イモムシ君は羽ばたきたい
こへへい
イモムシは羽ばたきたい
卵の中にいた頃の話である。陽の光が強くなり、葉の裏に卵が設置されているとは言え、結構熱いと思えてきた頃だ。そろぼち出ても良いと思うのだが、中々この壁を突き破ることはできない。つまりこれはまだまだこの中でくつろいで良いということでは? と考え、体を伸ばさずにくるんとくるまった。もう少し。あと五分。ワンモアタイム。陽の光ももう少し我慢したら陰ってくるだろう。それが出ていく時だ。熱い中外に出るなんて馬鹿のすることだ。そう、僕は我慢しているのだ。出たくて出たくて仕方がないのにも関わらず、身も焦がすサンサン太陽が僕を邪魔しているのだ。曇りになるのを待っているこれは、決して怠慢やだらけやサボタージュやコーンポタージュではなく、生存戦略なのである。
そうこう正当で真っ当で非の打ち所がない理由を連ねていると。
陰った。
陽の光が、一瞬にして黒く染まる。そこで僕の意識が覚醒した。
(嘘!? もう曇りになったの? 夜じゃなくて? 出ないといけないじゃん!)
怠慢やだらけやサボタージュの理由も少しだけ、毛虫の毛ほどしかなかったけれどあったので、壁を、卵を突き破るのに一瞬躊躇いを覚えた。しかし生存戦略的にここで出なければ一生出ることはできないだろう、そう僕は考えて卵に生まれたての柔らかな歯を突き立てた。これが僕の最初の栄養源である。もぐもぐと卵を食べ進めていくと、卵に穴が開いた。
瞬間、外気が顔に当たる。ジメジメした卵の中の湿度が、徐々に奪われていく。だが外の空気は心地が良かった。冷たくて気持ちのいい空気。ここが外か。これからどんどん食っていくんだ。食べて食べて。食べて食べて。うんこしてうんこして。
それで、僕はどうなる。
そんなことを考えた時、外の冷たさで身震いした。さっきまでの解放感は、一瞬にして未来への不安に変わる。食ってうんこして。僕はこれからどんな未来があるんだ。食ってうんこするだけか? それが僕の生まれた理由なのか?
卵を食べる口が止まる。その時だった。
陰が、動いたのだ。
最初は雲が動いたのかと思った。陽の光を遮った曇りだからこそ僕は出てきたのだから。しかし、僕のその認識は誤りだった。
その陰は、雲によってできた陰ではなかった。
黒を基調とした背景に、淡いオレンジ色の斑点が散りばめられ、それらの斑点は、繊細で曲線的な形状を持ち、翅全体に均等に配置されている。斑点の中には、一部が黒い輪郭線で囲まれより際立っている。また、翅の先端には、細長い黒いストライプが走っていて、より翅を優雅に見せており、美しさが際立っていた。そしてその美しい翅を持つ蝶は、大きくヒラヒラと、外の世界に羽ばたいていったのだった。
見入ってしまった。鮮やかな色彩だった。キラキラと光りを纏っているようにも見えた。
そして、見た瞬間に直感した。これは、自分の未来の姿なのだと。
あの美しい姿こそが、僕の生涯のゴールなのだと。目指す成虫の姿なのだと。
* * *
幼虫の僕らが外界から出て最初にすべきこと。それは何かと問われれば、そう、卵を食べることである。卵を食べるというと、自分の隣に産み付けられている卵を食べるという同族殺し染みた想像が働いてしまうが、事実はそうではない。僕らアゲハ蝶は基本葉っぱ一枚に1つの卵を産むので(遺伝子が僕にそう直感させている)、同族を食べようにもその同族がお隣にはいないのだ。だからここでいう卵とは、僕が出てきた卵のことである。そしてその卵は僕ら幼虫にとって最高に栄養満点の食べ物である。あのふにふにした歯ごたえ、飲み込んだ時ののど越しは、意識が芽生えて直ぐになぜ食べなかったのかが不思議なくらいの旨さだった。
卵から出てきた穴の側面に口を当てて、もきゅもきゅとさせているうちに、あっという間に卵を食べきり「さぁこれから葉っぱをバクバク食べて栄養を付けよう。そしてあの美しい母のような成虫になって、僕も広い世界に文字通り羽ばたこうじゃないか」そう息巻いて、卵がくっついていた葉っぱをもきゅもきゅと貪っていたのだが、葉っぱを食べきった段階で、僕はあることに気づかされた。
あること。
いや、
「ん?」
葉っぱを先端から綺麗に食べて、茎にゆっくりと到達しようというのが、僕の
「あれ、葉っぱは?」
