第7章 消えない爪痕

第41話 メンヘラちゃんはピアノが下手である




【メンヘラゴスロリ娘 亜美あみ 幼少期】


「まったく亜美は、なにをやらせてもダメダメね」


 律華が亜美に対して、仁王立ちでそう言う。

 亜美はピアノがうまく弾けなくて、ピアノの先生に指導をされているところだった。

 白いカーテンが風になびいてふわふわと波打つ。今はとても暖かい陽気だが、この場の空気は亜美にとって凍てついているとしか言いようがない。


「おねえさまはピアノがおじょうずだから、うらやましいなぁ……」

「あたりまえよ。お父様もお母様もあたしに、きたいしているんだから」


 亜美は自分の指と律華の指をよく見比べてみた。自分とどこが違うのか、亜美には解らなかった。


「亜美、律華、クッキーを焼いたから休憩にしましょう」

「お母様!」


 母と栗原がクッキーと紅茶を持ってくると、部屋に甘い匂いが一帯に漂う。亜美はやっとこのピアノの時間から解放されるということが嬉しかった。


「手を洗っていらっしゃい。瑪瑙お坊ちゃんもいらっしゃっていますから、みんなで食べましょう」

「はーい!」


 亜美と律華は洗面台の方に向かって走っていった。律華を追うように亜美が走る。


「あははは、洗面台まで競争よ亜美!」

「おねえさま、まってください」


 夢中で廊下を走っていると、前方からきた人に律華は盛大にぶつかってしまった。


 ドンッ!


 律華は反動でしりもちをつく。


「キャアッ」

「いたたた……」


 律華がぶつかった相手は高宮たかみや瑪瑙めのうであった。


「大丈夫? 律華ちゃん」

「め、瑪瑙」

「怪我はない?」


 瑪瑙が差し伸べる手に、律華は素直に手に取る。ドキドキしながら瑪瑙の手の感触を律華は確かめていた。柔らかく、温かい手の感触がする。


「ごめんなさい。大丈夫よ。瑪瑙は大丈夫……なの……?」


 モジモジと、瑪瑙の顔色を伺いながら律華は言う。


「うん。平気だよ。ありがとう」

「そう……あ、お母様がクッキーを焼いてくださったの! 瑪瑙も一緒に食べましょう!」

「うん、そうだね。亜美ちゃんも一緒に食べよう?」

「え、うん……」


 亜美は律華の後ろに隠れがちに答えた。亜美は人見知りで、まだ高宮瑪瑙に対して苦手意識を持っていた。


「ほら、手を洗いに行きましょ」


 律華と亜美は再び洗面台の方へ向かって歩き出した。瑪瑙が遠くなって見えなくなった頃を見計らって、律華が亜美に向かって小声で言う。


「ねぇ、瑪瑙ってかっこよくない?」


 嬉しそうに、瑪瑙に取ってもらった自分の手を律華は見つめながそう言った。


「……そうかなぁ?」

「大人ってかんじがするじゃない?」

「うーん…………」


 優しげで、確かに落ち着いてはいるけど、亜美は高宮瑪瑙に興味がなかった。というよりも、まだ恋心など分かるような年齢ではなかったので、亜美にはピンとこなかったというのが本当のところ。


「亜美は……そういうのよくわかんないです」


 手を洗い、律華は一目散に大好きなお母様と瑪瑙がいる部屋に戻った。亜美はまだ一生懸命手を洗っている。石鹸がうまく泡立てられずに苦戦していた。ちゃんと手を洗わないとダメだっていつもお母様に言われているので、一生懸命手を洗おうとする。


「おねえさま、まってください」


 亜美のその声を振り切って律華は戻って行ってしまった。


 律華は部屋の前まできて、そうだ、少し驚かせてやろうかしら。と、思いついた。おそるおそる扉に近づいて驚かすタイミングを伺う。

 すると、中から瑪瑙と両親の会話が聞こえてきた。


「どうかしら? うちの子と結婚するというのは。まだ瑪瑙君には早いかしらね」

「あはは、そうですね」


 “結婚”という言葉に、律華は胸が躍った。結婚すれば大好きな瑪瑙とずっと一緒にいられる。その話にドキドキしながら、笑顔で部屋に入ろうとしたとき――――


「だとしたら僕は、亜美ちゃんと結婚したいですね」


 ――え…………?


