夏の日
夏の夕方。自転車。風。これだけでもう完成していると思わない?私は漕ぐ。前へ前へ、追ってくる嫌なもの、そうだな、今だったら勉強。から逃げてペダルを踏み込む。すぃーっ、と進む。ギアを切り替える音がカチキチと車体を揺らして、段差を踏めば上の私ごとピョンと跳ね上がる。重くても軽くても軽やかに、明るくても暗くても鮮やかに、ペダルの上でダンスをするみたいに、キコキコ、キコキコ、るんるん、るんるん。
背負ったリュックの中には勉強道具。でも家や塾にいる時みたいな、囲まれるほどの量じゃない。言ってしまえばこれは仮釈放。何も悪いことはしていない。それでも私は、言い表せない背徳感を乗せた自転車を、キコキコ、キコキコ、るんるん、るんるん。
隣の市の駅の前までは、頑張って漕いで20分、普通に漕いで30分。私が住んでいるところとは持っているお金が違う。市の境目で道が綺麗になる。残酷。橋を越えるのはいくつになっても大変で、キコキコ、キコキコ、ふぅ。
人間っていうのは面白いもので、もっと大きくなれば出来るようになるって思ってたことも結局出来なくて、いや、まだここから成長するのかもと期待していると、周りの大人が「昔は出来たのに」なんて嘆く声が聞こえ始める。最早これまでか、なんて言いながら折れた刀を見つめる武士みたいな気分になる。会ったことないけど。武士。
なんとか橋を上がりきる。その後は溜め込んだ位置エネルギーを、一気に下り坂で消費する。夏の日は6時でも明るい。灯っているのに意味があるのか無いのか分からないナトリウムランプが、橋の麓をオレンジと黒のグラデーションに染めているのが遠くに見える。息を吐いて、少し鼻歌も被せて、下っていく。モヤッとした風は思ったよりも気持ちよくなかった。それでもこの、駆け抜けていく感じ、精神的には出来ないこの動き、私は好き。
駅前のスーパー。入ると何やら、ツンと鼻につく匂いがする。塩素。あぁそうか。この駅の近くには市民プールがある。そんな季節だった。夏だから。
私も小さい頃に、父に何度も連れていってもらった。流れるプールで水に慣れるときの、体が冷たさに持っていかれる感じ、今でも覚えている。私は泳げないので好んでプールに行くことは無い。泳げなかったから連れていかれて練習していたんだけど、結局25m、必死で泳ぎ切ったところで限界が来た。それで、もういっか、ってなった。今はもう多分あまり泳げない。だから、もう、誰かとプールに行くとか、無いのかもしれない。最後に行ったあのときはいつだったのだろうか。成長と呼ぶのか、諦めと呼ぶのか、でも、このふたつって近いよなと思った。
塩素の匂いを漂わせた親子は、スーパーに内接された薬局でスポーツドリンクを手に取っていた。うんうん、電解質、大事だよね。電解質がなんなのか分かんないけど、大事らしいよね。
私はスーパーを通り抜けて、駅の反対側にあるカフェに向かった。背中の荷物は、カフェ勉強のため。高校生っぽいでしょ?しらんけど。
1人の私にわざわざテーブル席なんていいのに、カウンターで良かったのに。店員さん、ありがとうございます。フカフカのソファーに座ると、このまま眠りに落ちてしまいたくなる。何しに来たんだ。メニューを開いて眺める。さわやか、夏。そんな言葉が、青や緑の文字で書かれているのも夏らしくて良い。どうでもいいけど今の一文、枕草子みたいじゃなかった?
私は小さめパンケーキとアイスコーヒーを頼んだ。ご存知の通り、食べ物を食べている時は食べることに集中しなければならないという礼儀が、この国にはある。最近は疎かになってきてしまっているけど。液晶画面のせいだね。
勉強しろや、というツッコミは受け付けていない。
カフェっていうのは、頼むものを決めて、お財布と相談して、お財布に言いくるめられて、注文して、来るのを待ってる、この流れがいちばん美味しい。人間でよかった!!!って思う。運ばれてきたらもう、あとは減っていくだけだからね。という話をすると、友人に「やば」って言われる。うるさい。
運ばれてきたパンケーキ。上にはソフトクリーム。メニュー自体は年中あるけど、ソフトクリームを食べると夏が来る。あとラムネを飲むのも夏が来る。ラムネは先週飲んだので、私の中での四季はもう完全に移り変わった。
甘いぃ、おいしいぃ、太りそうぅ、とか、頭の中でいいながらもぐもぐする。アイスコーヒーは、カフェならではの苦め、強め、ゴンッ、みたいなやつで、私はこれが好き。せっかく金を払うなら強いやつがいい。カフェ以外でも、例えばコンビニでも、どこのやつが強い、みたいなお気に入りがある。庶民だから基本的に食の味の違いを嗜むようなことは出来ないんだけど、コーヒーだけは舌が肥えている。
口の中に甘い苦いフワフワガンガンモフモフドンドン色々と感情を起こしては、幸せにふけっている。
私は満足してカフェを出た。
勉強のことなど、言ってはいけない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます