小説の破片たち
山口 隼
ポストアポカリプス・百合の破片(1)
水底にも似ている。
足元には蒼白い光の残滓が散らばり、世界は闇の中で息を潜めていた。
空気は季節外れに凍てついている。指先がかじかみ、声が震えるほどに。
そのくせ掌は汗で湿っていた。
銃把を取り落しそうになるほどに。
「ああ、その通りだ」
彼女の、真っ直ぐな黄金の瞳。
迷いのない、ことば。
「私は『ルプス』だ。君たち風に言えばテロリスト、かな」
視界が歪む。動悸がする、呼吸が乱れる、浅く荒く。
「どうして」掠れた囁き声。「嫌だよ、こんなの……」
知りたくなかった。裏切られていた事実も、理解していると思っていた彼女のことを何も知らなかったことも。全てが幻想でしかなくて、自分はホログラムを見せられて喜んでいただけだと気づいた、そのみじめさを受け入れたくなくて、少女は震える。震えながら銃を構えて、泣き叫んで、それでなかったことになると信じている。
「ねえ、嘘でしょ! 嘘って言ってよ! 馬鹿なこと言うなって、笑ってよ!」
「もう、終わったんだ、その話は。私はイルマと行く」
「行かせない!」
トリガーを引こうと――引けない。
その刹那に、彼女の腕がひらめいた。
不意をつかれた真っ白な思考/断ち切られる/手首。
叫びさえ出なかった。拳銃と、身体の一部だったものが彼方で落ちた。湿った音がした。
吹き出す赫。肉の鮮烈な断面。白い骨が覗き。
壊された、と認識してしまった途端膝が折れる。
一瞬のうめき声の後に、少女は胃の中の物を全てぶちまけていた。撒き散らされた吐瀉物が溜まりになって、饐えた臭いがあたりに漂う、その後に喉から吐き出された音は、獣の声にも似ていた。
「撃鉄が起きていない。だから撃てなかったんだよ」
頭上で黄金の彼女が、短く告げた。
左腕の外側に、
「シラセが近くにいるはずだ。そうだろう」彼女は長い息を吐いて、つぶやく。「まだ繋がるかもしれない。死にたくなければ早くするといい」
少女の呻きは、嗚咽に変わりつつある。
けれどもそれを止めるように奥歯を噛みしめ、顔を上げる。体液でぐちゃぐちゃになってなお敵を見据える、映し出されているのは憎悪と憤怒。
瞳だけが、夜のフクロウのように光っている。深い煉獄の炎を宿して。
それを真正面から受け止めながら、冷然と、低い声が告げる。
「アイネ、もう、私を探さないでくれ。次に会ったら」
哀しみを湛えた、冷たい月のような瞳で。
「殺さなければいけないから」
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「終わった話なのにね」
世界も、あたしも。
けれど、スピードメーターの脇でモニターは×を表示させて、
『申し訳ありません、アイネ。指示を聞き取れませんでした』
「いいの、ラピッド。なんでもないから」
サングラス型デバイスの向こうで、アイネの、赤く変色した瞳がわずかに細められる。彼女の右手がスロットルを回し、バイクが滑らかに加速した。
大型の二輪車は、ライダースーツに押し込まれた小柄な体躯に比して明らかなオーバーサイズだった。にもかかわらず車体のコントロールを可能としているのは、ひとつには先に答えたAI/ラピッドの
機関義肢の精密さとバワーは、ヒトが本来持つ身体のそれとは比較にならない。300km/hを越えた速度で
荒れた路面――メンテナンスをする余裕などない。先年には第3658次世界大戦が勃発し、資源は累減の一途を辿り海面の上昇も止まらない。やがて沈むだろう遺物に、誰が手を、カネをかけるものか。
二輪車は林立する旧い高層ビル群の間を駆け抜けていく。巨大な灰色の墓石たち。どれも中ほどまで水に浸かり、静かに崩れ落ちるときを待っている。
30年モノのヴィンテージってやつ、とアイネは皮肉に微笑した。かつて栄華を誇った湾岸地区も、今となっては誰も寄り付きはしない。まだ強化ガラスや鉄クズは転がっているだろうが、あそこまで行くのはコスト高だな、と
『アイネ』
『このまま道なりに10kmです』
「ありがと。走行モードはこのままで」
了解しました、とラピッドが答えたときには、クロスロードはチバシティ跡地の廃墟村を抜けている。ガードレールの向こうに広大な海原が広がり、右から横殴りの風が吹きつけてきた。耳元まで伸ばした髪がいっそう乱れて、銀色のピアスが顕になる。
アイネは軽く舌打ちをした。風に、だけではなかった。海上、向かう先に2つの小さな影が浮かんでいる。聞こえないはずの蜂の羽音めいた飛行音に、アイネは首筋に電流が走ったような感覚を覚えた。
自律式のドローンが素早くこちらへ回転する。緑/待機中のランプが即座に黄/警戒色へ変わった。察知したラピッドの、しかし平坦な声、
『アイネ、走行モードは……』
「解除解除! 飛行モードに! 高度そのまま!」
即座にタイヤが左右へ開いたかと思うと、次の瞬間にはジェット燃料の陽炎が車体の下に浮かんでいる。空陸両用、
「ラピッド、車体制御任せた!」とアイネは叫びながら、背中に背負ったM4を構えている。ドローンの、スキャンする赤いレーザー光、それが彼女を覆い尽くす前に引き金を引いていた。
はためくような銃声。
「ひとつ!」
『アイネ、対象は左側と連携しています』
「わかってるっての!」
銃弾が顔の近くを掠め、アイネは熱風を肌に覚えた。
猛風の中、別方向からの銃撃が襲ってきている。先回りしたもう一機は、進行方向に浮かんで待ち構えていた。
やってやる、とアイネがサイトを覗き込んだその時、クロスロードはローリングしている。唸りながらアイネはステアリングにしがみついて、
「馬鹿! 振り落とす気!?」
『アイネの身体能力なら十分と判断しました』
「それはどうも!」
悪態をつきながらアイネはM4を構え直している。弾丸が宙を奔り、しかしことごとくが避けられる。身軽なドローンの成せる業だ。
「埒があかない!」
アイネはM4を肩に担いでサイドバックを蹴り開けた。中から
使いたくなかったのに、とアイネは臍を噛みながら照準器越しにドローンを睨みつけた。細切れの電子音が数秒で長くなる、その間にも弾丸がバイクのフェンダーを掠める甲高い音、
「くたばれ、機械野郎」
炸裂。白煙と鼻をつくにおい。
一瞬の後、轟音と共にドローンは弾け飛んでいた。空中の火柱。黄色と赤は、いつか
『もう一機健在ですが』
けれど感慨に浸る間もなく、ラピッドの急かす声。
『放置は帰路につく際、危険かと』
「いいでしょあんなの、見えないんだから。終わりよ」
肩越しに、ちらとアイネは振り返った。酔ったように頼りなく飛ぶ影が見えて、それはすぐに米粒ほどの大きさになった。そこでやっと気が抜ける。アイネは大きなため息をついて、
「ああ、疲れた。ラピッド、目標地点までFAD《自動走行》で」
『承知しました。落下等なさらないよう、お気をつけください』
「はいはい、お母様」
アイネはひねた笑いを浮かべる。
空を滑るように、クロスロードが往く。
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