なきさわの湯

「どうかされたのですか?」


 昂をぽかんと見上げていた難聴系美少女の睡蓮は、不思議そうに小首を傾げた。


「ど、どうかされたのかって……。いやだって、いつの間にか襦袢なんかに着替えているし……」

「そうですね。昂くんがこちらに入られた瞬間お姿が変わったので、私もとても驚きました」

「え?」


「メタモルフォーゼです!」と瞳を輝かせる睡蓮に、今度は昂が頭に疑問符を乗せる。

 だが自分の着衣に視線を移してみれば、その理由はすぐに判明した。昂は思わずって叫んでしまう。


「なんで勝手に⁉」

「ふふっ。昂くんとお揃いなんて久しぶりです」


 睡蓮は子どものような顔で笑った。

 しかしその無邪気な声が反響するのは、泣沢ノ泉の一帯だけであって――。


「おおおおおおお揃いとか、い、言うなよ……」


 昂は動揺を見せまいと、手で顔を覆ってみたり、視線を逸らしてみたりした。でも睡蓮が心配そうに顔を覗き込むと、昂はもっと平静さを失った。指の間から覗く昂の眼球が、睡蓮の身体をなぞる。


「こ、こら。かかか、屈まないっ」

「昂くん……。もしかして、お寒いのですか?」

「さ、寒いなんてそんなことあるか。だ、だってさ、ここ結構暑いだろう? あ、暑いよな⁉」

「暑い……そうですね。立派なお風呂ですものね……」


 睡蓮の口から発せられた“お風呂”というワードが、昂の頭の中を悪戯に響いていく。この状況下に加え、年相応に成長プロセスを辿っている昂にとって、今の一言は追撃に等しいと言える。昂は目を回しながら、くらくらと身体を揺らした。

 なんとか昂は上体を起こして復帰すると、辺りを見渡しながら腕を広げた。


「はは、睡蓮ったら何を勘違いしているんだ。こ、ここは、おふ、お風呂じゃないぞ? い、泉だぞ~?」


 そんな風に昂が、懸命に理性を保って睡蓮へ訴え掛けた時。

 なんの前触れもなく、二人の身体が重なった。


「へ……? す、睡蓮⁉」


 突然自分のふところに飛び込んできた睡蓮を、昂は咄嗟に抱き留める。

 大胆とも思える行為だが、睡蓮は単によろめいた拍子に身を預けただけのよう。

 とは言え胸元に顔をうずめたまま動かない睡蓮に、昂はひどく困惑した。まあ密着が出来ているのだから、本心は嬉しくないはずがないのだろうけれど。


「ど、どうした睡蓮。疲れ――……」


 昂は何かを察したようで、ドギマギしていた表情を正した。

 そして「ごめん」と一言断ると、遠慮気味に抱いていた手を肩から腕に向かって滑らせる。


「身体が冷たい」


 名前を呼んでみても、睡蓮はぐったりとしているだけで返事をしない。

 昂は睡蓮を抱きかかえると、すぐに泉へ向かった。昂は躊躇ためらいもせずに泉の中へと入る。


「本当に温泉みたいだな。……よし」


 体感的には、泉質に問題がないようだ。

 昂は慎重に腰を屈めて、睡蓮の体勢に配慮しつつ足先から泉に触れさせる。


「睡蓮、熱くないか? ……うん、そうか」


 頷く睡蓮を見て、昂は額に玉のような汗を掻きつつも胸を撫で下ろすことが出来た。

 睡蓮を抱きかかえたまま泉に浸かると、腕の中で眠る彼女の頭を撫で、慈しむように髪を梳いていく。

 それから昂は、泉に浸かっていない肩の部分にも掬った湯を丁寧に掛けてやった。耳当たりの良い音がせせらぎ、泉には波紋が広がる。

 肌に張り付く長襦袢が次第に泉へと溶け込んで、十分に水分を含んでいった。

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