僕が生まれたこの場所は、葉っぱが全くない場所だったのである。見渡す限り表面が乾いた砂、砂、砂。そして土色に枯れた植物の茎や細々とした根っこだけ。外から吹きすさぶ風が寒くて、つい体をぎゅっと縮こまらせたところ、うっかり地面に落ちてしまった。そこそこ高いはずだったのだが、何かがふわっとして怪我せずに降りることができた。そして落ちたお陰で、先ほどまでいた植物の状態の下から見上げることができた。だが言わずもがな、そこにも緑色の葉っぱ一枚見当たらない。
「うーむ、これは、食えるのだろうか?」
柔らかい地面かと思ったのは、枯れた葉っぱだった。それでも葉っぱは葉っぱなので、一応栄養はあるのだろうな(ってか食わないと成長できなくてヤバイ)と思い口に含む。
パリパリ。先ほど食べた瑞々しい葉っぱとは打って変わっての乾き具合で、その枯れ葉がパラパラと口から落ちた。
「うげぇ、これはダメだ」
このままではまずい、生命の危機だ。いつか子葉が芽生えたとしても、それを食べればそこで食料が終わってしまう。だからそういうのも待てない。僕自身が動いて、葉っぱのある場所に行かなくてはいけない。あの成虫のように翅があるならば楽々羽ばたくことができるのだけれど、無い。あるのはこの身と
幸い、葉っぱを食べきって周囲を見渡した時、遠くに緑溢れる空間が見えた。方角は分かっている。ならば一刻も早く葉っぱを食べるために移動しなくては。僕はそそくさと腹脚を動かして外に向かうのだった。
* * *
まず、最初にぶち当たった壁は、崖だった。こういう表現をすると、まるで断崖絶壁に立ちふさがれているようにも思えるのだが、実際はその逆だった。まぁその方がこちらとしては助かるし、高さ的にはそれほど大きくもない崖なので願ったり叶ったりではあるのだが。高さというか、低さというか。つまり、崖を落ちなければならなかった。
さっきも頭で考えたように、そこまでは良かった。どうやら今いる場所は、自然にできたにしては均斉の取れた石が土を囲っている場所らしく(石の容器に土と植物が入れられていると表現した方が正しいか?)、緑あふれる向こう岸にたどり着くまでに、その石を降りる必要がある。落ちれば戻るのに苦労はするほどの高低差ではあるものの、地面に叩きつけられて体が潰れてしまうほどではない。だから、その崖は問題ではない。問題は、その先だ。
その先には、遺伝子に刻まれている天敵センサーが激しく反応するほどの奴等が蔓延っていたのである。黒い点々。それらが列を成して行きかっている。
蟻。蟻。蟻。蟻。蟻。蟻。蟻。蟻。蟻。蟻。蟻。蟻。蟻。
奴等は、
だから、その蟻に気づかれずに向こう岸に降り、渡る必要があるである。なんたる無理難題だろう。
「畜生め、いやそれは僕もか」
悪態をついたところで、現状は変わらない。それに奴等の狩りを待つことは愚策である。葉っぱ一枚と卵の殻の栄養しか蓄えられていないのだ、そんな状態ですらギリギリなのに、待って体力を消耗してしまうからだ。そんな状態では、向こう岸にたどり着いたとしても、
思考を巡らせていると、蟻について、遺伝子の記憶にあることが思い浮かばれた。
蟻は目が見えず、匂いによって感知している。
そこで僕は閃いた。匂いによって感知しているならば、蟻の気を逸らすことができるかもしれない。そのアイデアを思い付いた時、僕は急いで降りた。降りるのは簡単だ。問題はそのあと。降りたその場で着地し、そのまま対岸に進むことなく立ち止まった。そして、叫ぶ。
「はぁぁぁぁぁーーーー!!!」
僕はそのアイデアを実行するために、最大限の力を自身に溜めた。このまま溜めた力で爆発するんじゃないかと思われても不思議じゃないような、それほどの気合いを込める。これが成功しなければ、僕は死んでしまうだろう。ならば、全力を尽くすまで!
「いっくぞおおおおおお!!!」
ぷりっ。
蓄積された気合いはお尻に充填され、そして放出された。その気合いは顔を近づけてみると、顔をつんざくような匂いを放っている。想定通りだ。この匂いならば、蟻の注意を引くことができるかもしれない。
急いで気合いから離れる。すると、横目に見ていた蟻の隊列が、気合いに向かって乱れ始めた。作戦成功だ。その隙に、蟻の隊列を離れてテケテケと腹脚を動かし、対岸を目指す。
が、そこで僕はある痛恨のミスをしていることを思い出した。出来る限りのことはしたつもりだったし、これ以上考えることは、それだけでエネルギーの消耗につながるので、このタイミングで動き出すことも最善な判断だと、今でも思っている。
しかし、最善という判断は、実のところ存在しない。いくら不測の事態に手を尽くしても、空から隕石が飛来したならば、それでも最善な策を避難するだろうか?
