明日はあなたのようになろう

水村ヨクト

明日はあなたのようになろう

都会は忙しなくて、教室はうるさくて、私は今日もマスクをして教室に入る。たくさんの同級生の喧騒と視線から逃れるみたいに、私は液晶越し、憧れの世界に熱中する。


『みんなのアイドルあすなろちゃんこと、神崎かんざき翌檜あすなです!』


 その世界は、キラキラしていて、可愛くて、かっこよくて、真実みたいな嘘が彩られている――。


「はーい、文化祭の係決め、次はステージ係でーす」


放課後、騒がしい教室の隅で、私はイヤホン越し、委員長のその言葉を聞き逃さなかった。去年の学校説明会のときから決めていたのだ。入学したら、この学校に通っている現役アイドル・あすなろちゃんの文化祭ステージに携わると。


「っは……」


 教室で声を上げるなんていつぶりだろう。久しぶりすぎて、喉が詰まる。


「ステージ係ってなんか『ザ・陽キャ』って感じだよね~」


「わかる! これぞ青春! みたいな」


 どこからかそんな話声が聞こえる。私はその声に耳を塞ぎたくなったけれど、この恐怖には譲れない憧れがあるのだ。


「はッ、はい!」


 手を勢いよく天井に突き上げ、私は意思を表明した。静まり返る教室。顔が熱くなっていくのが分かった。声が大きすぎた気がする、手も必要以上に伸ばしすぎたかもしれない。瞬時に反省会が脳内で巻き起こる。

小内こうちさん、ステージ係でいいのね?」


 委員長が聞き返した。


「ぅ……はい」


 堂々たる確認に、私の声はすぼまってしまう。


「なんだ、内気ちゃんか」


「大丈夫? 内気ちゃんで」


 教室の声が私の胸倉に掴みかかってくるようだった。マスクの中で息が乱れ、私はぐいっとマスクをずり上げた。


「はい、じゃあステージ係は小内希心きこさんで」


 こ“うちき”こ。


 内気ちゃんが、教室での私。


   *


 嬉しかった。胸が高鳴った。あのあすなろちゃんと一緒に文化祭ステージを創り上げられることが。


「小内希心です。よ、よろしくお願いします」


 ぺこりと体を折り曲げる。そんな私を、仁王立ちで見下ろすのが、現役アイドル・あすなろちゃんこと、神崎翌檜。


「これで全員ね。たった十二人で私のステージを……大丈夫?」


 憧れのあすなろちゃんは、翌檜先輩は、私のイメージから遥か遠い場所にいた。画面越しでは、もっと優しくて、元気で、天使みたいな人だったけれど、目の前にいるのは……。


「ちょっと! そこの照明! ワンテンポ遅い! 何回も言わせないで!」


「す、すみません!」


 鬼……?

 私の心は、あすなろちゃんと話せる喜びと、翌檜先輩に叱咤される恐怖でぐちゃぐちゃだった。

 そんな日々はあっという間に過ぎて、いよいよ文化祭本番。たった十二人のチームは、翌檜先輩の神がかり的な指揮によって完璧なステージを創り上げることができる域に達していた。

 体育館の暗闇に、スポットライトが一点を照らす。そこには、リハーサル通りの翌檜先輩……いや、あすなろちゃんが凛と立っていた。

 歓声と、爆音の音楽が共鳴して、非日常が開幕する。その刹那、私は全身が震えているのを感じた。それはスピーカーの振動ではなく、自分の内側からくる高鳴りだった。

 私たちは、完璧なリハーサルをしたと思っていた。でも、本番は、あすなろちゃんの力ひとつで、それを裕に超えてしまった。今日だけで、全校生徒があすなろファンになった気がする。彼女なしでは生きていけなくなってしまった気がする。大袈裟でなく、そう思わせるようなひと時だった。


   *


 終演後、私はまだ夢うつつで、誰もいないステージ上に立っていた。薄暗い視界。たくさんのパイプ椅子に、ファンたちが座っているのを想像する。私は、息をふっと吸った。

 あすなろちゃんが今日、このステージで歌った曲を口ずさむ。たくさんのファンを前に、自分がライブをしている姿を思い描き、その声は徐々に大きくなる。ダンスの振りつけも、位置取りも全て覚えていた。目を瞑ってもできるくらい、翌檜先輩を見ていた。あすなろちゃんを見ていた。

 気づけば私は、マスクを外し、全力で、全身で楽しんで、一曲歌い切っていた。息を切らして、誰もいない体育館を見渡す。聞こえないはずの拍手まで聞こえてくるようだ。……あれ?

 私の死角から、人影が姿を見せた。それは幻聴だと思っていた拍手を鳴らしている。


「あ……えっと、これはその……!」


 足が震え、全身が熱くなり、汗で湿る。すぐさまマスクを着け、身構える。


「ねえあんた」


 私はその声で人影の正体が判った。……翌檜先輩だ。よりによって一番聞かれたくない本人に……!


「今の、あんたの歌声だよね? たしか……小内さん」


「はッひゃい……!」


 上ずった返事。恥ずかしい……!


「……すごい! 悔しいけど、すごいよ小内さん。信じられない! 今の、アカペラだよね?」


 ……え? え? 今、私褒められてます?


「褒めてる褒めてる!」


 声に出てた。


「あんた、絶対アイドルになった方がいい!」


「そんな」


「嫌なの?」


「……嫌じゃないです!」


 嘘みたい、嘘みたい、でも、本当だ……!

 本当だけど。


「……わ、私、もう帰ります」


「え、急にどうしたの」


 ステージを降りて、急いで体育館を出る。


「ねえ、待ってよ!」


 嫌じゃない。嫌じゃない、けど。怖い。私は、内気ちゃんなんだから、出しゃばっちゃ、いけない。私はアイドルになりたいんじゃない。応援さえできれば、それで――。

 通学路、文化祭終わりの生徒がちらほら歩いている道を、私は足早に進む。


「小内さん!」


 後ろから、声。翌檜先輩。


「はぁ、はぁ……ただでさえ疲れてるってのに……! 走らせんな」


「先輩……」


「あんた! 聞いた! 内気ちゃんなんだって? ひっどいあだ名」


 よく通る声に、通行人が騒めき始める。


「でもさ! そんなん他人が勝手に作った仮面でしょ! あんたはどう思ってるの!」


 翌檜先輩は私との距離をずんずんと詰めてくる。そして、私のマスクを剝ぎ取って、言う。


「あんたの言いたいことは何!? 周りの目なんか気にしないで、こんな嘘の仮面なんか外して……言え!」


 言いたいこと……。


「……分かるよ。仮面被って、周りに嘘吐いて、そんなことを繰り返してたら、自分にさえ本音を隠すようになって」


 翌檜先輩の声が、頭に、心に、響く。


「だから! 自分の中にだけは! 嵐でも折れない旗みたいに、絶対的な真実を持ってなきゃダメなんだ! あんたにもそれはあるでしょ!?」


 私の……真実。


「……さあ、あんたのやりたいことは、何?」


 ……私の、やりたいことは……。


「翌檜先輩」


 ゆっくりと口を開く。


「……私、先輩みたいな――あすなろちゃんみたいな、アイドルになりたい!」


 涙声。翌檜先輩に手を握られる。熱くて、力強くて、画面越しのあすなろちゃんからは感じられない、強気な翌檜先輩がそこにはいた。


「よく言った。来年は、一緒にあのステージに立てるようになってたらいいな」


 夕日に飛び立つ鳥を眺めながら翌檜先輩は言った。


「ええッ、それは……できるかな」


 鼓動が高鳴り、それがいつもと違って心地よい。


「そんな調子じゃ、やっぱり無理か」


 翌檜先輩はそう言って笑った。私もつられて笑った。


「でも、あんたならいつか、私の隣に立てるよ」


その言葉を聞いて、私のは自分の胸に熱い何かが燃え始めたのを感じた。


  *


 都会は忙しなくて、教室はうるさくて、身を隠したくなるけれど、私は今日、マスクを外して歩き出した。


明日あすはあなたのようになろう」


 呟いて、私は教室に入る。

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