第2話 カメラ
本田さつきは、その日朝からシャワーを浴びていた。元々朝からシャワーを浴びるという習慣のないさつきとしては珍しいことだった。彼氏がいるわけでもないので、その日おめかしをして見せる相手がいるわけではない。ただの気分転換だった。
シャワーを浴びるためにアップした髪をさらに左手で書き上げるようにして、むき出しになったこめかみにシャワーを勢いよく噴きつける。
そのまま喉の方に向かってシャワーを移動させると、自然と顎が上がってきて、色っぽい雰囲気に見えることだろう。
もちろん、本人にはそんな雰囲気を与えているなど分かるはずもなく、そのまま次第に下の方にシャワーを移動させてくる。
たわわに発育した胸にシャワーを当てると、まるでプリンのようにプルプルと動いている。本人はそこまで動いているという意識はないが、シャワーに合わせて指が乳首を洗おうとすると、体がビクンと反応した。
「あぁっ」
軽く吐息が漏れ、小さな声だったはずなのに、静寂の中、浴室に反響した。
――恥かしいわ――
声には出していないが、唇は確かに動いていた。
唇は他の人に比べて厚いと思っている。その部分に関しては、学生時代からコンプレックスだった。付き合っていた男性からは、
「そこがさつきのチャームポイントだよ」
と言われてきた。最初こそ、
――お世辞に違いない――
と思っていたが、一人だけではなく、付き合った男性のほとんどの人から言われると、まんざらでもないと思うようになってきた。しかし、それでもコンプレックスであることには違いなく、あまり言われているのを聞いていると、
――きっとエッチなところがあることで、チャームポイントだって言っているんだわ――
と感じていた。その思いは当たるとも遠からじ、彼女と付き合った男性のほとんどは、エッチな目で彼女の唇を見ていた。
しかし、最初唇の厚い女性は、自分では好きになれない人が多いと思っていたが、高校時代の先輩で、尊敬できる人がいたが、その人は確かに唇が厚かった。
だが、彼女の唇の厚さには、チャームポイントを感じない。好きになれないほどだったくせに、尊敬できる人に対しての魅力に感じないということは、それ以上に特徴的なところがあるという証拠であろう。
彼女の名前は橋爪由香。一年先輩で、さつきが新入生として入学してきた時から、すぐに仲良くなった。
最初に声を掛けてきたのは由香の方だった。後輩でしかも新入生のさつきに、いきなり先輩に声を掛けるなどできるはずもなかったが、さつきとしても、由香の存在が気にはなっていたのだ。
「私たち、どこか似たところがあるわね」
最初から、由香はそう言っていた。
――まだお互いに何も知らないはずなのに、似たところがあるなどとどうして分かるのかしら?
と感じていた。
だが、気になっている人から、似たところがあると言われて嫌な気はしなかった。元々、気になっているとはいえ、それがいい意味で気になっているのか、悪い意味なのかすぐには分かっていない時に、
――似たところがある――
と言われると、気になっていることがいいことのように思えてくるというものだ。
――人との付き合いは、第一印象が大切――
と思っていたので、由香が自分に対して悪い気がしていないと思うと、こちらも気になっていたことが悪いことではなかったと思うことが一番平和な考え方だった。
由香は一本筋が通ったところがあり、その筋を曲げるようなことはできない人だった。厳格なところがあり、一歩間違えると、少しでも進んでいる道の横に逸れてしまうと、苦悩に陥り、逃れられない運命のようなものを感じるのではないだろうか?
大げさなようだが、そんな考えを抱いている人は、意外と多いのかも知れない。今までさつきの周りにいなかったような人たちである。
そのくせ、自分が信を置いている人に対しては、とことんまで尽くす人だった。高校を卒業し、すぐに就職したのだが、就職してから由香は人生で最大の過ちを犯した。会社の先輩で好きな人ができて、相手も好きだということで相思相愛の中、付き合うようになったのだが、相手の男には妻子がいたのだ。
世の中にはありがちな話であり、由香もそんなことがあるということは知らないわけでもなかった。
――私には関係のないこと――
不倫関係とは思っていても自分以外のところで行われている蚊帳の外の出来事だと思っていた。それが、まさか自分に降りかかってくるなど思ってもみなかっただろう。
――そんなまさか――
と思ったことだろうが、どうしていいか分からないと思い。頭が混乱している中でも、彼のことを忘れられない自分がいることに由香は気づいていた。しかし、気づいていたとしてもどうなるものでもない。どうかなるのであれば、最初から彼を怪しいと分かっていたと思ったからだ。
そう思うと、由香が不倫に入り込んだのは、彼に騙されたというよりも、
――彼を見抜けなかった自分が悪い――
と思うようになったとしても無理のないことだ。
由香は、自分が窮地に陥った時、まわりが悪いのではなく、
――すべて自分が悪いんだ――
と感じるようになっていた。
潔いという考えもあるが、あえて苦言を呈するならば。
「すべて自分のせいにすることで、目の前の事実から逃げようとしている」
と言われても仕方のないことだと思うようになっていた。
確かに自分から逃げようとしているからこそ、自分で勝手に結界を作ってしまって、人から自分を隔離するようになる。
潔さと取られることもあるだろうが、えてしてまわりからは冷静な目で見られることが多く、
「結局、自分を苦しめるだけで、何ら問題の解決には至っていない」
と言われるだけだった。
それは、責任回避にすぎないことだ。責任回避などしているつもりはないのに、自分の殻に閉じこもるということは、冷静な目で見ている人からは、責任回避にしか見られない。特に由香のような性格の女性に対して、まわりは冷静な目で見ることが多いようだ。
「庇いだてなんて、彼女には必要ないわ」
と思われて、さらに孤立してしまう。そんな時期を由香は初めて味わった。その期間は半年ほどであり、結構長い間、尾を引いていた。
そんな由香を救ったのは、さつきだった。
由香がそんな状況にあるなどまったく知らなかったさつきは、昔のさつきのつもりで会いに行った。
「由香先輩、お元気ですか?」
屈託のない笑顔だったように思う。少なくとも由香にはそう見えた。
――何て懐かしいのかしら――
と、感じたことで、由香の中の結界に一つのひびが入った。まったく目立つことのない割れ目だったが、光を屈折させるには十分で、曲がった光の行先が、よほどいいところだったのか、それともさつきの中にあるあどけなさが、由香の結界に包まれた心に届いたのか、どちらにしても、光が由香に届いたのは間違いないようだった。
――一筋の光とは、よく言ったものだわ――
由香はこの時のことを後で思い出すと、思わず心の中で、そう呟いていた。それほど、タイミング的には抜群だったのだ。
さつきは、由香の心の結界を打ち砕く何か決定的な言葉を口にしたわけではなかった。さつきという存在が由香の中で作られた結界に振動を与えた。一度入ったひびには、ちょっとした振動でも容易にぶち破ることができる。それが、今までの二人の関係であり、それからも続いていくであろう付き合いには、とっておきのアイテムだったに違いない。
不倫という言葉に敏感に反応したことが、由香の中で自分をパニックに陥れた一つの理由だったのかも知れない。由香の中では、言葉というものに、
――善と悪を完全に振り分けてしまう――
という必要性のようなものが備わっていたようだ。その気持ちが自分の中で何かあった時に収拾がつかなくなるような状況を生み出すのだということに、由香よりもさつきの方が分かっていたようだ。
由香はさつきによって苦しみから救われた。さつきはその時、由香の中にある今までに見たことのない「あどけなさ」を感じた。
今までは、自分の方が慕っていたはずなのに、今は自分が慕われている。しかし、慕われているという思いをさつきは認めたくなかった。そのため由香の中に、今まで感じたことのないものを求めようとして辿り着いたのが、「あどけなさ」だったのだ。
由香の中にあるあどけなさが、今度は、さつきの中で今までと立場を逆転させようという思いがあったのかどうかは分からないが、さつきは、由香をいとおしいと思った。相手を「いとおしい」、「可愛い」と感じるのは、自分の方が優位に立っていないと感じることのできないものであることに初めて気づいたのが、その時だった。
さつきが女性に対して隠微な気持ちを抱くなどということはなかった。
そんな世界があることは分かっていても、
――自分とは関係のない世界のことだわ――
と思っていた。
シャワーに快感に浸りながら、そこまで思い出していたさつきは、その頃から自分が積極的な性格になったことを思い出していた。積極的であり、何事にも一生懸命になれる自分が、今では眩しく感じられる。
今では、どんなにシャワーを浴びても、化粧を施したとしても、あの頃の若さを取り戻すことはできない。いや、取り戻すことができないのは若さではなく、無我夢中だった精神状態だった。
ただ、あの頃に戻りたいとは思わない。どうせ戻るのであれば、もう少し前に戻って、あの頃すらやり直したいと思っている。
――忌まわしい過去になるのだろうか?
自分では忌まわしいとまでは思っていない。なぜなら何かが変わってしまったとすれば、それからだいぶ後のことである。むしろあの頃は、変わってしまう前の一番輝いていた時期ではなかったか? そうは思ったが、逆に考えれば、輝いていたと思っている時期のどこかで、気づかぬうちに翳りが見え始めていたのかも知れない。
最近は、ロクな仕事も回ってこない。人と話すこともあまりなくなってきた。寂しいと思う気持ちすらマヒしてきたように思う。そんな毎日を過ごしていると、急に刺激がほしくなることもある。だが、その気持ちには持続性がなく、襲ってきた感情が頭の中で形になるまでに冷めてしまうことが多い。
――本当に面白くない毎日だわ――
と感じると、思い出すのは由香のことだった。
――由香先輩がそばにいた頃は、毎日が夢のようだったわ――
今の自分が何を求めているのかを分かっていないのに、あの頃が夢だったと思うのは、あの頃には今と違って、何かを求めていたという証拠なのだろうか? 求めていたものが何であったとしても、今よりはよかったはずだ。それなのに、忌まわしさから、さらに前に戻ってやり直したいと思う。すでにあの頃から、修正の利かない人生を歩んでいたというのだろうか?
シャワーの熱気が、浴室を包み込んでいる。熱気が湿気を含んでいることなど、意識することなどなかったはずなのに、今日は湿気が身体にまとわりついてくることをいやが上にも意識していた。
しかも、気持ち悪いと思っていたはずの湿気が、今日に限って心地よい。
――由香先輩の腕に包まれているようだ――
と感じた。本当は逆だったことに気づいていたが、
――まあ、いいか――
と、快感に酔いしれる心地よさに、身を任せることにした。
由香のことを思い出したことで、人生をもう一度やり直したいと思ったのは、快感に酔いしれながらも、どこか気持ちの中で罪悪感を感じているからに違いない。その罪悪感が由香との過去のことなのか、それとも、今シャワーに快感を覚えている自分に対してのことなのか、そのどちらにもではないかと思えてならなかった。
由香との過去の関係は、決して同情からではないと思いたい。最初は崩れそうなほど弱弱しい由香を見て、
――今までの立場を逆転できるかも知れない――
と感じたような気がした。
元々、由香の一途なところに一目置いていて、一途なところから、まわりとうまくいかずに孤立している由香を見ていると、
――自分がそばにいてあげたい――
と思うようになっていた。
陰から支えたいという思いは、本来であれば、相手より立場が上のはずなのだが、由香のお目を見ていると、とても自分が彼女よりも上に行くなど考えられなかった。
もう一つさつきには、
――私はMなのかも知れない――
という思いがあり、そんな自分と相性が合っている由香を見ていると、必然的に由香がSであり、由香に従うことが自分の運命であるかのように感じていた。
もちろん、漠然としてしか感じていないことだが、心の中で感じている、
――支えてあげたい――
という気持ちと、
――由香先輩を慕いたい――
という気持ちが複雑に入り組んでいた。
どう対処していいのか戸惑っていたが、ある日突然に、
――その時の状況に応じて、態度を変えればいいんだわ――
と考えるようになった。
今回のように、失恋という痛手を負っている相手には、こちらの優位性を示せばいいのだろうと思っていた。実際に話し相手になっていると、由香はさつきのことを頼もしく思っているようだった。さつきの思いツボに思えた。
しかし、実際に接していると、由香がさつきに対して甘えてくるのが分かった。その時さつきは、
――何かが違う――
と感じた。
由香との関係において、甘えを示していいのは、さつきの方だけだという思いを抱いていたことに気づいたからだ。
由香は、甘え始めると、とどまるところを知らなかった。もし、由香が男性であれば、きっと参っていたに違いないと思うと、不倫に陥ったのは、
――由香が相手を誘惑した?
という思いがどうしても拭えなかった。
――由香のような女性には、相手を誘惑するようなことをしてほしくない――
と感じていたが、それが、自分の中にある由香に対しての誇大妄想であることにその時はまだ気づいていなかった。
さつきは、シャワーを浴びながら、その時の由香の顔を思い出していた。
だらしなく口をポカンと開けて、目も虚ろだった。まるでモノ欲しそうな表情は、今まで自分が慕っていた由香と同じ人間であるなど、俄かには信じられなかった。
その時の由香の顔を思い出すと、シャワーを持った手に力が入る。敏感な部分にシャワーを当てると、思わず喘ぎ声が漏れてくる。
さつきは、最初に由香と愛し合った日のことを思い出していた。
――あれは、それまで落ち込んでいた由香先輩が、急に饒舌になって、何もなかったかのような表情で他愛もない会話を始めたんだったわ――
さつきも最初は戸惑ったが、すぐに由香の気持ちが分かってきた。
――開き直ったんだわ――
開き直りは、さつきの専売特許のようなものだった。
落ち込みやすいのは、由香よりもむしろさつきのほうが激しかった。
――熱しやすく冷めやすい――
という性格をまるで絵に描いたようだった。熱しやすいというよりも、冷めやすいという方がさつきのイメージには強く、時々自分に冷静沈着なところがあると思うようになったのは、そういうところがあるからだった。
それ以上に、冷徹なところがあるのも、自覚していた。そんな思いがあることから、その後の自分の人生に冷徹に思う感覚が影響してくるのだが、その時はまだ分かっていなかった。
さつきは、由香の開き直りが分かると、急に由香がいとおしくなってきた。相手をいとおしいと思うのは、自分が少しでも優位に立っていないといけないということにその時は気づいていなかったはずだ。だからこそ、由香が考えていることが少し過激であると思った時、まるで他人事のように感じようとしたのだ。
今までさつきは、戸惑った時など、相手のすることを他人事のように思うことで、その時の窮地を乗り切ってきたような気がした。それほど大げさなものではなかったのだろうが、少し考えただけでも分かりそうなことを他人事と思うことで何かを理解するのに、かなり遠回りしてしまったように思えたのだった。
さつきは、由香の気持ちが分かると思ったその日、由香が自分を求めてくることを察知していた。その上で、
――由香先輩が相手なら、それでもいいわ――
と思っていた。
その思いは、最初は他人事という思いから派生したものだった。
――由香先輩が満足してくれればそれでいい――
と思いながら、さつきは淫らなシーンを思い浮かべた。
黙って天井を見つめているさつきに、由香が貪りついてくる。吐息が漏れているのは由香だけで、さつきはされるがままになっていて、決して感じることはない。
見つめた先の天井が、今にも落ちて気はしないかという思いからか、天井から目が離せない。
もちろん、瞬きも許されない。それだけに、カッと見開いた目は、嫌な相手に犯されそうになり、必死で抗っていたのに、途中で急に我に返り、瞬き一つもすることなく、相手にされるがままになるという光景を思い浮かべてしまった。
その時の目は、まるで死人の目のようだった。断末魔の表情を通り抜け、完全に死んでしまった時に、開いている目を見つめているようだった。
そんな目を自分がすることになるなど、想像もしていなかった。だが、そんな目をするのは、嫌な相手に犯されそうになり、抗った後の脱力感から生まれるようなシチュエーションでもなければありえないことだと思っていたが、思い浮かべてみると、まんざらでもないことにビックリさせられた。
その日、いつものように、由香の部屋で、さつきが作った食事を食べながら、漠然とテレビを見ていた。いつものことであるが、目は液晶を捉えているが、実際に意識して見ているのかどうか、相手のことだけでなく、自分のことも分からなかった。意識しているつもりでも、急に上の空になり、意識が飛んでしまっているなど、それまでにも何度もあったことだった。
料理に関しては、お世辞にもさつきは自分が上手だとは思っていない。少なくとも由香の方がきちんと作るし、料理に関しても性格を表していることは、一目瞭然だった。
さつきは、由香に料理の手ほどきを受けていたことがあった。相手が由香でなければ、相手に手ほどきを受けるようなことはなかったはずだ。自分が劣ると思っている相手に勝ちたいという思いは絶えずさつきにはあった。そのために、劣りたくないと思っている相手から手ほどきを受けるなど、考えられないことだったからだ。
しかし、相手が由香だと、そんな思いは薄れていた。それだけ由香に対しては他の友達、あるいは、今までの友達とは一線を画したような相手だったのだ。
――飾ることなく付き合っていける相手――
それが由香だったのだ。
食事をしていると、次第に由香の息が荒くなってくるのを感じた。さっきまで能面のように無表情だった由香の表情から、急に血の気が引いてきたかと思うと、次第に顔が真っ赤になってくるのを感じた。
――逆だったら、大変だったわ――
最初に血の気が引いているのを見たので、その後、顔が真っ赤になったことで、却って安心した気持ちになったというのも嘘ではなかった。
「しばらく横になっていた方がいいわ」
と言って、由香をベッドに寝かせて、さつきは、その横に寄りそうように座った。
「ありがとう、すぐに良くなるわ」
「今までにもあったことななの?」
と聞くと、
「ええ、最近時々あることなの。だから大丈夫なのよ」
と言って、ベッドの横にある小物入れから、薬を取り出し、口に含んで飲み込んだ。すると、十分ほどすると、落ち着いてきたようで、顔色も元に戻っていた。
顔色だけを気にしていたが、実は彼女のバロメーターは唇にあった。最初に血の気が引いてきた時、実は恐怖を感じた。その理由が最初は分からなかったが、顔色が戻ってくると、
――血の気が引いたように感じたのは、唇を意識していたからなんだわ――
と思うようになっていた。
一番最初に目が行くところが相手の唇であることを、その時初めて気が付いたのだ。
由香の唇は、最初紫いろだったはずだ。普通に色を失っているだけだと、ここまで恐怖を感じることなどなかったはずだからだ。唇が人の体調のバロメータであるということを知るということも、さつきの今後の人生において大きな影響を与える一つになっていたようだ。
由香の体調が戻ってきてすぐは、まだ唇の色は復活していなかったはずである。しかし、体調が戻ると、唇の色が戻るのも時間の問題だった。由香の唇を見ていると、みるみるうちに表情が穏やかになってくる。ただ、その時に由香の唇が怪しく歪んだことに気づかなかった。
それは、唇の色だけを意識していて、表情と唇がその時の心境に大きくかかわっていくことを忘れてしまっていたのだろう。
――唇を見続けるというのは、それだけで相手の心境を思い知ることができるということでもあるんだわ――
と感じた。
由香の表情を見ていると、そのうちに何かに吸い込まれていきそうになっている自分がいることに気づき始めていた。
――唇を見つめ続けていたからだろうか?
と感じたのは、由香の顔色が戻ってきてから見た由香の唇の色が、とても隠微に感じられたからなのかも知れない。
――紫があんなに隠微な色だっただなんて――
ずっと、由香の唇は紫だった。血色が戻ってきても、唇から紫の色は消えなかった。最初に紫を感じたことで、頭の中から紫という色が消えなかったからなのかも知れない。だが、同じ紫でも、赤が少しでも混じることで、限りなく紅に近い色としての紫を感じることができるのを感じたのだった。
唇だけを見ていると、唇に吸い寄せられるように顔が近づいていく。触れるか触れないかの瀬戸際までくると、胸の鼓動が最高潮に達したが、それが眠っている相手に伝わったのか、いきなり目を開けて、こちらを凝視する。それは一点を見つめる目であり、目覚めにしては、あまりにもハッキリとしている。
――ずっと前から目が覚めていたんじゃないかしら?
と思えるほどだった。
一瞬ハッとして身構えてしまったが、近づけた顔が遠のくことはなかった。硬直した空気が、氷のように冷たくなった自分の顔を、後ろに反らすことができなかった。
由香の顔から漂ってくる冷徹さは、じっとさつきを見つめていた。
――どこに隠れても、すぐに見つかってしまう鬼ごっこをしているようだわ――
と、感じた。どこにいても逃れることのできない感覚ほど、恐ろしく気持ちの悪いものはない。
逃げることができないと思うと、肝は据わるもので、
――逃げようとするから、怖いんだ――
と思うようになった。
――どうせ後ろに下がることができないのなら、このまま唇を重ねてみたい――
そう感じたのは、同じ紫でも、最初に感じた血の気が引いた色とは正反対の、暖かさしか感じられないような血色のいい紫色を見たからかも知れない。
――目を瞑っても、この距離で外すことはない――
と思うところまで唇が近づいてくると、さつきの目は自然と閉じていくのであった。
――次はいつ目を開けることになるのかしら?
と感じていると、手が勝手に、由香の頬を触っていた。
――暖かい――
燃えるような熱さまではなかったが、十分に胸の鼓動を感じられるほどの暖かさだった。その鼓動のリズムはさつきの胸の鼓動とシンクロしているようで、自分の胸の鼓動の大きさをごまかすために、わざと由香から胸の鼓動を伝えているように思えてならなかった。
唇が重なると、さつきは自分の身体が金縛りに遭っているのを感じた。金縛りには震えがつきものだと思っていたが、逆に震えを感じることができなければ、金縛りに遭うこともない。だから震えを感じた瞬間に、反射的に、
――金縛りに遭ってしまう――
と感じてしまったが最後、自己暗示にかかったことが、金縛りを呼び込んでしまったのかも知れない。
震えはすぐには収まらないと思ったが、唇が重なった瞬間、ピタリと止まった。唇が重なるまでに、思ったよりも時間がかかったのは事実だが、それでも一直線に相手の唇を目指したはずだった。どんなに時間がかかったと思っても、それは架空の時間が作り上げたものであるに違いなかったのだ。
心地よさは想像していたはずだったのに、どこかが違っていた。いや、想像通りだったと言ってもいいくらいだったのだが、何が違うのか考えようとしたが、身体を摺り寄せてくる由香の間髪入れない「攻撃」に、何を考えたとしても、打ち消されてしまうのだった。
吐息はやはり由香の方がすごかった。確かに気持ちよかったのだが、吐息が漏れるほどではない。気持ちよさというよりも、心地よさを感じさせることが、さつきに吐息をあげさせなかった。
だが、後で考えれば、さつきは由香の声を聞いて、冷めていたのかも知れない。その日は由香に身を任せながら、吐息の激しさは由香にある。もし、自分も一緒になって吐息をあげていれば、異様な雰囲気に包まれることで、さつきにも由香と似た快感を得ることができるだろう。しかし、似ていると言っても、完全に同じというわけではない。どんなに近づけたとしても、気持ちよさが由香のレベルまではとても近づけないことは分かっていた。その瞬間に、気持ちの上では冷めてしまっていたのだ。
時間的には、思ったよりも短かった。五分も抱き合っていただろうか? あれだけ最初盛り上がっていた由香が、たった五分で冷めてしまうということは、さつきの態度が、由香の期待したものとはかけ離れていたからに違いない。
――由香先輩に悪いことしたわ――
さつきが後ろめたい気持ちになることはない。むしろ怪しい世界に強引に誘おうとしたのは由香の方ではないか。そんな相手に義理立てした気持ちになる必要が、一体どこにあるというのだろう?
そもそも、不倫をしたのは由香の不徳の至るところだったはずだ。もし、
「知らなかった」
という言い訳をして、それが本当のことだったとしても、まわりはそんな目で見てくれない。
「相手を見抜けなかった、騙されたあなたが悪いのよ」
という、厳しい苦言を呈されても、言い訳などできる立場ではないだろう。
もし、さつきが人を好きになったとしても、まず相手を疑ってみることから始めるので、由香のような失敗はしないだろうと思っていた。
それからしばらく由香から連絡がなかった。由香と怪しい関係になりかけてから一か月くらい経った頃だっただろうか、さつきは急に由香のことが気になり始めた。
忘れていたわけではないはずだったのに、急に気になったというのは、忘れかけていたことに変わりはない。たっ一か月しか経っていないのに、忘れかけてしまうほど、自分と由香との仲が冷めかけていることに、さつきはなぜか後ろめたさを感じていた。
――あの時の気まずさが、二人の間に結界のようなものを作ってしまったのかしら?
と思うようになった。
さつきは由香との間に壁のようなものはないと思っていたが、結界であれば。見えないほど相手に意識させるものではなく、壁のように意識して作るものではなく、無意識の中で作り上げたものとして。そこに本能が働いているのではないかと思っている。ただ、もし本能であったとすれば、
――本能とは、何かの反動があって生まれるもの――
という意識があり、その反動について考えると、
――あの時に由香に対して冷めた気分にさせてしまった自分に対し、由香が反動を作り上げたのではないか?
と思うようになっていた。
由香にとってさつきはどんな存在なのかということを考えていた。
もし、あの日の由香の行動は、本能的なものだとすれば、今までにさつき以外に対しても、同じような感情を持ったこともあっただろう。回数を重ねるごとに、相手の態度を感じることで、自分が冷めてしまうことを本能的に感じるようになったのかも知れない。そう思えば、この説には説得力がある。
逆に本能的なものではないとすれば、衝動的な行動といえるだろう。この場合は、由香が冷めてしまったというのは、相手に原因があるわけではなく、由香自身が我に返った時、罪悪感や後ろめたい背徳感を持ったことで、自分に対して冷めてしまったのではないかと考えるのが妥当ではないだろうか。
――どっちなのだろう?
さつきは、前者ではないかと思っていた。かなり慣れていたようにも感じるし、豹変したことで、自分が快楽に支配されているのを感じた。完全に自分の理性は吹っ飛んでいて、そこに本能的なものを感じるのは、気のせいではないだろう。
だとすると、他の人にも同じことをしていたことになる。要するに常習性である。
――そんな人だったのかしら?
と思うと、さつきは悲しくなった。そういう意味では一か月の冷却期間を置いたのはよかったと思っているし、今になって気になってきたのも、無理のないことだと思うようになっていた。
由香は、その日のことがまるで何もなかったかのように、しばらくすると落ち込みからも立ち直り、以前のような友達関係に戻っていた。
「男なんて、当分どうでもいいわ」
と嘯いていたが、
「不倫とかではなければいいんじゃないですか?」
というと少し俯いて考え込んでしまったので、余計なことを言ってしまったと思い、慰めの言葉を探したが、言ってしまったことを打ち消せるわけでもない限り、慰めの言葉として何を言っても同じことに思えた。しかも、自分が同じ言葉をこの状況で言われたことを思い浮かべると、他人事のように感じられ、無性に腹が立ってしまうように思えた。そんな時、慰めの言葉は何であっても、逆効果というものではないだろうか?
「そうね。さつきのいう通りだわ」
絞り出すように由香が答えた。さつきには、由香の精一杯の言葉に思えたが、どこか投げやりな雰囲気が気になっていた。
――やっぱり、まだショックは抜けていないんだわ――
と感じた。
それでも、さつきと一緒にいるのは、きっと他の誰といるよりも落ち着けるからだと思うのだが、都合よく考えすぎなのだろうか?
「さつきちゃんは、誰かを探してみたことある?」
なんとも漠然とした言い方だった。何とでも言えるような質問をする由香ではなかったので、さっき感じた投げやりな雰囲気が再度よみがえってきた。
「誰というのは?」
「ハッキリと、誰のことを指しているか分かっているわけではないんだけど、自分の理想としている人を探してみたことがあるのかということが聞きたいの?」
「それは、好きになれるような人ということなんですか?」
「そう取ってもらってもいいんだけど、男女の出会いには、自分から積極的に彼氏になってくれるような人を探す人もいれば、誰かが現れてくるのを待っている人もいるでしょう? きっとその人の雰囲気から、そのどちらかのタイプなのかということは、表から見ていてもわかったりするものだと思うの」
「確かにそうですね。私もどちらかというと、自分から積極的になる方ではなく、誰かが現れてくれるのを待っている方だと思います」
「でも、私から見ていると、さつきちゃんは、積極的な性格に見えるのよ。ただ、それは女性の私の目から見ているからなのかも知れないけど、男性から見る目はまた違っているのかも知れないわね」
由香の目に狂いはないものだと学生時代までは思っていた。卒業してから、まさか不倫に興じるとは思ってもいなかった。ビックリもしたが、確かに人は見かけによらないものだという言葉も事実なのだと思い知らされた気もした。
「私、人生をやり直したいと思っているのかも知れないわね」
まさか由香からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。もし、学生時代にその言葉を聞いていたら、青天の霹靂に陥った後、
――由香先輩は、壊れたかも知れない――
と思ったことだろう。それだけ、由香には人生をやり直すなど無縁な言葉に感じられた。自信過剰ではないかと思えるほど、気高く見えたことが、
――由香先輩とは、ずっとこのままの仲が続いていくんだわ――
と思わせる理由だった。
さつきには由香が、
「人生をやり直したい」
と言った時の表情が忘れられなかった。虚空を見つめるような目は、不倫の疲れからきているものだと思っていたが、それだけではないのかも知れない。その先に見える何かを探していたのかも知れないと思うと、今度はさっきの、
「さつきちゃんは、誰かを探してみたことある?」
という言葉に結びついてくる。そう思うと、
「好きになれる誰か」
という限定された相手ではないような気がしてきた。
理想という言葉を口にしていたが、理想とはいったい何なのだろう? 自分が思い浮かべることができても、なかなか見つけることのできない人だというのが、その答えのように思えた。
なかなか見つけることができないから、自分のこれからの目標として掲げることができる。それが生きがいに繋がってくれば、それが人生を楽しめるための一つになるのだと思うと、
――世の中もまんざら捨てたものではない――
と感じることができるだろう。
何でもすぐに達成してしまう人がいる。そんな人は、少し可愛そうな気がすると思うことがあった。しかし、何をやってもうまくいかない時というのは、いくら何でもこなすことのできる人であっても、あるものだと思っている。
――そんな時は、どうしているんだろう?
余計なことを考えてしまうが、持ち前の要領の良さは、生まれついての本能からであるとすれば、うまくいかない時も、それなりに乗り切れる才覚も持っているのではないかと思えてきた。
もし、そんな時に、うまく行かないことをどう自分が捉えるかということが大いに問題になってくるのではないだろうか。さつきには、縁のない世界のように思えたが、意外と身近なところで起こり得ることのように感じた。もしその身近というのが由香であるとすれば、不倫という誰が見ても過ちに思えることであっても、本人にとっては、そこまで悪いことのように思っていないのかも知れない。
――モノは考えようだというけれど、不倫に対しての考え方も、自分が考えているよりもたくさんあるんじゃないかしら?
と思っていた。
それこそ、人の数だけ考え方があると思っていい。どんなに似通った考えであっても、少しでも違えば、違った考えなのだからである。
少なくとも、由香は不倫をしたことを悪いことだとは思っていないようだ。
――好きになった相手に、たまたま奥さんがいた――
と思っているのであれば、勘違いをしているように感じたのは、さつきだけであろうか?
「家庭がある人は、最後には家庭に帰るものなのよ」
これが不倫の結末として定説になっていることだろう。もちろん、この考えにはさつきも賛成だ。しかし、だからといって、好きになってしまったことを責めることはできないように思う。融通の利かない考えをする人は、
「家庭持ちの人を好きになった時点で、その人が悪い」
という考え方を持つ。もちろん、家庭があるのに、他の女性を好きになる男性が一番悪いという発想は、ほぼ誰もが持っていることに違いないが、それを前提に考えると、相手がどこまで悪いのかが問題になってくる。
「恋は盲目だっていうけど、盲目って何なのかしらね? まったく見えていない人の前に誰かが現れて、相手の見えないという弱点をついて、心の隙に入り込む。もちろん、タイミングは大切なんでしょうけど、そんなハイエナのような人って、結構いるのかも知れないわね」
さつきの友達の中には、そこまで冷めた考えを持った人もいた。だが、さつきはその考えは嫌いではなかった。
――冷めてはいるけど、潔いともいえるわ――
と感じたからだ。
その人は、不倫経験があった。由香先輩の時とは少し違っていて、由香先輩の時よりも、結構ドロドロとした関係だったようだ。
少なくとも、その人が不倫相手と付き合いだした時には、相手に妻子がいるなどということは分からなかったという。普通に恋愛しているつもりで、相手に妻子がいた。
「私はね。本当はその時、妻子がいるのなら、奥さんに返してもいいと思っていたの。でも、彼が私と別れたくないっていうのよ。本当に情けない男だったんだけど、その気持ちが、何となく分かっちゃったのよ。だから、すぐに別れることができなくなって、次第に泥沼に入って行ったの」
「それでどうなったの?」
「結局、私が最後は一番悪者。ただ、彼が私に黙っていたことは事実だったので、相手から訴えられたりなんてなくて、表面上は円満に別れられたわ。最後は私もスッキリしたんだけど、でも、気が付けばまわりには何もなかった。それが一番辛くて、まわりから置き去りにされたという思いが強かった。まるで『浦島太郎』にでもなった気分よね」
と言っていた。
言葉に皮肉さが籠っていて潔くても、寂しく思ったり、辛く感じたりするのは、他の人と変わりがない証拠であった。皮肉な言葉が余計に寂しさの深さを感じさせるようで、なるべく聞き逃さないようにしようと思っていた。
由香と話をしていて、皮肉に感じるような言葉は一切出てこない。
――ここまで皮肉を言わないというのは、由香先輩は皮肉を口にするということが、言い訳に繋がるのだということを意識しすぎるくらいに意識している証拠なのかも知れない――
と、感じていた。
さつきは、その頃、俳優を目指し、芸能養成スクールのような専門学校に通っていた。成績は人並みだったが、卒業後の就職はすでに決まっていた。俳優になりたいという夢は高校時代からあり、ハッキリと感じたのは、二年生の頃だった。それまでは普通に四年生の大学に進学し、経済学でも勉強し、
――目指すは大企業――
と思っていた。
そこから先は、一旦考えが途絶えてしまい、考え直すことで、結婚というのが見えていた。一度考えを止めてしまわないと、結婚ということを想像できないというのは、
――未来を見る時、一直線にしか見ることができないからなのかしら?
と感じていた。
元々、深く考え始めると、深刻になってしまい、幅を広げてみることができない性格だった。
「さつきは真面目すぎるのよ」
と、由香から言われたことがあった。だが、さつきにしてみれば、
「私よりも由香先輩の方が、もっと真面目に前を向いているように思えるわ」
と思っていた。
しかし、そのことを口にすることはできなかった。なぜならいまだに不倫を心の奥に引きずっているように見えるからだ。そんな相手に、真面目という言葉がその人の気持ちを傷つけることになるというのを、さつきは感じていたからだった。その頃のさつきは、真面目という言葉に対して、自分自身がナーバスになっていることを意識していた。それはきっと真面目という言葉に対して、
――自分の中では、いいことだという意識があるが、人から改まって言われると、悪いことを言われているという意識がこみ上げてくる――
と思っているからであった。
特に俳優を目指しているさつきは、その頃から、真面目という言葉に疑問を感じていた。いいことだと思っていたのに、人から言われるとドキッとするようになっていたが、ドキッとしてしまうというのは、次第に自分の考えに疑問を持つようになったからだと思ったからだった。
俳優になるということは、
――自分というものを捨てて、他の人格を自分自身が演じることであって、限りなく創造された性格にどこまで近づくことができるか――
ということだと思っていた。
もちろん、限りなく近づけなければいけないのは、性格だけではないだろう。しかし、性格が俳優として、架空の人物を演じる上で、一番顕著に表に現れてくることだ。それは実在の人物を演じる時にも言えることだが、実在の人物を演じる場合は、完全になりきってはいけないと思っている。
あくまでもなりきるということであり、その人になってしまうわけではない。その人になりきるなど、絶対に不可能なことであり、不可能なことには不可能だという理由が存在している。それが、
――限りなく近づくことはできる――
という思いと引き換えに、その人になりきってしまうという考えは捨てなければいけなかった。
ただ、まわりの人から、
「その人を演じる時は何を心がけますか?」
と聞かれた時は、どうしても、
「なりきる」
という言葉をキーワードに用いてしまう。それは嘘をついているようだが、本人は方便だと思っている。
いくら俳優でも、実在の人物であれば、その人になりきるということを考えてはいけないという考えを教えてくれたのは、他ならぬ由香だったとさつきは思っている。
言葉でハッキリと聞かされたわけでもない。また、由香もそう感じているかどうかも分からない。だが、由香がさつきに対している態度を見ていると、そう感じてくる。さつきは由香を尊敬している。由香のようになりたいと思っている。しかし、それは由香という女性すべてになりたいわけではない。
――由香になりきる――
ということは、相手のすべてを受け入れなければ、相手になりきるなどできるはずもない。そう思うと、誰かになりきるなどというのは、自分の気持ちの中の傲慢さがそう感じさせると最初は感じた。
しかし、よく考えてみると、そうではない。自分が相手を尊敬はしているが、すべてを尊敬できないその理由を探した時、
――相手になりきることはできない――
という考え方が、自分に対しての言い訳となり、言い訳ではありながら、自分の気持ちの均衡を保つための必要な言い訳であることに気づいた。
――世の中には、なくてはならない言い訳というのも、あるのかも知れないわ――
ということを、さつきに感じさせたのだ。
さつきは専門学校を卒業すると、中小のプロダクションに所属した。看板女優もいて、中小の中では名前は知られている方だった。
「まあまあいいところに所属できたわ」
と考えていたが、さつきの最初の仕事は雑用だった。
元々女優というのは、街でスカウトされた女の子の中から、さらに篩にかけられて、オーディションを勝ち進むことで、勝ち取るものである。学校を卒業したからといって、テレビや映画の女優として出演できるわけではない。それでも、裏方の仕事を嫌がることもなくこなしていたの幸いしたのか、運も味方して、一度主役が転がり込んできた。
Ⅴシネマの主役だったが、それでもさつきには嬉しかった。もちろん、濡れ場も存在し、さつきが濡れ場も嫌がることのない女性であるということが評価されての抜擢だった。
最初に他に決まっていたのだが、その女性がスキャンダルを起こし、仕事ができなくなってしまった。配役も決まって、撮影がそろそろ始まるという時の青天の霹靂だっただけに、事務所はパニックだったが、
「さつき君は、確か女優養成の学校を出ていたよね?」
と、雑用をこなしていたさつきに監督が声を掛けてきた。
「ええ、今は裏方をしていますが、本当は女優を目指しています」
と監督の目を見ながら答えた。
「じゃあ、さつき君も主演候補に含めて、再度配役を考え直そう」
ということになった。さつきにとっては、願ってもないチャンスだった。
しばらくしてから、
「さつき君。主演ではないけど、重要な役を君にやってもらいたいんだが、大丈夫かな?」
と、監督から声を掛けられた。内容を聞いてみると、主演女優の引き立て役で、濡れ場ももちろん存在する。主演よりも濡れ場は多く、見方によっては、濡れ場を引き受ける役であった。
「はい、喜んでやらせていただきます」
さつきは、有頂天であった。降って湧いたような話だったが、
――チャンス到来というのは、本当にいきなりやってくるものなんだわ――
と感じた。
濡れ場があろうが、助演であろうが関係ない。自分は自分の演技をするだけだった。さつきの性格から考えて、どうしても謙虚になって、相手を引き立てることが多かったさつきのデビュー作としては、ちょうどいいのかも知れない。
主演の女優は、脇役だった女の子の抜擢だった。内部昇格と言えばいいのだろうが、そのおかげで、さつきにもお鉢が回ってきたのだった。
――これを幸運と取ればいいのだろうか?
さつきは有頂天であったが、慎重な性格には変わりなかった。謙虚な性格は演技にも表れていたようで、監督の受けもよかった。ただ、どちらかというとストーリーの中では憎まれ役になっていることが少し気になっていた。
憎まれ役が嫌だというわけではなく、
――私にそんな役が務まるのかしら?
という気持ちが強かった。人を憎んだり恨んだりしたことがあまりないさつきに、自分にない性格を演じることができるのかどうか。それが気になっていたのだ。
その時思い出したのが、由香だった。
――由香だったら、どんな態度を取るだろう?
という思いだった。
由香を尊敬しながらも、由香になりきることはできないと思っていたのは、自分にはなりきれないところがあるからだと思っていたが、それが、積極性だった。
――当たって砕けろ――
という言葉が合っているのではないかと思うほど、よく言えば
――積極性――
であるし、悪く言えば、
――猪突猛進――
と言える性格だった。
いい意味でも悪い意味でも、さつきには備わっていないところであり、今度の役は、その両方を兼ね備えていないと演じることができない役に思えたのだ。
さつきは、演じながら役になりきるというよりも、由香をイメージしていたといってもいいだろう。本当なら自分を出さなければいけないところを、由香がどうしても出てきてしまい、演技している自分を客観的に見ていたのだった。
それがデビュー作では幸いした。
「さつき君は、演技をしながら、冷静な目で見ることができる数少ない女優さんじゃないかって思うんだ」
と、監督に言われた。
「それって褒め言葉なんですか?」
「ああ、もちろんそうだよ。今回の作品の成功は、さつき君の貢献が大きいと思っているんだ。本当なら企画倒れになってしまっていた作品を完成させることができたのは、さつき君のおかげだ。礼を言うよ」
さつきは、監督から言われた言葉に感無量になっていた。
「ありがとうございます。その言葉を謙虚に受け止めます」
と言って、礼を言ったが、
「だけど、本当のさつき君を自分で感じることができれば、君はもっと伸びると思うんだ。もったいないような気がしているのは、僕だけかな?」
と言われた。何のことを言っているのか、分からなかったが、本当は分からなければいけないことだったはずなのだ。
他の人には分かるはずのないことで、監督とすれば、自分の発した言葉をさつきが感じてくれなければ、この発言はまったくの無駄になる。そのことは分かっているし、それでも話をしたのは、
――さつきなら分かってくれる――