そう。これもその類にして差し支えないだろう。誰が何と言おうとも、これは、仕方がなかったのである。
「尻を、拭き忘れた……!」
それが意味することとしては、顔をつんざくような匂いが、自分の尻に付きまとっているということ。そしてそれは、蟻が自分目掛けて動き出していることを、言うまでもなく示唆していた。
「ヒャッハー! なんかくっせぇのが落ちてきやがったぜぇ!」
「ケツのクソ拭くことも知らねぇようだなぁ!」
「世の中何にも知らねぇガキにゃ、俺たちが教育してやんねぇとなぁ!」
世紀末な蟻さん達が、テケテケというよりも、ドンドンパフパフしながら近づいていく。急いでお尻を拭いているけれど、拭いた砂がお尻に付着してあんまり意味がなかった。砂だらけのお尻ままで走るしかない。だが奴等の行動速度はかなり速い。多くて速くて肉食って、地球上最強生物かよ!
「ひぇぇぇぇぇーー!!」
だが走る速さはあちらさん達の方が断然上。あっという間に追いつかれてしまう。どうやらあの未来の姿にはたどり着けなかったらしい。そりゃそうだ。最初からあんな辺鄙な場所で産まれた時点で察しても良かっただろう。なのに、何故無駄な幻想を抱いてしまったのだろうか。無理だったんだよ、最初から。そう諦観しているうちに、呆れて走る足がだんだん遅くなってくる。
だがしかし結論から言うと、僕は蟻に捕まって、体中を食べやすい大きさに分解されて運ばれることはなかった。謎の力が働いて蟻を撒くことができたわけではなく、落ちている枝で高跳びができたわけではない。僕には何も変化はない。変化があったのは蟻の方だった。
「ヤバイ! Dだ! みんな今すぐこの場から離れろー!」
「助けっ……!」
「死にたく……!」
近づこうとしていた蟻が、次々と離れていったのだ。僕という獲物があるのにも関わらず。肉を置いて蜘蛛の子を散らすようにさ逃げていく。
一体何なのだ? 蟻達は何に怯えている? 振り向いた時、その原因がすぐにわかった。いや、振り向かずとも分かるべきだったのだ。大きな影が差していたのだから。
あれは、何だ?
「ワン!」
いきなり発された音に、体中が響き渡る。その毛虫顔負けの毛むくじゃらな何者かは、散る蟻達を足(多分足で良いと思うが、あまりにも大きすぎる)で踏みつぶしていた。あの巨体が食べるにしても、蟻は小さすぎる。つまり、生存戦略とかではない。楽しいから、面白いから、ただそれだけで蟻を潰している……!?
スケールが違いすぎて敵わないことは明々白々なので、急いでこの場を後にする。蟻が遊ばれているうちに逃げなくては。いつこちらに関心を寄せるとも限らない。しかしその考えは少し遅かったようで、巨大な生き物は、のっそのっそとこちらに近づいてきた。大きすぎるため、一瞬で奴の射程距離に入ってしまった。
「ガフ」
何かが近づいてくる。あれは、顔なのか? あんなの、葉っぱの5枚6枚は一瞬で平らげてしまうぞ? それほどの大きさの口が開かれて、生暖かい牙が覗かれる。そんな情景に呆気に取られている間に、あっと言う間もなく、咥えられてしまった。
必死に暴れるものの、地面に戻ることができない。駄目だ。もうどうにもできない。
地面には、緑あふれる雑草たちがあった。成虫になる前に地面を見下ろすことになってしまった。せっかく、蟻の包囲網を回避して、草を前にしているというのに。
あの美しい姿に、なれないというのか。
「ちょっと! また変なもの食べて! お腹壊すよ!」
急に、巨大生物の首がある一方向にぐぐっと移動した。それはその巨大生物の意に反する動きだったようで、抵抗を見せている。が、首に紐のようなものがくっついているためか、離した僕に顔を近づけて、再び咥えることが出来ずにいた。
「え、イモムシ食べてたの? もう止めてよね気持ち悪い。ほらさっさと行くよ~」
「ワンワン!」
圧倒的巨大生物を、先ほど蟻を弄んでいたようにコントロールしこの場から退場させたのは、更に巨大な、二本の足で移動する生物だった。めっちゃでかいのもさることながら、二本足って! よく歩けるな。と、世界はまだまだ広いことを思い知らされる。
そして、僕はこれからその広い世界を知っていくんだ。そう意気込んで、周囲を見渡す。
あの巨大生物が口から僕を離した拍子に、なんと、あの石の崖を登ることなくその上に落とされたのだ。つまり、今周囲には、生い茂る草がいっぱいあるということである。
「あの口の固いのの間に挟まらなければ、やばかったな」
あらゆる幸運を噛みしめて、僕は緑の世界に前進する。足下の草を食むと、瑞々しい食感が口いっぱいに広がった。
食べて。食べて。食べて。
うんこして、うんこして、うんこしまくる。
羽ばたく未来を目指して。
イモムシ君は羽ばたきたい こへへい @k_oh_e
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます