな時も儂の
「ええ。誓います」
「どんな世界であろうと貴殿は騒ぎ立てず、静かにその場に身を任せるように行動をするのだ。多分、騎士殿には私が話し伝えなければ、そこではあまり多くの体験を成すことは出来ぬやもしれぬ。修行により器官を形成せねば、死後の世界、精神の世界、神界での出来事を貴殿が認知する事はかなり難しい。それでも、驚かれることは沢山あるだろう」
「器官? この世の目や耳に代わるものが、あの世では別に必要と言う事なのでしょうか?」
「その通り。この世界を知るのに五感が必要なように、向こうの世界を認識するのには別の器官が必要になる」
「別の器官?」
「回り出す輝く花弁。さあ騎士殿。月様も高く上がったことじゃ、いざ参ろうではないか。おしゃべりはやめて、眠りに就いておくれ」
「はい。やってみます」
老人は横たわるバッジョの両手指を胸の前で組み合わせ、からだを真っ直ぐに整える。
「騎士殿にはこの旅路が、
老人はそう言うと、自らも石台の上に横たわり静かに目を閉じた。
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