第8話 ヒベルニア 西暦525年
砂鉄を含んだ
ヒベルニア(Hibernia) 島。
遥か上空をたなびく
「達者なものだ」
鳥達の力強い姿を見て、体格の良い老人がぽつりと呟く。
「それにあの者も」
老人は
海原の向こうに何が見えるのだろうか。
視線の先に見えるのは、果てしなく続く
いつしか日は傾き、沈みゆく夕日が雲を染め上げても、老人はその場に立ち続けている。
「ようやく風向きが変わった」
目尻に多くの
島から沖に向かい吹いていた風が
「風よ、もっと吹け。この年寄りのからだを持ち上げるくらい強く吹き渡れ」
老人は吹き抜ける風に言葉を告げる。
遠い大陸から、V字の編隊を組み飛び続けて来た渡り鳥の一群が、夕暮れ前
上空から徐々に高度を落とした鳥たちが、老人の頭上を次々と通過して行く。老人は振り向き、飛ぶ鳥の翼が起こす空気の振動をみつめる。
「空気の精シルフよ! あの者の、命の火は消えておらぬか?」
鳥の翼が引き起こす空気の流れに巻き付くように、
「いるよ!」
「いたよ!」
「生きてた!!」
「生きてる!」
「守られてる!」
「守られてる!!」
空気の精シルフが応えた。
「感謝しますぞ」
老人は精霊に礼を告げると、「さて。一度戻るとしよう」そう言って、来た道を引き返して行く。
次々と湖に舞い降りる渡り鳥の一群の姿を眺めながら、老人は草地を離れ麓にある
翌早朝、朝日を浴びながら、草原を歩く老人の姿があった。老人はしっかりとした足取りで、真っ直ぐに海岸へと向かって行く。その
草原の端に辿り着いた老人は、島に漂着した一艘の舟らしきものを見つけた。
「おおっ。着いていたか!?」
慎重に足を運び、急な
「さぞや、からだが冷え切っている事だろう!?」
老人は肩に
足早に舟に駆け寄り、老人は中を
「おおっ。おった。流石に頼もしい
嬉しそうな表情で呟く。
「おおい。おおい」
老人は舟べりに身を乗り出し、バッジョのからだを揺さぶる。
「駄目だのう。このままじゃいかん」
オールも投げ出されたままの舟の中央に、手足を縛られた姿のバッジョが横たわっていた。
片目に黒の眼帯を付けたバッジョの口は焼け
蒼白な顔色と身動き一つしない男の肉体。老人は急いで舟に乗り込み、横たわるバッジョの鼻に耳を近寄せてみる。
「
流れ着いた男の呼吸を確認した老人は、彼の手足を縛る縄をナイフで切り取る。次いで、バッジョのからだに張り付いている湿った衣類を手際よく脱がしてゆく。そうして総ての衣類を取り去ると、持参した毛布にバッジョのからだを包み込んだ。
「衣類に、羽毛や鳥の白い
渡り鳥に付き添う空気の精シルフのことを思い出した老人は、ひとりほくそ
「鳥が温めてくれたのだろう。どれ。さぞ重かろう!?」
老人は再び表情を引き締めると、力強い動作でバッジョを肩に担ぎ上げる。
だが、持ち上げたバッジョのからだは予想外に軽く、担ぐ老人を驚かせた。
「どれだけからだを
老人は草原へと続く崖を
「御日様よ、この者のからだを温めておくれ。草原を渡る風よ、暫し休み、この者に風を吹き付けないでおくれ」
呟きながら、緑の草原をどんどんと進んでゆく。
いつしか草原は森林へと変わり、森林も平地林から山林へと移り変わって行く。
「さあ、着いたぞ」
老人は、ようやくたどり着いた麓にある
「ここで寝ていれば、からだも
岩窟の奥の石床に、毛布に包み込まれたバッジョをゆっくりと降ろした。
「ここはな、岩盤に地熱が伝わってきている。先には湯が溜まる
そう言うと老人はバッジョの頭を支え上体を起こした。程よく温かな塩の湯を少しずつバッジョの口に含ませ、根気よく
バッジョが寝かされた岩床には、空気が流れる程のゆるやかな風が届いてくる。岩の隙間から差し込む光の帯が洞穴を照らし、岩窟は人の心が落ち着くほどの明るさを保っていた。
老人は満足げな表情で石床に乗せたバッジョを見詰めると、再び岩窟の外に出て行った。
「おおい。戻ったぞ」
大きな声を上げて、荷物を背負った老人が岩窟に戻って来た。
既に陽は高く上がっている。
「騎士殿。今度は海亀のスープを飲んでもらうぞ」
老人は、まだ意識の戻らないバッジョのからだを支え起こす。そして木製のスプーンを用い、バッジョの口に海亀のスープを運んだ。
「ごふっ。ごふっ」
スープを
「いかん。いかん」