 律華の胸がドキンと一度大きく脈を打つ。

 それから次の脈まで、ものすごく時間がかかったような気がした。心臓が止まってしまったのかと思うほど、時間がゆっくりに感じる。

 瑪瑙が、少し照れながらお母様と一緒に笑っているその光景を、律華は呆然と立ち尽くして見ていた。


 ――瑪瑙は……亜美が好きなの? 


「まぁ、そうなの。亜美は優しい子だからきっと瑪瑙君ともうまくいくわ」

「そんな、まだそんな年齢じゃないですし。気が早いですよ、お母様」

「瑪瑙君ったら、お母様と呼ぶのこそ気が早いんじゃないかしら」


 中から笑い声が聞こえる。


 ――どうしてあたしじゃなくて亜美なの……?


 その疑問は絶望や、怒り、嫉妬、悲しみなどを含んでいたかもしれないが、亜美はその気持ちに気づかなかった。 


「おねえさま?」


 亜美が後ろから律華に声をかけると、律華はビクッと身体を震わせた。


「どうされたんですか?」

「なんでもないわ……」


 律華の心に、黒い何かが波紋を広げ始めたのを亜美は気づかなかった。




 ***




【2年後】


「隼人、どうした。最近テストの点が振るわないな? 悩みでもあるのか?」


 父が隼人のテストの点を見ながら隼人に問う。76点。けして低いわけではない点数だが、以前が95点以上が当たり前だった分76点は悪く見える。


「いえ……」

「お前は国立の医大を目指しているんだろう? この状態では難しいぞ」

「ごめんなさい」


 うつむく隼人。

 成績が落ちた理由なんて、父に言えるわけもなかった。

 友達と普通に遊びたい。中学生にもなって友達とろくに遊んだことがなかった。

 勉強ばかりで、友達も隼人から離れていく。運動もあまり得意ではなく、身体も華奢だった。

 それでも雨柳家の跡取りとして勉強をしなければならないという、強迫観念のようなものが隼人の中にあり、勉強をする他にどうしたらいいか解らなくなっていた。

 父は厳しいことは言わなかったが、テストの点が振るわないと時々こうして隼人に聞いてくる。

 隼人は偉大な医師である父に心配をさせるわけにはいかなかった。


「お前には期待しているんだ。勉強熱心で本当にいい子だ。父さんの自慢の息子だぞ」


 父が隼人の頭を撫でる。悪意や、他意はないのだろうがこれが隼人の心を押しつぶしていることに父は気づいていない。


「お父様……」


 そんな中、亜美が気まずそうに父の元へやってくる。


「どうしたんだ、亜美?」

「ごめんなさい……」


 テストの答案用紙を父に見せる。点数は40点そこそこだった。隼人はあまりの出来の悪さに眉間にシワを寄せる。


 ――当然父は亜美に厳しく言うはずだ――――


「あはは、亜美はもう少しお勉強しないとな」


 父は笑いながら亜美を抱き上げる。それを見て隼人は目を見開いた。何故なのか分からなかったからだ。何故亜美よりもいい点数をとっている隼人が怒られ、何故赤点ぎりぎりの亜美がそのように扱われるのか理解ができなかった。


「今度父さんが教えてやろう」

「お父様ありがとう!」


 ――なんで僕は残念そうな顔をされるのに、亜美はそんな風に許されるんだ


 そう隼人は思った。隼人は妹たちと遊ぶ機会も随分減っていった。隼人は国立の大学に入るべく、勉強により一層打ち込んだ。

 静かに、小さなヒビが徐々に広がっていっているのを父も母も気づかなかった。

 やがてそれは大きな亀裂になってしまうことも知らずに。



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