という思いがあったからだろう。だが、それは本当は願望であって、さつきは本当の自分に気づかない限り、いくら人が助言しても、分かるはずはない。それはさつきに限ったことではないのだが、特に女優という道を歩むことを考えているさつきには、分からなければいけないことだと思えた。
――本当は、もっと苦言を呈したいのに――
と監督は思っていたが、これ以上いうことは控えていた。その思いは半分的中していたが、さつきの驕りから生まれたものではない。手に入れたチャンスが自分に有利に歯車が回転してくれたのだが、それ以降の歯車は、その反動なのだろうか、少し狂ってきていたようだ。
助演の役がよかったのか、それからしばらくして、次のオファーがやってきた。今度も助演だったが、前の時ほど憎まれ役も、濡れ場もなかった。助演と言いながら、デビュー作に比べれば、目立たない役だった。
「さつきちゃんには物足りないかも知れないけど」
と、今回の監督にそういわれた。
「あ、いえ、そんなことはありません」
と、謙虚に答えたが、心の底で、
――前に比べれば、地味な役だわ――
という最初に感じた思いを引きづっている。前の作品の成功が、自分の中に由香をイメージしたことが一番の理由だったということを、さつきは忘れかけていた。
時間が経ってしまったことで忘れかけているわけではない。前の役が終わってすぐくらいから自分の中で忘れてしまっていたのだ。
それだけ自分に戻りつつあるということなのだろうが、俳優としては、忘れてはいけないことのはずだった。
――頭の中でもしっかりと意識して覚えていなければいけないことだ――
という意識がなかったのは事実だ。こういうことは頭の中で覚えているものではなく、感覚で覚えているものだということを感じていたからだった。
今度の役では、確かに由香を想像してしまっては、演じられないような役だった。由香の性格とはかけ離れているというのがその理由だったが、どれほど自分が由香の性格を自覚しているのかということを考えていなかったのも事実である。
――由香先輩は、冷静沈着だわ――
という意識だけが残っているように思えた。ただ、分かりやすい性格でもあった。二重人格的なところがあると思っていたが、それは由香にだけいえることではない。他ならぬさつき自身も二重人格的なところがあり、だからこそ、演技をすることができるのだと思っているし、由香をイメージしながら演技もできると思っている。
さつきはデビュー作から、すぐにまた裏方に戻った。自分では、最初と変わっていないということと、初心を忘れていないということを自覚しているつもりだったが、それまでにない感覚が襲ってきているのを感じていた。それが、
――今後の不安――
であったことに違いはなく、次回作まで少し間があったことは、今までのさつきにはなかった性格が芽生えてきていることに、さつき本人も、まわりも分かっていなかった。
不安はあるが、裏方をやっていると、女優というだけではなく、クリエイティブなところに目を向けられることに興味も湧いてきた。脚本や監督などという大それたものではなくとも、
――自分にできることは、もっと他にもあるかも知れない――
と感じるようになっていた。気持ちにそんな余裕が生まれてきたからであろうか、次の役が回ってきた。それまでは、ハッキリとした役があったというわけではなく、エキストラとしては時々出演していたが、さすがに自分の中でそれを、「仕事」として考えることはプライドが許さなかった。
「今度の役は、ちゃんと役名もあるし、セリフだってある。主役の医者を取り囲むナースの中の一人という役なんだ。さつきちゃんなら、どんな役をやりたいのか、台本を読んで教えてくれるかな?」
と、監督から言われた。こんなことを言われたのは初めてだったので少し面食らったが、出演者の意見を取り入れる監督もいるという話を聞いていたので、別に違和感があるわけではなかった。
さつきは、あまり深く考えずに監督に答えた。
「台本を読んでみましたけど、私の性格とは少し違った役のように思いますがいかがでしょう? もし、そうなら、自分流に少しアレンジしてみようかと思います」
本当は、アレンジしてみようというよりも、演じているうちに、勝手に自分の性格に近づいてくるように思えていたのだ。そのことを監督は分かってのことなのか、
「さつきちゃんがそう思うのなら、それでいいと思うよ。さつきちゃん流の役を見せてもらいたいものだね」
皮肉が籠っているようにも聞こえたが、これが一歩上の女優へのステップアップのための登竜門だと思えば、別に気になるものでもない。
――やるだけやってダメなら、それで仕方がないことだ――
という開き直りも大切だと思えた。裏方をやりながら少しずつ女優に対しての考え方も変わっていったような気がしたが、今のさつきをまわりがどう見ているかというよりも、さつき自身が、満足できるかということが、まわりに対しての見え方を左右するものだと思うようになっていった。
さつきは新しい役を、最初はいろいろアレンジしてみようと思ったが、考えているうちに、
――自然が一番なのかも知れない――
と、感じるようになった。下手に意識してしまうと演技をしている自分に酔ってしまい、途中で修正しなければいけない場合でも、融通が利かないため、うまく行かないこともあるだろう。
――自分が分からなくなる――
という思いもあり、自然が一番だと思うようになった。
また、女優というと、自分ではない自分を演じることになるのだが、以前のさつきであれば、
――そんな大それたことできるはずもない――
と思っていたはずなのに、一体いつ頃から自分ではない自分を演じることに違和感を感じなくなったというのだろう?
さつきにとって、由香の存在が大きかったのは言うまでもない。学生時代から由香に対しては、
――私にはないものを、由香先輩は持っている――
と思っていた。
ずっと由香先輩を目標にしてきたのだが、由香が卒業を間近に控えたある日、
「さつきちゃんには、私にはない魅力がある」
と、由香に言われた。
「えっ、どうしてそんなことを言うんですか?」
本当は嬉しいはずなのに、さつきは戸惑いを隠せなかった。
確かに、褒められて嬉しくないわけはないが、相手が由香だと話が変わってくる。
自分が尊敬している相手から言われると、くすぐったいという気持ちと同時に、不安もこみ上げてくる。
本来なら自分が慕い委ねる相手のはずなので、絶えず自分よりも高いところにいて、見下ろしてくれているのが、立場的に一番ありがたい。それなのに、自分よりも高いところにいると思っている相手から褒められるということは、相手が自分を見上げていることになる。立ち位置が逆に思えてくるのだ。
さつきは由香に対して、考えを改める時が来たのではないかと思うようになった。尊敬だけではなく、由香の弱いところもしっかりと見ていかないと、相手を見誤る気がしたのだ。
尊敬の念は確かに大切ではあるが、由香に対しては、弱い部分を見たくないという思いが強かったのだと感じた。
弱い部分を見たくないという気持ちは、きっと、
――相手の中に自分を見ているからだ――
と思っていたからに違いない。もし、相手に対して、
――自分を写す鏡――
のように感じていたのだとすれば、なるべく見たくないと思うのも無理のないことだ。
なぜなら、自分の弱い部分というのは、自分が一番分かっていると思うからである。他人の中に自分の弱い部分を見るということは、周知していることを、これでもかと思い知らされることになるからだった。
由香がさつきを褒めるというのは、羨ましがっているのとは厳密に言えば違うのかも知れない。しかし、さつきがそう感じたことが大きな問題であった。
「憧れの芸能人には、尾籠なことはない」
という憧れが昂じて、勝手な思い込みになってしまうことは往々にしてあることだが、さつきの中での由香は、
――憧れの芸能人――
と同じイメージなのかも知れない。
もちろん、考えすぎに違いないのだろうが、さつきは最初に思い込んだ考えを改めることが苦手だった。思い込みの激しさは、ある意味女優には必要なものなのかも知れないが、この場合の思い込みは、さつきにとって致命的なものであることに、その時はまだ気づかなかった。
それが、今度の役をもらった時、露呈した。さつきは、監督におだてられているものだと思ったからだ。人から褒められることがあまりない人にとって、急に褒められるのは、自分に警戒心を与えることに繋がってくる。
本当は監督にはそんな気持ちがあったわけではない。監督にもいろいろな人がいて、叱咤激励が強すぎて、俳優が陰で泣いているということも少なくないような、厳しさを前面に押し出した人もいる。
逆に、今回の監督のように、いかに俳優を気分よく仕事に集中させることができるかということを考えている人もいる。
今までのさつきが仕事をした監督は、ほとんどが叱咤激励を前面に押し出す人ばかりだったのだ。ほとんどおだてたりすることのない監督ばかりだったので、お世辞にはどうしても敏感になってしまう。
だが、本当は違っていた。
一見優しそうに見えて、実際には一番厳しい注文をしてくる監督だということに次第にさつきは気づいていくことになる。
監督から言われて、自分のアレンジをいろいろ考えてみたが、なかなか考えがまとまらなかった。
「自然が一番」
という考えに至るまで、
――ああでもない。こうでもない――
と考えあぐねていた。
その間は後から思えばあっという間だったが、考えが行ったり来たりしていたのを悩んでいた。堂々巡りを繰り返すということが、どれほど自分にとってプレッシャーを与えることなのかを考えたりしていた。
――開き直ればいいんだ――
頭のどこかにその思いは確かにあったような気がする。そのことに気づくまでにかなりの時間がかかったのは事実だが、逆にその思いがなければ、本当に開き直ることなどできるはずもないのだった。
堂々巡りを繰り返し、そして開き直る。それは自分にとっての一皮を剥くことになるのだということを分かっていたはずなのに、実際に経験してみるまでは、実感が湧くわけもなかった。
ただ、もっと難しいのはそれ以降のことだった。
いくら頭で描いていても、それは自分の仲だけの完結である。演技というのは相手があること、もし監督が他の人に、
「好きなように演じればいい」
と言っていれば、お互いにリズムが合わなければ、なかなか撮影がスムーズにいくこともないだろう。しかし、一度歯車がかみ合えば、そこから先は完璧に限りなく近いリズムを生み出すことができるのかも知れない。
監督がそこまで考えていたとすれば、さぞや名作が生まれるのだろうが、しょせん、Ⅴシネマの類だった。俳優の中には、
「どうせ、Ⅴシネマ」
ということで、監督から激励されようが、自分を表に出そうとしない人もいるだろう。諦めの境地とでもいうのだろうか、少し上から見ている監督には、一目瞭然であるに違いない。
クランクインしてから、さつきは自分の考えていた通りの演技をしていたが、どうしても相手によってうまくいかないこともあった。相性のいい人とは、NGを出すこともなくスムーズに撮影は進んでいくが、相性の合わない人とは、いくらやってもうまくはいかない。それでも、何度かやっているとピタリと合うこともあり、
「やっぱり、皆個性のある俳優なんだな」
と、監督に言わしめていた。
最初は、監督の言った言葉の意味がよく分からなかった。だが、その言葉には大きく二つの意味があると分かると、理解できるようになった。
さつきが最初に感じたのは、
――俳優というのは、皆少なからずプライドを持っている。そんなプライドは人から冒されるのを一番嫌っているはずなのに、個性があるということは、相手と歩み寄りを認めない自分の中に壁があってしかるべき――
だということだった。
相容れない二つを一つの言葉で綴ってしまうということは、どういうことなのかと考えてみたが、
――一足す一は、二ではなく、三にも四にもなる――
ということを暗示しているのではないだろうか?
そう思ってみると、さつきはそれこそが、監督の狙いであると思うようになっていた。
だが、さつきは自分が、
――監督の描いたイメージの歯車の一部でしかない――
と思っていた。
そう思っている以上、監督に言われた
――さつき流の役――
というのを見つけることがどれほど難しいか分かってきたような気がしていた。
撮影は、うまく行く時と停滞することの繰り返しだった。
さつきは監督の顔色を窺っている自分にそのうちに気づくようになると、
――これが問題なのかも知れない――
と感じるようになった。
――監督から目を反らすようにしよう――
と思うようになると、どこを見るかが問題だった。
――そうだ、カメラを見ればいいんだ――
カメラばかり意識していると、自分が何を演じているか分からなくなるから、カメラだけは見つめないようにしようとそれまでは思っていた。どちらかというと、
――俳優の初歩的な考え方――
という思いを持っていたくらいだ。
カメラばかりを見ていると、必ず監督から怒られた。
「素人じゃあるまいし、カメラばかり意識するんじゃない」
素人同然の相手に、そんなことを言われても分かるはずはないと思ったものだ。
素人かどうかという発想は、その映画がメジャーなものなのかどうかというビジョンで見ていた。
――マイナーのチームに所属する選手は、どれほどの名選手であっても、マイナークラスにしか見られない――
という発想だった。
本来なら監督から、
「素人じゃあるまいし」
と言われるということは、プロだということを認められていると考えればいいのだろうが、怒られてしまうと、どうしてもネガティブな方向にしか考えられないというのも、人間の性と言えるのではないだろうか。
さつきには、言われていることの意味は頭の中では分かっているつもりだったが、どうしても怒られてしまうと、ネガティブになるという壁を超えることができなかった。監督の考えでは、その壁を超えることが、ワンステップ上に進む道だと考えているのだろうが、なかなか相手に伝わらない。監督という仕事はそういう意味では、
――因果な商売――
なのかも知れない。
だが、今回はストーリーが進んでいくうちに、どうしてもカメラが気になって仕方がない部分に差し掛かった。
――なぜなのか、カメラを意識してしまう――
と思いながら、カメラを見ている傍ら、意識は監督に向かっている。
――怒っているだろうな――
と思っていると、案の定、監督の痛いくらいの視線を感じてしまった。
何お言わずにこちらを見ている監督の目は、厳しく感じられた。いつ怒鳴られるか分からないという恐怖心もあったが、ひょっとすると、カメラを凝視して離れないのは、監督の目のせいかも知れないと思うと、何とも皮肉な感じがした。
「カットッ」
その日最初の監督の声が聞こえる。その後がOKなのかどうなのかで、その日一日が決まってくる。そう思うと、いやが上にも握った手に力が入るというものだった。
「OK」
ホッとした気持ちで新たなシーンを迎える。一度OKをもらえると、精神的にはかなり楽になる。その日一日は無難にこなせるという気持ちになるからだ。
監督は、さつきの視線がカメラに向いてしまっていることについて、何も言わなかった。分かっているはずなのに、何も指摘しないということは、問題ないということなのであろう。そう思って演技をしていると、次第に大胆になってくる自分を感じた。
――カメラから見られている――
という意識が強くなり、さらに自分がカメラの向こうを覗いてみたいという気持ちと均衡していた。両者がぶつかり合うと、不思議と大胆になり、さらにカメラの奥が見えてくるような錯覚に陥るから不思議だった。
――あれ?
演技を続けていると、カメラの向こうに、何か光るものを感じた。
――光るものに反射したのかしら? それにしても眩しいくらいだったわ――
思わず目を瞑ってしまいそうになった自分にビックリした。それほどの光は本当に一瞬で、閃光といってもいいだろう。
――眩しさの向こうに見えるもの――
本当は見えていたはずなのに、それを認めたくないという思いが働いたのではないかと勘ぐってしまうほどの眩しさだったのだ。
見つめている時間がどれほどのものだったのか、分からない。ただ気が付けば、
――戻ってきたんだわ――
という思いだった。
一体どこから戻ってきたというのだろう? どこか遠くから戻ってきた気がした。
――このスタジオから出たはずはないのに――
見渡せば、セットの裏側が見えていて、ビデオを見ている人たちの夢を打ち砕くような光景が、見渡せばさつきの目の前に広がっていた。その時、一瞬由香の顔を感じた気がした。
――由香が微笑んでいる。行かなければ――
自分がカメラの向こうに飛び出そうとなった瞬間が確かにあった。その時に由香の存在を感じたが、その時の由香の微笑みは、暖かいものというよりも、さつきを置き去りにしていくことを、まるで、
「ざまあみろ」
とでも言わんばかりの皮肉に満ちた顔だった。
――オチオチ、こんなところでくすぶっているわけにはいかない――
と思った。
さつきは由香に誘われるようにカメラに近づいていく。後ろから監督の声が聞こえてきた。
「カット」
その声は消え入りそうな声で、気が付いた時には、それがOKだったのかどうか、そんなことは、もうどうでもいいことだった……。
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