老人はバッジョの背を叩いたり擦ったり、再び咽喉が落ち着くのを待ち、バッジョの口元に根気よくスープを運び続けた。
「よしよし。又、横たわっておれ。一気に飲んでは吐いてしまう」
毛布で包んだバッジョのからだを抱き起し、石床から
「お前さんのからだには水が不足していた。だが水を補うだけでは、命の火を繋ぐ事は出来ぬ。腹の
老人は温かなからだを取り戻したバッジョの寝顔を見詰めながら語りかける。
火にかけた鍋には湯が沸き、湯気が岩窟に漂う。
「先ずは身体を
老人は湯を
いつしか日が暮れ、鹿の鳴き声が山林に響き渡る。
老人はバッジョの口元に、どれほどの回数にわたりスープを運び続けた事であろう。しかしバッジョの意識はまだ戻ってはいない。今、少量のスープを
根気良い老人の看護が続いていた。穏やかな星空が終わり、再び夜が明け行く。
翌日。老人は谷川のせせらぎに誘われるように小川に向かい、朝のたしなみを済ませていた。
「今日はな、毒で焼けた咽喉を治そうじゃないか。麻痺した胃、腸、内臓の力も取り戻そう」
そう言って、海亀のスープを入れた鍋を火にかける。
「海藻と
老人はひとり話しながら、塩、香辛料、香草をつかい調理を進めて行く。岩窟の食棚には豊富な調味類が並んでいた。
「穀類に、すりつぶした根イモ、そして海鳥の卵を混ぜ入れると料理は完成じゃ。根イモと海鳥の卵は細ネギとともに、騎士殿が食べる直前に椀に入れる事としよう。この卵を貰うのは大変だ
。随分と海鳥に頭を
バッジョは安らかな寝顔をみせ、暖かな藁の上で眠り続けている。
「そろそろ起きんかのう。旨い筈さ。儂の自慢の料理を食べてくれんかのう」
老人は優しげな瞳でバッジョの眠り姿を見詰めていた。
騎士バッジョが意識を回復することが出来たのは、舟が漂着した日より、まる二日経った朝の事であった。
その時老人は水で濡らし絞った布を使い、バッジョの顔を拭い、荒れた唇の瘡蓋に薬草を
まぶたを開き半身を起こしたバッジョは、老人の顔をまじまじと見つめ、次いで光の帯が差し込む岩窟の内部を、不思議そうな
「私は死んだのか? 御老人。ここは死の国でありましょうか?」
しわがれて声にならないか細い発声で、バッジョが口を開いた。
「ふふっ。おぬしは既にその領域に
老人は応え、鍋を火にかける。
声を出させるのが可哀そうなくらいの掠れ声である。唇の動きを読めなければ言葉を理解する事が出来ぬ程酷く、バッジョは声を、咽喉を焼かれていた。
「王子は。アーテリー王子はここにおりませぬか?」
バッジョは死の国を
「騎士殿の探しているアーテリー王子については、天使が
老人は自慢の料理を
「旨い。何と旨いものか!」
椀の端に口を付けたバッジョは、椀を傾け料理を一気に飲みこもうとする。
「待たれよ。これを使いゆっくりと味わって食べておくれ。急に飲み込めば、弱った胃腸もさぞ驚くことだろうさ」
老人はバッジョに木製のスプーンを手渡す。
「今は唯ひたすらにからだを労り、そして眠るのだ。王子の事は、騎士殿が次に目覚めた時に話すとしようではないか」
老人の言葉は傷つき疲れたバッジョの心を優しく包み込む。
老人の優しさに触れ、王子の死を嘆き苦しみ続けてきた心が幾分和らいだのであろうか… バッジョは老人に言われるまま、唯ひたすらに料理を口に運び、そして又深い眠りに落ちていった。
「騎士殿を死なせる事は出来ぬ。生きてやらねばならぬ事があるのだ。騎士殿にしか出来ぬ事がのう」
眠りに就いたバッジョのとなりで、老人が呟いた。
海上で発達した積乱雲が島に押し寄せ、雷雨を伴い激しく大地を濡らした。
バッジョは眠り続けている。
何時しか夜が来て岩窟は闇に包まれる。眠り続けるバッジョのとなりで
「風が厚い雲を流した。外は満点の星空なのだろう」
岩窟に幾筋もの星明かりが差し込んでいた。
バッジョの頬には精気が宿り、
老人は立ち上がり岩窟から外に出て行く。外の冷たい空気に触れ、両手を大きく天に伸ばした。
持って出た毛布にからだを包み込み星空の下を歩き出す老人の耳に、時折キツネの鳴く声が聞こえてくる。
「運命の糸は切れずに残りましたぞ」
星空を見上げた老人の瞳に、放射状に広がる流星群が映し出された。
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