第34話 メンヘラちゃんはクッキーを食べている




【ひょろメガネ 隼人はやと


 最近、仕事がより一層億劫に感じる。


 ――勤務医をやめて開業しようか……


 とはいえ、ここは雨柳家の管轄の病院だ。だから直径の私は融通も利くし、家から近い。

 だが、大きい病院というのは色々面倒なことが多い。救急外来もあるし、夜勤もある。部長という立場もあるので他にも膨大な業務が沢山あって、急な呼び出しもあるし、時間的な余裕があるとは言えない。


 ――開業するならどこに開業しよう……


 都会の喧騒のない、静かな田舎でもかまわない。私は近くに大きな図書館でもあればいい。いや、今は電子書籍で買えばどこでもいつでも本を読める。電波が入って災害の少ない、そこそこ利便性のあるところならどこでもいい。

 そこで悠と一緒に暮らしたい。あいつには看護師の資格を取らせて、一緒に働くのもいいな。でも私の妻という立場では、あいつも仕事しづらいだろうか。


「おい」


 などと私が考えて歩いていると、後ろから呼び止める声が聞こえた。


 ――なんだ、このまえの莉璃りりといい……面倒事はごめんだ


 振り返ると、私の大嫌いな髪の長い男が立っていた。かなり険しい表情をしている。


「…………ストーカーというものの執念は恐ろしいな」

「お前のひでぇ嘘の方がよっぽど恐ろしいぜ。なんだよ? 婚約者って。それに……リリって女と浮気とは、随分やってくれるなぁ?」


 その言葉を聞いた瞬間、血の気が引いた。患者が言う血の気が引くとはこのことを言うのだろうか。そんなことが頭をよぎる。


「な……なんのことだ」


 何故そんなことをコイツが知っているんだ。これだけ具体的な情報を持ってきているのに咄嗟にとぼけるのは悪手かとも思ったが、私は反射的にそう言うしかなかった。


「とぼけんな。お前駐車場でリリって女に、最後にもう一度だけ抱いてって言われていただろ? その録音データを俺が持っているって言ったら、俺の言う事を聞く気になるか?」


 私は冷や汗が出てくるのを感じた。


 ――駄目だ、この男なんとかしないと……望にストーカー現行犯で逮捕してもらうか? 


「脅迫か? 余程警察に突き出されたいようだな……」

「俺が警察に突き出されたら、俺の後輩が悠にデータを渡す事になってる。俺をどうにかしても無駄だ。手数なら揃えてあるんだぜ?」


 ――くっ……この男……軽んじていた…………あの時さっさと警察に突き出していれば良かった


 しかし後悔は先に立たない。この男の悠への執念には恐れ入る。他に女なんていくらでもいそうなのにも関わらず、何故悠にここまで固執するのか。


「悠を軟禁しているんだろ? 今日お前ん家行った。悠は外に出たがってるし、いつまで閉じ込めておけるんだろうなぁ……?」


 ――こいつ……! 私の家の場所まで……!


「悠はお前のものじゃない、俺のものだ。大人しく解放しろ」

「っ……」


 私はこの男を軽んじていたと言わざるを得ない。ここまで汚い手を使ってくるとはな。

 どうするべきか。下手に出れば方々に問題が生じてくる。警察の望に突き出すにしても、莉璃との会話のデータを持っているのは非常に不味い。

 自分の撒いた種ながら、こんな形で響いてくるとは思わなかった。私としたことが、しくじった……。




 ***




【長髪のプレイボーイ 孝也たかや


 クソ医者は俺の前で苦虫を嚙み潰したような顔をしてやがる。

 後輩がどうのこうのってのはハッタリだ。俺のいる世界ってのは、誰も信用なんざできねぇんだよ。こんな大事なデータを任せられる奴なんかいない。

 俺がそんな弱みを見せたら、その弱いところから食いつぶしてこようとする連中ばかり。だが、現代ってのは便利なもんで、このデータを一瞬でネットに公開することができる。

 だからいざとなれば、この音声データをネットに流してやる。

 名家、雨柳家の子息の実態ってな。1回ネットに出回ったもんは、いくら権力があろうがなんだろうが関係ねぇ。回収しきれない汚点になって、このクソ医者は終わりだ。


 ――勝ったぜ……これで悠を取り返せる!


 と、俺がニヤッと笑ってるところに、横から声が入った。


「やっぱり、ユウってオンナのせいなんだ……」


 女の声だった。俺は背筋がゾクッとした。聞き覚えのある声だったからだ。

 恐る恐るそちらを向くと、髪の毛がボサボサのギャルが立っていた。

 まるで、亡霊かのようにゆらゆらとこちらに歩いてくる。


悠美ゆみ……」




 ***




【メンヘラゴスロリ娘 亜美あみ


 ――ユウ様…………連絡くれないな…………


 携帯を見つめながら、亜美はずっとユウ様からの連絡を待っている。


「ねぇ、亜美ちゃん……もしかしてだけど…………ロックナンバー解らなくて携帯の中身見られないんじゃないの?」


 ロックがかかっていても、こっちからかければ電話はできるはずなのに電話も何度鳴らしても出てくれない。電源は入れてるみたいだけど。


 ――そういえば……ユウ様携帯鳴るの嫌いだったからサイレントにしてたんだっけ…………


 気づいてくれない。何度鳴らしても。もうずいぶんユウ様に会ってない。

 あの事故から。

 合せる顔もないけれど。それでも亜美はユウ様に会いたい。


 ――お兄様なんて大嫌い……


 栗原も、お兄様には逆らえないから亜美の頼みも聞いてくれない。


 ――律華お姉様とユウ様は、確か面識があったはず……お兄様とお姉様で喧嘩になってくれたら……もしかしたら………………でもお姉様のことも大嫌いだし……


 ………………ううん、大嫌いだけどそれ以上に亜美はユウ様が好き。ユウ様がいない世界なんて滅びてしまえばいいと思う程。

 亜美は嫌だったし、怖かったし、手が震えたけど、ユウ様に会うためなら亜美はなんだってする。

 亜美は律華お姉様にメッセージを送った。


〈律華お姉様 隼人お兄様の恋人がお姉様に会いたいとおっしゃっておりました。一度ご挨拶に行かれてはいかがですか?〉


 律華お姉様はきっとユウ様に会ってくれる。亜美はこれに賭けるしかなかった。




 ***




【長髪のプレイボーイ 孝也たかや


「悠美……」


 ――この女……どこまでも俺に付きまといやがって…………今このクソ医者を手込めにしている最中だってのに


 しかも、俺まで浮気してたことをこのクソ医者に知られたら、この脅しも意味がないものになってしまう。

 なんて最悪なタイミングでくるんだこの女。どうやって俺の居場所を知ったんだ。ここに来るまでは確かに徒歩だったが、後をつけられていたか?

 色々考えるが、どんな理屈もこの女には通じないことは分かる。


「タカ……そのオンナ大事なの? そのオンナのせいで悠美のこと愛してくれないの?」


 どこまでも面倒くさい女だ。

 悠のことがなくたって、てめぇのことなんざ願い下げだっての。


 ――これだからメンヘラってのは……


「おい、お前も同じことをしているじゃないか? 人のことをとやかくと言える立場か?」


 案の定、クソ医者から痛いところを突かれた。しかしここで引き下がるわけにはいかない。


「俺はいいんだよ。俺と悠はそういう間柄なんだから」

「何を訳の分からないことを。そこの股のゆるそうな女がお前にはお似合いだ」


 俺がクソ医者を睨みつけると、悠美も同様にクソ医者を睨んだ。


「何よあんた……みんなで悠美のことバカにして!!」


 なんだよ、この地獄みたいな状況は。

 こんな計画じゃなかった。これで俺は悠にまた会えるはずだった。また悠が届きそうで届かない距離に行っちまう。

 なんだってんだよ。ふざけんなよ。俺はただ、悠に会いたいだけなのに。

 会いたいって思ってる俺が悪いのか?


 ――あぁ、全部俺のせいだ


 考え始めると、もう何もかも面倒臭く感じた。

 こんな修羅場になってまで追い求めるものなのか? 俺が悠に執着する意味はなんだ? 俺がそこまで執着するような女だったか? 

 胸はねぇし、別に特別可愛いとかでもねぇし、俺のこと、大好きなくせに急にいなくなるし。

 なんで、お前はいつも俺の自由にならないんだ。もっと取り乱して、他の女みたいに俺のこと求めろよ。

 嫉妬して、俺に罵声を浴びせたり、咎めたり、泣いて縋れよ。俺が鬱陶しくなって軽く捨てるような女になれよ。じゃないと――――


 ――そうじゃないと俺の調子が狂うだろうが


「タカ……悠美のこと好きだよね? ねぇ?」


 いつものように、思ってもいない美辞麗句も出てこない。

 愛している。好きだよ。そんなこと、この女に言ってももう仕方がない。こいつのせいでもう滅茶苦茶だ。


「タカ……愛しているって言ってくれたじゃない……」


 悠美が俺の方に向かって歩いてくる。


「……お前」


 もういい。こんな女。

 いらない。


「もう、お前、いらないから。二度と俺の前に現れるな」


 そう俺が言った後、悠美が泣いているのが見えた。


 ――安い涙だな……――――


 


 焼きつくような、今まで感じたことのない痛みを腹部に感じた。


「がっ…………あっ…………ッ!」


 腹部に包丁が刺さっていることに気づいたときは、俺は痛みで何も考えられなかった。


「タカ……死んで? 悠美も死ぬから」


 激痛で、俺はその後何も聞こえなかった。



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